第18話 縁がための杯

 ――床術を教えろだと? 冗談じゃない!


 頭から湯気でもだしかねない様子で、梅芳は怒りをあらわにする。からかいをやめない武俊煕に憤慨した梅芳は「寝言は寝て言ってください!」と顔を赤くして再度怒鳴った。

 梅芳をやりこめて溜飲が下がったのかもしれない。武俊煕は笑顔をとりもどすと、つぶやく。


「わたしが皇族とわかっても、あなたは以前と態度をかえないのだね」


 小さな声だったが、武俊煕の言葉は梅芳の耳にとどいた。まだ怒りがおさまらない彼は「ふん」と鼻を鳴らし、腕をくんで胸をそらすと答える。


「この世には本来、貴賤のわけへだてはないと師父から教わっています。だから、殿下の身分が高いからと言って過度にあがめたりはしません」


 梅芳はきっぱりと言いきった。

 すると、丸机に両手をついたままの武俊煕が「色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき」とつぶやく。そして、あらためて梅芳に目をむけると「世の中はくうだと?」と問いかけた。

 問答をするつもりのない梅芳は、適当に「似た意味なのかもしれない」と応じ、冷たい口ぶりで言いはなった。


「あなたみたいに身分のある人には不都合でしょうがね」


 怒っていたせいだ。意地の悪い言い方をした自覚が梅芳にはある。しかし、武俊煕は気にせずに言った。


「そうでもないさ。むしろ面白く感じている」


 言って、武俊煕は楽しそうに「あはは」とまた笑う。

 皮肉ったつもりが軽く笑いとばされ、梅芳のほうはまったく面白くなかった。いらだった彼は、武俊煕の余裕のある態度をくずしたくてしかたなくなる。よって、彼は「それに」とつづけ、必要のない話を口ばしってしまった。


「わたしは、あなたよりもずっと仁徳のある素晴らしい人を知っています。だから、師父の言葉がどうあれ、あなたを特別だなどとは思いませんよ」


 梅芳の言葉に、武俊煕はまたも笑いをひっこめた。ただ、すぐに笑みをとりもどすと「へえ。それは、どなただろう?」と目をほそめて質問する。


 ――まずい。いきおいにまかせて言ってしまったが、師兄の話はすべきではなかった。


 もちろん梅芳の言う『仁徳のある素晴らしい人』とはりゅうだ。しかし、柳毅の手がかりを探す件は梅芳の独断。武俊煕に話すつもりはなかった。

 よって、梅芳は武俊煕をはぐらかすと決める。


「聞いたって、しかたないでしょう。本物の夫婦になるわけでもあるまいし」


 あせりを隠して言った梅芳は、武俊煕からぷいと顔をそらした。

 武俊煕は「そうでもないさ」と応じ、丸机のうえに視線を落とす。

 机のうえには酒のはいったつぼと、ふたつにわった瓢箪を赤いひもでむすんださかずきがおかれていた。

 ふたつの杯に、武俊煕はそれぞれ酒をそそいだ。そして、酒のはいった杯を両手に、梅芳のとなりに座りなおす。彼は、片方の杯を梅芳にさしだして話をつづけた。


「どうせ、今夜はここから出られない。時間をもてあましてるんだ。その素晴らしい人の話を酒の肴にして、長い夜をやりすごそうじゃないか。ほら、喉がかわいてないか?」


 ――これは、縁がための杯じゃないか……


 武俊煕は、飲み物をすすめているだけだ。しかし、さしだされたのは夫婦のちぎりをかわす杯。梅芳は受けとるのをためらってしまう。そうはいっても、武俊煕の言うとおりで喉はかわいていて、彼の口は酒をほしがっていた。迷う梅芳だったが、ふと昼間に皇帝が言った言葉が頭をよぎる。


『婚儀など、ただの通過儀礼だ』


 ――そのとおりだ。それに婚儀も終えてしまったんだ。気にするのが今さらすぎる。


 ふかく考える必要もないと、梅芳はわりきった。彼は武俊煕から酒のはいった杯をうけとると口をつける。武俊煕も梅芳にあわせ、もう片ほうの杯に口をつけた。

 ふたりが酒をくみかわした直後だ。

 酒のせいではなく、梅芳の背をぞくりと悪寒がはしる。彼はすばやく立ちあがり、懐から隠しもっていた方位磁石をとりだした。見ると、方位針があらぬ方向をむいている。

 梅芳の変化に驚いた武俊煕も「どうした?」とたずね、腰をうかした。


 ――この感覚、おぼえがある。


「なにか来ます。孝王殿下、物陰に隠れて」


 不穏な既視感から、梅芳は武俊煕に注意をうながす。

 部屋の扉に意識をむけながら、梅芳は武俊煕のまえにすすみでた。

 武俊煕は「隠れる?」と不審がったが、すぐに気づいたのだろう。彼は「もしかして、例の妖怪が」とつぶやいて、扉に注意をむける。

 妖怪とはかぎらないと思ったが、今は意見を戦わせる場面ではなかった。梅芳はあえて聞こえないふりをする。

 そうこうするうち、扉にはめこまれた曇りガラスに、すっと影がさした。


 ――また影。やはり実態がある。


 部屋のそとにいる影の正体をさぐり見る梅芳は、壁にたてかけていた鉄こん棒をさっと手にする。直後、がちゃりと金属がこすれあう音が聞こえた。音のしたほうを盗み見ると、腰の鞘から剣をぬき、戦闘態勢をとる武俊煕のすがたが彼の目にはいる。隠れるよう指示したが、武俊煕は梅芳にしたがう気がないらしい。

 助言が意味をなさず、梅芳は小さく首をふった。ただ、それ以上忠告する気にもなれない。しかたなく気もちをきりかえ、彼は扉に意識を集中しなおした。

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