第33話 猫がはいりこんだ場所
「玥伯母さまの寝宮にお邪魔して、帰るところだったの。そうしたら、襲われて……侍女たちとも、はぐれてしまって……」
おそろしさで、混乱しているのかもしれない。曲蘭の話はとぎれとぎれだ。
曲蘭の話に、葉香はうんざりして眉をよせると「また、孝王殿下に嫁ぎたいと、淑妃さまにたのんでいたのでしょうか?」と、梅芳に話しかけた。
曲蘭の悪口を言う葉香の声は大きかった。曲蘭の耳にもとどいたようで、彼女は葉香をじろりとにらんだ。
曲蘭と葉香のやりとりを見て、武俊煕は困り顔でため息をこぼす。しかし、気を取りなおして言った。
「とにかく襲われたばかりだ。ひとりにはできない。暇乞いをしたばかりではあるのだろうが、いっしょに母上の寝宮にいこう」
葉香をにらむのをやめ、武俊煕を見ると曲蘭は従兄にすなおにうなずいてみせる。
曲蘭の同意をえた武俊煕は、梅芳を見て「妻殿。それでいいかな?」と彼に意向をたずねた。
しかし、梅芳に武俊煕の声はとどいていなかった。彼はまだ、ぼうぜんと立ちすくんでいる。
不審がった葉香が「だいじょうぶですか?」と、梅芳の耳もとで呼びかけた。
ハッとわれにかえった梅芳は、ようやく「あ、ああ」と動揺しながらも応じる。葉香にむきなおり、彼は「あの男……」と言いかけた。しかし、つぎの言葉を口にするのをためらい、結局は口をつぐむ。そして、ほんのすこし考えをめぐらせた梅芳は、あらためて口をひらいた。
「曲のご令嬢もつれて、淑妃さまの寝宮に行くのですね」
念押しをよそおってごまかした彼は「わかりました」とうなずき、武俊煕たちとともに玥淑妃の寝宮にむかって歩きだす。
すると突然、しげみがざわりとうごいた。そこは、さきほど黒装束の男がとびこんだ場所だ。
いくぶん緊張しながら、梅芳たちはしげみをじっと見つめる。
すると、黒装束の男ではなく、淳皇后の飼い猫がとびでてきた。猫はちらりと梅芳たちに視線をよこしたが、すぐに進行方向をむくと、彼らの前をとことこと歩きだす。偶然だろうか。猫は梅芳たちの目的地の方向へすすんだ。
猫に先導されて庭園を歩き、四人は玥淑妃の寝宮付近の出口にちかづく。そのうちに既視感のある光景を目にし、彼らは思わず足をとめた。
――あれは淳皇后。それに……
お付きの侍女たちをつれた淳皇后の視線のさきを追うと、ひとりの侍女がいた。その侍女は以前、淳皇后に注意をうけていた李桑児の姉だ。
また淳皇后に小言をもらったのかもしれない。李桑児の姉は身をちぢめ、玥淑妃の寝宮にはいっていく。
ところで、淳皇后のすがたを見て梅芳たちは足をとめたが、猫はちがった。猫はどんどんと淳皇后にちかづき、彼女の腕のなかにとびこんだ。驚きもせず、淳皇后は猫の背をやさしくなでながら歩きだす。侍女たちも彼女のあとにつづいた。
歩きだした直後、淳皇后がこほこほと咳をする。
――また咳。風邪が長引いているのだろうか?
梅芳がいぶかしんだ直後だった。飼い主の咳に驚いたのだろう。淳皇后の腕にとびこんだばかりなのに、その腕から猫がとびでてしまう。そして、玥淑妃の寝宮の真向かいにあたる塀にとびのり、塀のむこうの敷地にはいっていった。
飼い猫が気まぐれに行動しても気にならないようで、淳皇后はそのまま歩き去る。
「あの猫、どこにでもはいっていくんですね。猫がはいったのは、どなたかの寝宮でしょうか?」
はなれていく淳皇后の背中を見おくりながら、
すると、ようやく落ちついたらしい曲蘭が「あそこは寝宮ではないわ」と、葉香の推測を否定する。彼女は言葉をつづけた。
「日あたりが悪くて、夏でも肌寒い場所なの。だから、仮氷室につかわれてる。昔は冷宮だったようで、だれも好き好んでは近よりたがらない場所なのよ」
言いおえた曲蘭は、武俊煕の袖をひき「あんな気味の悪い場所、今は見たくもない。はやく玥伯母さまのところに行きましょう」と、青い顔でせがんだ。
気が弱っている曲蘭の言いぶんをむげにはできないのだろう。武俊煕は曲蘭にしたがい、玥淑妃の寝宮にむかって歩きだした。
しかし、梅芳はうごきださない。彼は猫の消えた塀を見つめて、つぶやく。
「氷室」
『氷室で見つけました』
口にすると同時に、孝王府で葉香が翡翠の飾り玉を見つけたのを、梅芳は思いだした。
――孝王府にも氷室があった。しかも、氷室を不審に思ったのは黒装束の男に襲われたあとだ。あまりにも状況が似すぎていないか? それに、あの黒装束の男の顔……
黒装束の男の顔を思いだした途端。心に愛おしさ、喜び、疑念などさまざまな感情がわきあがり、梅芳は心のうちであらためて動揺する。彼は思わず自分自身を抱きしめ、着物をきつくにぎった。
うごきださない梅芳を奇妙に感じたのだろう。武俊煕が「妻殿、行こう」と声をかけてくる。
葉香も心配して梅芳を見つめていた。
まわりの反応から、また物思いにふけってしまったのだと梅芳は気づく。ただ、今はだれにも自分の心のうちを語るべきではないと彼は考えた。よって、何事もない態度を努めてよそおった梅芳は「ええ」と返事をし、しっかりとした足どりで歩きだす。
――後宮のなかで言うべきではない。黒装束の男が見知った人物だったなどと……
とつぜん気丈にふるまいだした梅芳を見つめ、武俊煕はそっと眉をよせた。
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