第36話 繰り返す悲劇と惨劇
この数十年の間、何度こうして眺めたかわからない。
もう擦り切れて折っていた真ん中が、千切れている。
角が丸くなるまで、真ん中から千切れてしまうまで、この世界に来てから眺め続けた。
そして、もう写っている妻子の顔がよく見えないのは写真の劣化のせいか、あるいは老いた目のせいか。
この写真は娘の誕生日の祝いの帰り、妻の美智子が乞うたのだ。
家族で写真を撮りたいと。
カズオは背が低く、少しO脚なのを気にしていて写真を撮られるのが嫌いだった。
だから、美智子と百合子だけで写ってもらったのだ。
写真屋の店主達にも説得されたが、カズオは結局頷かなかった。
こんな事になるのなら、意地など張らずに自分も映れば良かった。
カズオが勇者召喚のために、この世界に呼ばれたのはそれから間も無くの事だった。
写真嫌いだったカズオの写真は向こうに何枚も残ってはいまい。
娘は父親の顔を忘れているだろう。そして、カズオも妻や娘と再会する奇跡があったとて、きっとそうだとは気が付かないに違いない。
娘は孫がいてもおかしくない程の年齢になっている。
……カズオにとってはいつまでも幼い子供なのに、だ。
この一枚の写真だけが、カズオの手に残った日本から持ってきた唯一の宝物だ。
カード入れにいれてこの一枚だけを常に持ち歩いていたのだ。
勇者であるのが祖父江さんだと判明した時、祖父江さんはカズオと平清司に土下座して涙を流して謝った。
そんな筈は無い。女の自分である筈が無いと、何度も言っていたが、結論は覆らなかった。
自分も清司も祖父江さんを恨む事なんて無かった。
それは、その決定が自分たち二人の処分を決定付けるものとは知らなかったからだった。
祖父江さんも流石に我々と彼女の間にそこまでの差を付けられるとは予期していなかっただろう。
おそらく、カズオと清司が冷飯を今後食う事になるだろうと考えたのでは無いか。
いや、たとえその後をカズオが予測できていたとしても、祖父江さんを恨んだりなんてすることは無かった筈と思いたい。
この世界に来た時、あれ程に祖父江さんは嘆き悲しんでいたのだ。
婚約者を置いて来てしまったことを。
清司は気の良い青年だった。
弟のように思っていた。日本での事を話し、そのうちきっと帰れると言いあい、不安を分け合い、励ましあった。
きっともう生きていないだろう。
どんな最期であったかは想像できる。カズオが生き残れたのは奇跡であった。
昔、この国には日本人と顔立ちがよく似ている東の民に対する差別があった。
勇者の活躍で今はだいぶ緩和されたが、本当に酷い人生だった。
勇者であった祖父江さんは、その後どうであったろうか。
カズオにもわかる事はある。
勇者は失敗した。
邪神ハーシュレイを撃ち破ることは遂に出来なかったのだ。
もしも、勇者がこの世界の神を統一出来ていたのなら、勇者だけは日本に帰れていたかも知れない。
失敗した勇者はその後どの様な扱いを受けただろう。
世間では、邪神を封じたとされている。確かに力を減じ、新たな女神アルマの力は増したが……失敗は失敗だ。
せめて彼女だけでも穏やかに過ごせてたならばと願っている。
カズオは写真をひたすらに眺める。
もはやこの感情が何なのかもわからない。
この世界に来た当初のカズオにとって、この写真は希望だった。必ずや日本に戻るという気持ちを奮い立たせてくれる、家族との間に唯一残された絆だった。
そして、この様にみすぼらしく年老いたカズオはもはや日本に戻りたいなどとは思っていない。
再開の瞬間、どれほど喜んでくれたとしても、自分を必ず家族は持て余す。
もしかしたら、美智子は再婚しているかも知れない。
そうでなくても、家族の思い出に一つも登場しないカズオをどう扱えと言うのか。
幼い子供がいるのに、母子家庭にして苦労をかけたカズオを大事に扱えなどと、どうして言える?
もしかしたら、美智子はもう死んでいるかも知れない。しなくて良い苦労をして死んでしまっているかも知れない。
家族の幸せ記憶の中にカズオの姿は無く、なのにカズオの失踪は確実に家族に不幸をもたらした。
ひたすらに生き延び、そして諦めた人生。
ハーシュレイは異世界人であるカズオが、この世界の住民よりもずっと神々の力が馴染むことから、接触を何度も図ってきた。
カズオはハーシュレイを拒み続けた。
カズオは自分の人生はとうに諦め、少しずつ変わって行く国を見守りながら、朽ちて行くつもりだった。
この世界で死ねば、もう家族に迷惑をかけない。
それだけがカズオの望みだった。
なのに、この国は、女神アルマはまたしても同じ過ちを犯したのだ。
聖女として呼ばれた少女の動揺した顔を思い出す。
カズオに怯えながらも、日本へ帰れるという言葉に瞳に希望を宿した少女。
そして行方知れずの日本人男性を探してやらねばならない。
カズオは清司を救えなかった。
その日本人がまだ生きているのならば、きっと助けてやって日本に帰してやらねばならない。
勇者召喚に巻き込まれた三人で誓った願いを、聖女召喚の二人で叶える。
それこそが、この最悪な世界に対するカズオの復讐だ。
ハーシュレイは教えてくれたのだ。
この世界の神が唯一となれば、元の世界に戻れるのだと。
アルマかハーシュレイ。どちらかに死んでもらわなくてはならない。
カズオはハーシュレイの側についた。
世界中の人間の半分を瘴気で満たせば、ハーシュレイはこの世界に対する影響力を大きく増すことができる。
そうなれば、アルマ打倒はそう遠くない。
聖女をこちら側に付けるのも、アルマの力を減じ、ハーシュレイの力を増す事に繋がるらしい。
「おい!ジジイ退けよ!」
ニヤニヤと笑いながら、ガタイの良い若い男が石畳の階段に座るカズオの足元を蹴った。
「こんな爺さん金なんてろくに持ってねーよ!」
奇抜な髪型の若者が足を抱えて疼くまるカズオを嘲笑する。
「ああ……良かった」
俯いたカズオは呟いた。
「あ?何だって?何か言ったか?」
ニャー……
答えたのは一匹の黒猫だった。金色の瞳が煌々と光っている。
「何だよ。ジジイの猫か?……うらぁ!!」
ガタイの良い男が黒猫を蹴り飛ばした。
「はははは!薄汚いジジイに薄汚い野良猫!お似合いのペットだな!ペットなんか飼ってる余裕あるのかよ!」
二人組の若者達は老人を嘲笑う。道行く人達は見て見ぬふりをして足早に去って行く。
ニャー……ニャー……ニャー
路地から猫の声。
「何だ?まだいるのか?」
路地の暗がりに浮かび上がる数十の金の瞳。
ニャーニャーニャーニャーニャー……
辺り一体の路地の暗がり全てが金の瞳で覆い尽くされる。
「な、何だよ!!」「おい!なんかヤバくないか……!?」
ニャー……
男達の足元に背後から静かに近づいた黒猫が、振り向いた顔に飛び掛かった。
その瞬間……
路地の暗闇が一斉に溢れ出し、男達の姿は黒く蠢く塊の中に埋もれ、
やがて、猫達は次の獲物を求めて街中に広がっていった。
国軍が到着した頃には収まっていた、そのネブロン街の騒動。
だが、複数の死者と4桁に上る瘴気病患者に、街の機能は半壊していた。
邪教徒の操る魔獣による街の襲撃はこれで既に五件目になっていた。
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