第40話 そばにいてほしい人

「はじめて出会った日から、あなたを忘れた日は一度もない。会うたび、よろこびに胸がはずんだ。そのあなたが、わたしの花嫁として目の前にあらわれた。わたしはきっと、前世でよほどの功徳をつんだにちがいない」


 真剣に語る武俊煕を見つめるうち、古道のある深い森で梅芳に駆けよる武俊煕の笑みを彼は思いだした。われ知らず、胸が高鳴る。


 ――孝王殿下は、本当にわたしを愛しく思ってくれている。だが……


 心にわきあがる幸福感とときめきを苦心しておさえ、梅芳は視線を武俊煕と重ねあう手に落として話しだした。


「人々を救うため、みずから妖怪退治におもむく。煦煦くくたる皇子殿下は前世でもきっと、悪行とは無縁だったのでしょう」


 ――柳師兄も義侠心にあつくて、物事の本質を見ようとする人だった。孝王殿下の申し出をうれしく思うのは、きっと彼の人柄が師兄に似ているからだ。だから……


 武俊煕の手から自分の手をそっとはなし、梅芳は告げる。


「もうしわけない。あなたの申し出は受けいれられません。すべてが解決したら、わたしはここを去ります」


 梅芳は淡々と断った。断りの言葉をつむぐたび、彼の胸はじくじくと痛む。

 すこしの沈黙があり、武俊煕は苦しげに視線をさまよわせた。しかし、彼は食いさがりはせずに「そうか。わかった」とだけ口にし、寝台から立ちあがる。そして、言った。


「では、わたしは書斎で休むよ」


 ――行ってしまう!


 うつむいていた梅芳だったが武俊煕をあおぎ見て、思わず「あの!」と声をかける。

 願いを無下にされたのに、武俊煕は「どうした?」と梅芳にやさしくたずねた。


 ――もうすこし、ここにいて。


 ねがったのは本心だ。そうはいっても、武俊煕の好意を拒絶した梅芳に、それをたのむ資格はない。しかたなく、彼は「なんでもありません」と首をふった。そして「おやすみなさい」と口にし、布団のなかにもぐりこんだ。布団にもぐりこむ梅芳の耳に、武俊煕の声がとどく。


「ゆっくりお休み。柳毅の件は、おそらく後宮にもかかわりがある。もうすこし落ちついてから、どうすべきかをいっしょに考えよう」


 そう言いおいて、武俊煕は夫婦の寝室をあとにした。

 寝室の扉がしまり、武俊煕の足音はゆっくりと遠ざかっていく。


 ――わたしが目覚めるまで、彼はそばにいてくれた。孝王殿下はやさしい人だ。それなのに……


 罪悪感がわきあがり、梅芳は布団のなかで身をちぢめた。


 ――わたしは彼に迷惑をかけてしまう。だけど、この気持ちはとめられない。


 温かさがもどりかけていた梅芳の心に、冷え冷えとした感情がふきこむ。そんな彼は思いを新たにし、怒りに燃えた。


 ――柳師兄にあんな仕打ちをした者を、わたしは決して許さない!


 梅芳は後宮でおこったできごとを思いかえす。


 仮氷室には護衛がいて、だれもがはいれる場所ではなかった。しかも、魂魄がないとはいえ、大人の男を隠していたのだ。できる人間はおのずとかぎられるだろう。


『後宮のなかでは、なんでもわたしの思いのままなのよ』


 考えるうち、淳皇后の言葉が梅芳の頭をよぎる。


 ――淳皇后ならば、仮氷室に人間を隠すのも可能だ。


 淳皇后を疑わしく感じるのと同時だった。曲蘭が言った言葉も、彼は思いだす。


『きっと淳皇后一派の嫌がらせよ!』


 梅芳はこれまでに見聞きした情報を考えあわせた。


 淳皇后と玥淑妃は、それぞれ皇位継承権のある皇子の母だ。淳皇后が玥淑妃と武俊煕の親子をうとましく思っていてもおかしくない。


 そして、梅芳をふくめた武俊煕の花嫁候補たちを襲ったのは、おそらく柳毅だ。ところが、彼の体には魂魄がなく、亡くなっているも同然。そんな彼から呪術の気配がした。魂魄のない柳毅の体を、だれかが呪術であやつっているのはまちがいないだろう。その柳毅は、十五年前に武俊煕を襲った妖怪を追い、先日まですがたを消していた。

 つまり、今も十五年前も、武俊煕に関係した人たちが被害をこうむっているのだ。

 

 ――まちがいない! 怪異さわぎはすべて、あの人につながっている!


 確信した梅芳は、低く怒気をはらんだ声色でつぶやいた。


「淳皇后がわたしから師兄をうばったのだ!」


 ◆


 後宮から逃げだした数日後。

 姪のばいけいが孝王の邸宅に梅芳をたずねてきた。


「おひさしぶりです」


 姪は寝室にはいるなり、寝間着すがたで寝台に腰を掛ける梅芳に丁寧にあいさつした。


 姪とはいえ、本来なら寝室ではなく応接室で応対すべきだろう。ただ、柳毅を失った梅芳は気落ちしていて、着飾って客の相手をできる気分ではなかった。食事も喉をとおらず、茶や白湯以外は口にしていない。それでも多少衰弱しただけなのは、仙道士の修行の賜物だろう。本音を言えば、誰とも顔をあわせたくはない。武俊煕も梅芳の気もちを察しているらしい。宮廷から梅芳を助けだして以来、彼は書斎で寝起きしている。

 しかし、心根のやさしい姪が伯父を身代わりにしたと心苦しく思っているのを、梅芳は知っていた。会わなければ、きっと彼女の心配はつもるばかりだ。そう思い、寝室での対面ではあるが彼はこうして姪とむきあっている。


 伯父が女ではないと知っているからだ。不安げな表情の梅奚は、ちらちらとまわりを警戒した。

 梅芳は「小奚シャオシー。会いにきてくれて、うれしいよ」とほほ笑むと、侍女すがたの妹弟子に目くばせする。

 葉香は梅芳の意図をさっし、給仕をしようと控える侍女たちに寝室からでるよう言った。

 まもなく、寝室のなかにいるのは梅芳、梅奚、葉香の三人だけになる。

 気をつかう必要がなくなり、表情をゆるめた梅奚が伯父に質問した。

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