第17話 既成事実

「わたしは姓は梅、名は芳。梅家の家長、梅靖の兄です」


 王族への礼儀をつくしたのはここまでだ。梅芳は苦笑いし、あらためて武俊煕に話しかけた。


「おかしな縁でもできたのでしょうか? 孝王殿下、あなたも災難ですね。初めて娶るのが顔なじみの、しかも年上の男とは」


 皇族を敬えと言われれば意向にあわせなくもないが、武俊煕は何度も顔をあわせてきた人物だ。しかも梅芳のほうが年長者。今さら態度をかえるのも妙な気がした。梅芳は、これまでどおりに接すればいいと考えた。話し方こそ皇族への礼儀を忘れなかったが、彼は軽口をたたいて笑う。

 梅芳の冗談に、俊煕しゅんきは笑顔をひっこめた。彼は真面目な表情をして「わたしの考えは以前に会ったときとかわらない」と首をふり、さらに言う。


「女だろうと男だろうと、ましてや年齢など関係ない。あなたは、神仙かと見まがうほどに美しい。こんな美人を王妃にむかえて、わたしはこの上もなく幸運な男だ」


 言いながら、武俊煕は梅芳の顔に手をちかづけた。

 思いがけない武俊煕のきりかえしに、梅芳の心臓はどきりと跳ねる。彼は武俊煕を見つめたまま、しばし呆然とした。

 意表をつかれて動けずにいる梅芳の形のいい薄い唇を、骨ばった細く長い指で武俊煕が優しくなぞる。

 ふいに、しかも丁寧に唇にふれられ、呆けていた梅芳は飛びあがらんばかりに驚いた。彼は「なにをするんです!」と思わず声をあらげると、唇にふれる武俊煕の手をさっと払いのける。

 梅芳が怒鳴ったのに、武俊煕は余裕のある笑みだ。梅芳に叩かれた手を自分の口元によせ、今度は自分自身の唇をすっとなぞった。すると、武俊煕の唇が朱色に染まり、あどけなさをのこす彼の顔が一気に大人っぽい印象にかわる。

 武俊煕の唇を紅く染めたのは、もちろん花嫁すがたの梅芳の口紅だ。あまりのできごとに、彼は思わず武俊煕の紅い唇をまじまじと見てしまう。しかし、つぎの瞬間には大いにあせった。


 ――まるで口づけでもかわしたみたいだ!


 羞恥心と居たたまれなさで、梅芳の心はいっぱいになる。思わず武俊煕から視線をそらした彼は、緊張した声色で忠告した。


「く、唇にわたしの口紅がついています。はやく拭ってください。だれかに見られれば、きっと誤解されてしまう……」


 梅芳の言いぶんに、武俊煕は面くらった顔をする。そして、ぷっとふきだすと笑いをこらえながら立ちあがり、部屋の中央にある丸机にちかづいた。

 冗談など言っていないのに笑われ、梅芳は困惑する。彼は武俊煕に視線だけむけて「なぜ笑うんです? おかしいですか?」と質問をたたみかけた。

 すると、武俊煕のほうは梅芳をじっと見つめて「おかしいさ」と口にし、彼に答えて言った。


「わたしたちは、偽とはいえ夫婦になったんだ。わたしの唇をあなたの口紅が染めていれば、家人たちは新婚夫婦が無事に初夜をむかえたと安心するはず。誤解してもらわないと、むしろ困るじゃないか」


 ――なるほど、一理ある。


 武俊煕の言いぶんに納得し、梅芳はそむけていた顔をあげる。ただ、過剰に意識してしまった自覚があり、彼は恥ずかしさで武俊煕をまともに見れなかった。

 伏し目がちな梅芳をふくみのある笑顔で探り見て、武俊煕は丸机に両手をおく。彼が体重をかけたので、木製の机がぎいときしんだ。意味ありげな目を梅芳にむけながら「それとも」と口にすると、彼は告げる。


「あなたさえ嫌でなければ、偽りではなく本当に夫婦の契りをかわそうか? そのほうが偽の夫婦関係に現実味がでるだろう」


 武俊煕の驚くべき提案に目をまるくし、梅芳は気色ばんで「ばかじゃないですか? 男同士ですよ?」と怒鳴った。

 途端、武俊煕は堪えかねたと言わんばかりに「あはは」と声をあげて笑いだす。

 腹をかかえて笑いつづける武俊煕のすがたを見て、梅芳は自分がからかわれたのだとすぐに気づいた。彼の動揺は怒りにかわり、反撃せずにはいられなくなる。


「男同士の契り方も知らないでしょうに。よくも、そんな冗談が言えますね!」


 あざけり笑いを武俊煕にむけ、梅芳は嫌味を言った。

 ところが、武俊煕は怒る様子もなく「知っているとも」と応じ、話しだす。


「いつ知ったのかも覚えていないし、試した経験もないが知識としては知っている。あなたこそ、わかっているのか?」


「!」


 思わぬ武俊煕の切りかえしに青くなったり赤くなったり、動揺した梅芳は黙りこんでしまう。ただ、黙ったままでは自分の負けだとも感じ、彼は苦心して口をひらいた。


「もちろん、わかっていますとも。方士のなかには床術を修練につかう者もいますからね」


 平静をよそおい、梅芳は澄まして答える。彼の口ぶりは、彼自身に床術の経験があるかのようだ。ところが、実際はちがった。同性の柳毅に恋慕の情を抱いていたため、もちろん男同士の契りには興味がある。ただ彼は、結婚しようとする想い人に愛の告白すらできない臆病者。男どころか女とも契った経験のない、知識どまりの人間なのだ。


 虚勢をはる梅芳を目にし、負けたと感じたのだろうか。笑顔をひっこめた彼は抑揚のない声で「そんな修練もあるのだな」と相づちをかえすと、言う。


「あなたがここにいる間に、その床術とやらをご教授願えないだろうか?」

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