3 公爵令嬢、わんこを拾う
森の中は静寂に包まれていて、心が落ち着いた。
ジーナは木に背を預けて、ふう……と息を吐く。遠くで使用人たちが自分を探している声が聞こえる。
咄嗟に飛び出してしまったが、見つかるのは時間の問題だろう。
……帰りたくないな。と、ジーナはため息を吐く。
その時、音に気付いた。静かな息遣いが、草むらの向こうから聞こえてくるのだ。
ジーナはそちらへと歩み寄って、草をかきわける。1匹の子犬が倒れていた。全身が黒い毛で覆われ、目は赤い。ふうふう、と弱った息を吐き出している。
ジーナはその子犬に歩み寄った。怪我をしているのだろうか、と見渡すが、傷らしいものは1つもない。
子犬は耳をぴんと立ち上げる。そして、鼻をひくつかせて、「くーん……」と、ねだるような声を上げた。
「お腹が空いているの? 今はこれしか……」
と、手に持っていた菓子を見て、ジーナは首を振る。
「…………これじゃ、ダメね」
こんな失敗作を与えるわけにはいかない。
そう思った時、子犬が跳びついて来た。
「え、ちょっと……!」
菓子の袋をくわえて、着地する。ジーナが止める間もなく、食べ始めた。
あっという間に完食して、子犬は尻尾を振る。ジーナの足元にすり寄ってきた。
くぅーん……甘えたような声を上げている。
「…………あなたの口には、合ったのね」
ジーナはホッと息を吐いた。子犬の頭を撫でた時、
「お嬢様! ジーナお嬢様!!」
使用人の声がすぐ近くで聞こえた。
「…………家出は、もうおしまいか……」
ジーナは子犬を抱き上げて、ずるずるとへたりこんだ。
「戻りたくない……」
目を閉じると、自分の料理を罵倒し、蔑む声が聞こえてくる。その中に戻されるのは嫌だった。
「フィンセント様の婚約を破棄をしても、噂は消えない。私は一生、料理が下手な女ってあざ笑われる――戻りたくない。ジーナ・エメリアじゃない、誰かになりたい……」
『――はっ、それが願いか――』
誰かの声が答えた。
ジーナはハッとして、辺りを見渡す。しかし、そこには誰もいない。
『取引だ。願いを叶えてやる。元に戻りたい時は、その飾りを外せ』
ジーナは呆然としていた。
いったい誰が話しているのか……。しかし、その相手を見つける前に、急激な眩暈が襲ってくる。
ジーナはその場で倒れるのだった。
+
「大丈夫ですか?」
誰かに体を揺さぶられている。ジーナはゆっくりと目を開けた。
(……夢……?)
そう考えながら、体を起こす。目の前の光景に彼女は落胆した。使用人がジーナを囲いこんでいるのだ。
もう見つかってしまった……と、彼女が内心で嘆いていると。
「お嬢様を見かけませんでした?」
「え……」
「銀髪に青い瞳の、大変美しい姿をされている女性です」
「その……私……」
それはまさに自分である。
ジーナは呆然として、彼らの顔を見つめる。返って来た眼差しは素っ気なかった。
「もっと奥に行かれたのかもしれない」
「あなたも気を付けて帰りなさい」
使用人は立ち上がって、ジーナを置いて行った。
――探している人物が目の前にいるにも関わらず。
ジーナは怪訝に思って、立ち上がる。
しばらく森の中をさ迷うと、湖が視界に飛びこんでくる。その水面に恐る恐る、自分の姿を映した。
ジーナは息を呑んで、
「……私じゃ、ない……?」
そこに映っているのは、みすぼらしい身なりの、地味な娘だった。
癖のある栗色の髪。そばかすの乗った頬。目鼻立ちは、パッとしない。
ジーナはハッとして、耳に触れた。見覚えのないイヤリングが揺れている。
『元に戻りたい時は、その飾りを外せ』
ジーナはそのイヤリングを外してみる。
すると――
水面に映る姿が瞬く間に変わった。
銀糸のような艶やかな髪。切れ長の碧眼は美しいが、感情を映さず、冷めた印象だ。いつもの自分の容姿だった。
「……夢じゃなかった……?」
ジーナは胸元を抱きしめて、立ち上がる。
「さっきの子犬、どこに行っちゃったんだろう……」
辺りを見渡してみても、その姿はない。
ジーナは困惑して、その場に立ち尽くすのだった。
――その日、公爵家の娘ジーナ・エメリアは姿を消した。
+
茶器の割れる音が響く。メイドたちは「きゃ」と怯えた声を上げた。
それにも構わず、フィンセントは机の上のものをすべて叩き落した。
「ちがう! これじゃない!」
「申し訳ございません、殿下! すぐに別のものをお持ちいたします……!」
メイドが震えながら、別の菓子を運んでくる。しかし、どれを口にしてもフィンセントは満足することができない。
「ちがう! これでは、何もかもちがう!!」
フィンセントは激昂し、喚き散らした。
(ジーナの菓子は……もっと……もっと
あれだけが自分の舌を満足させることができた。早急にあの味をまた味わいたい。
「彼女はまだ見つからないのか!?」
フィンセントは乱暴に尋ねる。
ジーナ・エメリアが失踪してから1週間。フィンセントは兵士に命じて、国中の捜索に当たらせていた。しかし、国の総力を挙げても、彼女の行方はわからなかった。
「早急に探し出せ!」
フィンセントは暗い感情を瞳に宿して、決意する。
(……そして、また私のために菓子を作ってもらう)
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