第三章 寒露

1 踏切の夢

「平坂神社?」


怪訝な顔で啓は訊き返した。


「ええ」と美邦は答える。「伊吹山の中にあったみたいです。みんなも驚いていましたけど。」


千秋は箸を止め、伊吹山の方を見た。居間の中からは見えるわけもない。それでも気になるらしい。


「あの山ん中に? ほんに?」


「うん。詳しくはよく分からないけど。」


「でも、お姉さんの覚えとった通りだでな? 山ん中にある神社って。何で誰も知らんのかなあ。」


少し静かになる。


美邦は、煮魚の細い骨を取り除きながら考え込んだ。本当に――なぜ誰も知らないのだろう。


やがて啓が口を開いた。


「どうあれ、友達が早ぁできてよかったな。叔父さんも実は実は心配だったに。」


「ええ。父にも顔向けできます。」


黙り込んでいた詠歌が渋い顔をする。


「でも――美邦ちゃん、あんま変なことに手ぇ出しなさんなよ? その、神社のことって、あんまええことでない気がするに。男の子とも連絡先気軽に教えるのも良くないで。」


美邦は箸を止め、俯く。


「あ、はい。」


啓が助け舟を出した。


「まあ、ええが。友達もできただに。」


「それはそうだけど。ただな――叔母さん、心配なだが。美邦ちゃんが、何か危ないことに巻き込まれんかって。そもそも、もう何年もこの町に住んどるのに、神社のことを知らんだなんてことある?」


「実際に知らんかったでないか。」


そうだけど――と言った切り、詠歌は黙り込んだ。


食事が終わる。千秋にも啓にも、食べ終えた食器を流し台に持ってゆく癖がない。せめて自分の食器だけでも片付けようとすると、詠歌が声を上げた。


「そのまんまにしといて。」


美邦の食器を含めて片付け始める。


居心地の悪さを感じた。昭と一緒にいた時は、食器は自分で片付けるものだった。


「私、何かすることないですか?」


「ええよええよ」振り向くことなく詠歌は言う。「美邦ちゃんは、この家でなぁんにもせんでええだけん。」


     *


スマートフォンが鳴った。


画面を目にしてみると、グループトークの「放課後探偵団」に幸子からメッセージが入っていた。


「お母さんとお父さんに訊いてみただけど、平坂神社なんて知らんって言っとった」


美邦は返信する。


「そう」

「やっぱり」

「叔父さんも知らないって言ってた」


由香からメッセージが入る。


「私は、お母さんが朝帰りだけん」

「けど、何で美邦ちゃんは覚えとったんかな?」


美邦は返信する。


「よく分からない」


幸子からメッセージが入る。


「神社に近い所に住んどったとか?」


「覚えてないよ、そんなの。」


昭は、何も語らずに逝ったのだ。


既読は常に「3」だった。夕方以降、返信をしたのは由香と幸子、そして芳賀が一度だけだ。


気になって美邦は問う。


「藤村君は? 通知届いてるの?」


芳賀が返信する。


「あの人、使い方が分からんだけだけえ」


そう――とだけ美邦は返信した。


それから学習机に向き直り、課題に取り組む。分からないところはLIИEで教え合った。


課題を済ませたあと、ふと気に掛かって障子を少し開ける。相変わらず、不気味な夜の中に伊吹山は姿を隠していた。あの中に、神社は今もあるのか。


――海をてらして依り来る神有り。


祭神を見つめながら冬樹はそう呟いていた。


――海から来て

――守り神になってくれるだぁで。


続いて、母の言葉も蘇る。


だが、今の町に守り神はいるのか。


むしろ、町民の態度はどこかよそよそしい。その理由を美邦は詳しく知らない。


美邦はLIИEにメッセージを打ち込む。


「そういえば、小学校は集団下校だっけ?」

「いつから始まったの?」

「千秋ちゃんは、前はないって言ってたけど」


やがて、幸子から返信が来る。


「私らが小3の頃からだったでないかなあ」


由香が返信した。


「小3で間違いないと思うで?」

「あの時、うちらの学校でで行方不明になった子がおったけえ。それ以来、厳しくなったに」


疑問に思って美邦は問う。


「行方不明って?」


由香が返信した。


「一年生の女の子が、夜になっても帰ってこんかっただが。下校したって証言した人はおるみたいだけど」


千秋から聞いたことを美邦は思い出す。


「北朝鮮から船が来るって聞いたけど」


少し間が空いた。


やがて、それは分からんけど、と幸子が返信した。


「でも、私はよう知らんけど、失踪事件が前にも何件かあったとかっては聞くけど」


ついで、由香が返信する。


「だけん、中学生もみんなで早く帰りなさいって」


小さな跫音あしおとが階段から聞こえてきた。ふすまを隔てて千秋の声が聞こえる。


「お姉さん、お風呂空いたで。」


ふすまの向こうへ、ありがとう、と美邦は声をかける。画面へ向き直り、メッセージを入力した。


「じゃ、私はお風呂だから」


幸子が返信する。


「私もそろそろお風呂入って寝るわ」


由香からも返信が来た。


「じゃ、また明日ね、美邦ちゃん」


     *


冷たいアスファルトの上を歩いていた。


細かい砂利が足の裏に突き刺さって痛い。凍えるほど空気は冷たく、衣服を透き通って肌をなでる。遠くからは、風音なのか潮騒なのか分からないコーッという音が絶えず聞こえていた。


そこは、美邦の全く知らない場所だった。


狭い道の両側からは、シャッターの閉まった店や郵便局が迫る。軒先には紅い布が吊るされていた。


廃墟のような町を進む。


道路をまたぐアーチ状の看板が現れた。錆の流れた表面には、「平坂商店街」と書かれている。


突き当たりの駅を逸れる。少し進んだ処に踏切があった。蜜蜂みつばちのような縞模様が街燈に照らされている。


唐突に、遮断機が警鐘を鳴らし始めた。


暗闇の中、真紅まっかな光が明滅めいめつする。にも拘わらず、踏切へ向けて美邦は歩き続けた。このままでは不味いなと心のどこかでは思っている。しかし、歩みは止められない。低い機械音を立て、遮断機が下りてきた。


途端に、美邦は目を覚ます。


ベッドの上で、横になって寝ていた。


ぼんやりした頭の中、夢を見ていたことに気づく。


目が覚めたのは、眠りが浅かったためと、微かに感じられる寒気のためだ。もうじき冬の来る季節、深夜は冷え込む。布団越しに薄らと感じられる寒気は、夢の中で感じていたものとほぼ同じだった。


再び眠りに就こうと思い、目を閉じる。


そして、背後から微かな物音を聞いた。


畳の上で足を退くかのような音だった。


眠気が吹き飛ぶ。背後から、何者かの気這けはいが感じられた。振り向こうとしたものの、どういうわけか身体が動かない。


身体が凍り付いたまま、少し時間が流れた。


やがて背後の気這いは動いた。微かな跫音あしおとがして、美邦の頭のほうへ近寄る。もう見つかっているにも拘らず、美邦は息を潜めた。


美邦を覗き込む気這いがした。しばらくはそのまま動かなかったが、やがて少し遠のく。跫音が再びした。しかし、美邦から遠ざかるように小さくなってゆく。


気這いはふすまから出ていったように感じられた。


けれども、襖が開かれた音は聞こえなかった。


美邦は布団の中で深呼吸する。


それと同時に、今まで動かなかったはずの身体が、少しずつ融通の利くようになっていった。


仰向けとなり、目を閉じる。力んでいたためか、身体が急激に弛緩してゆく。目蓋の奥から、思い出したように眠気が込み上がってきた。


今、耳にしたものは何なのか――美邦は考えるのをやめる。きっと何かの間違いなのだろうと自分を納得させた。そうでなければ――。


またあの気這いが、部屋へ戻って来そうな気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る