第37話 逃げたさきで待っていた者

 柳毅から目をはなせずにいる兄弟子を引きずり、葉香はなんとか隠し部屋のそとにでる。そして、石壁の隠し扉を力いっぱい押し、隠し部屋を来たときとおなじに閉じた。それから、たいまつを床に投げて、火をふみ消す。

 氷室のなかは、まっ暗になった。

 葉香は階段わきの壁ぎわに梅芳を移動させ、自分も身をひそめる。階段のうえで、ぎぎぎと音がした。音のおかげで仮氷室の扉がひらいたとわかる。


「だれかに気絶させられただって? 寝ぼけてるんじゃないのか?」


 宦官だろう。階段うえから、男にしては高い声色の話し声が聞こえてきた。その声に「ほんとうだよ。なあ?」とか「ああ」とか応じる困惑した声もする。宦官たちの会話はつづいた。


「でも、ここには氷と食べ物がすこしあるだけ。あとは、ぬすむ価値もないガラクタしかない。わざわざ盗人がはいる意味もないだろう」


「そうだけど」


 ありがたい話だ。宦官たちは仮氷室を重要施設だとは考えていないらしい。声や足音から半信半疑で気のりしない様子がうかがえる。


「わたしが門番たちをひきつけます。その隙に師兄は逃げてください」


 葉香が兄弟子に指示した。

 梅芳は「だめだ」と、妹弟子の提案を拒否する。

 しかし、兄弟子に拒否されても葉香は考えをかえなかった。彼女は「言ったでしょう?」と口にし、自分が囮になる理由を語る。


「師兄が捕まると困る人がたくさんいるんです。捕まるなら、わたしのほうがましです」


 言いきった葉香だったが、ひさびさに明るい声をだすと「もちろん、捕まる気はありませんけどね」とも言った。

 門番たちはたいまつを持っているのだろう。階段付近がにわかに明るくなる。

 同時に葉香が門番たちにとびかかった。彼女はまず門番たちのもつたいまつを蹴りとばす。するとたいまつは部屋の最奥までとばされ、梅芳たちのいるあたりはうす暗くなった。


「行ってください!」


 門番たちと格闘しながら、葉香が梅芳にむかって叫ぶ。

 とまどいつつも、梅芳は階段を駆けのぼり建物のそとにでた。幸運にも、そとに人影はない。彼は気力のとぼしい体で、もと来た道を必死に駆けもどった。

 柳毅のこと、葉香のこと、武俊煕のこと。考えたい事柄はたくさんある。しかし、柳毅の死の衝撃があまりにも大きすぎた。彼はどんな考えもまとめきれない。なにも考えられないのに、自然と涙があふれだし、彼の視界をうばう。自分が捕まるわけにはいかない。それだけは理解でき、彼は走りつづける。走りつづけるしかできなかった。

 涙で息がしずらい。後宮の外壁にたどりついたときには、梅芳ははあはあと肩で息をしていた。


 ――とにかく、そとに出なくては。


 満身創痍ではあったが最後の力をふりしぼった梅芳は、後宮と外界とをへだてる塀のうえにはいあがった。しかし、それが精神的にも体力的にも彼の限界。彼は塀のうえでへたりこんでしまう。

 そのときだ。


「妻殿」


 自分を呼ぶ男の声を耳にし、梅芳はどきりとした。声は後宮の外側から聞こえ、彼はおそるおそる声のしたほうを見る。

 後宮の外まわりの道には、一定間隔ごとにたいまつで明りとりがされていた。そうは言っても夜道で、視界がいいとは言えない。多少視線をさまよわせ、梅芳は最終的に自分の真下に目をむけた。

 すると、後宮のそとの道から梅芳を見あげる武俊煕のすがたが目にはいる。彼は手に布づつみをもっていた。

 梅芳は涙声で「孝王殿下」とつぶやく。同時に、悲しみしかなかった彼の心が小さくうずいた。

 自分を見おろす梅芳の泣き顔を見た武俊煕は、目をまるくし、たずねる。


「その顔……いったい、なにがあったんだ?」


 しかし、梅芳と武俊煕は話していられなかった。


「くせ者だ! 不審者を見つけしだい捕らえよ!」


 警戒の声を耳にした武俊煕は一瞬、眉をよせる。彼は「まずいな」とつぶやくと、あたりをさっと見まわした。それから手にしていた布づつみを地面におくと、腕をひろげて梅芳に言う。


「とびおりろ! だいじょうぶ、受けとめるから」


 悲しみが深すぎるせいだろうか。そうすべきとわかっているのに梅芳の体はうごかなかった。

 うごけずにいる梅芳に、武俊煕は「おねがいだから」とやさしく懇願する。

 その瞬間。武俊煕を見る梅芳の目がわずかに見ひらかれた。


 ――わたしがかたくなな態度をとると、柳師兄もよくこんな表情をしていたっけ。


 ふたりの見た目はまったく似ていない。そうであるのに梅芳には武俊煕に柳毅がだぶって見えた。その瞬間。自分にむかって両手をひろげる男の腕のなかに梅芳はとびこむ。

 落下してくる梅芳を武俊煕は言葉どおりにしっかりと受けとめた。そして、丁寧な動作で彼を立たせると、自分の着ていた上着をすばやく彼に着せる。

 それとほぼ同時だ。


「そこにいるのは、だれだ!」


 言いながら、たいまつをもった警備兵が走ってきた。

 武俊煕は梅芳を抱きよせ、隠す。


「なにごとだ」


 普段どおりの落ちついた態度で、武俊煕が警備兵にたずねた。


「後宮へ忍びこんだ不審者をさがしている。おまえたちは夜ふけになにをしている。答えられよ!」


 言葉や口調から警備兵がうたがいをもっているとわかる。警備兵は手にしたたいまつで梅芳を照らしだそうとした。

 しかし、武俊煕が梅芳を自分と後宮の塀の間に押しこみ、さらに隠す。

 梅芳をかばいながらも武俊煕の態度はかわらなかった。警備兵にむかい飄々と「後宮へ? なんとおそれ知らずな」と応じてみせる。

 重々しく「そうだ」とうなずいた警備兵は「とにかくおまえとおまえのつれの身分を……」と言いかけ、目をまるくした。

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