7 別れの決意

数十分後――「着いたよ」というLIИEメッセージが入った。


マンションから美邦は出る。路肩に、見慣れた黒い車が止まっていた。谷川が迎えに来たのだ。黒いドアを開け、助手席へ乗り込む。


病院へ向けて静かに車は走り出した。


心が落ち着かない。死期が近くても、もう少し時間があると思っていた。まだ、別れの覚悟はできていない。しかし、明るい朝の街を車は進む。


ほどなくして病院へ着いた。


長い廊下を進み、病室へ這入る。


主治医と啓が先に来ていた。美邦ちゃん、と言ったあと、谷川へと啓は目を留める。谷川は、お久しぶりですと言って頭を下げた。


いつも通り、ベッドに昭は横たわっている。しかし、顔に被せられた白い布が、昨日までの昭ではないことを示していた。


主治医が静かに告げる。


「心筋梗塞です。――未明に亡くなられました。腎不全に最も多い死因です。」


現実を突きつけられた。頭が白くなり、視界が割れる。自然と両手が動き、顔を覆った。美邦の肩を、そっと谷川が抱く。


熱い暗闇の中、主治医の声が聞こえた。


「昭さんは、これを握りしめて亡くなられておられました。」


やがて、啓が答える。


「これは僕に宛てられたものでしょうか?」


「それは――分かりませんが。」


そして、主治医は美邦にも声をかけた。


「美邦さんも、こちらを。」


顔から手を離すと、温かい物が頬を伝いった。かすんだ視界が明瞭となってゆく。医師が差し出した物は、くしゃくしゃになったメモ用紙だった。そこに書かれた文字に目を凝らす。


「みくにをたのむ」


随分と歪んでいるが昭の字だった。


昭の意識は存在しない。しかし意思は伝わる。


再び涙が出た。今は、何かを考えられる状況ではない――当然、これからどうなるのかも。


葬儀場へ向かった。


窓の外に、明るい朝がある。


涙で歪んだ視界の中、まつ毛に反射した光が六角形となる。幻視なのか、一つの六角形が、ずれて拡がるように六つに増えた。重なり合った中央に、六つの菱形ひしがたから成る六芒星が浮かぶ。


運転席から、谷川が優しげに声をかける。


「お葬式に必要なことは僕らで全てやるから、美邦ちゃんは休んでいていいよ。けれども、一度だけマンションに帰る必要があるかもしれない。通夜のために必要な物を取ってくる必要があるからね。」


はい――とだけ美邦は答えた。


昭のいない人生が始まる。だが、この朝の明るさは、何かが始まる予感を抱かせた。


――ねえ。お父さん。


――お母さんと暮らしていた町はどこ?


今まで、何度も昭に訊ねてきた言葉が頭に響く。


――お母さんのお墓はどこ?


昭の墓は――どうなるのだろう。


     *


その晩は葬儀場に泊まった。


一人だけの寂しい通夜だ。しかし、見慣れない大人と顔を合わせ続けていたため、落ち着いて一人になれた時はほっとした。


翌朝――制服を着たときは胸が痛んだ。学校へ行くためではなく、父を送るために着るのだ。


通夜室を出る。


廊下には、半透明の人影が多く見えた。近づけば消えるそれは、遠目には、他家の葬儀に来た人々と見分けがつかない。


安置室に這入ると、祭壇が既に出来上がっていた。


そして、棺の左右にある提灯が目に留まる。


六つの菱形で作られた六芒星が描かれていた。


大原家の家紋を美邦は初めて見た。昭の棺を守るように左右に鎮座している。


やがて、安置室に谷川が現れる。それを皮切りとして、昭の友人や知人が次々這入ってきた。


先日と同じように、お悔やみの言葉をかけられる。受付の言葉のように、機械的に美邦は答えていった。


「美邦ちゃん?」


ふと聞こえてきた声に顔を上げる。三十代初めほどのショートボブの女性が立っていた。


「あ、やっぱり美邦ちゃんだ。」


美邦へ近寄り、彼女は肩を抱き寄せる。見知らぬ人にいきなり触れられ、不愉快感を禁じ得ない。


「本当に大きくなってぇ。口元なんか夏美さんそっくりだわ。」


戸惑っていると、詠歌えいか、という声が聞こえた。顔を向けると、困惑顔の啓が立っていた。隣には、十歳ほどの女の子も竝んで立っている。


「美邦ちゃん、覚えとらん。」


啓の言葉に、彼女は少し残念そうな顔をする。


「あ、それかあ。」


気まずそうに啓が説明した。


「叔母さんの詠歌だで。」


そうして、目の前の人物が叔母なのだと初めて気づいた。啓とは不釣り合いなほど若く見え、しかも短い髪が勝気な印象を与える。


「それと、娘の千秋。」


啓の隣に立つ少女に目を向ける。


そして解った――なぜ詠歌が自分に気づいたのか。


――似ている。


自分の妹だと言われれば信じてしまいそうなほど似ているのだ――幼めの顔立ちも、褐色の瞳も、綺麗な黒髪も。これが血縁というものなのだろうか。


詠歌の目が潤んだ。


「昔は叔母さんの処に、よう遊びに来とっただよ? 叔母さんのこと、覚えとらん?」


「あ――いえ、その――昔のことは――よく覚えていなくて。」


「あら――そう――」


詠歌は少し残念そうな顔をする。


「ごめんなさいね、あんまりにも久しぶりなもんだけぇ――。でも、本当に綺麗になってぇ――」


忖度のないことを言えば、この叔母が美邦は少し気持ち悪かった。


平坂町にいた頃の記憶はほぼない。親戚らしき人達と遊んだような記憶はあるのだが――それが渡辺家の人々なのかもよく分からないのだ。


詠歌は振り返る。そして、戸惑った様子の千秋に気づいたようだ。


「千秋、この子が美邦ちゃん。お父さんのお兄さんの娘さんだで。」


千秋と目が合った。


やはり似ている――四親等も離れているにも拘らず。自分が失明しておらず、ほどほどにロングヘアだったならば瓜二つだっただろう。


先に顔を逸らしたのは千秋だ――美邦の目元を気にかけたためだろう。そして、深々と頭を下げる。


「初めまして。渡辺千秋――です。」


つられて美邦も頭を下げた。


「大原美邦――です。」


    *


それから、斎場の近くにあるレストランで昼食を摂った。食事中、美邦の今後のことについて話題が及ぶ。大まかな事情は詠歌と千秋にも伝わっていた。


悲しげでありつつ、優しげな声で詠歌は言う。


「私は、美邦ちゃんを預かることは構わんけど。」


そして、千秋へと目をやる。


「千秋は?」


「え――っと。」美邦と似た幼い顔に困惑が浮かぶ。「あの、あたしも、全く問題ないけれど。」


でも――と言い、心配そうに千秋は美邦を見た。


「お姉さんは大丈夫なんですか? 友達とも街とも離れてこっちに来るなんて。」


「うん。」


美邦は目を伏せる。


くしゃくしゃになったメモ用紙を思い出した。そこへ、墓にも描かれているはずの図形が重なる。


昭は始終、平坂町に対して冷淡だった。


しかし、必ずしも、美邦を町へ寄越したくないわけではないとも言っていた。その本音を、今さら覗いたように思う。無論、平坂町で何が起きたのか、明確な説明をする前に逝ってしまったが。


啓は難しげな顔をした。


「別に、今すぐ決めんでもええで。何なら一度、町を訪れてから決めてみん?」


「いえ――構いません。」


美邦は珍しく、迷いなく意思表示をした。


「叔父さん――父のお墓は、やはり平坂町ですか?」


そうなるな――と、啓はうなづいた。


「大原家のお墓は十年間も放置されとる。そこを綺麗にして葬るつもりだで。お葬式のお坊さんも、大原家の宗派の人を呼んできた。美邦ちゃんがそれ以外のことを望めば、話は別だけど。」


「是非とも――母と同じお墓に入れて下さい。父も、本当は、平坂町へ帰りたかったんだと思います。」


再び目が熱くなってきた。


「でも、そうなれば――私は――父とまた離れ離れになってしまいますから――」


今まで凪いでいた感情が蘇ってくる。まぶたから熱い雫が落ち、テーブルを叩いた。美邦の背中を、詠歌はそっと撫でる。年下のいる前で泣いてしまったことが少し恥ずかしかった。

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