第32話 追う者と逃げる者

 返事を期待してだろう。武俊煕が「妻殿?」と梅芳に呼びかけた。

 しかし、梅芳は涙をこらえるだけで精いっぱい。自分のみじめさに打ちのめされていて、武俊煕の質問に答えられない。


 ――もう、こんな話はやめてくれ!


 心のうちで叫んだ梅芳は、ようやく「どうして」と口をひらきかけた。


 ――どうして、そんな話をするんだ?


 しかし、言いたかった言葉を梅芳が口にできない事態がおこる。


「きゃあ!」


 ちかくで女の甲高い悲鳴が聞こえたのだ。

 梅芳、武俊煕、葉香の三人は足をとめ、顔を見あわせた。そして、申しあわせたわけでもないが、悲鳴が聞こえたほうへ全員が駆けだす。


 悲鳴は庭園から聞こえてきたようだ。梅芳たちは内西路からはずれ、庭園のなかに足をふみいれた。庭園のなかを走るうち、こちらにむかって走ってくる人のすがたが見えた。身につけている衣装と体つき、身のこなしから女だとわかる。そのうちに顔も視認できるようになった。


「小蘭!」


 武俊煕がこちらに走ってくる従妹に呼びかける。


「お従兄さま!」


 いきおいそのままに走りより、曲蘭が武俊煕の胸にとびこんだ。

 とつぜんに曲蘭が抱きついたせいで、武俊煕は曲蘭を抱えこむかたちで受けとめるしかない。その様子はまるで、情熱的に抱きあう恋人同士のようだ。

 明らかな不可抗力。もちろん梅芳にもわかっていた。ところが、抱きあう武俊煕と曲蘭を見た梅芳の胸はずきりと痛み、彼は自分で自分にひどく驚く。


 ――わたしは、どうかしている。ついさっき、柳師兄の話をして動揺したくせに、冷たくあしらったばかりの偽の夫に嫉妬しているのか?


 自分の気もちに梅芳は戸惑ったが、狼狽してばかりもいられない。なぜなら曲蘭の駆けてきた方角から黒装束の人物が走ってきたからだ。顔は装束とおなじ黒の手巾でおおい隠しているが、体格などから男とわかった。


 ――あの格好……婚礼の日に孝王府で襲ってきたのと、おなじ人物だろうか?


 梅芳の直感は、今まで彼を襲ってきたのと同一人物であると言っている。しかし、こんなところにいるとは信じられず、梅芳は自分の勘をうたがった。

 梅芳が黒装束の男に注目していると、兄弟子を守るつもりなのだろう。侍女すがたの葉香が彼のまえにとびだし、体術のかまえをとる。もちろんだが、黒装束との戦闘を意識してなのはまちがいなかった。


 葉香が戦闘態勢をとったのはただしい。梅芳はちらりと武俊煕に目をむける。

 自分の胸に顔をうずめて震える曲蘭を、武俊煕は困り顔でなだめていた。

 抱きあう武俊煕と曲蘭を再度見た梅芳は、やはりいい気はしなかった。そうはいっても今の曲蘭には、梅芳や黒装束の男はまったく見えていないとも、彼には判断できる。


 ――曲蘭を気にする必要はない。


 懐に隠しもっていた呪詛やぶりの御符を、梅芳はさっと取りだした。


 ――婚礼の夜にであった怪異は、呪詛やぶりの御符にふれて青い炎をあげた。今回もこの御符が効くなら、目のまえの人物は以前に会ったのと同一人物にちがいない!


 黒装束の男は、しっかりとした足どりで梅芳たちにむかってくる。

 男との距離をはかりながら、梅芳は小声で呪文を唱えた。唱えおわると同時に、彼は呪詛やぶりの御符を男に投げつける。

 男の顔めがけて、御符がとんだ。

 男はひらりと御符をさけた。しかし、わずかながら接触したらしい。男の横をすり抜けた瞬間、御符は青い炎をあげ、男の顔を隠す布に飛び火した。火を消そうとしたのだろう。黒装束の男は顔のあたりを手ではらう。すると、顔を隠していた布がはがれ落ちた。男の顔があらわになる。

 目鼻立ちははっきりし、整った顔立ちだ。目尻があがった切れ長の目は涼しげ。濃い眉には清潔感があり、雄々しい美しさのある男だった。


「え?」


 黒装束の男の顔を見た梅芳は驚きのあまりぼうぜんとし、うごきをとめてしまう。


「どうしました?」


 梅芳の異変に気づき、葉香が疑問の声をあげた。

 そのときだ。


「あやしいやつめ! 何者だ!」


 警備の宦官だろう。だれかが警戒の声をあげる。途端に周囲がさわがしくなった。

 さわぎに気づいた黒装束の男は、梅芳たちにちかづく足をとめる。逃げると決めたのだろう。男は、庭木のしげみにとびこむと走り去った。

 逃げだす黒装束の男を見た梅芳は、はっとする。


「待って!」


 梅芳は男を叫んで呼びとめた。

 当然だが、梅芳のねがいに黒装束の男は応えない。男はそのまま走り去り、すがたを消してしまった。


 ――今の男……


 見た光景が信じられない梅芳は、黒装束の男が消えた庭木の茂みを見つめ、立ちつくす。


「孝王殿下。こちらに賊が来ませんでしたか?」


 血相をかえた宦官たちが走ってきて、武俊煕にたずねた。

 武俊煕は「ああ」と応じる。彼は自分に抱きついたままの曲蘭をあらためて見て、宦官たちに状況を説明した。


「曲家の令嬢が不審な者に襲われたのだ」


 そこまで言うと、梅芳が見つめる庭木のしげみをゆびさし、武俊煕は「しげみの奥に逃げていった」と告げる。


 宦官たちはおたがいに顔を見あわせ、うなずきあった。そして「追います!」と言い、黒装束の男が走り去った方角にむかい、駆けだす。

 宦官たちを無言で見おくった武俊煕は、曲蘭の肩を押して彼女を自分からはなした。曲蘭の青い顔をのぞきこみ、彼はたずねる。


「小蘭、だいじょうぶか? どうして後宮へ?」


 すると、武俊煕の着物をきつくにぎったまま、曲蘭は震える声で答えた。

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