第3話 豹変した夫

その表情は柔らかな笑みまで浮かんでいて、わたしの心臓は激しく高鳴る。

手を握られたままなのも相俟って、とにかく耐えられない。


顔は熱いくらいだし、重なる手のひらには汗が滲んでいくよう。

もう、無理。と思って握られた手をルキウスから遠ざけようとしたのだけれど。


「……あの……」

「…………」


全然離してくれない。むしろ、余計に強く握ってくる。なぜなの。


「ルキウス……手を」

「汚れてるね、拭いてあげる」

「…………」


誰なの、この人。

一周回って、わたしの思考は他人事のようだった。

ルキウスは一体、どうしたんだろうか。笑みを向けて手を拭いてくれるなんて、こんな彼ははじめてだ。


「シャーロットは相変わらず、集中すると時間忘れるよね」

「え、時間……?」


ルキウスから指摘されて時計を確認すれば、すでに21時過ぎていた。

夕食までには切り上げようと思っていたのに、なんという失態を犯してしまったのか。


ルキウスはずっと、待ってくれていたに違いない。

申し訳なさが勝るものの、わたしの心音はうるさいくらい鳴り続けている。


「ごめんなさい、今夜って聞いていたのに」

「うん、夕食を摂りながら話をしようか」

「わかりました……あの」


言葉を交わしている間も、ルキウスは優しく丁寧にインクの汚れを拭ってくれている。

彼の手のひらから伝わる熱が全身に感化されたかのように、じんわりと温かみが広がっていく。


異性に手を握られたことのないわたしは、すべての神経が触れられている部分に集中しているようだった。


簡単にわたしの手を覆えるほどに大きくて、思ったより硬さがある。

綺麗に切り揃えられた爪に似合わず無骨な指。縫いつけられたかのように、目が離せない。


「……シャーロット?」

「っ、は、はい」


急に声をかけられて、肩が跳ねた。

もしかして、ずっと見られていたのだろうか。

恐る恐るルキウスへ視線を向けると、彼の赤い双瞳はわたしの顔ではなく、手のひらへ向けられていた。


ルキウスは見つめながら指をそっと撫でてきて。思わず悲鳴を上げそうになったわたしは、彼から離れようとしたのにまったく解放してくれない。


「あ、あの」

「シャーロットの手は小さくてかわいいね」

「…………」


うっとりとした表情で嘯くルキウスは、心底楽しそうである。

本当に誰なんだろう、この人。頭でも打ってしまったのか、というほど別人なんですけれど。


指先から感じる体温に、かわいいなんて言葉。

彼から与えられるすべてが未経験で、わたしのせいで無理をさせてしまっているのではと罪悪感を覚えるものの。


触れられている感覚がとても鮮明に刻まれ続け、ドキドキがおさまらなくてわたしの思考回路はめちゃくちゃだ。


「ルキウス、夕食を……」

「……ああ、そうだったね」


どうにか絞り出した声は小さかったが、ルキウスは口元に笑みを浮かべて反応を示した。


すぐさま立ち上がり部屋を出ようとするものの、わたしの手は解放されることなく握られたままで。

離してくれるどころか、ルキウスの指先が深く絡みついてくる。


そのせいで頭の中が真っ白になったわたしは、ルキウスにされるがままダイニングルームに行くことになった。


「…………」


すっごく気まずい。

ルキウスは食事に手をつけず、こちらをじっと見ているだけ。なにも喋らないから、口に運んだ食べ物の味すらわからなくなってきた。


「……食べないの?」

「食べてるよ」


なにを。

ルキウスは一体、なにを食べているというのか。

彼の目の前にあるプレートはまっさらで、カトラリーにすら触れていない。

ルキウスは頬杖をついてわたしの顔を見ているばかりで、食事を摂ろうともせず、視線が合うと笑いかけてくる。


思えば、ルキウスと一緒に食事をするのもいつ以来だろう。

誕生日や客人を招いたときに卓を囲むことはあっても、ほとんど家にいない彼とは言葉を交わすのも稀だ。

笑いかけてくれるなんてもってのほか。わたしが離縁と言い出したから、無理をしてるのではと疑ってしまう。


「ねぇ、ルキウスあのね」

「今日は君の好きなデザートを用意したんだ」

「デザート?」


いうなりルキウスはメイドに合図を送り、デザートの準備をさせる。

目の前に用意されたのは、わたしの好きなトライフルだった。多分。


「わぁ!すごい、わ……」


用意されたトライフルに歓喜の声を上げたのだが、語尾が萎んだのはいうまでもなく。

凄いけれど、むしろ豪華すぎる。


トライフルは庶民的な食べ物だ。洋酒のいい香りに、何層にも重ねられたスポンジケーキとカスタードクリーム。

それにいくつものフルーツが加えられた、グラスサイズのデザートだけれど。


差し出されたものは、トライフルというよりホールケーキのサイズで。

しかも、何層あるのかというほど、スポンジケーキとクリームに、イチゴやオレンジそれにベリーまである。やりすぎでは。


「あ、ありがとう……」

「喜んでもらえてよかったよ」


今日は特別な日だっただろうか、と勘違いするほどだ。

とてもじゃないが、ひとりで食べきれる量ではない。


「ルキウスは食べないの?」

「食べてるから大丈夫」


さっきからなにを食べているのか。まったくわからない。

頭を抱えそうになるものの。考えても仕方がないと、ルキウスの好意をありがたく受けとることにする。


「いただきます」

「どうぞ」


柔らかな声音で返したルキウスは、まぶしいくらいの笑顔を浮かべており楽しそうだ。

そんなルキウスから目を反らし、用意された大きなトライフルに手を伸ばす。


プレートに取り分け口へ運ぶと、仄かなアルコールとクリームの甘さ。

後味にイチゴの酸味が広がって、食べなれたトライフルの味に自然と笑みがこぼれる。


「……かわいいなぁ……」

「?」


なにか話しかけられた気がしたけれど、ルキウスの口は閉ざされたまま。

こちらをじっと見つめているばかり。

気のせいかしら。


「とても美味しいわ。ルキウス本当に食べないの?」

「美味しいよね、とても甘い」


なにが。

本当にどうしたというのか。まったく食べていないというのに、ルキウスの口内にはなにが入っているのか不思議でならない。


「それで、話があるんだけど」

「ええ、そうだったわ」


ルキウスの不思議な言動に忘れるところだったが、大事な話をするためにダイニングルームへ来たことを思い出す。

わたしはシルバーを置いて口元を拭い、彼の言葉を待った。


「アーノルドから招待状がきてたよね?」

「あ、ええ……」

「それで、明日ドレスを仕立てるために王都に行くから用意しといてね」

「はい……?」


てっきり離縁の話がでるもの、とばかり思っていただけに拍子抜けしてしまった。

ドレスを仕立てに王都に行くなんて。


ああ、でもそうか。

夜会は男女同伴が基本である。しかも、アーノルド王太子殿下から直々の招待で欠席はできない。

その前に離縁というのも、醜聞が悪くなってしまう。


もしかしたら、ルキウスはその夜会までは付き合え、ということを言いたいのだろう。

でも、今まで仕立てに行くなんて、彼から誘われたことないのに。


「では、一緒に……?」

「そ、デートだね」

「デート…………」


デート。まさか、ルキウスの口からそんな単語がでるとは思いもしなかった。


ドレスはいつもルキウスがあらかじめ用意していたものを着るだけで、婚約者であった時からも一緒に出かけた試しはない。

本当にどうしたのだろう。


「ふふっ、楽しみだね」


わたしは彼の変わりようが怖いのですが。

艶やかな笑みを向けられて、わたしはうなずくしかできなかった。

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