第十一章 入り乱れる人々の思惑

第45話 皇后をかどわかす

「皇后さま。淳皇后さま」


 寝台で眠る淳皇后に、梅芳がささやきかける。

 耳もとで名を呼ばれた淳皇后は、ゆっくりとまぶたをあげた。彼女はあたりを見まわし、梅芳を見つけると「だれ?」とたずねる。


 淳皇后が梅芳だと気づかないのも無理はなかった。変声の丸薬を口にしておらず、梅芳の声は男のまま。黒い男性用装束に身をつつんだ彼は、顔も黒い手巾で隠している。その格好は、仮氷室を調査したときとおなじだった。


 梅芳は「皇后さま。わたしです」と口にし、顔の手巾をはずした。うす暗くはあるが、常夜灯じょうやとうの蝋燭の明かりに梅芳の端正な顔が照らしだされる。梅芳のほうからも、淳皇后の顔はよく見えた。化粧を落としているからか、暗がりだからか。淳皇后の頬はこけてみえ、顔色も悪いと彼は感じる。

 ようやく目のまえの人物がだれかわかったらしい。淳皇后は「孝王妃? でも、その声は男?」と、いぶかしんだ。しかし、まだ夢見ごこちなのだろう。彼女の梅芳を見る目はぼんやりとしている。

 梅芳は「はい」とうなずき、答えた。


「おっしゃるとおり、わたしは男です。目的があって、王妃に扮していたのです」


 梅芳の言葉の意味がのみこめないらしい。淳皇后はそっと眉をよせ、ゆっくりと寝台のうえでおきあがる。

 梅芳の話はつづいた。


「わたしと、わたしのうしろにひかえる者は、兄弟子の行方をさがす方士なのです」


 覚醒しきり、お付きの侍女でもさがしているらしい。淳皇后は「兄弟子? 方士?」と繰り言を言いながら、あたりを見まわした。

 淳皇后の行動を気にもかけず、梅芳はなおも話つづける。


「十五年前、兄弟子は行方知れずになりました。以来、わたしはずっと、彼をさがしつづけていたのです」


 梅芳はそこで言葉をきった。そして、しっかりと淳皇后の瞳を見すえると「その兄弟子を先日、後宮の仮氷室で見つけました」と、低い声で彼女に告げる。


 梅芳が見つめるからか、彼の語る話に驚いてか。淳皇后は動揺をみせ「仮氷室? いったい、なんの話をしているの?」と梅芳に質問した。

 梅芳は冷たく笑い「とぼけるのですね」と言って立ちあがると、唐突に淳皇后の腕をひいて言う。


「想定の範囲内です。さあ、いっしょに来てください」


 強引にひかれた腕が痛むのだろう。淳皇后は苦痛に顔をゆがめ「どこへ行くの?」と質問をかさねた。

 このたびの質問には「仮氷室に決まっています」とまともに答え、梅芳はさらに話をする。


「魂魄をなくし、あなたの傀儡と化した兄弟子のいる場所です。死ぬまえに、兄弟子の亡骸のまえで非道を詫びていただきたいのです」


 言いおわるやいなや、淳皇后の腕をまた強くひき「さあ、歩いて!」と、梅芳は彼女に命じた。

 淳皇后は「死ぬ?」とつぶやき、顔色の悪い顔をさらに青ざめさせる。身の危険を強く感じたのだろう。彼女は悲鳴じみた声をついにあげた。


「無礼者! だれか、だれかいないか!」


 淳皇后が助けを求めるが、侍女や宦官がやってくる気配はない。予想とちがう現状に困惑し、彼女は視線を泳がせた。

 すると、なりゆきを黙って見守っていた葉香が「大声をだしても無駄ですよ」と冷たく言い、淳皇后に説明する。


「このあたりにいる者は全員、睡眠薬をかがせて眠らせました。しばらく起きてはこないでしょう」


 淳皇后の目が恐怖でまるくなった。

 なかなかうごきださない淳皇后にじれ、梅芳は手にした鉄棍棒を淳皇后の首に押し当てて命じる。


「ぐずぐずすれば、この場でその首をへし折ります。はやく、仮氷室にむかいなさい」


 鉄棍棒で首を圧迫された淳皇后は、こくこくとうなずき歩きだした。

 皇后の寝殿をでた梅芳、葉香、淳皇后の三人は、仮氷室へむかい内西路をすすむ。

 淳皇后は夜着のまま、しかも裸足だ。歩く彼女は、そこここで眠りこむ宦官や侍女のすがたを目にした。自分を助ける者がほんとうにいないと知って、彼女は絶望に顔をゆがめる。震える声の淳皇后が、梅芳に質問した。


「孝王妃……いいえ、方士よ。あなたはなにか勘ちがいをしているのではないの? わたしはあなたに恨まれるおぼえはないわ」


 淳皇后の背を鉄棍棒で押しながら、梅芳は冷ややかに答える。


「いいえ、皇后さま。十五年前、あなたは武俊煕に危害をくわえようとしたはずです。そのとき、武俊煕を守るために孝王府へひとりの方士が妖怪退治におもむきました。その方士がわたしの兄弟子。あれ以来、彼は行方知れずになったのです」


 梅芳の話を聞いてあせりを感じたのだろう。淳皇后は視線をさまよわせて、言葉をなくした。

 淳皇后の変化を見て、梅芳は彼女が犯人だとより確信をふかめる。

 その後も三人は黙々と歩きつづけ、ついに仮氷室へ到着した。


「さあ、あなたが柳大師兄の体を安置している場所に着きましたよ」


 葉香が言いはなつ。

 青ざめる淳皇后が仮氷室の建物をじっと見つめた。


 仮氷室の門番は今日もふたりだ。しかし、彼らも眠りこんでいて、淳皇后を助けるのはおろか、侵入者をこばめもしない。

 そのときだった。


「皇后さま? それに、孝王妃さま?」


 突如、梅芳たちの背後で声がする。ハッとして、彼らは声のしたほうを見た。

 すると、桑児そうじの姉が驚いた顔でこちらを見ている。

 深夜に寝宮付きの侍女が内西路にでて来ないだろう。そう判断して、梅芳と葉香は寝宮付きの人間にまでは睡眠薬をつかっていなかったのだ。それに、誰も見てはいないと考え、今は顔を隠してもいなかった。梅芳は計画に甘さがあったと自覚し、内心あせった。

 桑児そうじの姉を見た淳皇后が「おまえ」とつぶやく。そして、ハッとした表情になると、彼女にむかって声をあげた。


薫児くんじ! お前の主人を、げつ淑妃をつれて来なさい!」


 噛みつかんばかりのいきおいで、淳皇后が李薫児に命じる。

 淳皇后の剣幕にだろう。びくりと身を震わせた李薫児は、玥淑妃の寝宮に駆けこんでしまった。


「師兄、追いますか?」


 顔にあせりをにじませ、葉香が梅芳にたずねる。

 しかし、梅芳は「放っておきなさい」と首をふり、妹弟子に答えた。


「予定外の事態にさく時間はない。淳皇后を柳師兄のまえにひざまずかせる……それさえできれば、死んでもかまわないのだから」


 梅芳の言葉に、葉香はしっかりとうなずく。そして、ふたりは淳皇后を強引に仮氷室のなかへつれこんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る