第三章 寒露

1 踏切の夢

怪訝な顔で啓は問うた。


「平坂神社?」


夕食時間のことである――新しい学校について尋ねられたのだ。そうして、クラスメイトとのやり取りを語ることとなった。


ええ――と答え、美邦は目を落とす。煮魚の入ったあおい器が端を輝かせた。続く言葉に少し迷う。この町に住んできた人さえ知らない神社を探し当ててしまった。


「伊吹山の中にあるみたいです。みんなも驚いてましたけど。」


伊吹山のある方角を千秋は眺める。神社はおろか山さえ見えない。その横顔から、自分を横に撮った写真を思い出す。やがて、半信半疑の声で千秋は尋ねた。


「あの山ん中にあるん? ほんに?」


「うん――詳しくはよく分からないけど。」


「でも、お姉さんの覚えとった通りあるだんな? 何で誰も知らんかいなあ?」


静寂が訪れる。答えられる者はいない。


煮魚の身へと、美邦は箸を入れる。


町などないと言った父と、神社などないと言った叔父――この二人の輪郭が重なった。


「どうあれ、友達が早ぁできてよかったな。叔父さん、実は心配だったに。」


「ええ――私自身ちょっと意外でした。」


先ほどから詠歌の顔は渋い。


「でも――美邦ちゃん、あんま変なことに手ぇ出しなんなで? その、神社のことって、ええことでない気がするに。男の子に連絡先気軽に教えるのもよぅないで。」


叱られたようだ。


「――はい。」


「まあ、ええが。友達もできただに。」


「それはそうだけど。ただな――叔母さん、心配なだが。美邦ちゃんが、危ないことに巻き込まれんかって。そもそも、この町に何年も住んどるに、そがな神社を知らんとかある?」


「実際に知らんかったでないか。」


そうだけど――と詠歌は言ったが、言葉を途切らせた。しかし、何か言いたげな顔を美邦へ寄せる。その態度が怖くて目を逸らした。


食事が終わる。


いつもの習慣で食器を片付けようとする。そんな手を詠歌が止めた。


「そのまんまにしといて。」


食器が、素早く取り上げられた。


邪険とも取れる態度に居心地が悪くなる。


「私、することないですか?」


「ええよええよ。」振り返らず詠歌は言った。「美邦ちゃんは、この家でなぁんもせんでええだけ。」


     *


夕食後、千秋が先に入浴する。


ひとまず部屋に戻った。紐を引き、明かりをつける。


学習机の上に、充電中のスマートフォンを置いていた。その画面を確認する。いくつか通知が入っていた。幸子からのメッセージを見つけ、胸を躍らせる。


ベッドに腰を下ろし、LIИEを開いた。


メッセージは、由香の作ったグループトークに入っていた。放課後探偵団のアイコンは、三頭身の女の子がホームズの格好をしたものだ。由香のセンスに、探偵かぁ――と少し考える。


幸子からの着信が最も新しい。


〈さっき、お母さんとお父さんに訊いてみたに〉

〈でも、やっぱり知らんって言っとった〉


予想どおりではあった。入力欄をタップし、さっそく美邦は返信する。


〈そうだったんだ〉

〈わたしも、さっき、おうちの人に訊いてみた〉

〈でも、やっぱり知らなかった〉


ポンという音が鳴り、由香からのメッセージが出た。


〈私は、お母さんが朝帰りだけえ、まだ訊けとらん〉


続いて、メッセージが二つ送られる。


〈神社ってまだあるんかいな?〉

〈なんで、美邦ちゃんだけ知っとるだらあ?〉


美邦のほうが訊きたい。


少し考えたあと〈よく分からない〉と返信する。


やがて、幸子のメッセージが現れた。


〈神社に近いとこに住んどったとか?〉


自分の家の場所を思い出そうとする。しかし、町の記憶自体が少なすぎた。


〈覚えてないよ、そんなの〉


全てを隠して父は逝ったのだ。


既読が「3」になる。この数字は全く動かない。返信は常に、由香と幸子からだ。ただし、一度だけ芳賀が返信した。メッセージを見ていないのは冬樹らしい。


――海をてらして依り来る神有り。


声が耳に残っている。冬樹は、海から来る神について述べたはずだ。その理由を訊きたい。だがLIИEさえ見ていないのだ。もどかしくなる――母の言葉と関係を感じるのに。


――海から来て

――守り神になってくれるだぁで。


耐えかね、入力欄を叩いた。


〈藤村君は、ちゃんと通知届いてるの?〉


芳賀が返信した。


〈あの人、使い方が分からんだけだけえ〉


〈そう〉と美邦は応える。


学習机に向かい、課題に取り組んだ。分からないところはLIИEで教え合う。


課題が終わったあと、気に掛かって窓へ近寄った。障子を引き、外を覗く。低く唸る風音の中、伊吹山は暗闇に姿を消していた。あそこに――神社は今もあるのか。


――怖いものが来た。


なにかを町民は恐れる。詠歌からだけでなく、クラスメイトの態度からも察せられた。事実、サイレンを境に忍び寄る闇は異様だ――低く轟く風音と潮騒から、何か来る気這いを感じる。当然、某国からの不審船ではない。このような感覚を人間は与えないだろう。


父は、平坂町に行くべきではないと言い続けていた。何かの危険があり、美邦を遠ざけたかったのかもしれない――そんな気がしてきた。


障子を閉じ、スマートフォンを手にする。


〈そういえば、小学校は集団で下校するんだっけ?〉

〈いつから始まったの?〉


ポンと音が鳴り、由香のメッセージが現れる。


〈私らが小3の頃からだったでないかいなあ?〉


幸子が返信した。


〈小3で間違いないで?〉

〈あの時、行方不明になった子がおるだけん。それで厳しくなっただが〉


千秋の言葉を思い出す。


〈行方不明って?〉


ポンと音を立て、幸子の返信が出た。


〈一年生の女の子が、夜になっても帰ってこんかっただが〉

〈他にも、失踪が何件もあるって聞くけど〉


帰ってこなかった――というのは、どこかに連れ去られたのだろうか。


〈北朝鮮から船が来て、さらっていくって聞いたけど〉


少し間が空いた。


まずい話題だったかと不安になる。何件も失踪があるとして、安易に触れるのは不謹慎ではないか。


やがて、由香が返信した。


〈それは分からんけど〉

〈でも、失踪が多いって聞くにい〉

〈だけえ、中学生もみんなで早く帰りなさいって〉


階段の方から、小さな跫音あしおとが近づいてきた。


ふすまを隔て、千秋の声が響く。


「お姉さん、お風呂空いたで。」


ありがとう――と美邦は声をかける。画面へ向き直り、メッセージを入力した。


〈じゃ、私はお風呂だから〉


由香が返信した。


〈じゃ、また明日ね、美邦ちゃん〉


     *


冷たいアスファルトの上を歩いていた。


凍える空気が服を透けて肌をなでる。細かい砂利が足に刺さって痛い。遠くからは、風音か潮騒か分からないコーッという音が聞こえている。


そこは、美邦の全く知らない場所だった。


道の左右からは、シャッターの閉まった店や郵便局が迫る。全ての建物に紅い布が吊るされていた。


廃墟のような町を進む。


道路をまたぐアーチ状の看板が現れた。錆の流れた表面には、「平坂町商店街」と書かれている。


突き当たりに駅があった。そこを横切り、少し進む。やがて踏切が現れた。蜜蜂みつばちのような縞模様が街燈に照らし出されている。


警鐘が鳴り始めた。暗闇の中、真紅まっかな光が明滅する。


しかし、踏切へ向けて美邦は歩き続けた。


心のどこかでは、このままでは不味いなと思っている。それでも歩みは止められない。低い機械音を立て、遮断機が下りてくる。


途端に、美邦は目を覚ました。


ベッドの上で、横になって寝ている。


ぼんやりした頭の中、夢を見ていたことに気づいた。


目が覚めたのは、眠りが浅かったためと、微かに感じる寒気のためだ。もうじき冬の来る季節、深夜は冷え込む。布団越しに薄らと覚える寒気は、夢の中のものとほぼ同じだった。


再び眠りに就こうと思い、目を閉じる。


そして、背後から微かな物音を聞いた。


畳の上で足を退くような音だ。


眠気が吹き飛ぶ。


何者かの気這いを感じた。振り向こうとしたものの、どういうわけか身体が動かない。


凍り付いたまま、少し時が流れた。


やがて、気這いが動く。微かな跫音がして、頭のほうへ近寄ってきた。もう見つかっているにも拘らず息を潜める。


なにかが自分を覗き込んだ。しばらくそれは動かなかったが、やがて少し遠のくのを感じた。跫音が再びして、遠ざかるように小さくなる。


気這いが部屋を出た。しかし、襖の開く音は聞こえない。


布団の中で深呼吸する。


それと同時に、今まで動かなかった身体が、少しずつ融通の利くようになっていった。


仰向けとなり、目を閉じる。力んでいたためか、身体が急激に弛緩してゆく。目蓋の奥から、思い出したように眠気が込み上がってきた。


今、耳にしたものは何なのか――美邦は考えるのをやめる。きっと何かの間違いなのだろうと自分を納得させた。そうでなければ――。


またあの気這いが、部屋へ戻って来そうな気がする。

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