6 さよならの前に
(いつまでもうじうじとしているわけには、いかないよね……)
ジーナは自室で鏡と向き合っていた。銀髪碧眼で、表情の乏しい少女。自分の本当の姿が映っている。今はその目には寂しそうな色が宿り、全体的に落ちこんだ雰囲気である。
あれからジーナは悩み続けていた。公爵家に戻ったら、またフィンセントと関わらなければならない。
『まずい』
『ひどい味だ』
『君は料理があまり得意ではないのだね』
忘れていたはずの言葉が蘇り、心臓を突き刺した。
……戻りたくない。彼の婚約者の立場なんて要らない。
ずっとここに――シストのそばにいられたら、どれだけいいか。
けど、どうすることもできなかった。
だから、覚悟を決めるしかないのだ。
いつものイヤリングを付ける。すると、鏡の中の容貌が一瞬で変化した。栗色の髪の地味な娘だ。今日は少しだけ気合を入れようと、髪をまとめて、高い位置で結ぶ。
――これで、よし。
と、鏡の中の自分に頷いてみせる。
ヴィートに提示された期限は残り2日を切っていた。あさっての朝には公爵家に連れ戻される。
だから、それまで。
悔いが残らないように、ここでの思い出を作ろう。
と、ジーナは決めていた。
食堂を訪れるのは、いつもジーナが一番早い。その日の昼食を作り、掃除をする。そうしていると、従業員たちが次々とやって来た。
「おはよう、ジーナ」
と、声をかけてくれたのは、料理長のエマだった。
明るい表情を、ジーナはじっと見つめた。
――この人には本当にお世話になった。彼女がここでの仕事を紹介してくれなかったら、今のジーナはいなかったのだ。
だけど、彼女に今までの感謝を伝えることはできない。明日になったら、ジーナは何も言わずにここを去ることが決まっているのだ。
自分が急にいなくなったら心配をかけるだろう。
(ごめんなさい……エマさん)
ジーナは内心で彼女に謝った。
エマは優しげな様子で目尻を下げて、
「最近のあんた、いい感じだね」
「え……?」
「ここに来たばかりの頃の、鬱々とした感じがなくなっているよ。友達でもできたのかい?」
「あ……それは……はい」
ジーナは戸惑ってから、頷いた。すると、エマは嬉しそうに笑う。
「そりゃよかったね。昼食もその友達と食べてるんだろう。いつも大きなバスケットを抱えて出かけてるもんね。……それで、まだダメなのかい?」
「何がですか……?」
「あんたの料理を、あたしにも試食させてほしいって話さ」
ジーナは胸の辺りをきゅっとつかんだ。
今なら抵抗はない。それに、エマにも食べてもらいたいという気持ちはある。
けど……このタイミングでそれは無理だった。
「……ごめんなさい……」
ジーナは泣きそうになって、顔をぐしゃりと歪める。それを隠すために大きく頭を下げるのだった。
昼休みの時間になって、ジーナはとぼとぼといつもの場所に向かっていた。
(みんなとご飯を一緒できるのは、これが最後……)
だから、悔いが残らないように。
ジーナは皆に『あるお願い』をしてみようと決めていた。
「ジーナちゃん」
声をかけられて、振り向く。そこにはヴィートの姿があった。ジーナの正体を知っている彼だが、学校内では気安い口調で声をかけてくる。
ジーナは頭を下げて、挨拶をした。
にっこりと愛想のいい笑顔を返され――それが突然、固まる。ヴィートの右腕がぴくりと動いた。持ち上がったところを、左手でつかんで引き戻す。
「ダメだ……ほんと、ダメだぞ。この人だけは……」
「ランディ様……?」
「いや、ごめん、何でもない。あ、それ今日のお昼? 俺が持つよ」
とりつくろうような笑顔に戻るヴィート。
バスケットをさっと持って行かれた。ジーナは「今のは何だったのだろう」と思いながら、彼に続く。
途中でクレリアと会った。「ジーナ!」「クレリア」と互いにほほ笑み合っていると。
ヴィートがすかさずクレリアの前に立つ。彼女の手を握って、告げた。
「ああ、今日も君は美しいね、クレリアちゃん……。どうか今日の放課後、俺と一緒に」
「嫌です」
と、クレリアは蔑む目で告げて、ヴィートの手を叩き落す。
「あいた……意外と容赦ないな~、クレリアちゃんは」
「ヴィート、お前……またやっているのか?」
呆れた声が横手からかかる。そこにはシストの姿があった。
4人はそのままいつもの庭園へと移動する。席に着くと、シストは眉を潜めて言った。
「お前、そんな男だったか? 前の学校にいた時は、もっとこう……まともだったろ」
「ひどくないですか、殿下!? 今の俺が、まともでないと?」
「日替わりで別の女性と過ごされていますよね……」
「節操ない人、嫌です」
と、すかさず追撃をするジーナとクレリア。
すると、ヴィートが咳払いをして、真面目くさった顔で語り始めた。
「実は、俺にもいろいろとあるのです。皆は俺がただの女狂いと思っているかもしれませんが」
「実際そうですよね」
「え、ちがうんですか?」
「まさにそれじゃないか」
3人からの一斉ツッコミに、ヴィートは抗議の声を上げる。
「いや、だから、話を聞いて! これは……呪いなんですよ」
予想外に深刻そうな切り出しに、皆は口をつぐんだ。
真剣な表情でヴィートを見つめる。
「呪いだと?」
「はい。これは美しすぎる人を見かけて、声をかけなかったら、後悔しすぎて死んでしまう呪いです」
「…………つまり?」
「死ぬくらいなら、口説くしかないじゃないですか」
途端に生真面目な面持ちは崩れ去り、軽薄な動作でへらへらと笑う。シストとクレリアが軽蔑しきった視線を向けた。
「お前……女狂いなだけでなく、馬鹿だったのか」
「聞いて損しました……」
「あれ? みんなの反応が冷た……いや、ジーナちゃんだけそんなことはないな、うん」
希望を持つような視線をヴィートはジーナへと向けてくる。それを心の底からどうでもよさそうに、ジーナは受け流した。
「………………そうですか」
「そういう淡白な反応!! 一番、堪えるやつだから! それに、それを言ったら殿下だって、昔は初恋に焦がれていた可愛らしい面が……」
「余計なことを言うな」
「はい! そのお話、聞きたいです!」
「聖女は黙ってろ」
軽口を叩き合いながら、皆の間には親しげな雰囲気が漂っている。
その空気感にジーナの胸は切なさを覚えた。
(もうこんな時間を過ごせなくなる……)
あさっての朝、ジーナはエメリア家へと戻る。
鼻の奥がつんとなって、ジーナは目を伏せる。
(だめ。今は……泣いたりしては、ダメ)
そんなことをしたら、皆に心配をかけてしまう。ジーナは目をつぶって、深く呼吸をした。気持ちを落ち着かせてから、皆の顔を見渡す。
「実は……お願いがあります」
なるべく明るく聞こえるように気を付けながら。
悲しい顔ではなく、明るい表情になるように口角を上げて。
ジーナは昨日から考えていたことを口にした。
「明日は休日ですよね。……皆で街に出かけませんか」
ここを去らなければいけないことが決まっているのなら。
せめて最後に思い出が欲しいと、ジーナは思っていた。
そうすれば、この先嫌なことがあっても、その記憶を胸に抱いて、乗り越えられる気がするから。
その日の夜、ジーナは遅くまで食堂に残っていた。
シストにも、クレリアにも自分の正体を明かすことはできない。だから、2人にお別れを言うことはできないのだ。
『ジーナ』という食堂の雑用人は、パッと消えていなくなる。
お別れの言葉の代わりに、ジーナは2人にお菓子を渡そうと決めていた。心をこめて、最後の菓子を焼いた。
(お肉料理じゃなくて、ごめんね……クレリア。仲良くしてくれてありがとう)
アーモンドをたっぷりと練りこんだ生地で焼いたクッキー。それを2枚重ねて、中にチョコレートを挟む。
次にジーナはシストに渡すための、カネストレッリを焼いた。
オーブンを覗いて、焼けていくカネストレッリを見守る。そうしていると、この学校に来てからの思い出が頭をよぎっていく。
(シスト様……)
この学校に来たばかりの頃、ジーナは自信を失くしていた。自分でも料理が美味しいのかどうか、わからなくなっていた。もう二度と誰かに料理を食べてもらうことはないだろうと思っていた。
だから、シストに初めて『美味い』と認めてもらった時、胸が震えるほどに嬉しかった。
(そのたった一言で、私は本当に救われました)
カネストレッリを1枚ずつ袋に詰めていく。そうしていると、胸が詰まって、涙が零れそうになった。
(…………ありがとうございます)
その気持ちをこめながら、ジーナは静かに袋を閉じた。
+
朝の陽ざしがルリジオンの街を照らし出している。
フィオリトゥラ魔法学校の正門。
待ち合わせをしていた少年・少女たちが、外へと出ていく。その様子を高所から見つめている影があった。
「街の外に行くのか。好都合だな」
黒犬は校舎の屋上で腹ばいになっていた。彼らを目で追いながら、にやりとほくそ笑むのだった。
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