一章

第3話 世界の果て

 体を沈ませていたベッドマットの上では、この部屋に持ち込んだ自身の匂いのしみついたシーツがしっとりと肌に吸い付いている。


 汗の含む黒い前髪をかきあげた。まぶたは舞台の幕が上がりきらないかのように半分しか持ち上がらず、普段は水晶のように透明な碧い瞳は、黒く夜空のような色合いを見せている。


 瞬きを繰り返していると、埃と湿気を含んだかび臭い部屋のにおいが鼻孔をくすぐった。


 隙間の空いたカーテンの向こう側では青い空が広がり、家のそばを通り過ぎる車のエンジン音が微かに響く。追いかけるように犬の鳴き声も聞こえた。


 近くの家の番犬が過ぎ去る車に向かって吠えているのか。あるいは、ご飯の時間なのか。


 聞き慣れない犬の鳴き声だけでは自身の置かれた状況を把握できない。


(どこだっけ、ここ。……今、何時だ?)


 ぼんやりとした思考で、閏は時間を示すものを探した。


 スプリングの軋むベッドから上体を起こすと、ベッドサイドのリモコンに手を伸ばす。


「──依然として行方不明者の数は増加の一途をたどり、政府の発表では今月に入って捜索願を受理した件数だけでも二万人を超えているとのことです」


 テレビから聞こえてくる女性アナウンサーの声で、徐々にはっきりと目が覚めたことを確認していた。


 父上の言葉を思い出す。『部屋が盗まれたようだ』。なるほど。ようやく寝ぼけていたことに気が付いた。


 出かける予定が入ったのならやることは一つだ。キッチンに足を延ばし、昨日の夜のうちに用意していた歯ブラシを手に取った。


 シャカシャカ、シャカシャカ、泡とブラシが重なり合う音を響かせる。歯を磨きながらも視線はテレビで流れるニュース画面を追っていた。


「──では、彼らの目的は一様に『世界の果て』だと仰るのですか?」


「実際に『世界の果て』へ向かうという書き置きや家族への最後のメッセージが残されていますし、彼らの向かった先が『世界の果て』であることは間違いないかと思います」


「国籍も性別も年代も、住んでいる場所すら違う彼らがなぜ同じ目的で行方をくらますのか、なにか事件の可能性も感じさせますな」


 ニュース番組では最近話題になっている行方不明者事件について論争しているようだ。


『閏、聞いているのか?』


 ガラガラとうがいをしていると、父上からまた念話が飛んでくる。


『聞いていますよ。部屋にはブービートラップが仕掛けられているんじゃなかったんですか』


 ふと目に入った洗顔フォームが残り少ないことに気が付いた。最後の一滴まで絞りだす。


 お気に入りの泡がもっちり洗顔料。ストライプの柄と桃の香りはこのメーカーにしか無いものだ。


『朝の挨拶はおはようだ。家族の挨拶は欠かしてはならん』


 さっき、父上はおはようと言っていたか?


『おはようございます父上』


 顔を洗いながら挨拶を欠かした己を反省した。父上が挨拶をしていたかどうかはわからない。


『うむうむ、今日も我が息子は漆黒の髪から碧き眼まで大変美しい。もう少し背が伸びれば魔界でお前に勝てる男などおらんだろう』


 割と気にしている男性にしては小柄な背丈を指摘されて顔をしかめた。


『嬉しくないよ父上。それより部屋を盗んだ奴はどうやって盗んだのか教えてよ』


 洗い終わった顔を自前のタオルで拭いていると、ニュースの声が聞こえてくる。話題はまだ『世界の果て』らしい。


 着替えているとワンルームのこの家のインテリアが目に入る。水色の天井、色褪せたクリーム色の壁、スチールのタンスに木目のテーブル。


 雑多に散らばるのはバイクの雑誌だ。しかし、テレビの上には愛らしいうさぎのぬいぐるみがキャンディーの入った籠をもってつぶらな瞳を部屋の中へ向けている。


 アメリカンな写真が貼られた壁掛け時計の下ではオレンジと乳白色が配色されたドット柄のカーテンが揺らめき、部屋の隅では真っ赤なオーディオ機器が無言で存在感を主張していた。


 ちぐはぐな印象のインテリアは壁にいくつか貼られたツーショットの写真を見れば理由もわかる。家主の男の家に、付き合っている女性の趣味が混ざりこんだのだろう。


「アメリカンな仕様にしたいのなら、統一感というものを考えろ」


 部屋のインテリアに公私混同とは嘆かわしい。


『閏、魔導具の回収を命じる。武器も情報も現地調達だ。それが魔人の正義だからな』


 鞄に私物の荷物を詰め込み、テレビを消した。玄関に置かれていた鍵を手に取ってもう一度部屋を見渡した。


「この部屋のインテリアはいまいちだな」


 念話では父上に『了解』と告げていた。玄関を出ると外にとめてあった大型二輪のバイクにまたがる。


「一晩の宿のついでにバイクも借りていくぞ」


 誰とも知らない、今は留守の家主にそう告げると『世界の果て』へ向かってバイクを走らせた。






 この世のどこかに『世界の果て』があるという噂は、どの国のどの地方でも古い伝承として人々の間で語り継がれてきた。いわゆる都市伝説みたいなものだ。


 ただ、最近になって『世界の果て』の場所が特定され、電子ネットワークの世界で情報が拡散されることになった。誰がその情報を流したのか。それが部屋を盗んだ犯人に繋がるだろう。 


 人々が旅の最終地点に選ぶ『世界の果て』こそ、父上から回収を命じられた部屋の正体。


『──たすけて』


 チリチリと脳が焼けるような念話が飛んでくる。念話は魔族の会話手段だ。魔力の少ない人間族は基本的に使用しない。


 声が聞こえてくる場所は今向かっている『世界の果て』からだ。ノイズがひどく、正確な言葉は汲み取れないが、『ガフの部屋』からの救難信号だろう。


『──ねが……きを……たすけて』

「たすけて、か」


 魔人に助けを乞うということは殺してくれという意味だ。


 定められた役割を果たせず、機能を失い、それにより世界の秩序を乱すことになるのならば破棄とする。それが魔人の正義。


 魔界を統率し、地上界の平和を守る魔人の正義。時十閏がこの世で信じられるものは魔人の正義、それだけだ。


 何度か給油を繰り返し、公道を走っていく。


 幸い『世界の果て』あるいは『ガフの部屋』がある場所は僻地ではなく都市開発の進んだ経済圏のため行き道の道路も整備されていた。


 給油の際に洗顔料も買おうと思ったが、国や地域が変わると弱小メーカーの製品は雑貨屋のどこにも売っていない。


 仕方なく真っ白い固形がどの景色にも馴染みやすい牛乳石鹸で我慢した。食料や水はその都度補給をして夜通しバイクを走らせた。



☆☆☆

ようやく主人公が旅立ってくれました。

はよう学園行けやぁと思った方にお知らせです。


性癖全開で書いた「ボスキャラ攻略☆~」という長編ファンタジー小説と同時に今作は長編ファンタジーコンテストに参加しております。


みなさまの応援で読者選考に突破することができますので、よろしければ両作品とも♡や☆やフォローで応援していただけると嬉しいです(*´ω`*)


あ、次回はちゃんと学園に入ります! お楽しみに!




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