五章
第35話 樹とミツキ
「今日は樹に、休戦の申し出をしにきたんだ」
樹のそばに立った閏は、前置きはせずに目的だけを告げる。
長い説得でもされるのかと思っていたのか、樹は少し目を見開く。
だが、しばらくすると、閏そのものに興味を失ったかのように顔をそむけた。
「がっかりだな」
ここで終わるような閏ではない。
「勘違いしないでほしい。俺は自分の正義が証明できなかったわけじゃない。だけど気付いたんだ。戦争は正義と正義のぶつかり合いだけが火種になるとも限らない。恐怖や不安が戦争を引き起こすこともあるんだと」
正義も悪もないトラウマのような心の傷が引き起こす戦争もあるんだと閏は訴えた。
「閏は何もわかっていないんだ。そりゃ僕の気持ちをこれほど理解してくれた人はいない。だけど、タイムリミットの話で言えば、既に手遅れだ。休戦を望む時点で僕たちの戦いは止められない」
樹の言葉は正直に言えば打つ手なしを思わせる絶望的な言葉だった。
しかし、閏は諦めずに次の言葉を探した。
「俺は休戦できると思ってる。今は俺のそばにたくさんの仲間がいる。だけど、みんな精神汚染は受けていない。本当に邪魔したいならみんなの心もめちゃくちゃに壊しているはずだ。樹も今は迷っていると思うんだよ」
黙る樹は肯定も否定もしない。
「それにそれは、樹だけの意見かもしれないだろ。樹の中のもう一つの魂は違うことを言っているかもしれない」
ばっと顔を上げた樹は眉間にしわを寄せ、憎い仇を見るような鋭い視線を閏に向けた。
「でたらめを……!」
「でたらめなんかじゃない。俺は学園都市エデンに入る前に『世界の果て』から救難信号を受け取っていた。『たすけて──』ノイズがひどくて詳細は聞き取れなかったけど、確かにそう言っていたよ」
樹の顔は傷付いたように陰った。ぎゅっとシーツを握る樹の手は白い。
「……どうして……いつから、閏は僕たちが二人いると気付いていたんだ……?」
言い出すのも気まずくて閏は少し視線をさまよわせた。
「ごめん。俺は魂を食らう魔人なんだ。本当は、最初に出会った時から気付いてた」
言うのが遅すぎたと閏は樹に謝った。
はあっと長い息を吐き出した樹は遠くの窓を見ながら答える。
「──なるほどね。どおりで『ナイトホークス』を見ただけで僕の悲しみを理解したわけだ」
ずるいな、そう呟く樹の横顔は寂しそうで、閏は胸が苦しくなった。
「僕とミツキは二卵性の双子なんだ。だけど、僕たちは奇形児で、男児の体一つしか母親のお腹の中で育たず、一つの肉体に男女の魂を二つ内包したまま生まれてしまった」
君が僕たちを取り上げてくれればよかったと、樹はため息をつきながら話す。
「医者も両親も僕たちが奇形児だということに全く気が付かなかった。僕たちが二人、それぞれ違う意味で泣いていても、同じ声じゃ気付かないし、赤子のうちは普通に暮らしていたよ」
赤子の頃の記憶まで鮮明に覚えているということは、樹は常人の二倍、ミツキがいる分脳を多く働かせることが出来ているのだろう。
「でも、言葉を話し出すと、両親は困惑した。名前も付けてもらえなかった僕の妹は女の子なんだよ。男の体しかなかったとしても、ミツキが興味あるものは可愛いものや絵本の世界。僕は父親の腕時計やパソコン、走る列車に夢中になった」
男女で趣味や思考が変わるのは当然だろう。しかし、一つの体でそれを行うとどうなるのか。
「多重人格を疑われた。僕もミツキも最初は本当に医者が言うように自分で作ったもう一つの人格なのかと思ったよ。でも、症状がまるで違う。僕たちは同時に二つのことを思考して、一つの体を奪い合う日々だ。毎日自分と喧嘩をしているように見える僕たちは奇妙だっただろう」
わかってもらえない辛さをシーツにぶつけるように、樹は力の限りシーツを握った。
「両親はお互いに責任をなすりつけ合って喧嘩の絶えない日々さ。そのうち無責任な父親は家を出ていき、母親はノイローゼになった」
閏の気持ちの中では樹の両親に罵倒したい気持であったが、今は静かに樹の話を聞いていた。
「施設に送られた僕らだったけど、当然他の子たちとも仲良くできなくてね。それじゃあ僕とミツキだけ二人仲良く自分の世界に閉じこもるのかって、そんなことすら出来ないんだよ」
吐き捨てるように樹は言う。
「絶えずお互いの思考が入ってくるんだ。一人でゆっくり考え事もできない、読書もできない。音楽鑑賞も、絵画を見て思考の深くに入ることすら僕たちには出来ないんだ」
「地獄だな……」
思わず本音が零れていた。
「そうだね、まさに地獄さ。僕たちは閏が証明して見せたように孤独と自由を強く求めたんだ」
当然のことだと思えた。一人の時間を持てなければ、樹とミツキの精神まで狂ってしまう。
「幸いなことに僕とミツキは同時に脳を使うことができる。普通の人より学習するスピードは早いし、理解も早い。精神ネットワークを解析してお互いの思考をブロックできる精神防壁を作り出そうと研究を始めたんだ」
天才ハッカーの誕生というわけだ。
「研究は成功した。だけど、精神防壁にはお互いに鍵をかけられるんだけど、鍵を開ける役目は肉体を支配している表の精神にしか出来ない。ミツキは僕より大人しいから、普段は奥に引っこみたいと言ってね。表で主に動くのは僕の役目になった」
シーツを離し、文庫本に優しく触れる樹は泣き出しそうな顔で続きを話す。
「最初のうちは自由を得られたと僕も嬉しくなったさ。自分一人の肉体、自分一人の心。読書をしても邪魔な思考は入らない。静かで穏やかな日々を幸福に感じていたんだ」
当たり前の日々を享受することを、誰が悪と言えるだろうか。
「一日おき、最初はそう思ってた。だけど、鍵を開けてミツキに声をかけても、ミツキは外に出ることを嫌がる。そのうち、三日に一回、一週間に一回、だんだんミツキに声をかける頻度が少なくなっていった」
胸を押さえる樹は苦し気に呟く。
「すぐそばにいるのに、星よりも遠い遥か彼方にミツキの心は僕から離れていったよ。仕方ないよね、僕は裏切り者だ。僕には名前があって、心と一致している体があって、恵まれていたのはいつだって僕だけだったんだから」
裏切り者だと嘆いていたことりの顔を思い出した。相手の心に寄りかかるだけでは、友達と呼べないんだと嘆いたことりは美也のために立ち上がる前はきっと一人で泣いていただろう。
「もうわたしに話しかけないで。ミツキに言われて大切な人を傷付けて、大切だったことに気付かずに、大切な人を失っていたことに気付いたよ」
子供のころから一緒に居た大切な召喚獣を失った美也は『世界の果て』という死に近い場所まで行こうとしていた。
樹もそうなんだとしたら、どんな言葉をかけられるだろうか。
「ミツキのための体が欲しい。僕がそう願って召喚獣のメカニズムを調べていた時に、古城マカが僕らの前に現れたんだ」
施設にいた樹を召喚士専門学校に誘ったのだという。
「どこでミツキの存在や僕の思いに気付いたのか知らないけど、魔女も魔族だし、僕の体の中に魂が二つあることを知るのは簡単だったのかもしれない」
麦虎はおそらく嗅覚で気付いていたので、魔女が気付いたとしても不思議ではない。
「『ガフの部屋』の魔力を使えばいいと古城マカは提案してきたんだ。魔女たちの企みはブービートラップを無効化して『ガフの部屋』を手に入れることだけど、用があるのは人間族の前で中身を暴くときだけ。そのあとは好きに使って構わないと言ったんだ」
なんとなく閏にも今回の事件のからくりが見えてきた。
「ブービートラップを無効化するために樹の協力を取引に持ちかけてきたんだろう?」
その通りだと樹は頷いた。
「閏も、もう気付いたと思うけど、魔女七人の視覚をパズルのようにバラバラに分散させたんだ。精神ネットワーク上には無意識というブラックホールのような穴がある。魔女の視覚で得た情報は魔女の共有ネットワークの中にある無意識の穴に落とし込んだ」
息を吸い込んだ樹は一気に吐き出すように続けた。
「魔女の全員が無意識のうちに『ガフの部屋』の中身を見続けている状態だ。ブービートラップは機能を果たせず宙に浮いた状態になった。そして僕は『ガフの部屋』にミツキの情報を送り込んだんだ」
無意識の領域では脳の機能をフルに活用できると言われている。バラバラになったパズルのピースも一瞬で再構築できるだろう。しかし、どれだけ細分化したのかわからないが、見る場所も見てる角度も違う七人の視覚を共有したところで、思考の上では再構築できない。魔女の目に映りながら見ていない状態になる。
「ミツキの魂を移す方法は魔女にもわからない。だけど、ミツキの記憶、ミツキの感情、これまで僕たちが共有してきた全てのミツキの情報を与えれば、そこにミツキの魂は生まれると考えたんだよ」
魂を移す方法は閏にもわからない。肉体と魂が別々で動き出す事例は聞いたこともない。
「だけど、『ガフの部屋』は僕たちの想像を遥かに超えていた。邪神の作った魔導具に宿る魔力は神の領域だよ」
閏自身、その見解に驚きはないが、樹や魔女たちにとっては衝撃的な事実だったのだろう。
「ミツキの情報を流した途端、そこに生まれたのは『ガフの部屋』の魂だ。ミツキの情報なんて一切知らない、ブービートラップと過ごしたユナの人格を宿したユナの魂だよ」
ため息を吐き出す樹は何もかも諦めたかのように投げやりに語る。
「お手上げだよ。既に生まれた魂の汚染なんて不可能だ。さらにブービートラップにも念話を通して人格を持っていることが判明した。セツナは僕に言ったんだ。ユナをこのまま解放してほしいと」
やはり、セツナは自分の意志でユナのところに戻らなかったとわかる。
「ミツキの解放を願う僕に、『ガフの部屋』という捕らわれ隠ぺいされた存在の解放を願うなんて、悪趣味が過ぎる……!」
「でも、断れなかったんだろ。樹はユナに何もしなかったもんな」
唇を噛み締める樹は赤い血に悔しさを滲ませて怒気を放つ。
「良い人みたいに言うな!! 僕は自分の醜さに気付いて神の前で怖気づいただけだ!!」
恫喝されるとは思わず、少し驚いた閏は後ろに引けた腰をなんとか持ち直すようにたたらを踏んだ。
「怒るなよ、俺は樹が悪いだなんて」
「悪くないとでも言うつもりか! だったらユナの魂を喰ってくれよ! 器さえ手に入れば僕は救われるんだ!!」
誰かを犠牲にして、誰かを救う。そういう正義もあるかもしれないが、自分のために他の誰かを殺せと言う正義などあるはずない。
「……魔人の正義に反したのはここにある魂だ」
しかし、そう言った瞬間、閏は敏感に樹の口許が緩むのを見て取った。
笑みを浮かべようとしていた。心から安心しきったように。
ふと思い出されたのは「僕は、主人公の自滅を、恵まれた者のおごりだと感じたよ」という樹の言葉だ。
これは、反転している。
『真実は体験するもので、教わるものではない。』またあの言葉が思い出された。
事実は教わった内容ではなく、今この瞬間、目に映る状況だと理解したとき、全てが反転していたのだと気付いた。
「──ミツキ……? まさか、お前がミツキなのか?」
驚いた顔をした樹の顔が二重になって見えるのを感じた。そこには樹とよく似た女性の姿が幻となって浮かんで見える。
「そうよ。恵まれてるくせに奥に引っ込んで出てこないのは樹の方。樹はナイトホークスを部屋に飾ったのを最後に、心の奥へ引っこんだままよ」
思い返せば気付ける場面はいくつかあった。絵画を愛する者が、あれほど雄弁に語りかけてくる絵画に向かって無口とは評さないだろう。樹の悲しみを代弁したからと言って、あれほどヒステリックに怒りを現したのもおかしな話だ。主人公の自滅が、恵まれた者のおごりだと気付いているものが、まるでおごった態度でユナの消滅を願うはずがない。
「哀れに思うのならユナの体を私にちょうだいよ!! 私たちの正義は決別以外ありえない!」
涙ながらに叫ぶミツキは、樹を救いたいのだろう。自分を犠牲にしても。
「ユナの魂を食べれば空っぽの魔導具だけ手に入るわ! あなたならできるじゃない!」
きっと、何度呼んでも出てこない樹を、この世界に取り戻す方法は、自分が樹の体から出ていくしかないと考えたんだ。
「……『ああ、われはいたく疲れたり。』」
気付けば、車輪の下の主人公と同じように、詩をそらんじていた。
「『ああ、われはいたく疲れたり。ああ、われはいたく弱りたり。さいふに一銭だになく、懐中無銭なり。』」
「な、なによ……」
おそらく、ミツキはこの詩を何遍も何遍も読み返していたのだろう。
壁に飾られた『ナイトホークス』は無口で、樹の心情を教えてはくれなかったから。
だが、それは違うと閏には断言できる。樹と同じく絵画を愛する者であれば読み違えない。
「車輪の下の主人公は一見すると、この詩のように大人たちに振り回され、ひどく疲れて自滅したように思える」
ミツキは黙って聞いていた。そうじゃないのかと目で訴えかけてくるようだ。
「君が『デミアン』でも『シッダールタ』でもなく『車輪の下』を読んでいたことに違和感を感じたんだ。樹の孤独は決して自滅を願うような消極的な疲れから来るようなものではないと『ナイトホークス』から感じ取っていたから」
ホッパーは確かに孤独と自由を渇望していたであろう。しかし、それは絵を描くためだ。
言うなれば生きるために渇望していたに過ぎない。
「樹は車輪の下じゃない。少なくとも、戦争を何よりも憂い、子供たちの未来を憂う、ヘッセが書いた車輪の下の孤独に共感したりしない」
閏が感じた樹の渇望する孤独は深い森の中。夜の散策で見つけた湖の湖畔に腰かけて、森の匂いを吸い込み、森の声を聞く。生きていると実感できる有意義な時間だ。
「樹ならヘッセの生き方そのものから喜びを見出す。車輪の下を読んでも、きっと友との繋がりを愛しただろう」
それまで黙って聞いていたミツキは眦を吊り上げた。
「あんたに樹の何がわかるのよ!!」
「ミツキとの生活に疲れ果てたなんて樹が言ったのかよ!!」
恫喝に負けじと閏も大声で反論した。
「巣を置いて飛び立ちたければ好きにすればいい。だけど、旅立ちの理由を巣のせいにするな。さっさと飛び立ってくれなんて言っちゃいないだろう。重たくて潰れそうだと巣が言ったわけじゃない」
悔しそうに唇を噛み締めるミツキは小さく呟く。
「……何も言わないなら、言われたも同じよ」
「自滅を願ったのはミツキだろ。俺に『たすけて』と言った」
真実、激情に駆られて閏の目の前にある魂を食ってくれと懇願していたのだ。それが魔人の正義だとわかっていたから。
「ユナの魂は喰えない。魔人の正義に反してない。ユナを殺せと言うミツキの正義とは分かり合えない。だけど、魂の判別も俺にはできない」
間違えて樹の魂を喰ってしまったら、魔人の正義に反する。
「あんたの正義は見栄えがいいだけよ! 私たちの立場では決別以外の正義はない!!」
それもまた真実なんだろう。
「だから、休戦だよ。ユナに危害を加えないなら、俺もミツキを粛清しない。まぁ、やりたくても神の領域というユナの魔力に干渉する術もないだろうけど」
閏は踵を返し保健室から立ち去ろうとしていた。
「……絵画は画家がそのとき抱いたいっときの感情の代弁者になれるかもしれない。だけど、体に傷を刻み、シミを残し、黄ばんで、香るほどに長く歩んだ歴史の代弁者にはなれない」
「なによ、何が言いたいのよ?」
「清潔で傷の無い部屋は見栄えよく、ひどく居心地が悪い。自分の部屋なら傷もあるしシミもあるし歴史があるものだろう。心があるのなんて当たり前だ。部屋にすら自己を主張する心があるんだ。……願わくば、ミツキの思いに応えてほしい」
その言葉だけを友に残して、今度こそ閏は保健室を後にした。
廊下では、麦虎とユナが待っていた。
「彼とは話し合えた?」
「嫌われただろうから、これから何百年、ユナをいじめて憂さを晴らすよ」
「なんでユナ!?」
ショックを受けているユナを追い越して閏と麦虎は歩く。
『案外、あれで伝わっているかもしれないぞ』
『気持ちが伝わっても、地雷を踏みぬいたことは変わらないよ』
はあ~あと情けなくため息を零す閏たちが正面玄関に行くと、仲間たちが待っていた。
☆☆☆
今回は少し長くてすみません💦
次回よりいよいよラストバトル!
みなさんの応援をお待ちしております(*´ω`*)
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