8 『美味しい』の魔法
エリデはしばらくショックで何も手につかなかった。
(なぜフィンセント様は、私のお菓子を気に入ってくださらなかったのかしら……)
空虚な思いが湧き起こる。
フィンセントはジーナよりも自分の料理を気に入ってくれている。そのはずだったのに。意味がわからない事態で混乱し、次第にエリデの中で怒りが湧き上がった。
エリデは怒りと混乱をぶつける対象が欲しかった。思い浮かんだのは、地味な娘の顔だ。
(それにしても、何なのあの女……)
フィンセントと自分の間に割って入った雑用人。
あの女の澄ました目は、ジーナを思い出させるものだった。すると、ジーナに馬鹿にされたように感じて、エリデは苛立った。
(平民の分際で、フィンセント様に馴れ馴れしく――)
彼女の凛とした眼差しが蘇る。
思い返せば、あの女――エリデのことを憐れんではいなかっただろうか。
(平民が、それもとびきり地味な容姿の女が……この私を見下しているというの!!?)
許せない、とエリデは思った。
あの女に思い知らせてやるのだ。
どちらの立場が上なのかを――。
+
その日の魔法実習の時間も思うように振るわず、フィンセントは苛立っていた。
そこに、
「フィンセント様」
エリデが声をかけてくる。
「フィンセント様は最近、ご体調が優れないようですが……それは10日ほど前からのことではありませんか」
フィンセントは顔をしかめる。図星だった。だが、それを他人から指摘されることは、腹が立つ。
「それが何だというのだ」
フィンセントは素っ気なく告げて、彼女に背を向ける。
すると、
「昨日、フィンセント様に声をかけて来た地味な雑用人がいましたね。彼女はここの食堂で働いているそうです。……ちょうど10日前からです」
フィンセントはハッとして、彼女を振り返る。
エリデは微笑して続けた。
「これは偶然の一致なのでしょうか。それとも……。フィンセント様。最近、食堂で召し上がられている食事に、何か違和感を覚えたことはございませんか」
フィンセントは手を震わせて、口元を抑える。
フィンセントの調子が悪くなったのは10日前――ジーナがいなくなった直後だ。それからフィンセントは何を食べても満足できなかった。
思い返せば、その頃から食堂で食べる食事も、やたらと味気ないように感じていた。
「何だと……。つまり、あの女が……。私の食事に、毒でも盛っているというのか!!」
そう考えれば、何もかもつじつまが合う。
自分の不調はあの女のせいだったのか――。
フィンセントは暗い怒りを瞳にたぎらせる。その眼前では、そっとエリデがほくそ笑んでいた。
+
「ジーナさん、昼休憩に行ってらっしゃい」
「……はい」
エマに声をかけられて、ジーナは食堂を後にする。
ランチボックスを手に外廊下を歩いていた。今日も食欲が湧かない。この中身はベルヴァにあげようか……それなら、寮室に戻らないと。
と、彼女は考えていた。
ジーナが校舎の裏に出ようとした、その時だ。
目の前に、突然、誰かが立ちふさがった。
「その食事を見せろ」
ジーナは硬直した。相手はフィンセントだった。冷たい眼差しでジーナを見据えている。
その雰囲気と声に、ジーナは震える。
(何……? 何で……? もしかして、私の正体が、ばれた……?)
ということは、この食事を奪ったフィンセントがすることは……。
また罵倒される。料理をけなされる。
その恐怖でジーナの心は凍り付く。咄嗟にランチボックスを背中に隠した。
すると、
「何だ。見せられないというのか? まさか……」
フィンセントの瞳に激高が宿る。
「やはり、貴様が私に毒を盛っていたのか!!」
「……あ……っ」
フィンセントに乱暴に突き飛ばされて、ジーナは尻もちをついた。その拍子にランチボックスが転がっていく。蓋が空いて、中身が飛び出した。
その料理を――
フィンセントは、踏み潰そうと足を上げる。
(あ……。ああ……)
ジーナはその瞬間を目を見開いて、見つめていた。今では料理が楽しいとは思えないが、それはジーナが早朝から手間をかけて作った物だ。
それを目の前で潰されたらきっと……今度こそ、ジーナの心も一緒に踏み潰される。
見たくないのに目を逸らすことができない。
ジーナが声にならない悲鳴を心で轟かせた――その時。
「てめえ、何してんだよ!」
割りこんだ声。ジーナの前に誰かが飛び出した。そして、フィンセントの頬を殴りつけた。
(……シスト、殿下……?)
ジーナの体はまだ震えている。青い顔でその名を呟いた。
フィンセントは唖然として、殴られた頬をさする。雷光のような怒りを瞳に宿して、シストを見据えた。
「なっ……お前……! 私の顔に何てことを……! たとえ同じ王家の血を引いていようと、許されることではないぞ!」
シストはその視線を、据わった瞳で受け止める。
「誰かがせっかく作った食事を踏み潰そうとは、どういう神経してんだよ」
「その者は、私の食事に毒を盛ったのだ!」
「は? 毒……? って、これは……」
シストは床に落ちた丸いパニーニを見る。そして、目を見開いた。
彼はしゃがみこむと、ためらいなくそれを口にする。
「そんな、殿下……!」
ジーナは蒼白となり、フィンセントは「おえ……」とえずく素振りを見せる。シストは平然と料理を咀嚼すると、
「毒なんて盛られてない。これでわかったか? ――お兄様?」
「お前……正気か?」
心から嘲るような顔で、フィンセントは口を開く。
「床に落ちた物を口にしようとは……まるで犬のようではないか。つくづく王家の恥さらしめが……」
と、鼻で笑う。
「そして、この私に対する無礼……必ず償いはしてもらうぞ」
フィンセントはそう言い置いて去っていく。
シストは、フィンセントの言葉がまったく響いていない様子で、しれっと顔を背ける。立ち上がると、ジーナへと手を伸ばした。
「大丈夫か?」
「え、……はい」
迷ったが、ジーナはその手を借りて立ち上がる。
そして、シストと向かい合った。
「ありがとうございます……」
「いや。これはお前のか? フィンセントに妙な言いがかりをつけられていたから、勝手に食べてしまったが」
「あ……」
ジーナはハッとして、
「申し訳ありません……! それは私の方で処分しますので……」
「なっ……捨てるつもりか!? 捨てるくらいなら俺がもらう」
「え……? で……殿下! おやめください!!」
あろうことか――シストはまた、パニーニを口に運んだ。ジーナは半ばパニックに陥った。
フィンセントに散々けなされた料理。きっと味はひどいにちがいない。それも廊下の床に落ちたものだ。そんなものを第二王子に食べさせるわけにはいかない。
しかし、ジーナの必死の制止もむなしく、シストはそれを食べてしまった。
口に含むと、味わうように咀嚼して、
「これだ。ずっと探してたんだ」
シストは嬉しそうな声を出す。
そして、ジーナの顔を見て、蕩けるような笑顔を浮かべた。
「やはり美味いな。すごく美味い」
「え……」
ジーナは呆然と立ち尽くした。
彼がこれを欲しがっていたのは……自分を馬鹿にするためではなかったのか。
もう捨てるしかないと思っていた料理を食べてくれた。そして、馬鹿にすることもなく、『美味しい』と言ってくれた。
ジーナの胸が震え出す。熱いものが一気にこみ上げてきた。
『ああ……ひどい。これはひどい味だ』
フィンセントの呪いの言葉を打ち消すように、
『すごく美味い』
シストの言葉が染み渡る。
マヒしていた心がゆっくりと動き出したかのように、どくんと心臓の音が鳴る。
こみ上げてきた感情に呑みこまれて、ジーナは、
「………………っ」
静かに涙を零した。
すると、その様子にシストがぎょっとして、
「なっ……!? なぜ泣く!?」
おろおろとし出すのだった。
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