第10話 愛した人の幸せを願う

夜会まで、もう間もなくとまで迫っていた。


ルーヴェルト公爵夫妻が不在なのも相俟って、普段より片すべき仕事は多い。

とはいえ、シーズン外なのが幸いして、ルキウスとふたりでこなせる量だった。

今日はルキウスが休みだから手伝うと言うので、好きにさせていたのだけれど。


「ルキウス、離れて」

「ロティ、いい匂いがする。香水つけてくれてるんだね、ふふっ」

「ちょっと!耳元で話さないでっ」


手伝う発言はどこへいったのやら。

手紙の内容を確認しながら返事をしたためるわたしを、後ろから抱き締めてべったりのルキウス。


正直に伝えたからやめると思っていたのに、やめるどころか余計にベタベタしてくる。

おかげで一切仕事が手につかない。

急ぎの案件がないとはいえ、なるべく片づけておきたいのに。


「ルキウス、仕事にならないわ」

「…………」


不意にルキウスは、わたしの背中に寄りかかったまま動かなくなった。

返事もなくて、嫌な予感がよぎる。


「ルキウス?」

「…………」


呼びかけてもやはり返事はない。

密着した部分が徐々に熱を持っていく。

もしかして、また体調が悪いのではないのか。


「ルキウス、辛いのね?ベッドまで歩ける?」

「はぁ……か……、いい……」


熱い吐息を吐いて苦しそうにしている。

前に熱を出したときより、ひどい状態なのかもしれない。


すぐにベッドで休ませて、医者を呼ばなくては。

しかし、立ち上がろうにも、腰に絡んでいる腕はまったく離れない。


「離してくれないと医者が呼べないわ」

「かわ、い……ぎて……死にそう」

「っ!?死にそうなのほど辛いのね」


なんてこと。そこまで無理をしていたなんて。


今までも、ルキウスは弱音を吐いたりしたところを見たことがない。

ルーヴェルト公爵家の後継者として、厳しい教育を受けたせいも、理由のひとつとして言えるかもしれないけれど。

やっぱりわたしの前でも、弱い部分は見せたくないのだろう。


「ルキウス、あとでいくらでも甘えていいから、今は」

「……ふっ、言質取ったからな」

「え、なんて……っ!」


振り返ろうとした瞬間、頬に柔らかい感触。

ルキウスの唇が、軽い音を立てて触れたのがわかった。

彼のほうへ視線を向ければ、首を傾げて楽しげに頬を緩めるルキウスの表情。

カッと羞恥で顔が熱くなっていく。


「……ルキウス体調は」

「悪くないよ?」

「そう、なのね」


問題ないのならよかった。

よかったはずなのに。先ほどからずっと、胸が締めつけられるように痛む。


今まで通り、無表情で素っ気ない態度だったなら、純粋に彼の幸せを喜べたのに。

甘えたがりでかわいくて、実は表情が豊かで優しさに溢れている。


弱い部分を見せてほしいだとか、正直に話してほしいと望むのはお門違いだ。

これ以上、彼のことを知れば、優しさに触れたら、離れがたくなってしまう。

自分で願ったことなのに、なんてひどく我が儘なんだろう。


「ロティ?」


ルキウスの声にハッとなった。

心配そうに悲しげな瞳を向けられて、とても申し訳なさが押し寄せる。


「なんでもないわ」

「ロティ、怒ってる?」

「怒ってないわ」


努めて明るい声を出したつもりだけれど、ルキウスは視線を外そうとしない。

わたしはその視線から逃れるように、羽ペンを握りインクを馴染ませていく。

便箋の上にペン先を当てたのと同時に、ルキウスの手のひらが重なってきた。


「ロティ、急ぎの案件はなかったよね?」

「ええ、でも終わらせておきたいの」

「君はやりはじめるとすぐこれだ」


呆れを含む声色に、ズキッと痛みが走った。

彼の言葉は、決してわたしを責めているものじゃない。

けれど、ルキウスの言葉が突き刺さって、取れない刺のようで。

息苦しさが襲ってくる。


確かにわたしは、融通が利かなくて甘え方も知らなくて。

容姿も普通で、特技があるわけじゃない。

本当なら、ルキウスのような人と結婚できたのは奇跡だ。

結婚できただけ幸せだろう。

でも、求められている人が、わたしではないとわかってしまったから。


傷つくことを怖れて、逃げてしまったのはわたしのほう。

向けられることがなかった瞳に、会話すら交わすことがない日々。


その日常に悲しく思っていたのも、ルーヴェルト公爵夫妻に憧れを抱いたのも、何故かなんて考えずとも答えは出ていた。

わたしははじめから、ルキウスが好きだったんだ。

気づきたくなかった、好きだなんて。


「ロティ、責めているわけじゃないから」

「…………」

「無理してるのは、君のほう。そうでしょ?」


今さら、心に入り込んでくるなんてずるい人。

彼に愛される人はとても幸せだろう。

こんなにも、優しくて気遣いに溢れているのだから。


「わたし、別荘に行くつもりなの」

「旅行に行きたいの?連れていってあげる」

「御祖父様に用があるからよ」

「ねぇ、ロティ。何処へ行きたい?」


ルキウスはぐっと屈んできて、わたしを抱き締める腕に力がこもる。

まったく会話が成立していないのだけれど、なぜかしら。


「あのね、ルキウス」

「ああ、でも今週は予定があるから行くなら再来週かな?」

「予定って、どういうこと?」

「オペラを観に行こうと思って」

「オペラ?」


わたしが返事をしたのと同じく、会話に割って入るように扉がノックされる。

扉の外から声をかけてきたのは、家令だった。


「ルキウス様、お荷物が届いておりますが」

「ああ、持ってきてくれ」

「では、失礼します」


家令がわたしたちの前に持ってきたものは、丁寧にラッピングされたふたつの箱。

大きさを見て、すぐにワインだとわかった。

わたしは届けてくれたお礼を言うと、家令は一礼して静かに去っていく。


「ルキウス、これプレゼントなの」

「プレゼント……?ロティから……?」


ルキウスは両腕でぎゅぅっとわたしを抱き締めて、そのまま肩に顔埋めてから動かなくなった。

これは、喜んでいるのかしら。まったく読み取れない。


「お礼のつもりだったの……迷惑だった?」

「ああ、ロティ……俺どうしよう……」


そっと顔をあげたルキウスは、口元を覆って箱を見つめたままだ。

その横顔を見ていて、ふと目尻がほんのり色づいているのが視界に入り、ドキッとする。

凄まじい色気を放つ彼が、視線を向けてきて。

吸い込まれそうな赤い瞳から目が離せない。


「嬉しいロティありがとう……君からもらった16個目のプレゼントだ」

「…………」


背景に花でも咲きそうなほどの満面の笑みを見せられ、わたしは倒れそうである。

でも、喜んでくれたようで、ほっと胸を撫で下ろした。


「ねぇ、ロティ。お礼をさせて?オペラを観て旅行にも行こう」

「お礼のプレゼントなのに」

「だめ……?」

「わ、わかったから……」


子犬のような瞳を向けられて、わたしは胸を鷲掴みされた心地になる。

いつもは飄々としていて余裕をみせるのに、ふと甘えてくる彼にいつの間にか流されてしまっていて。

そんな自分に頭を抱えてしまう。


でも、オペラは初体験だ。

いい思い出になりそう、なんて軽い気持ちでルキウスに付き合ったのだけれど。


「ルキウス、ここって」

「ロイヤルボックス席」


連れていかれた先が、王都一のオペラハウスだっただけでなく。

ご丁寧に案内されたかと思えば、まさかのロイヤルボックス席。


広々とした豪奢な空間には、ゆっくり観覧できるよう様々ものが用意されていた。

アンティーク調のお洒落な椅子が2脚並べてあり、腰を下ろせばふわりとクッションがきいている。


よく磨かれた一面のガラス板の向こう側は、ステージを一望できる仕様だ。


「すごいわ、ステージって広いのね」

「オーケストラを交えて演劇するからね」


ルキウスは用意されていたシャンパンを、グラスに注ぎながら説明してくれている。

わたしたちだけの空間に、飲み物から食べ物まで用意されていて。まさに、至れり尽くせりである。


「今日の公演は『イル・トロヴァトーレ』君が好きなんじゃないかなって」

「ありがとう、わたしオペラははじめてだから楽しみだわ」


差し出されたグラスを受け取り、口をつける。

フルーツの爽やかな味とアルコールが丁度よく、飲みやすさも相俟って一口また一口と飲んでしまう。


「ロティ、飲みすぎないでね」

「だって、美味しいんだもの」


口内に広がる香りを堪能していると、ステージ上に演奏者や役者が定位置に立つ。

いよいよ開演なのだとわかり、ドキドキしてくる。

じっと眺めていると、指揮者の合図で奏でられる音楽。

その美しいメロディに合わせて、歌声を響かせ語られる。


イル・トロヴァトーレは愛と憎悪の物語だった。

女官であるレオノーラと吟遊詩人のマンリーコは愛し合う仲。

しかし、恋人同士のふたりを、愛ゆえに引き裂こうとするルーナ伯爵の登場により、悲しい話へと発展する。


レオノーラを我が物にせんと、マンリーコを敵視するルーナ伯爵。愛した人を絶対に奪われたくないマンリーコ。

ふたりはレオノーラをめぐり、争いを繰り返した。

ふたりは、お互いが実の兄弟とも知らずに。


臨場感溢れる演奏と、心に直接語りかけてくるような歌声。

役者たちは、ステージ上を駆け回り、全身で物語を表現していく。


悲しくも美しい物語に、私は釘付けだった。


物語は佳境を迎え、争いはルーナ伯爵の勝利で終結した。

しかし、ルーナ伯爵に捕らえられた恋人を助けたいレオノーラは、自身を犠牲にしてルーナ伯爵へ願い出るのだ。


レオノーラの心情が歌となって紡がれていく。高音は叫びのようで、彼女の気持ちが痛いほど伝わり胸が締めつけられる。


愛しているから、生きていてほしい。

幸せを願い、命を賭してまで恋人を守ろうとしたレオノーラ。

しかし、マンリーコはそんな彼女を赦さなかった。目の前で亡くなった彼女を見て、嘆き悲しむマンリーコ。


最終的に、マンリーコはルーナ伯爵によって殺されてしまうものの。ともに命を亡くしたのは、幸せだったのか或いは不幸だったのか。

どちらかといえば、わたしは幸せだったと思う。


イル・トロヴァトーレは大変刺激的で、幸福な物語でない。

けれど、心に染みる音楽と歌声。

役者たちの魂がこもった舞台は、幻想的にみえてリアリティの溢れた素晴らしいものだった。


「ロティ、楽しかった?」

「ええ!最高だったわ」


ルキウスのエスコートを受けて、エントランスホールをふたり歩いていく。

なんだか、ふわふわするわ。飲みすぎたかしら。


「ロティ、大丈夫じゃないよね?」

「ふふっ、大丈夫よ。歩け、ひゃっ」

「それは大丈夫って言わないの」


躓きそうになったわたしの身体を、すかさず支えるルキウス。

一気に距離が縮まり、間近にはルキウスの顔。恥ずかしくなって、離れようとしたのに。

ルキウスは、軽々とわたしを横抱きにして歩きだした。


「ルキウス、おろして」

「君は、今日の公演を観てどう思った?」


ルキウスはわたしの言葉を無視して、馬車まで歩いていく。

すでに馬車は出入口につけられていて、わたしを抱えたままルキウスは中に入った。


「あの、ルキウス」

「ねぇ、どう思った?」


馬車に乗ってもルキウスは離してくれなくて、わたしは彼の膝の上。

けれど、アルコールが回った状態のわたしは、心地よさに支配されていた。


「いい話だったわ。レオノーラは愛した人を守って逝けたのだから」

「本当に、君らしいよね」

「?」


彼の体温と馬車の揺れにより、徐々に眠くなっていく。

いけない、飲みすぎてしまったようだ。

公演中はステージに没頭していて、どれだけ飲んだのかまったく覚えていない。


「でもさ、残されたほうはどうだ。愛した人を目の前で亡くして、レオノーラのいない世界で生きていけるか?」

「あ、……そうよね」


ルキウスが言うことも尤もだ。

恋人を守りたいと、命をなげうった彼女はマンリーコから見れば自分勝手でひどい行いだ。

それでも、


「わたしがレオノーラでも同じことをしたと思うわ。例え非難されても」


愛した人を守りたいと、幸せであってほしいと願うのは当たり前のことだ。

恨まれても、嫌われても、彼が生きていてくれるのなら、自身の命など惜しくない。

レオノーラの心情も行動も、今のわたしならよくわかる。


「愛してくれたから、幸せに……なって……ほしいの」


いけないわ。せめて、邸に着くまでは眠らないようにしないと。

と思うものの。瞼は重くなり、うとうとしてくる。

ルキウスの声も遠くなっていく。


「君のそういうところって、憎たらしいくらいだよ」

「……なん、て……」


瞼が重くて堪らない。

耐え難い眠気に逆らえなくて、わたしは暖かな熱に包まれたまま夢に誘われた。

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