第3話 失われた師兄
石づくりの舞台から駆けおりた柳毅は、闘技場の脇にある樹木にちかづき、果実をひとつとると梅芳のもとに急いで駆けもどった。
兄弟子の手のなかの果実を見て、梅芳は「すもも?」と疑問の声をあげる。
おだやかな声で「ああ」と応じると、やけどがある梅芳の手の甲に、柳毅は果実を押しつけた。
「やけどを冷やすなら、卵では?」
梅芳たちの暮らす大倫国では、やけどに卵をあて冷やすのが慣習だ。治療方針にこだわった
「そんなの迷信だよ。冷えれば、なんでもいいじゃないか」
梅芳は「でも」と、口をとがらせる。
やけどにすももを当てたまま、柳毅は笑みをふかくして言った。
「ほしがれば卵がすぐに出てくるなんて、上流階級だけだよ。いつまでも、師弟はお坊ちゃん育ちがぬけないね」
梅芳が甘やかされて育ったから、単に『お坊ちゃん育ち』と柳毅は言っているのではない。じつのところ、彼は本当に貴族の公子として幼少期をすごしたため、一般的な社会通念がつうじないところがあるのだ。
「……」
――わたしをわがままな弟だとでも思って、あきれているんだ。
子供あつかいに憤慨した梅芳はそっぽをむき、だまりこんだ。
弟弟子が不機嫌になったと気づいたらしい。背の高い柳毅は腰を曲げ、梅芳の顔をのぞきこむと「
「やけどをさせて悪かった。だから、そんなに怒らないで」
許しをこいながら、柳毅は梅芳の着物の袖をちょんちょんとひく。
はたから見れば、大人の男の行動にしては軟弱だったが、梅芳の機嫌には効果があった。柳毅のしぐさをちらりと見て、彼は表情をゆるめる。
「師兄。その機嫌のとり方は、ずるいですよ」
怒り顔をつくりたいが、梅芳の口角は自然とあがってしまう。
弟弟子の機嫌がよくなったとわかり、柳毅はいたずらっぽく笑った。
梅芳と柳毅のつきあいは、仙道士になるべく弟子入りした子供時代からだ。よって、梅芳の幼なじみともいえる柳毅は、彼の機嫌のとり方を心得ている。
もちろん、柳毅のしぐさが計算高いふるまいだと梅芳もわかっていた。しかし裏をかえせば、梅芳をよく理解しているからこその行動とも言える。よって、彼は心をうごかさずにはいられなかったのだ。
梅芳と柳毅は、くすくすと笑いあう。
ふたりの笑い声があたりに響いた瞬間だった。突如として木々がざわめきだした。つよい風がふたりを襲い、梅芳と柳毅の髪や着物を荒々しく揺りうごかす。彼らの視界を木の葉がはげしく舞った。
ところが、舞ったのは木の葉だけではない。夜空から大きな影が舞い落ちてきたのだ。舞い落ちるうち、影は闘技場のたいまつの明かりに照らしだされた。
「赤い」
舞う影を目で追い、梅芳がぽつりとつぶやく。
柳毅も梅芳とおなじ影を目で追って言った。
「女性の上衣みたいだ。今の風で、干されていた衣類がとんでしまったんだろう」
柳毅の言うとおりで、舞っているのは薄手の赤い衣だ。その赤い衣は、梅芳と柳毅のいる場所へふわり、ふわりと舞いちかづく。
しかし、今の梅芳は柳毅に手をあずけていて自由にうごけなかった。柳毅のほうも、上衣よりも梅芳のやけどの手当てを優先する。
ついには赤い上衣が梅芳におおいかぶさってしまい、彼は「わっ」と声をあげた。上衣に視界をうばわれ、梅芳は不満を言う。
「なにも見えない!」
上衣のしたで、梅芳はじたばたした。今の彼に見えるのは、柳毅の腰から下だけ。彼の革帯にさがる翡翠製の装飾品がゆれ光るのみだ。それは
「梅師弟、あばれないで。今、どけてあげるから」
あばれる梅芳に言いきかせ、柳毅はすももを彼自身にもたせる。それから、彼の頭に覆いかぶさる赤い上衣を丁寧にめくりあげた。
上衣のなかから、梅芳が顔をだす。むかいあわせになった彼と柳毅は、自然と見つめあってしまう。上衣を完全にめくり取ってしまえばよかった。ところが、梅芳と目をあわせた柳毅の手は、ぴたりとうごきをとめる。
柳毅の変化に梅芳が気づいた。
――なんだ?
不審がった梅芳は、やけどをすももで冷やしながら兄弟子をうながす。
「柳師兄? はやく、この邪魔な衣をどけてくださいよ」
梅芳の子供っぽいねがいに、柳毅はびくりと肩をゆらした。彼は視線をさまよわせると「そうだね。すまない」と弟弟子にあやまり、ようやく上衣をとりさる。
――へんな師兄。
不可解な兄弟子の行動に、梅芳は首をひねった。しかし、追及する必要も感じない。彼は「まあ、いいです」と口にすると、当初したかった話に話題をもどした。
「妖怪でも人間でもいいですけど、はやめに仕事をおわらせて婚礼の準備に集中しなくてはいけませんよ!」
心にもない言葉を、梅芳は兄弟子に言いふくめる。
柳毅はうなずき「そうだね」とあいづちをかえした。彼は「できるだけはやく帰れるよう、がんばるよ」と、いつもどおりのやさしい笑顔で弟弟子に返事する。
――しあわせそうに笑うんだな。だが……
柳毅の笑顔を見た梅芳は、心のなかで苦々しく思った。そうはいっても、彼は負けを認めたわけではない。
――今にみていろ。あなたは花嫁とすごす時間より、わたしとすごす時間のほうがはるかに長くなるのだから。
言葉にださず、ほほ笑む柳毅に梅芳は悪態をついた。すると、すっと胸がすき、彼の心はおだやかさをとりもどす。心に余裕が生まれ、梅芳は「そうしてください」と兄弟子に尊大にほほ笑みかけた。そして、心のなかで兄弟子に語りかける。
――婚姻するだけが縁ではないのです。
このできごとの数日後だった。
単身で孝王の屋敷に妖怪退治にむかった柳毅は、そのまま行方知れずになったのだ。
あれから十五年。今も、柳毅の消息はわかっていない。
永遠にもちかい時間を柳毅とすごすつもりの梅芳だったが、ねがいとは裏腹に彼をうしなってしまったのだった。
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