第26話 愛をそそぐ人

 ──私にはね、香奈子という二つ年上の姉がいたの。

 当時、香奈子姉さんは、とーちー……いや……司さんと結婚していて、私はね……司さんの双子の弟である神野修二と結婚していた。

 そう、私達姉妹は同じ家に嫁いでいたんだ……仲も良くてね、よく喫茶店で待ち合わせしていたわ。


<カランカラン>

 ──木製のドアに付いたベルが大きく揺れる。

 

息を切らして喫茶店に入ってくる男性は、二人の女性の前に立つと頭を下げて謝った。

「遅くなってゴメン!!」

 

「ウフフ! 大丈夫よ司君、おかげで菜桜子と楽しい時間を過ごせたわ!」

 

「こんにちは、司さん。お気になさらずに」


「こんにちは!! ああ良かった。香奈子に晩御飯抜きにされるとこだったよ」


 ひきつった顔で笑う香奈子「司くーん……」


「わわっ、うそうそ! 冗談、冗談!!」


「ハハハハハ!」おどける司と意地悪する香奈子を見て笑う。

 いつ見ても二人のやりとりは面白くて一緒にいて楽しかった。


「まったく──」


「じゃあ姉さん、そろそろ病院の診察時間だからいくね」


「うん、わかったわ」


「あれ、修二と綾人君は?」

 

「二人は、家で荷造りしてるんだって」

 

「じゃ、姉さん。また引っ越す前に時間作って全員で挨拶に来るから」


「分かったわ。菜桜子、外寒いから気をつけなさいよ!」


「菜桜子さん、二人によろしくね」


「うん、ありがとう。またね」


 大きなお腹の菜桜子を見送りながら香奈子は呟く。

「お腹の子の名前はもう決まってて名前は『茉莉』だって。ふふっ、賑やかになりそうね」

「そうだな……」


 病院に向かう私は、振り向かず歩く。

──なぜなら、姉さん達が少し寂しそうに私を見守る姿がつらかったからだ。


 姉さんと司さんは子供が欲しかったが出来なかった……。いや、正確にいうと出来ない体なのだ。


 姉の香奈子は幼少期から体が弱く学生時代に癌の手術をしている。

 そして、先天的に女性の腟が欠損し、機能性子宮を持たない疾患“ロキタンスキー症候群”。

 また司さんも精液中に精子が全く見られない状態が続く“無精子症”。

 二人は、お互い子どもが持てないことを分かって結婚をした。

 

──そんなある日、仕事の都合で東京を離れる事になった私達家族は、最後のお別れに香奈子姉さん達と食事をしようと待ち合わせ場所に向かっていた。

 

「修二君、綾人の手を離さないでね」

 

「わかってるって、菜桜子の方こそ、お腹大きいんだから気をつけて歩けよ」


 幸せだった。

 家族で並んで歩くことだけで満たされた気分になっていく。

 お腹の子も生まれて四人で歩いたらもっと幸せなんだろうな──。

 そんなことを考えながら修二君と綾人の後ろをついていく。

  

──その頃、道路に面した飲食店で待っていた司と香奈子は、反対側の歩道を歩いている菜桜子達を見つけ手を振りだした。


「あっ、あれ修二さん達だよ。司君と同じ顔だからすぐわかったわ!」

「ほんとだ。おーい!!」司が大きく手を振っている時だった。


 香奈子の側をガードレールを擦り、激しい音をあげながら一台の車が猛スピードで走り抜けていく。車には運転席のドライバーが乗っている様に見えない。

 

「危ない!」司は香奈子を引き寄せる。

「な、何、あの車! やだ……止まらないよ‼︎」

 

 前を歩く修二君が綾人を抱え急に振り返る。反対車線を蛇行運転する赤い車は、ブレーキをかけることもせずガードレールを突き破り、歩道に突っ込んでくるのが分かった時にはもう遅かった──。

 

「きゃあ──! 菜桜子!!」

「お、おい! 修二、綾人!」


 うわぁ────!

 大変だ! 人が轢かれたぞ!

 救急車!!

 男性が一人巻き込まれたぞ!

 

 次々に人が集まり、呆然としている私達をよそに、スマホで事故現場の写真を撮る野次馬たち。辺りはとても騒がしいはずなのに、周りの音が消えていくように思えた。


 ──そして総合病院に運ばれた後、修二君の死亡が確認された。

 あっけない死。

 まだ若い。

 それなのに、なんの前触れもなくこの世からいなくなるなんて──

 

 運転手は八十歳の高齢者。運転中、心筋梗塞で倒れたことによって起きた事故。

 人間として、持病もなく健康的な身体であっても、他人によって奪われる命とは何なのか。

 このやり場のない怒りは、どこに向ければ良いのか神様を呪った。

 

 目を瞑れば、あの時の状況が脳裏に蘇る。

 ──このままでは轢かれる。

 もう少しゆっくり歩いていれば──。

 もう少し時間をずらしていたら──。

 自分を幾度と責め続け、頭がおかしくなりそうだった。

 

「姉さん、修二君は……修二君は私と綾人をかばって……ウゥッ……」

 

 香奈子姉さんは触れているのさえ分からない程、とても優しく菜桜子を抱きしめてくれる。


「ああ……私これから、どうしたらいいのかわからない……」

 香菜子に涙を流しすがりついた。

「こんなに苦しいなら……一緒に死ねば良かった……」


 香奈子は目を見開いて両肩を掴むと激しく私を叱った。

「菜桜子ダメ! 死ぬなんて考えちゃ、ダメよ‼︎ “生きなさい”どんなに苦しくても……綾人や…… 生まれてくる赤ちゃんの為にも」

 

 ──そうだった。

 私には綾人や生まれてくる茉莉の為にも生きていかなくてはいけないのだ。そんな、当たり前の事さえ考えられない程になっていたなんて、私は馬鹿だ……。

「姉さん……私、私……うわぁぁ──ん!!」

 

「香奈子……俺達ができることがあれば何でも協力してあげよう」

 司の思いを受けて香奈子は思案する。

 

「……グス……ヒック、ヒック!!」

 

「菜桜子聞いて……貴方達全員、私達と一緒に暮らさない? 私達は家族でしょ。落ち着くまででいいから……」

 

 香菜子は振り返り司に頭を下げる。

「司君、お願いします! どうか妹達を我が家に──」

 

「そんな……姉さん……」

 

 側で見ていた司さんは姉さんの方を向いて頷く。

「──菜桜子さん。俺達の家は、古いけど無駄に広いし部屋は困らない。香奈子の言う通り、良かったら落ち着くまででも、来てくれないかな」

 

「司君──。流石、私の見込んだ人だけはある!」そう言って香奈子は司に抱きついた。

 

 人の心を癒すのは人の心だけなのだろう。

 二人の思いやりには、憐れむ気持ちなどはなく純粋に親身になって考えてくれている。その姿は、私の沈んだ心を前向きになるように引っ張ってくれた。

 

「姉さん、司さん……よろしくお願いします」私は頭を下げると二人は笑顔で返してくれた。


──香奈子姉さんと司さんが住む、大きな一軒家は、築年数はかなりたっているが、手入れした庭を見ただけでも丁寧な暮らしを過ごしているのが分かった。

 二人は、気落ちする私や綾人。それにお腹にいる茉莉のために、とても親身になってくれた。


 例えば、街中の公園に出かけた時には──。

「香奈子、綾人君が砂を握ってお山を作ってるぞ。天才だ!」


「すごいわ、菜桜子」


「いやいや、普通ですよ司さん」


「綾人が可愛すぎるから誘拐されないか心配だわ……そう思わない司君」


「た、たしかに……」

 

「ちょっと何言ってるの姉さん」

 

「香奈子、綾人君が石を持ち上げた! すごいチカラだ」

 

「凄いよ司君。このまま育ったらトラックを持ち上げちゃうじゃない……」


「いやいや、司さん。どの子でも小石ぐらい掴めますよ」


「ええっ……そうかな」


「そうですよ二人共。まったく大袈裟なんだから……クスクス……」

 

 ──あの時支えてもらえなければ不安と葛藤に私は潰れていたと思う。

二人ともわざと大袈裟にしてくれてたんだろう。私の後悔の気持ちを考える間を与えない様に。


 それだけでない、植物園や水族館、クリスマス会等、これでもかと企画をして私の心を癒してくれた……。

このまま、仲良く暮らせれば嬉しいと何度思っただろう。


 ──しかしその幸せも長くは続かなかった。

 半年ほど経った頃、香奈子姉さんの癌が再発したのだ。

 余命は一年、彼女は自宅療養を選んだ。


 アパートの中庭で日向ぼっこする姉さんを見る機会が多くなった。

 外に出ることもなく日に日に衰弱していく姉さん。

 同じように司さんも元気がなくなっていった。


 そして、数ヶ月が過ぎた、とても穏やかで暖かい日に、姉さんは私達に話があると中庭へ呼んだ。

 

「……」

 

「今日はいい天気ね…… このまま外に遊びに行きたいわ」


「ああ、まったくだ」司が一番に答えると香奈子の隣に腰掛けた。


「菜桜子のお腹も大きくなったね 。綾人は寝てるの?」


「うん、居間の安全な場所で寝ているわ」そう言って菜桜子も腰掛ける。


「香奈子どうした、寝てたほうがいいんじゃないか?」司の話を遮るように手の平を向けて話す香菜子。


「ねえ、二人にお願いがあるの……」


「どうした、何でも言ってみろ」


 香奈子は笑顔を作らず神妙な口調で話した。

「……貴方達、結婚しなさい!!」


「はあぁ────⁉︎」思いがけない提案に、私だけでなく司さんも目を見開いた。


「ちょ、ちょっと姉さん何言ってるの!?」


「香奈子お前、ふざけてるのか⁉︎」


 香奈子は大真面目だった。

「私は本気よ……私が死んだら司君は悲しみに暮れ、私と結婚する前のだらしない生活に戻るはずだけど、菜桜子がいると、そんなことできないでしょ!」


「な、なんだと、縁起でもないこというんじゃない!」


「菜桜子も一人で子供達を育てるのは難しいでしょ。精神面でも金銭面でも司君の存在はとても頼りになるわ」

 

「ちょっと姉さん……急に何言ってるの?」


「司君……菜桜子……お願いします!!」そう言った後、香奈子姉さんは深々と頭を下げた。

「ニ人は私にとってどちらも大切な人なの、あなたたちなら素敵な家族になれるわ。私の最初で最後のお願いよ──」

 香奈子姉さんは、まだ頭を下げ続けている。


「そんな……」司さんは、受け入れ難い顔をして、私も何も言えずにただ立っていた。


<ウッ、ゴホッ、ゴホッ!>

 激しく咳き込む香奈子。


「香奈子!」


「姉さん!」


 胸を押さえて私達に消えそうな声で話す香奈子。

「ニ人とも……ね……、約束よ……」


「菜桜子さん、救急車を!!」


「はい!」


 ──幸せだった人生からどん底に落とされて、力を取り戻したと思ったら、もう一度大事な人を連れていくなんて、神様は、どれだけ私に試練を与えるのだろうか。

 

 葬儀を追えて薄暗い居間に二人で座る菜桜子と司。隣の部屋に布団をひいて眠る綾人はスゥスゥと寝息をたてている。


 虫の声が聞こえる程の静かな夜。

 沈黙を先に破って司さんは話し出した。

 

「菜桜子さん……」


「はい……」


「俺は香奈子が好きで好きで……大好きだったんです……」


「私も……修二さんが大好きでした……。そして同じように姉も……大好きでした……」


「菜桜子さん……偽装結婚でもいい……貴方や綾人と、お腹にいる子どもが成長するまで、俺に手助けさせて欲しい……」


「そんな……」


「何もなくなった俺に……生きる意味をください……」

 司さんは、涙を拭かず私を見る。


 ──ああ、この人も私と一緒で辛い、辛いんだ。その気持ちは知っているので痛いほどわかる。


「私、私……修二さんの全てを無くしたくないんです……」

 それでも、この本音だけは伝えなければいけない。 


「だから、綾人達に司さんを 『父さん』と呼ばせられません」

 司の思いやりを受け入れられない私はなんて薄情なんだろうか。顔を両手で覆い泣き続けて伝える。

「だから……結婚は無理です」

 

──分かっている。私一人では、綾人だけじゃなく生まれてくる茉莉も育てられないことを。

「でも……誰かいないと……私も一人では、つぶれてしまうんです……」


「……修二の為にも、香奈子に誓って結婚しても貴方に手を出すことはしません。その事を忘れないように綾人達には俺の事を『 父さん』とは呼ばせません。俺は貴方達の“たいまつ”となって先を照らす存在になるだけで良いんです。だから綾人達には俺のことは、ずっとあだ名で『とーちー』とでも呼ばせます」

 

「司さん、もし……綾人達が自分から『父さん』と言う日が来たら──、その時は本当に結婚しましょう」


「────」


 ──透明な涙を流しながら話す菜桜子が、語り終わるのを待っていた様に病室に巡回の放送が流れる。

 

「そして、司さんと今日まで一緒に暮らしていたの──」

 

「それじゃあ、とーちーは俺達のために無理して父親になってくれたの!?」


「香奈子姉さんの最後のお願いもあったと思うけど、無理矢理じゃなく、綾人や茉莉と生活することを心から喜んでいたわ……隠しててごめんなさい……」そう言って頭を下げる菜桜子。


「かーちー頭を上げてよ。俺は、そんなことも知らずに、 とーちーに酷いことを……」


 茉莉を見ると、涙目でこっちを見ていたので、なぜか分からないがお互い同時に軽くうなづいた。


「そうなんだ……本当の親は”修二”って言うのか……」


「私達を守って死んじゃったんだね……」


「ねえ、修二父さんは、どんな人だったの?」


「とーちーとは全く正反対の性格。見た目は瓜二つだけどインドアで、どちらかというと無口なタイプだったわ。記念日は必ず覚えてて、いつもさりげない優しさで私達に接してくれたわ」

 

「えー!! 見たかったなー、 修二父さんに会いたかった」


「俺も全然覚えてないや」


「修二君が亡くなった時、綾人はまだ一歳だったから……」


「そうなんだ……それで”とーちー”は、ずっと育ての親として接してくれたんだね……」


「綾人、茉莉…… 隠しててごめんね……」再び頭を下げる菜桜子。


「かーちー、ほんとに! なんで隠してたの!!」

 いきなり大きな声で話す茉莉に菜桜子は思わず顔を上げる。

「ニ人も父親だって……ニ人も父親がいたら、ニ倍嬉しいじゃない!!」そう言って笑顔になる茉莉。

「ねっ、綾人! 私達には産みの親と育ての親がいるんだね。なんか家族いっぱいいると楽しいじゃん!!」


「ああ……茉莉の……茉莉の言うとおりだ!!」


「思い出もニばーい、ニばーい!!」


「ハハハ!!」綾人と茉莉は笑う。


「そういうことだから……かーちー気にしないで」


「うん……うん……ありがとう、ありがとうニ人とも……」


 時計を見る菜桜子。

「……もう直ぐ検診だよね、また、後で来るわね」


「もう一回くるからねー、ではさらばじゃ!!」

出ていく茉莉を見て(茉莉……お前の明るさで、かーちーも救われたよ。いつも笑顔をありがとうな)と感謝した。


「──」

 

 静まる病室で、綾人一人になって検診を待つ。


「とーちーは、いろいろ考えてくれてたんだな……」

そういえば、一緒に暮らすと決めた時に、なぜ“とーちー”というあだ名にしたのかを考えてみた。

「もしかしたらそれも、実は意味があったりするのかな」


貸し出しのタブレットで、とーちーと検索してみたが思った結果は出なかった。

「別に意味は無かったのかな」と、試しにローマ字で打った“tochi”は“torch”と予測変換されてしまうのだが、そこで興味深い文を見つける。

”たいまつ”を英語で”torch”と読むのだ。

 

「そうか……俺達の前をずっと照らしてくれたんだな……。とーちーらしいや」と、鼻で笑って、何気なく“もっと見る”をクリックした画面で指が止まる。

  

 そこには、スラングな意味で“恋人や夫婦関係が終わっているものの、相手に対して未練がある状態がある”と書かれていた──。

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