4 婚約破棄?されてません


「さあ、エメリア公が心配されています。家に帰りましょう」


 激しく鳴る動悸を、ジーナは抑えていた。


 気付かれてしまった。

 ヴィートに自分の正体が、ジーナ・エメリアだということが。

 自分は家に連れ戻される。ここにはもういられない。その時、頭をよぎったのは、この学校で過ごす昼休みの記憶だった。

 「美味い」といつでもジーナの料理を褒めてくれるシスト。

 お肉料理が大好きで、「ジーナのことも大好き!」と伝えてくれるクレリア。

 2人と過ごす楽しい時間。その光景が脳裏で蘇り――直後、ひびが入る。


 ――もうシスト様や、クレリアと一緒に過ごすことはできないの……?


 そう考えて、胸が絞られるように苦しくなった。

 でも、その一方でこうも思う。


 ――もう十分じゃない? ジーナ。


 自分の中で誰かが告げた。


 ――これ以上、お父様にも皆にも迷惑をかけられない。だから、もうこんなことはやめた方がいい。


 手汗で掌がにじんでいる。つかんでいたスカートの裾を、ジーナはそっと離した。

 深呼吸をくり返し、口を開こうとした。

 その直前で、


「あなたの婚約者のフィンセント殿下も、とても心配されておいででしたよ」

「………………。どういうこと?」


 ジーナは唖然とした。

 今、この人は『婚約者』と言った。

 なぜ未だに自分がフィンセントの婚約者ということになっているのか。


「婚約は解消したはず……だって……」

「そういう話は、私は聞いておりませんが」


 ヴィートは戸惑ったように眉を寄せている。その表情から彼が嘘をついていないことをジーナは理解した。


 そういえば、と思い出す。

 学校で暮らしていれば、様々な噂話が耳に届く。その中に『フィンセントの婚約破棄』という情報はなかった。それよりも、ジーナ・エメリアの失踪や、王子同士の決闘の方が話題性が高いからだろうと思っていたが……。


 ――まさか、婚約解消がなかったことにされているなんて。


 きっとフィンセントの仕業なのだろう。婚約解消は手違いだと周囲を言いくるめたのだ。肝心のジーナは失踪しているから、真偽のほどは確かめようがない。

 ジーナは掌を、きゅ、っと握りしめた。

 そういうことなら話は別だ。

 強い視線でヴィートを捉える。


「帰れません。帰りたくありません」

「ジーナ様……」


 毅然とした答えに、ヴィートは困った様子で眉を垂らす。


「フィンセント様の元には……戻りたくありません」

「エメリア公も、あなたのお気持ちはご理解していらっしゃいます。公爵家に戻った後に、また改めて、婚約解消のために動くこともできましょう」

「もし、それで婚約が解消できなかったら……? 私はまたあんな目に遭わなければいけないの……?」

「あんな目、……とは?」


 ヴィートは目を細めて、聞き返す。

 ジーナは答えられなかった。口にするのもはばかれるほど、その記憶は深い傷跡となっていた。


 俯いて、口をつぐむ。

 すると、ヴィートが少しだけ語調を和らげ、


「ジーナ様も存外にここでの暮らしになじまれているご様子。ご友人との急な別れともなれば、心苦しいでしょう。――1週間、待ちます」

「え……?」

「ですが、その後はたとえ力づくとなろうとも。あなたをエメリア公の元に連れ帰ります」


 強い視線に射抜かれて。

 ジーナはそれ以上、反論することができなかった。




 その後、どうやって自室に戻ったのかもジーナはよく覚えていない。

 気が付けば、床にへたりこみ、ベッドに上半身を預けていた。頭の中が真っ白だ。何も考えられない。

 しばらくそうしていると、「くぅーん……」ベルヴァが寄ってくる。鼻先で肩を、つん、とつつかれた。


「ベルヴァ……!」


 ジーナは弾かれたように動いた。ベルヴァの体にぎゅうと抱き着いた。ベルヴァは焦った様子で、脚をばたつかせている。いやいや、と逃げ出そうとする体に、ジーナはすがりついた。


「お願い……もう少しだけこのまま」


 湿った声で告げると、ベルヴァははたと動きを止める。そのまま大人しく抱き着かれてくれた。

 ベルヴァの毛先はひんやりとしているが、胴体の部分はほんのりと温かい。触れていると、少しだけ心が落ち着いてきた。


「公爵家から遣いが来たの。私は家に戻らなきゃいけない。……でも、戻りたくない」


 ベルヴァに頬をすり寄せ、ジーナは続ける。


「…………もう少しだけ。……シスト様の、おそばに……」


 ささやかな願いを乗せた吐息は、夜の空気の中に溶けていった。




 明かりが消えた、室内。

 少女の小さな寝息が聞こえてくる。ジーナはベッドに上半身を預け、眠っていた。

 その隣で忙しなく動く影がある。


 ベルヴァがひたすらにぐるぐると回っていた。はたから見れば、犬が自分のしっぽを追いかけ回しているだけの、間抜けな姿であったが……。


(やばいやばいやばい……!)


 ベルヴァは必死で思考を巡らせていた。そして、焦っていた。

 ジーナから聞いた話が頭をよぎる。

 彼女は家に戻ることになったのだという。しかし、そうなったらベルヴァは困るのだ。


(俺の体はまだ回復しきってない。このままじゃ、まずいぜ……)


 ベルヴァは回るのをやめて、床に腹をつけた。「伏せ」の体勢で、ぺたりと顎も床につける。


(…………どうする? 俺がジーナの家についていくのも手だが……いや、門前払いされる可能性とか、仮に中にいれてもらっても犬用の餌とか与えられるようになっても困る!)


 うーむ、と思考しながら、ベルヴァは視線を上げる。

 ジーナがベッドにもたれかかって寝ていた。その頬には涙の痕が残っている。


 むくりとベルヴァは起き上がる。毛布をくわえて、たたっと戻ってきた。それをジーナの肩にかける。

 ……よし!

 満足げに頷いてから、「って、よしじゃない! やばいやばいやばい……!」と、またその場でぐるぐると回り出すのだった。

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