第32話 伊織の学園生活と用務員
そして、時夫とルミィはその後は交代で用務員として伊織とその周辺の張り込みを続けた。
もちろん、用務員としての仕事に手は抜かない。
感謝の心……用務員道の基本を忘れてどうしてこの悲しみに満ちた世界を生きていけようか。
そして判明したのは、伊織はなかなかに常識知らずな行動をしまくっていた。
魔法も無駄にできる上に、聖女の肩書きと王子の威光もある。教師達は彼女が何をやっても……何をやらかしても咎める事は無かった。
その分パトリーシャ達、高位の令嬢達がやんわりと釘を刺していたが、貴族特有の言い回しを伊織は理解できずに、トンチンカンな反応を見せていた。
伊織は歯を見せ笑い、座ったり立ったりする際にスカートを整えるのをよく忘れた。
日本で生きた時夫には、普通に良い子に見えた。
明るいし社交的に周りと溶け込もうとフレンドリーに話しかけていて、多少冷たく当たられてもめげずに話しかけ続けて頑張っている様に見える。
でも、ルミィ曰く、令嬢達がやんわりと、或いは直接的に失礼な言動を咎めても直さずに、最終的には王子やその側近達、そして教師達がまあまあ、と甘やかしてしまうのは、大きな問題だと言うのだ。
事実、そのせいで女子生徒からは距離を取られ始め、男子生徒の中には王子からの覚えをよくする為に、女子達を王子の前でこれ見よがしに非難する者も現れているそうだ。
男女の分断が進み、婚約者同士がいがみ合うことになり、聖女伊織のあり様について貴族からも疑問を呈する者もいると言う。
特に問題となっているのは、なんとアレックス王子と婚約者のパトリーシャ嬢だという。
パトリーシャ嬢は段々と伊織と距離を取る令嬢達が多い中で、果敢に伊織の過ちに口を出し、王子の甘やかしにもやんわりとだが諌め続けた。
王子はパトリーシャ嬢が自分に意見するのが気に食わない様で、人目がある場面でもパトリーシャ嬢を避け始めている様だった。
社交界でも、王子はパトリーシャ嬢と婚約破棄して聖女と婚約し直すつもりでは無いかと話題になり始めている。
そして、他にも問題が発生している。
パトリーシャ嬢を慕う令嬢達、或いは、伊織を庇う男達の婚約者やその友人達が、伊織に嫌がらせをし始めたのだ。
日本での嫌がらせと大きく違う点は、ここが魔法学園……つまり全員が魔法が使えると言う事だ。
♢♢♢♢♢
そして実技の野外授業、
「あつ!……キャッ!」
授業中に伊織の袖が突然出火した。その直後に大量の水が伊織の頭から降り注ぐ。
伊織は頭の先からつま先まで余すところなくずぶ濡れになってしまった。
「あら、大変ね」「先生!サリトゥさんが火の魔法で火傷しそうだったので助けてあげました!保健室にでも念のため行ってもらった方が良いんじゃ無いですか?」「おい!お前らわざとやっただろ!?」「卑怯だぞ!」「何?あなたの様な下級貴族がローラ様になんて事を言うの!?疑うなら証拠出しなさいよ!」「その方は聖女だぞ!」「婚約者がいるのに聖女に媚を売るの?」「恥知らずが!」「何ですって!?」「聖女様を見習えよ!慎ましくしてろ!女の分際で男に楯突くな!」「あなたの家が我が伯爵家にどれ程の恩義があるか忘れたの?」
「パトリーシャ、お前が指示を出したのか!?」
王子がパトリーシャに詰め寄る。
「そんな事……それよりもイオリ様を保健室にお連れする方が先です」
「逃げるのか!?」
「殿下……落ち着いてください」
王子とパトリーシャが言い争いになる。
「あの……私、保健室行って来ます」
「イオリ……私が送っていこう」
王子が進み出たが、伊織は首を振った。
水滴が周囲に飛び、服に掛かった女子生徒が嫌そうな顔をする。
「いいの。一人で大丈夫だから。アレクは授業頑張って」
そう言い残すと、校舎の方に駆けていった。
「アレク……ですって」「ね……」「可哀想に……」「王子はやはり聖女様が……」
ヒソヒソと囁き合う声。
「さあ、皆さん、授業を再開しましょう。先生、お願いします」
パトリーシャが周囲に声を掛けると、ピタリと囁き声は止んだ。
「あ、はい。そうですね」
気の弱そうな教師はパトリーシャに促されて気を取り直して、魔法の解説を始める。
王子は場を仕切るパトリーシャを苦々しげに見ていた。
♢♢♢♢♢
時夫はその様子を離れたところから観察していた。
会話は聞き取れなかったが、男女が言い争うを始めたところはわかったし、事前にルミィから得ていた情報で大体の流れは理解できた。
伊織がびしょ濡れのまま建物内に入るのを躊躇い、髪の毛やスカートを絞っているところに、時夫はそっと近づいた。
「あの……乾かすよ」
伊織は時夫の存在に今気がついたらしく、ハッと顔を上げた。
目が少し充血している。濡れていてわかりにくいが泣いていたのかも知れない。
伊織はおずおずと笑顔を作って、言い訳めいた事を口にした。
「あの……私、うっかりが多くて、失敗しちゃって……それで……濡れて。かっこ悪い……ですよね」
顔に張り付いた髪の毛を掻きやりながら、伊織の声が小さく窄まっていく。
「『乾燥』」
覚えておいて良かった。師匠に感謝だ。
伊織は目を丸くして、そして今度は作り物じゃ無い笑顔を見せる。
「ありがとう。用務員のお兄さん。
……授業戻らないと」
伊織は唇を少し噛んで、諦観した様な表情で元来た道に目線を向けた。
「あのさ……」
気がついたら時夫は声をかけていた。
伊織が訝しげに自分に手を伸ばす用務員を見つめる。
「いや……その、火傷もしてるみたいだし、ずぶ濡れになったんだから、少し休憩とかした方が良いんじゃ無いかな。体調とかこれから悪くなるかもだし。うん。
ほら、飲み物もあるよ。飲む?」
自分でも何で引き留めたのかは定かでは無いが、遠目に見ても恐ろしいピリピリした空間に、疲れた表情を見せるこの子を行かせてはいけないと思ったのだ。
空間収納から何種類かの果汁の瓶とマグカップを出して、両手に抱えて、俺は何やってるんだろうと思いつつ、伊織の回答を待った。
「えっと……ありがとうございます」
伊織がおずおずと答えた。
そういえば、聖女召喚で呼び出されてしまった二人で話をするのは初めてかも知れない。
「じゃあ、どっか座れるところでも……」
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