序章

第2話 プロローグ 過去のトラウマ

──時十閏が召喚士専門学校に到着する前のこと── 


 真っ白いベッドの上で上半身を起こし、キャスター付きのサイドテーブルの上でパソコンを広げている仁科にしないつきは、『ガフの部屋』に関する記述に目を通しながら、ため息をついた。


 ため息をつくなんて珍しい。女性の声がそう樹に言って乾いた笑い声をあげる。


 疲れた様子を隠さない樹は、背後を振り返ると、壁に飾った絵画を見て肩をすくめた。


「自分がひどく聞き分けの無い、幼い子供のように感じるんだ」


 それはどうして。女性の声は樹に問いかける。


 樹はエドワード・ホッパーが描いた『ナイトホークス』を見つめながら、独り言のように呟く。それは真実、自分自身に投げかけただけの独り言であった。


「欲しいものが手に入らないなんて、大人になるほど当たり前のことだ。思春期を迎えたら、多少は欲望も過剰になるかもしれない。だけど、過敏な時期ほど、与えられるものを振り払い、何もいらないと布団をかぶるものだ」


 だとしてもだ。それが無ければ生きられないものだとしたら、理性で片づけられるだろうか。


 あるいは幼い感情だけで水、酸素、食事、入浴、睡眠、愛、自由を振り払えるのか。太陽さえあればいいとは言えない。雨が無ければ人は生きられない。


「誰かに理解してもらいたいわけじゃない」


 樹の独白は続く。理解してもらいたかった季節はとっくの昔に過ぎ去ったものだ。


「人類の滅亡なんていうわかりやすい最悪のシナリオを前にしたら、誰だってそのシナリオを破り捨てるために行動を起こすだろう」


 諦観する者もいるかもしれないが、自分と対立する人間は能動的に動くだろうと想像はつく。


「だけど、僕はどんな説得にも応じないし、暴力にも屈しない」


 まるで聞き分けの無い子供ね、と女性の声は樹の言葉を肯定した。


「戦争においては講和も一つの手だ。だが、僕には決別以外に道が無い」


 それは、水の代わりに重油を飲めと言われたようなものだ。代わる答えは存在しない。


「大切な人と自分自身を守ることが正義だというなら、僕の立場に置いて正義とは決別の一択しかない。大切な人も自分も守れないなら、悪になる道もありえない」


 しかし、続く言葉はぽつりと、青空からひとしずく落ちた雨粒が窓を弾くように、樹の言葉であるにも関わらず、樹の心にこびりつく。


「相手が、正義を振りかざすのなら、の話だけど……」


 そうでない場合はどうするのだろうか。変わらない正義だけが胸の中で光を放っていた。




☆☆☆


 暗く燃えるような目を屋敷に向けて、一人の男が冬枯れの一本道を歩いてくる。


男の背後には大木の聳える森があり、そこでは寒々とした風景が広がっていた。


 空はどんよりとした厚い雲で覆われ、空気も肌を刺すほど冷たい。


 男の怒りを葉の一枚一枚が受け止めたかのように凍りづく森では鳥たちの声も聞こえないほど静寂に包まれていた。


 葉は白く、木の幹は厚い氷で覆われている。土でさえも踏みしめれば、じゃりと氷の粒が音を立てた。


 木立の葉が重なり合うかさかさとしたわずかな音ですら息を呑むほど大げさな音に感じられた。


 早朝のしじまの中、屋敷に向かって歩いてくる男の足元で、ぱきんと枯れた枝の立てる音が雷鳴のように不吉に轟いた。


 朝露で湿った草や枯れた枝を踏みしめて硬質な足音が近付いてくる。


 屋敷の玄関をそっと開けて、隙間から外の様子を窺う幼い男の子の脳裏には覚えたばかりの言葉が浮かんだ。


『真実は体験するもので、教わるものではない。』


 門扉の前で直立不動に立ち尽くす護衛兼門番の男は、青ざめた顔でやってくる恐怖に目を見張っていた。


 目をつぶって現実から逃げることも忘れたと言っていい。


 門番は口を開けた。そこから漏れ出すのは懇願か、神への祈りか。


 されど、紡がれたのは意味のある言葉ではなく、引き裂くような断末魔。


 幼い男の子は母親に体を持ち上げられ、屋敷の奥へと逃げるように連れ出された。


 カランコロンと音を立てて転がる落ち葉だけ石畳の玄関に残された。


 先ほどの青ざめた男の顔が真っ赤に変わる様子。鮮やかな落ち葉の黄色が目に焼き付く。


 迷路のように入り組んだ屋敷の廊下を移動する中で、幼子の脳裏ではある男の半生が思い出されていた。


 激動の時代に生きた抽象画家ピエト・モンドリアン。同じ時代に生きた詩人よりも、彼の絵は何かを訴えかけるものがあるように感じていた。


 彼は己の内面を表現することは、風景を切り取っただけの絵画よりも真実に芸術性があると思っていたようだ。


 まさに今、真実を体験している幼子にとって、教師のような詩人の言葉より、救いとなるのはピエト・モンドリアンが残した数々の『コンポジション』。


 そこに起死回生の答えがあるのならば、幼子も画家のように心の内を絵で表し、外からやってくる男に見せたであろう。


 だが、幼い男の子には己の内面より、目に映る惨劇が、何よりも雄弁に己の過ちを物語っているようで、顔を引きつらせるしかない。


 門番の男を殺した精悍な顔つきの男は、屋敷の中に入り込んだ。怯えたような表情を見せる幼い男の子を抱える母親を追いかけて、男は燭台の並ぶ廊下を進んだ。


 切迫した様子で重たいスカートをたくし上げる母親が足早に廊下を過ぎ去る度に、キャンドルの炎が揺らめいて、幽鬼の目玉のように自分を追いかけて来ていると幼子は感じていた。


窓の向こうでは朝露が雨のように、荷馬車の轍に溜まっている。


 時折、冷たい風が窓を叩いた。


 幼い男の子の目を見れば、侵入してきた男に向けて抱擁をせがむような馴染み深い愛情も見て取れる。寒々とした屋敷の空気と母親の気迫に怯えているが、母親と男の間で板挟みの様子も窺えた。


 母親は勢いよく扉を開けて息子の部屋に逃げ込んだ。


 壁に叩きつけられた反動で扉はゆっくりと閉められる。


 小さな息子の体躯に合わせた木製の小さなベッドと、おもちゃの敷き詰められた木彫りの白いタンスの間に挟まるように、母親は体を震わせながら息子を抱えてしゃがみこんだ。


 母の用意した美しい部屋で木馬のおもちゃが揺れる。なめした木とニスの香りが、プレゼントの袋を開けたばかりの頃を思い出させた。


 がちゃりと音を立てて部屋の扉が開かれる。壁に飾られた額縁の中、稲穂が青空に悠然とさんざめく風景画に横切る影が映った。


 鈴蘭を模った真っ白なルームランプが男の掴む刀剣で叩き割られると、甲高い声を上げて破片がきらりきらりと木馬の上に舞い落ちていく。


 木馬は悲鳴を上げて、ぬかるんだ大地へ疾走するように破片を零しながら揺れていた。


 勇ましい男の手は幼子の腕を引っ張った。


 暖かい体温、生まれたころから隣にあった匂いが幼い男の子を確かに安心させた。


 しかし、伸ばされた手を追って母の方に目を向ければ、再び恐怖心が襲ってくる。


 母親は願ってはいけない祈りにも近い悲鳴を上げる。


(──言っちゃいけない……!)


 ふと男の子は生まれる前から知っていた、その言葉を思い出した。『魔人の正義』と。


 振り下ろされた刀剣は母の肌を切り裂き、臓腑を抉り、血しぶきを舞い上げた。


 赤い、黒い、しみが落ちる。緑、黄緑、黄色のグラデーションが躍動する絨毯の上へ、詩集が開かれた楕円形のテーブルの上へ。


 母の腕は白い本棚に叩きつけられ落ちていく。母の足はベッドの天蓋をひしゃげさせるほど勢いよく跳ねあがって天蓋のスチールにぶら下がった。


 真っ白いカーテンが真っ赤に染まる。美しかった部屋が赤く濡れていく。


 この部屋で空を見上げてきたこと。馬に乗って稲穂の草原を駆けたこと。秘密のカーテンの奥で本をめくり絵画を見つめる度に世界中を旅したこと。


 全てが遠く赤く黒く澱み、部屋の明るさを奪うように冷たく閉ざされていった。


『部屋が盗まれたようだ』


 男の声が聞こえた。盗まれた。そうかもしれない。あのとき、部屋はうるうの中から盗まれていったのだろう。


唯一無二の自分だけの世界だった。部屋とはそういうものだ。しかし、忽然と失われた。

 自らの手で。

 見えざる手ではなかったと今でも思い起こせる真実。


 やがて、色を失った世界から淡い色彩の現実へ意識が浮上していった。


「──昔のことですよ父上」


『今だ、今。つい先日のことだ』と、単なる精悍な顔つきの男ではなく、魔族と呼ばれる数多の強者の頂点に君臨し、魔界を統率する魔人の声が再び聞こえる。


 つまり父上の、泡に沈み込むような重たい声が脳内に響き渡った。


 モノクロの夢を見ていた魔人の息子、時十ときとおうるうは何が今なのかよくわからず、見慣れない天井を見上げて瞬きを繰り返す。



☆☆☆


次回より一章が始まります!


割とコメディも多い内容ですのでお気軽に読み進めて頂けると嬉しいです!



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