第53話 事件は終わっていない

『あら、糸くずが』


 梅府の応接室で、李桑児が梅芳の肩にわずかにふれたのを彼は思いだす。


「婚儀のまえに、李侍女長とふれあう機会があったのです」


 梅芳の話を聞いた柳毅は「そうか」と淡々と言い、思うところを語る。


「ふれたとき、師弟の髪でもとったのだろう。ほかの花嫁候補のところにも、武俊煕の名をつかって挨拶に行った形跡があったんだ。それに、玥淑妃と李薫児の死を知った直後に自室で首をつったのも、ふたりと関係があった証拠だろう」


『後宮のお妃さまには、皇帝陛下の寵愛が必要です。同様に、わたしたち使用人にも主の寵愛が必要なのです』


 聞いた当時はなんとも思わなかった李薫児の言葉が、ひどく重い言葉だったと梅芳は今ごろになって感じた。彼は思わずうつむき、だまりこんだ。しかし「梅師弟」と柳毅に呼ばれ、彼は柳毅に目をむけると「なんですか?」と応じる。

 おだやかだった柳毅の顔が、唐突にきびしくゆがんだ。そして、彼は緊張した声で言う。


「この事件は、おわっていないんだ」


 兄弟子の話に不穏さを感じた梅芳は、柳毅をじっと見つめて話のつづきを待った。


「明日、わたしたちは淳皇后に謁見するよう命じられている」


 柳毅の言葉で、自分の状況を再認識した梅芳は、低く暗い声で「それは……」と言いよどんだ。

 柳毅は「そうだ」と弟弟子に深くうなずいてみせると、緊張をふくんだ声色で言う。


「わたしのあだ討ちのために、師弟は淳皇后を害しようとした。しかも、男の身で後宮に忍びこみもした。おそらく明日、なんらかの沙汰があるだろう」


『あだ討ち相手は淳皇后なのだよ。成功したとしても、生きては帰れない』


 以前、自分が妹弟子に言った言葉を思いだした梅芳は、つとめて冷静に「そうですね。当然です」と応じた。

 柳毅は苦しげに視線をゆらすと、扉に目をむけて話をつづける。


「孝王府は今、淳皇后の配下に密かに見はられている。逃亡しても大倫国にいるかぎり、いずれは捕縛されるだろう」


 八方ふさがりの状況を告げた柳毅は「梅師弟」と呼びかけると、そっと梅芳の手をとった。そして、しっかりと梅芳を見つめて語りかける。


「師弟があんな行動にでたのは、わたしのせいだ。もちろん、師弟を許していただけるよう、淳皇后に嘆願する。だが、わたしも孝王が生存していると皇帝陛下や淳皇后をたばかった罪人。わたしの言葉を淳皇后は受けいれてはくださらないだろう。もしものときは、わたしも師弟とともに罰をうけるよ」


 言いながら、にぎった梅芳の手を柳毅は自分の顔によせた。

 手の甲に柳毅の熱い息を感じながら、梅芳は「やっと、師兄をさがしだしたのに」とつぶやき、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。


 ――明日、わたしたちはきっと命を落とすにちがいない。


 梅芳は、とめどなく涙をながしつづけた。

 静かに泣く梅芳を見つめ、柳毅はゆっくりと彼に顔を近づける。

 ふたりの唇と唇は、今にも触れそうだ。そうと気づき、驚いた梅芳は泣き腫らした瞳を大きく見ひらき、柳毅を見つめかえした。

 梅芳が動揺した直後だ。急にためらいをみせ、柳毅は梅芳から身を離す。そして、あらためて梅芳の腕をひくと、彼は梅芳をきつく抱きしめた。


 ――口づけられるかと思った。


 柳毅に抱きしめられながら、梅芳は密かに胸をなでおろす。彼とは口づけをかわし、体をかさねた仲だ。しかし、それは柳毅の記憶がよみがえる前の彼であって、今の彼ではない。


 ――武俊煕はわたしをもとめた。しかし、師兄も同じとはかぎらない。


 今までの梅芳と武俊煕の関係ではいられないと感じ、梅芳の胸はずきりと痛んだ。ただ、だからといって柳毅から距離をおく気持ちにも、もはやなれない。


 ――わたしをもとめてくれなくても、この人を二度と手放したくない!


 感情の高ぶりをおぼえた梅芳は柳毅の背に手をまわし、彼にしがみつく。

 そして、ふたりはきつく抱きあったまま、眠れない一夜を明かしたのだった。


 ◆


「仮氷室以来ね」


 皇后の寝殿をおとずれた梅芳たちに、淳皇后がおだやかに声をかける。彼女はほほ笑みさえうかべて上座に座り、飼い猫の背をやさしくなでていた。彼女の背後には侍女がふたり、頭を低くして立っている。


「皇后さま。千歳、千歳、千千歳」


 淳皇后のまえでひざまずいた梅芳、柳毅、そして葉香は形式にのっとり、叩頭こうとうの礼をつくした。

 男の梅芳を後宮に入れるためだろう。淳皇后の指示で、梅芳は王妃の装束に身をつつんでいる。磨きあげられた床に豪華な王妃の着物が広がる光景は、この場に不似合いなほど華やかで美しかった。


「立ちなさい」と淳皇后。


 しかし、淳皇后に許可されても梅芳たちは立ちあがらない。梅芳は頭をさげたまま「いいえ、皇后さま」と口にし、おずおずと話しだした。


「先日はたいへん失礼いたしました。皇后さまのまえで立つなど、わたしにはできません」


 梅芳の謝罪を聞いた淳皇后がころころと笑い、話しだす。


「そうね。男の分際で、女といつわり後宮に足を踏みいれた。そのうえ、わたしを殺そうとしたのですから。頭をあげられないのは、当然ね」


 明らかな皮肉とわかり、梅芳は床に額がつくほど頭をさげた。

 柳毅が「皇后さま」と呼びかけ、嘆願する。


「彼らは、兄弟子である方士の死をいたみ、義侠心からあだ討ちをこころみた仁義にあつい者たちなのです。どうか寛大なご判断を!」


 梅芳と同様に、柳毅もさらに頭を低くした。

 すこしの間があり、淳皇后が「孝王……いいえ、柳毅という名の方士だったわね」と口にすると、話をつづける。


「あなたは第一皇子が命を落とした事実を隠した。それは、わたしだけでなく、皇帝陛下をもだます行為。なんという侮辱。万死にあたいします!」


 ――やはり。わたしたちの天命は尽きたのだ。


 予想どおりの淳皇后の反応に、梅芳は死を覚悟した。

 柳毅と葉香も梅芳とおなじ気もちらしい。ふたりとも身じろぎすらしない。

 ところが、予想がついたのはここまでだ。

 淳皇后が「でも」と言って、話しだした。


「あなたたちを許しましょう。今回の事件の責任はすべて、李薫児にかぶってもらう」


 耳をうたがい、梅芳は「え?」と声をあげ、思わず顔をあげる。

 梅芳とおなじで、柳毅と葉香も驚いて顔をあげた。

 梅芳たちが困惑するなか、淳皇后は「そうね、たとえば」と言い、語りだす。


「李薫児が後宮に男をつれこんでいると、わたしたちが気づいた。露見をおそれた李薫児は逃亡を画策。逃亡経路にいる人々に眠り薬をもった。李薫児のゆくてをはばもうと、わたしたちが彼女のまえに立ちふさがる。逃げきれないと観念した男が焼身自殺をはかり、不運にも玥淑妃が巻きぞえになった。しかたなく、李薫児はひとりで逃亡しようとしたが、護衛に見つかり不審者として殺された」


 すらすらと絵空事を語った淳皇后は、背後の侍女に「どう思う?」とたずねた。

 すると、侍女たちはにこりとほほ笑んで「皇后さまは英明です」と深く頭をさげる。

 称賛に満足したのだろう。淳皇后は楽しげに笑った。


 笑う淳皇后を見た梅芳は、あっけにとられてしまう。

 額を赤くして呆然とする梅芳にむかい、淳皇后が「どうしたの? 問題がある?」と問う。

 びくりと肩をゆらし、梅芳は淳皇后の問いかけに答えた。

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