第51話 救うべき人
これまで曲蘭には手を焼かされた。しかし、憔悴する彼女に兄弟子をなくしたばかりのころの自分をかさねた梅芳は、複雑な心境になった。どう行動すべきか迷い、梅芳はじっと曲蘭を見つめる。すると、梅芳の耳に「梅師弟」と彼を呼ぶ、武俊煕の声がとどいた。
武俊煕の呼びかけに応じ、困りはてた梅芳が彼を見る。
さりげなく梅芳にちかづくと、武俊煕は彼に耳打ちした。
「このまま李侍女の逃亡を許しても、曲のご令嬢は助からないだろう」
おなじ考えにたどりついていた梅芳は、かえす言葉もなく目を見ひらく。
だまりこむ梅芳を見て、武俊煕はやさしくほほ笑むと話をつづけた。
「自分で言うのはおこがましいが、わたしの体は鍛えあがっていて利用価値がある。逃げおおせても李侍女は、あの体を手ばなさないだろう。あの体を生かすために、曲のご令嬢の生気をうばうにちがいない。令嬢をつれて逃げるなど、足手まといでしかないからね」
武俊煕の話を聞きながら、梅芳は魂魄のない柳毅に目をむける。うつろな目の柳毅が曲蘭を羽交いじめにしているすがたが、彼の目にうつった。梅芳は小さくも苦々しい口ぶりで「そうかもしれません」と兄弟子の言葉を肯定する。しかし、きつく眉をよせると「だけど」と、言いよどんだ。
――曲蘭をうばいかえすには、呪詛やぶりの御符が一番だ。あれがはりつけば、方術使いの命令もとだえる。だけど、柳師兄の体は呪物としてきっと燃えあがって焼失してしまう。体が無事ならば、師兄はもとの体にもどれるかもしれないのに……
迷う表情をみせる梅芳に、武俊煕はなおも語りかけた。
「魂魄のはなれたわたしの体は、本来なら土にかえっていたはずだ。それなのに昔のままなのは、あの体を生かすために生気をうばわれた多くの人がいるからなのだよ」
武俊煕が自分に語りかける意味が理解できた梅芳は、はっとする。そして、彼はあらためて武俊煕にとまどいの視線をおくった。
すると、武俊煕はほほ笑みをふかくして言う。
「見るべきはわたしではない、曲のご令嬢だ。師弟、あの娘はこのさわぎになんの関係もないのだよ。わたしはこれ以上、関係のない人が傷つくのを見たくないんだ」
武俊煕にうながされ、梅芳はあらためて曲蘭を見た。
『お従兄さまとは結婚の約束をした間柄よ!』
曲蘭の憎らしいほど勝ち気な面影は、今の彼女には最早ない。そこにあるのは、結婚の約束をした人の死を知って悲しみにくれる若い娘のすがただけだ。
――師兄の言うとおりだ。あの娘はじゅうぶんに苦しんでいる。これ以上、傷つく必要はない。
梅芳はぎゅっと唇をかんだ。そして、隣にたたずむ武俊煕に語りかける。
「師兄、すみません。わたしは、師兄の体をとりもどせそうにない」
ふるえる声で梅芳が言う。
梅芳とは反対に、武俊煕は明るく「いいんだ。覚悟はできている」と笑った。しかし、すこしだけ困った顔になると「だが、師弟は」と言い、梅芳にたずねた。
「あの体でなければ、わたしをわたしとは認めてくれないだろうか?」
兄弟子に質問された梅芳はすぐさま「いいえ!」と、大きく首をふって主張する。
「どんなすがたでも、師兄は師兄です!」
涙声ではあるが、梅芳はきっぱりと言った。彼の頬をまた、ひとすじの涙がながれる。
梅芳の涙を、武俊煕はみずからの指でそっとぬぐった。そして、おだやかな口ぶりで彼は告げる。
「では、小芳が思ったとおりにすればいい」
「はい!」
兄弟子に返事をするやいなや、梅芳は着物の懐から呪詛やぶりの御符をとりだし、柳毅にむきなおる。
「この呪文の要旨を諒解し、早急に律令のごとくに行なえ!」
梅芳はまじない言葉をとなえると、護符をすばやく投げた。
曲蘭を羽交いじめにしていてうごけない柳毅の額に、梅芳の投げた護符がはりつく。同時にぼっと大きな音がして、護符から青い炎があがった。
火がつき、方術使いの命令もとだえたのだろう。柳毅の体勢が大きくゆれ、曲蘭をしめあげていた腕もゆるむ。
梅芳はこの機会を逃さずに柳毅の腕を鉄棍棒で殴りあげ、曲蘭をうばいとった。
「ああ、方士さま!」
玥淑妃が甲高い悲鳴をあげ、炎につつまれる柳毅によろよろとちかづく。
「淑妃さま、いけません! 焼け死んでしまいますよ!」
曲蘭を抱えた梅芳が叫んだ。
しかし、玥淑妃の歩みはとまらない。最終的に、彼女は勢いよく燃えあがる柳毅の体に抱きついた。
あまりの事態に、その場にいる面々の意識は玥淑妃にむく。しかし、李薫児だけはちがった。ぼうぜんとする人々のあいだをすり抜け、彼女は仮氷室の階段下まで走り逃げる。そのとき、李薫児はどさくさにまぎれて麻袋を手にとった。長年放置された麻袋はやぶれやすくなっていたのだろう。彼女が力をいれると、ビリビリと音を立てて麻袋は簡単にやぶれた。同時に、仮氷室のなかに大量の粉塵がまった。
『酒に乾物。それに、しびれ薬?』
粉塵を見た途端。この仮氷室に調査におとずれたときに、葉香が言った言葉を梅芳は思いだす。
「しまった! あれは、しびれ薬だ! ぐ……」
警告の言葉を発した直後。梅芳は倦怠感に襲われ座りこんだ。彼のまわりの人々も、くずれるがごとく座りこみはじめる。
――こんなに大量のしびれ薬を吸ったら……
死を意識した梅芳のかすむ目に、階段をのぼろうとする李薫児のすがたがうつる。同時に、彼の耳に苦しげな淳皇后の声が聞こえた。
「ま、待ちなさい! 逃がさ……ないわ! よざ……く……ら。李薫児を……ばっしな……さい……」
「にゃあ」
淳皇后の声がとだえてすぐだ。梅芳は猫の鳴き声を聞いた気がする。しかし、彼の意識はそこでとぎれてしまった。
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