第38話 偽夫と妹弟子の対立

「こ、孝王殿下!」


 手にしたたいまつで武俊煕の顔を照らし、警備兵は驚きの声をあげる。

 武俊煕は「わたしの顔を知っていたか」と言い、警備兵にほほ笑みかけた。

 警備兵はしどろもどろになって「し、失礼しました」と謝罪すると、おずおずとたずねる。


「殿下。こんな夜ふけに、なにをされているのですか?」


 問われた武俊煕はほほ笑みをふかくした。たいまつの赤い光に照らされた彼の容貌は、明るい場所で見るのとはちがった趣がある。

 同性であるはずの警備兵も、武俊煕の笑みに見とれているらしい。彼を見るうち、うっとりとした表情になった。


「夜の宮廷のうつくしさを話したら、妻が見たいと言いだしてね。夫婦で散策していたのだが、夜風にあたりすぎたらしい。妻は気分を悪くしてしまった。もう帰ろうと思っていたところだ」


 普段なら話す機会もない高貴な麗人を目前にし、夢心地なのかもしれない。警備兵は「そうですか」とあいづちこそしたが、放心状態だ。

 心ここにあらずの警備兵に、武俊煕が親しげにたずねた。


「もう行ってもいいだろうか? はやく妻をつれ帰りたいのだ。まさか、わたしを不審者とはうたがわないだろうね」


 武俊煕にたずねられ、警備兵はわれにかえる。


「も、もちろんです! 失礼いたしました」


 警備兵はあわてて謝罪すると、不審者をさがすのだろう。そそくさと去っていった。

 去っていく警備兵をしばらく目で追ったあと、武俊煕は背後を見る。そして、梅芳にたずねた。


「警備兵の言っていた不審者とは、妻殿だね。いったい、後宮でなにをしていた? なぜ泣いているんだ?」


 矢つぎばやに武俊煕が質問する。

 警備兵から隠れるため、梅芳は武俊煕の背にしがみついていた。彼の背に顔を隠したまま、彼は「話したくない」と首をふる。

 武俊煕はため息をこぼし「そうはいかない」と口にすると、つづけた。


「後宮へ許可なく侵入するのは重罪だ。これでも、わたしは危険をおかし、ここにいるんだよ」


 罪を盾にして、真実を話させたいのだろう。武俊煕が強い口ぶりで言う。

 すると「では」と言い、投げやりに梅芳が応じた。


「わたしを罪人として告発すればいい。死罪なんて、恐ろしくはない。あなたが告発するなら、罪に問われるのはわたしだけでしょう?」


 梅芳の自暴自棄な言動に困惑し、武俊煕は「ばかを言わないでくれ」となだめる。彼は梅芳を自分から引きはなし、むかいあわせになった。

 梅芳は「馬鹿じゃない。本気だ」と主張し、また大粒の涙をぽろぽろとこぼしだす。


「妻殿? おねがいだから、泣かないで」


 対処に困り、おろおろと梅芳に懇願する武俊煕の背後で「ちょっと!」と威嚇じみた声がした。

 武俊煕はびくりとし、おそるおそるふりかえる。そして「おまえか」と、うんざり顔で言った。


「師兄を泣かせたんですか?」


 武俊煕の視線のさきには、腕ぐみして武俊煕をにらみつける葉香のすがたがある。

 武俊煕は、疲れたため息をついた。しかし、葉香の登場に驚いてはいない。彼は地面においていた布づつみを拾いあげ、その布づつみを葉香に投げわたした。

 うけとりはしたがあやしんで、葉香は布づつみの中身をそっとのぞき見る。

 葉香が布づつみを確認するなか。梅芳の肩を抱きよせて、武俊煕は無実を主張した。


「わたしが泣かせたわけではない。むしろ、なぜこんな状態なのか教えてほしいよ」


 ついに布づつみをといた葉香は、苦々しい顔をして侍女の装束を取りだす。着がえろとの意図とわかったが、従いたくもないし、準備のよさに驚きもしたようだ。

 眉をよせる葉香にたいして、武俊煕は言葉をつづけた。


「宮廷じゅうが警戒態勢だ。どんなに武術にたけていて身軽でも、逃げきるのは難しいぞ。無事に逃げたいなら着がえろ」


 武俊煕の話は正しいと感じたのだろう。しぶしぶ木陰にはいると、葉香は侍女すがたに着がえる。

 葉香の準備を待つあいだ、武俊煕は梅芳の様子を観察した。

 涙をながしつづける梅芳の足は、ふらついていてあぶなっかしい。梅芳が歩けないと判断した武俊煕は、彼をあらためて抱きかかえた。

 気力のない梅芳はされるがままだ。


「殿下、師兄をはなしてください!」


 侍女すがたに着がえおわった葉香が文句を言う。


「妻殿は今、歩ける状態じゃない。女のおまえが抱きかかえるのも目立つ。こうして宮廷をはなれるのが最善の手なのだよ」


 またも正論を言われ、葉香は「ぐっ」とうなるしかできなかった。

 いきどおる葉香に、武俊煕が「ついてきなさい。急げ」とするどく言いつけ、歩きだす。

 苦虫をかみつぶした顔の葉香も、武俊煕のあとにつづいて歩きだした。

 武俊煕が歩くのにあわせ、梅芳も彼の腕のなかでゆれる。それは、居心地の悪いゆれ方ではなかった。むしろ力強い腕に抱きかかえてもらう今の状態には、心強ささえ感じる。


 ――あたたかい。


 歩く振動と同時に、武俊煕の体温がつたわってきた。悲しくはあるが、彼は徐々に落ちつきをとりもどす。涙も自然ととまり、まわりに気をくばる余裕がでた梅芳は、武俊煕の背後につきしたがう葉香を見た。


 ――葉師妹、無事だったんだな。


「よかった」


 葉香の無事なすがたを見て、思わず梅芳はつぶやく。

 梅芳の声に気づき、武俊煕は腕のなかの彼にむかって語りかけた。


「疲れただろう? あとはわたしに任せて、すこし眠りなさい」


 なぜかはわからない。しかし、武俊煕の言葉に大きな安心感を梅芳はおぼえる。武俊煕の言うとおりで、梅芳は精神的にも体力的にも疲れきっていた。彼はひとつうなずくと、大人しく目をとじた。そして、泥のように眠りこんでしまう。


「にゃあ」


 眠りにつく直前。梅芳は、遠くで猫が鳴く声を耳にした気がした。

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