第9話 嫉妬

声でわかったものの、すごく怒っているのが伝わる。

地を這うような低い声音に、ぴりぴりした空気。


遅くなったせいで迎えにきてくれたのだろうけど、ここまで怒りをあらわにする彼を見たことがない。

わたしがいつまでも帰らないから、手間をかけてしまった。

だから、こんなにも怒っているのだろう。


「ルキウス、あの、」

「許せないなぁ……誰のものに触れたと思っている。穢らわしい」

「ルキウス……?」


わたしに向けられていたはずの怒りは、今はサイラスへぶつけられていて。

正面を見つめたままのルキウスは、視線を外さず睨みつけている。


もしかして、サイラスのせいで遅くなったと思っているのだろうか。

急に睨みつけられてサイラスは混乱している様子だし、このままでは彼に迷惑をかけてしまう。

とにかく、ルキウスを止めようと思うものの、彼の腕はびくともしない。

ルキウスの力が、こんなにも強いなんて知らなかった。


「違うのよ、サイラスは」

「サイラス……?今、俺以外の名前を呼んだの?」

「え、あの、っ」


覗き込んできたルキウスの瞳が街灯に反射して、暗闇の中に潜む肉食獣のようでゾクリと肌が粟立つ。

動けなくなったわたしの身体に、腕が食い込むくらいに絡んできて、苦しさが襲ってくる。


息が詰まってうつむいたとき、彼の左手が視界に入った。

月明かりを浴びて光る、鋭利なナイフが数本握られていて。その手は赤く染まっていた。


「ルキウス……怪我、してるの……?」

「遅くなってごめんねシャーロット。アレをすぐに君の視界から消してあげる」

「消すって……なにを」


わたしの顔を見て、笑いかけてくるルキウスの頬にも血がついていた。

怪我をしているのなら、はやく手当てをしてあげたい。


けれど、わたしの言葉がまったく届いていないのか、ルキウスは返事をせず笑みを浮かべたまま。

ルキウスの力は弛むことなく食い込んできて。徐々に鳩尾がじんじんと痛み、息苦しさが増してくらくらとしてくる。


「ルキ、ウス……帰って、手当てを……」

「シャーロット……?」

「……私は、大丈……よ」

「っ…………」


わたしを見つめたままのルキウスはハッとした表情を浮かべては、すぐさま泣きそうに眉を下げてみせる。

同時に腕の力がゆるみ、金属音が辺りに響き渡る。

ルキウスがナイフを落としたようだ。


「ごめ、ロティ、これはっ、その」

「手当て、してあげる、から……帰りましょ……」

「……うん」


素直な返事にほっとしたものの、わたしの身体は解放されることなく抱き上げられて。

心配そうに見つめてくる、ルキウスの頬をハンカチで拭う。

頬には傷はなく、汚れていただけのようだった。


「貴方にも迷惑をかけたわ、お詫びはするから」

「あ、いえ、ではま、っ!?」

「チッ、仕留め損ねた」

「?」


逃げるように急ぎ去っていくサイラス。

顔色が真っ青だったから、非常に気の毒に思う。

申し訳なさでいっぱいだが、ルキウスは抱き上げたままでこの状況に緊張してくる。


「……わたし、歩けるわ」

「…………」

「ルキウス、ナイフなんて慣れないものを持ったせいで怪我をしたの?」

「え、その……ごめん」


ルキウスは落ち込んでるのか、暗い表情をみせる。

優しい彼のことだ。

武器まで持って探しに来てくれたのだから、きっとわたしが危ない目にあっているとでも思ったのだろう。

慣れないことまでして守ろうとするなんて、その優しさが身に沁みていくようだ。


「ありがとう、でも彼は違うのよ」

「知ってる、ギャレソン侯爵家の次男でしょ」


吐き捨てるように名を言うルキウスは、不機嫌さをあらわにする。

知っていたのに勘違いしたのだろうか。

それとも、サイラスのよくない噂があったからなのか。


彼の行動はまるで、嫉妬をしているように感じて落ち着かなくなる。

嫉妬なんて、彼がするはずないのに。


「……怖かった、よね?」

「どうして?慣れないことをしてまで守ってくれようとするなんて嬉しいわ」

「っ…………」


ルキウスはわたしを抱えたまま、ぎゅっと抱き締めてくる。

手が震えているような気がするけれど、もしかして傷に障っているのでは。


「ルキウス、傷口が開いて、」

「お願い、ロティ……き、嫌わないで」

「嫌いになんてならないわ」

「っ……やっぱり君だけだ……君しかいない……」


声が小さすぎて、聞き取れなかったものの。

彼の嬉しそうな顔を見て、わたしの気持ちは伝わったと感じた。


「終わったから、もう大丈夫よ」

「…………」


邸に戻り、わたしはすぐさまルキウスに手当てを施した。

怪我は見た目ほどひどい状態ではなく安堵したものの、ルキウスの視線は手に注がれたまま口も開かない。


ついさっきまで普段通りだったとはいえ、わたしは迷惑をかけた身だ。

話をしたくないほど怒っているのかもしれない。


「ごめんなさい、迷惑をかけて」

「…………」

「今日はありがとう、ゆっくり休んでね」


わたしがいつまでも傍にいては、彼は休むこともできない。

すぐにでも退出しようと立ち上がるが、ルキウスによってソファーへ引き戻される。

伸ばされたのは、怪我をしたほうの腕。握り締められて、わたしはハッとなる。


「傷がひらくわ」

「……髪、汚れてる」

「髪……?」


急になんの話かとも思ったけれど。

ずっと、街中をうろうろ歩き回っていたから、汚れていてもおかしくない。

わざわざルキウスが教えてくるほど、ひどい状態なのだろうか。


「気づかなかったわ、ありが」

「消毒……」

「ルキウス?」

「髪、消毒しなきゃ」


髪を消毒とは、どういう意味なのか。

ルキウスにとって、洗うことが消毒を意味するのだろうか。

と、思っていたものの。

髪を一房手に取り、寄せられる彼の唇。

彼の予想外の行動に、わたしの心音が暴れだす。


「っ、あの」

「離れないって、約束したよね?」

「やくそく……?」


もはや、約束どころの話ではない。

彼の指先が、わたしの髪を鋤いて流れていく。

髪に注がれていた視線は、ゆっくりとわたしを捉えて反らされることはない。


彼の行動ひとつひとつに、心を揺さぶられて顔が火照りを帯びていく。

見惚れるほど綺麗な瞳に射抜かれる。


「ねぇ、ロティ。俺はどうしたらいい。どうしたら──……」


わたしの髪は彼に弄ばれたまま、離されることはなかったが。

心は急速に冷えていく心地だった。


やっぱり、ルキウスは無理をしている。彼から弱音とも受け取れる言葉が吐き出されるほどに。

ルキウスのためにも、なるべくはやく解放してあげなくては。

とはいえ、今は御祖父様も公爵夫妻も不在のままだ。


「御祖父様やご両親はいつ頃戻られるか聞いてる?」

「ああ、祖父は別荘で療養中だし両親は各地を回って仕事してる。今は隣国にいるから当分帰ってこない」

「そうなのね」


ふたりだけの問題ではないから、正式に話しを通してからがよかったのだけれど。

隣国にいらっしゃるなら会えそうもない。


自ら別荘へ行って、御祖父様だけにでも話しをしたほうがよさそうだ。

それにしても、ずっと気になっていることがある。


「ルキウス、御祖父様からなにを言われたの?」

「は……?祖父?なぜ?」

「なぜって、無理をしてるでしょ?」

「なにを──」


目を見開いて射抜く、真っ赤な瞳にわたしが写る。

美しい双瞳は揺れていて、動揺しているのがありありとわかった。

今なら言えそう。ずっと伝えられなかったこと。

彼の頬に手をそえて、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「わたしは貴方に幸せになってほしいの」

「待って、ロティ」

「それがなによりの願いだから、わたしのことはもういいのよ」


指先を滑らせれば、彼の髪が触れる。

ふわりと浮いた毛先の柔らかさを堪能していると、大きな手のひらが重なってきて。じんわりと熱に包まれていく。


「そうか……君はそういうつもりなんだね、ロティ」


ルキウスの返事はなによりの答えだろう。

無理をさせるくらいなら、もっとはやく言うべきだった。

胸が鷲掴みされたように痛む。

ズキズキして息苦しくなるほどに。


「ねぇ、ロティ」

「うん?」

「夜会が終わったら、すべて話すから」

「わかったわ」


ルキウスの言葉は、そのときにすべてが終わるということを示していた。

どうしてこんなにも胸が痛むのかは、もうわかっている。

気づいてしまったから。

でも、このままでは誰も幸せにならない。


偽りは所詮偽りでしかなく、いずれ崩れ去ってしまう。

胸の痛みを押し隠して微笑んだまま、わたしは彼に寄り添った。

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