9 第二王子の苦悩

 

 ジーナは自室で呆然としていた。

 胸の辺りがまだほんのりと温かい。

 

「ベルヴァ……」

 

 ベルヴァはベッドのそばで、ふわふわと欠伸をしている。そんな呑気な子犬にジーナは話しかけた。

 

「私の作ったパニーニ、美味しいって言ってくれる人がいた」

 

 お世辞であんなことができるとは思えない。

 ジーナを馬鹿にするためにあんなことをするとも思えない。

 

 彼は本当に――ジーナの料理を美味しいと思ってくれているのではないのか。

 ジーナはベッドの上で膝を抱えると、

 

「……信じても……いいのかな……」

 

 まだ不安に揺れる瞳を、そっと閉じるのだった。

 

 

 +

 

「昨日のパニーニは、どこで手に入る。いい加減に教えろ」

 

 次の日。

 ジーナが昼休憩をとろうと食堂を出ると、そこにシストが待ち構えていた。刺々しい雰囲気だが、今のジーナには怖いとは思えない。その苛立ちには焦りが含まれていることがわかるからだ。

 つまり、それだけジーナの料理を欲しているのだ。

 ジーナは視線をさ迷わせる。静かに答えた。

 

「私が、作りました」

「なっ……そうだったのか」

 

 シストは目を見張ると、

 

「あれはすごく美味かった。タダでとは言わない。お前が価格を決めてくれて構わないから……売ってはもらえないか?」

「……はい」

「本当か!? いいのか!?」

 

 途端に目をパッと輝かせる。無邪気な少年のように喜ぶ様に、ジーナは内心で驚いた。

 

「殿下も……そのような表情をされるのですね」

「は? お前に言われたくはないが……」

 

 ジーナは相変わらずの無表情で、淡々とした喋り方だ。シストは途端に仏頂面に戻って、話を続ける。


「それと、殿下と呼ばれるのは好かない。名前で呼んでくれないか」

「え? ……私の身分では」

「構わない」


 平民が一国の王子をファーストネームで呼ぶことは、ジーナの常識からすれば憚られることだった。しかし、シストに鋭い視線を向けられて、仕方なく頷く。


「わかりました……シスト様」

「お前の名は? 何という」

「ジーナです」


 すると、シストは目を見張った。


「ジーナだと……? ……ジーナ・エメリアと同じ名前か」


 ジーナは押し黙った。肯定も否定もせずに目を伏せる。

 呼ばれた時、咄嗟に反応できなければ困るので、名前は変えなかったのだ。見た目も身分も異なっているから、同一人物と気付かれることはないと思うけど……。

 シストの顔をそっと窺う。彼の表情に、ジーナはハッとした。

 シストは険しい表情で目を細めていた。まるで、嫌なことを思い出しているかのような面持ちだ。


 ジーナの中で去年の記憶が蘇る。自分とフィンセントの婚約が決まった後のことだ。ジーナはシストに挨拶をした。しかし、彼は険しい表情でジーナを一瞥すると、吐き捨てるように言ったのだ。


『……今は、お前と話したくない』


 刺々しい雰囲気だった。それ以降、ジーナも彼のことが苦手で、関わらないようにしていたのだった。

 自分はシストに嫌われているのだと思った。


 その時のことを思い出して、ジーナの胸はずきんと痛んだ。



 +


(ジーナか……。そういえば、未だに行方が見つかってないと……)


 そのことを思い出して、シストは苦い気持ちに陥る。

 ジーナ・エメリアが失踪したのは今から10日前のことだった。そのことを知った時、シストは動揺した。

 その足ですぐさまフィンセントの元に向かった。


『なぜ、ジーナはいなくなった!? お前が彼女に何かしたのか?』


 シストの追及に、兄は忌々しそうな顔をする。


『ジーナは私の婚約者だぞ。お前が口出しをするな!』


 吐き捨てるように告げて、フィンセントはその場を立ち去った。シストは奥歯を噛みしめて、立ち尽くしていた。悔しいが何一つ言い返せなかった。そこまでの無念に打ちのめされたのは、1年前の婚約発表の時以来だった。


(…………ジーナ)


 彼女のことを思い出して、心臓が鋭い痛みを訴える。

 ジーナと同名の娘をシストは眺めた。冷めた表情や話し方は、少し彼女に似ている気もするが……。

 見た目は似ても似つかない。

 それに、


(公爵家の娘が、こんなところで下働きをしているわけがないか)


 シストはそう思い直して、内心でため息を吐くのだった。



 +

 

 それからというもの、昼休みの時間になると、シストはジーナの元を訪れるようになった。


 ジーナは昼食を3人分作った。ベルヴァとシスト、そして自分の分。作っているうちに何だか「美味しそうだな……」と思えて、自分も食べたくなってきた。その感覚自体が久しぶりのことだった。

 ジーナにとって予想外だったことが2つ。1つはシストが出したお代が高額すぎることだった。ジーナは必死で辞退した。でも、シストがなかなか譲らないので、「適正料金以上をもらったら、食堂の人に怒られる」ということで、何とかその価格内に収めてもらった。代わりに「必要な物があれば、何でも用意するから言ってくれ」と告げられた。

 

 そして、もう1つ驚いたことは――

 

「今日はブルスケッタか。……ん、美味い」

 

 シストは普段、不愛想な方だが、食事をとっている間は幸せそうに顔を綻ばせる。それをジーナは間近から望んでいた。

 ジーナの手元にも同じブルスケッタがある。

 

 ――2人は昼食を共にするようになっていた。

 

 ジーナはシストにランチボックスを渡して、自分も昼食に向かおうとしたのだが、シストに呼び止められた。「どこで昼食をとっている?」と聞かれ、寮に戻ることを話せば「遠い」と驚かれる。それはジーナも思っていたことだった。しかし、他に昼食をとれる場所はなかった。従業員用の休憩スペースは狭いし、この学校の生徒ではないので食堂や中庭は利用しづらい。

 

 シストに「来い」と素っ気なく促され――たどり着いたのは、茶会スペースだった。それも王族だけが利用できる特別な場所だ。

 庭園の中にある|四阿(あずまや)。周囲は季節の花々が咲き誇っている。 

 今のジーナの身分では恐れ多すぎる場所だったので戸惑った。それをシストは別の理由と勘違いしたらしく、「フィンセントはこっちには来ないから安心しろ」と、言うのだった。

 

 それからというもの、そこで昼食をとるのが日課になっている。

 シストはジーナの作った料理をすべて「美味い」と褒めちぎった。その上、普段は浮かべないような笑顔を見せるのだから、本当にそう思ってくれていることがわかる。

 

 そんな姿を見ていると、ジーナも食欲が湧いてきて、自分の分に口をつける。

 完熟トマトを乗せたブルスケッタだ。オリーブやバジルの香りが口いっぱいに広がる。

 

(……美味しい…………)

 

 自然とそう思うことができた。フィンセントとのお茶会はいつも胃が痛くなることばかりだった。自分で作る物も美味しいのかそうでないのかわからなくなっていたのに。

 

 2日目の昼食が終わった後、

 

「……これを」

 

 シストが仏頂面で何かを差し出してくる。ジーナは目を丸くした。それはあかぎれ用の軟膏だった。

 

「よろしいのですか。こんな高価そうなお薬を……」

「たまたま部屋にあった不用品だ」

 

 シストはつれなく言うが。

 ジーナは知っている。昨日、食事を共にした時に、彼がジーナの手を見ていたことを。

 

(フィンセント様は……こういうのを気にかけてくださったことはなかった)

 

 揚げ菓子を作る時に、指に火傷を負ってしまったことがある。フィンセントはそれに気付くと、「私のために頑張ってくれているんだね」と満足そうではあったが、ジーナを気遣ってくれることはなかった。

 

 シストは料理についても聞いてきた。「これはどうやって作る?」と。ジーナが作り方を説明して、「ナッツもいいけれど、ぶどうがあれば」と話した。シストはその時は素っ気ない様子で聞いていたのに、次の日になるとぶどうを持って来て、遠慮するジーナに押し付けるのだった。

  

(シスト様……)

 

 口は悪いし、近寄りがたい雰囲気は相変わらずでも、彼は時折、ひどく優しい眼差しをする。そういう姿を見ると、ジーナの心はホッと落ち着くのだった。そのうち、シストとの食事の時間を楽しみにするようになった。

 

 そうして、1週間が経った時のこと。

  

 いつものように庭園で食事をとっていたら、足音が聞こえてくる。そちらを振り返り、ジーナは顔をこわばらせた。シストが険しい表情で立ち上がり、

 

「お前……まだ妙な疑いを持っているのか?」

「私が用があるのはお前だ、シスト」

 

 フィンセントは冷ややかな声音で告げる。

 

「先日の私への無礼を清算してもらおう。――お前に、魔法決闘を申しこむ」

 

 その単語に、ジーナもシストも目を見張った。

 

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