結んで、ほどいて
日曜日は、四人で普通の家族みたいに過ごした。
私は直子さんにお菓子作りを教えてもらって、学さんはしばらく自室で勉強をしていたけど、パパが息抜きにと近くの河原に釣りへと連れ出した。
ふたり暮らしだった頃もパパは趣味でひとりでよく釣りに出かけていたけれど、初心者の学さんに教えるのが楽しかったのか、今までの釣りの中で一番嬉しそうな顔で帰宅した。
娘の私は、釣りに付き合うのを嫌がるから、息子が付き合ってくれたのも良かったのだと思う。
夜は釣りの戦利品の魚料理を食べて、おやつに私たちが作ったケーキを出した。
そこには、知らなかった“普通の家族”の姿があった。
*
「週末ね、私、幸せだったんだ」
週明け、月曜日。いつものように朝から私を迎えに来た瑞貴にそう呟くと、キョトンとした表情のあとに、笑顔が返ってきた。
「そっか、芙結が幸せなら良かった」
事情なんて何も知らないはずなのに、喜んでくれる瑞貴に、ますます嬉しくなる。
「うん。土曜日は学さんとふたりでご飯食べに行って、日曜日は四人で過ごしたの。すごく、家族っぽかった」
空を見上げる。雲ひとつない、とても綺麗な青空。
「ママが家を出てから、そんなの無理だと思ってたの。期待もしてなかった。だって、私はパパとママ以外はいらなかったから」
青空に手を伸ばす。赤い糸が、キラキラと透けている。
「でも、“家族”って、幸せなんだね」
手を挙げたまま、瑞貴に視線を移す。瑞貴も空を見上げていた。
「家族になったから幸せなんじゃないよ。芙結が新しい家族を大好きだから、幸せなんだよ」
青空に向けていた笑顔をそのまま私に見せて、にっこりと笑う。
「よかったね、芙結」
瑞貴は、やっぱりすごいな。その笑顔で、一瞬で幸せにすることが出来る。
「うん。ありがとう」
*
登校して教室に入ってすぐに、リサを見つけた。上級生の男子がふたり、教室の中のリサの席のまわりを囲んでいる。
「梨沙子ちゃん、まじで可愛いよね。いいじゃん、ご飯くらい付き合ってくれても」
「そうそう。友達も連れてきていいからさ」
一方的に話しかけられ、リサは自分の席に着き、すっかり縮こまっている。顔色も悪い。
私はすぐに駆け出し、上級生のあいだに割って入って、リサの正面を陣取った。
「おはよ、リサ。今日、朝から先生の手伝いだったよね。早く行こう」
「ふ、芙結ちゃん……。うん」
私の顔を見て安心したのか、一瞬でこぼれそうなほどに瞳を潤ませたリサは、手の甲でまぶたをこすって立ち上がった。
「おい、ちょっと」
リサの腕をつかもうとする手を、直前で阻止したのは、少しだけ遅れてきた瑞貴。
「すみません、先輩。山ほど荷物あるから、俺たちみんなで行かないと大変なんですよ」
瑞貴が先輩たちの気を引いているすきに、私はリサの手を引いて教室を出る。
もちろん、先生の手伝いなんか全部うそで、私たちは三人で図書室に移動した。
幸い、朝から使っている生徒はいなくて、声を出しても誰にも迷惑をかけることはない。
「ありがとう、芙結ちゃん……。瑞貴くんも」
「ううん。大丈夫だった?」
安心したからなのか、リサは先ほどよりも盛大に涙を流しながら、私の胸に頭をあずけた。
「だから、男なんか嫌い……。みんな、嫌って言ってもやめてくれないの」
リサとは中学からの付き合いだから詳しくは知らないけど、今まで相当嫌な目にあってきたことは聞いている。それこそ、幼少期から。
「さっきの人たちも、しつこいの。何回断っても全部無視して、自分の都合ばっかり。たまに、待ちぶせもされることがあって。気持ち悪い……」
「待ちぶせ!? もー、呼んでよ、そんな時は。いつでも行くから」
「ううん、芙結ちゃんにばっかり迷惑かけられないし。本当は、全部自分でなんとかしなきゃいけないことだから」
「迷惑なんて、思ってないってば」
顔を上げたリサは小さく笑って、「ありがとう」と涙を指で拭う。そして、次に瑞貴を見た。
「男は嫌いだけど、瑞貴くんは別だよ。助けてくれて、ありがとう」
「俺が、芙結しか見てないからでしょ?」
「うん。そういうところ、いいと思う」
「光栄です」
なんだ、この会話。
私は苦笑いをして、リサの手を取った。
「落ち着いてから、教室に戻ろっか」
*
昼休みになって、給食がないうちの中学校は、各自でお弁当を用意する。ふたつの机をくっ付けて、リサとお弁当を広げた。
いつもは瑞貴も入れて、屋上や裏庭に行ったりもするんだけど、先ほど雨が降ってきたから今日は教室で。
「教室久しぶりだね。風でホコリが飛ばないから、たまにはいいね」
リサがそう言って、自分の弁当箱の包みを開けた。今日はオムライスらしい。
朝はしばらく元気がなかったようだけど、すっかり笑顔に戻ってよかった。異性が苦手って、今まで苦労したことも多かったんじゃないかな。
異性と全く関わらないで生きるのって、かなりむずかしいし。
「ねぇ、リサは、瑞貴みたいな男の子なら平気なんだよね?今まで、好きになったことはないの?」
「え?」
私の質問に、リサが手を止める。
「どうしたの? 急に。瑞貴くんは平気だよ。梨沙子に嫌なことしないし、芙結ちゃんのことを好きだってことは、絶対に変わらないだろうから」
それはつまり、自分を好きにならない男子なら平気ってこと?
「分かんないよ、そんなの。瑞貴だって、いつまで……」
だって、私の赤い糸が学さんに繋がっているということは、瑞貴の相手は私以外の別の人ってことなんだし。
「ううん、そんなことないよ。瑞貴くんは、絶対にずっと芙結ちゃんが好きだよ。見ていれば、分かるでしょ?」
「……」
気持ちなんて、目には見えない。私が見えるのは、運命を繋ぐ赤い糸だけ。
リサに答えられず、黙り込んでしまうと、職員室に行っていた瑞貴が戻ってきた。
「数学のノート、置いてきた~。先生、話長いんだもん。昼休み終わっちゃうかと思った。何の話してたの?」
疲れた様子でお弁当箱を手にした瑞貴は、近くの椅子を私たちの席に寄せた。
「んー、ガールズトークだから、瑞貴くんには秘密。ね、芙結ちゃん」
「うん……」
相づちを求めて微笑む顔に、私は愛想笑いしか返せなかった。
お弁当も食べ終わり、リサと一緒に教室を出た。例のごとく、瑞貴も一緒に行きたがったけれど、行き先がトイレだということを告げると、気まずそうに引き下がった。
本当の行き先は図書室で、瑞貴の顔を見ている余裕が無かったからなんだけど。
「芙結ちゃん、具合悪いの?」
「え?」
「さっき、あまり喋らなかったから」
図書室に向かうまでの廊下で、リサが隣で不安そうに眉を下げた。
「そんなことないよ。えーと、ほら、今日は月曜日だから。次の休みまで長いなーって」
「ふふ、そうだね。一時間目から苦手な社会なんだもん。眠いのに、頭使っちゃった」
リサの反応にホッとしながら、図書室を目指す。その途中には若菜のクラスもあって、土曜のことも気になって、道すがらそっとのぞき込んでみた。
あれ? いない。……なんだ。
ホッとしたような、残念なような、不思議な気持ち。
胸に手を当てて、ふうと息を吐く。その時、リサが「あ」と声を漏らした。
視線の先を追うと、空き教室に若菜とミナミ先輩。そして、杉尾先輩の三人の姿があった。
「あの子、芙結ちゃんのお友達だよね。確か、若菜ちゃん?」
「うん、そうだよ」
「そっか……」
何か思うところがありげなリサが、若菜たちを見つめる。
「若菜がどうかしたの?」
「え? ううん、どうかしたってことでもないんだけど、前に、芙結ちゃんが何日か休んでいた日があるでしょ? おじいちゃんのお葬式で」
「うん」
「あの時ね、若菜ちゃん毎日、芙結ちゃんは今日もいないの? って教室に来てたから。だから、ちょっと気になっちゃって」
そういえば、葬儀の後で登校した日に、若菜は何か言いたそうだった。結局、聞けずじまいになっていたけど……。
「若菜には、恋愛相談されてたから、きっとそのことなんだと思うけど……」
そう言いつつ、リサも巻き込んで、若菜たちのいる教室をそっとのぞく。会話も、少し聞こえてくる。
「ごめんね、若菜ちゃん。いつも俺たちに付き合わせちゃってさ。ミナミとかガサツだし、苦労するでしょ?」
「そんなことないよー! 若菜とはずっと仲良しだもん。ね」
杉尾先輩とミナミ先輩の会話に、若菜がふっとほほ笑む。少し辛そうに、眉を下げながら。
「そんな、全然です。ミナミちゃんとは昔からこんな感じだし、杉尾先輩も……一緒で楽しいです。私こそ、いつもふたりの邪魔じゃないですか?」
「まさか。俺、ひとりっ子だし、若菜ちゃんといると、妹がいたらきっとこんな感じなんじゃないかと思うよ」
杉尾先輩が、若菜の頭を撫でる。
嬉しそうな杉尾先輩に反して、若菜の表情は一瞬で曇って……
「……本当に、杉尾先輩がお兄ちゃんだったらよかったのに」
若菜の願いを叶えるように、ふたりの間で赤い糸が大きく揺れた。
そして、綺麗な結び目がスッとゆるんで……
「赤い糸が……ほどけた?」
繋がっていた赤い糸が、プランと床に落ちて、……消えた。
「え? 赤い糸?」
私の呟きに、リサが困惑の眼差しを向ける。
フラッと足がもつれて、転びそうになったところを、直前でリサに支えられた。
「大丈夫? 芙結ちゃん」
「ごめん、リサ、私……」
「顔、真っ青だよ?」
指摘をされ、頬に右手を触れさせるけど、自分の顔色は見えない。
赤い糸がほどけた。ううん、それだけじゃなくて、……消えた?
まるで、元から無かったもののように。
どうして? 赤い糸は、運命を繋ぐんじゃないの?
若菜たちの運命は……?
頭がクラクラする。
目を閉じると、優しい笑顔が脳裏に浮かんだ。
「……ごめん、リサ。早退するって、先生に代わりに言ってもらってもいいかな……」
「え? うん、それはいいんだけど、本当に大丈夫?」
「うん……」
「じゃあ、ここで待っててね。今、芙結ちゃんのかばん持ってくるから」
きびすを返すリサをぼんやりと見送りながら、先ほどの言葉は少しも頭に入っていなかった。
フラフラとおぼつかない足元で、手ぶらで階段を下りる。
……行かなきゃ。
ただ、頭の中にある場所を目指して、私は学校を出た。
*
電車で約一時間揺られて、グルグルと考えすぎる頭で、どうにかやって来たのは、数日前にも訪れたことがある家。
おばあちゃんの家……。
若菜のほどけた赤い糸を見て、思い浮かんだのはおばあちゃんの顔だった。
おじいちゃんが亡くなっても、ずっと想い続けていたおばあちゃんの赤い糸は、空の上に繋がっていた。
赤い糸は、絶対なんでしょ? これは、運命のはずなんだから……。
駅から慌てて走ったせいで、息切れがひどい。ハアハアと荒い呼吸を落ち着かせるために胸に手を当てて、インターホンに手を伸ばした。
──ピンポーン。
こんなに高く、頭に響くような音だったっけ……。
胸の音がうるさい。
大丈夫。おばあちゃんの赤い糸さえ確認出来れば、それで。
「はーい。どちら様?」
聞き慣れた優しい声が、家の中から聞こえてくる。ゆったりとした足音が、目の前で止まる。
ガチャッと音を立てて開いた扉の向こう側に、待ち望んでいた顔があった。
「あら、芙結ちゃん?」
私を見てほほ笑む顔と、ドアノブをつかむのは右手。小指には赤い糸が結ばれていた。
おばあちゃんの赤い糸は、結ばれたままだ……! よかった……。
「どうしたの? 芙結ちゃん。まだ学校の時間じゃない?」
「えっと……、おばあちゃんの顔が見たくなって、早退しちゃった」
「あら、大きくなったのに、甘えんぼさんね。パパには内緒にしておかなきゃね。上がって。お茶でもどう?」
「うん、いただきます」
嬉しそうな笑顔を見て、こっちまで嬉しくなる。
玄関先で靴を脱ぎ、おばあちゃんの背中を追いかける。赤い糸は、家の中に続いていた。
最後に見た時には空に繋がっていたけど、今は仏壇に繋がっているのかな。
運命のはずの赤い糸がほどけるだなんて、きっと見間違えだったんだ。
急に帰っちゃって、リサにも謝らなくちゃ。
あ、かばん忘れた。おばあちゃん家から帰ったら、もう一度学校に戻らないと。
胸に手を当てて、深呼吸。
はあ、やっと落ち着いてきた。
「今日は風があって、縁側にいると気持ちいいから、そこにお茶を運ぶわね。おばあちゃんのお友達がひとり来てるんだけど、一緒でもいいかしら」
「うん、ありがとう」
台所に向かうおばあちゃんにお礼を言って、私は縁側に行く前に、仏壇へ足を運ぶことにした。
急に来ちゃって、友達との時間を邪魔しちゃったかな。
縁側は、おじいちゃんの葬儀以来になる。
あの日は落ち込んでいたおばあちゃんも、ずいぶんと明るくなったように見えるし、安心した。
ふふっと笑い、仏間の扉を開ける。おばあちゃんの赤い糸は、仏間を通って、さらに外側に伸びている。
あれ? 赤い糸、仏壇には繋がってないんだ。ここを通って、空に伸びてるだけなのかな。
まあ、いっか。ほどけていないってことは、どこかにいるおじいちゃんに繋がっていることに変わりはないんだし。
仏壇の前で手を合わせて、立ち上がる。
縁側に行ったら、まずはおばあちゃんの友達にあいさつをしよう。
縁側へと続くふすまに、座っている人影が見える。
「こんにちは。すみません、お邪魔……」
ふすまを開けて、姿を確認しながらあいさつをして、思わず言葉を止めた。
おばあちゃんの友達だというからには、当然のように同性の方だと思っていたのに、そこにいたのは年配の男性だった。
だけど、開いた口が塞がらなくなっている理由は、そうじゃなくて……。
「……赤い糸」
私の呟きに、男性が「え?」と、丸い目を向ける。
男性の右手には、赤い糸。それは、この家の中から伸びている。
「芙結ちゃん、天童(てんどう)さん、待たせちゃってごめんね」
背中からおばあちゃんの優しい声が聞こえて、ビクッと体が強ばった。
嘘……。まさか、そんなはず……。
見たくなくて、だけどそんなわけにもいかなくて、おそるおそる振り返る。
おばあちゃんの赤い糸は、「天童さん」と呼ばれた男性にまっすぐに繋がっていた。
クラクラする。頭を誰かにガツンと殴られたみたいに、割れそうに痛い。
おばあちゃんの赤い糸は、おじいちゃんに繋がっていて、亡くなってからも空に舞い上がっていたはずなのに。どうして……。
「お孫さんとの時間を邪魔していられませんね。私はそろそろ失礼します。ごちそうさま」
「あら、そんなこと気にしなくても大丈夫ですよ」
「いえいえ、帰ったらやらないといけないことも残っていますので」
おばあちゃんと天童さんの和やかな会話が、どこか遠くの方で行われているように感じる。
ハッと気がついた頃には、天童さんの姿はどこにもなかった。ただ、おばあちゃんの指には赤い糸が結ばれたままで……。
「お、おばあちゃん……、今の人が友達なの?」
自分の胸の音がうるさくて、上手く喋れない。
「そうよ、天童さん。あちらも、奥さんを亡くされてね。独り身同士、暇を持て余して、たまにお茶をしているの」
おばあちゃんは、嬉しそうにお茶を口にする。
「おばあちゃんは……、好きなの? あの人のことが」
「え? やだ、まさか。おばあちゃんには、おじいちゃんがいるもの。目の前からいなくなったからって、心変わりなんてしないのよ」
それなら、ねえ、おばあちゃん。どうして赤い糸が……。
おばあちゃんは思い出したように笑って、見えていないはずの赤い糸を見つめた。
「芙結ちゃんには、話したことがあったわね。昔、結婚の約束をしていた彼がいたことを」
「うん……」
それは、おじいちゃんの葬儀の日のこと。海外から帰ったら一緒になろうと約束した人が亡くなり、彼を忘れられず、おじいちゃんの告白を何度も断った末の結婚だったと、話してくれた。
だけど、おばあちゃんとおじいちゃんの赤い糸は繋がっている。だから、おばあちゃんの決断は少しも間違っていなかったと、確信したのに……。
おばあちゃんは、キョロキョロと辺りに目配せをして、誰もいないのを確認してから、やっと口を開いた。
「実はね、さっきの天童さんが、昔のおばあちゃんの恋人なのよ」
おばあちゃんの言葉が理解出来ず、私は目を見開くばかり。
「……え? だって、おばあちゃんの恋人って、海外で亡くなったって……」
「そうよ。現地で亡くなったことにされて、遺体も見つからなかったはずなのに、生きていたの」
私は、天童さんが去っていったであろうふすまを、反射的に振り返る。
さっきの人が、おばあちゃんの約束の人……!?
「最近まで、近くに住んでいるなんて知らなかったの。再会した時、お互いすっかり年をとっていたけど、すぐに分かったわ。世界って狭いのね」
少女のように頬を染めて、嬉しそうなおばあちゃんに、めまいが止まらない。
クラクラ……する。
「時代が時代だったからね、自分が死んだことにされても、故郷に知らせる方法はないし、海外からも帰れなかったらしいの。本当にびっくりしたわ。思わず、足があるか確認しちゃったくらい」
おばあちゃんが話し終わらないうちに、縁側からフラッと立ち上がる。
見間違えじゃなかった。若菜の赤い糸は、ほどけたんだ。そして、おばあちゃんも……。
「ごめん……、せっかくお茶入れてくれたのに。帰るね、私……」
「もっとゆっくりしていったらいいのに」
「ううん、学校に忘れ物もしちゃったし……」
「そう。でも、芙結ちゃん大丈夫? 顔色が良くないみたい」
「うん、大丈夫」
心配してくれるおばあちゃんに、口角を上げて答えるだけで精一杯だった。
それなら、私が見えるこの糸は……一体何?
また同じ電車に乗り、駅からフラフラと帰る途中、妙に軽い右手に気づいて、学校にかばんを丸ごと置いてきたことを改めて思い出した。
そうだった。戻らなきゃいけないんだ。
学校に行ったら、また若菜と会っちゃうかな。今は、見たくない。ほどけた赤い糸……なんて。
ため息をついて、制服のポケットに手を当てると、ゴツンと硬い感触に当たった。
あ、スマホだけは持ってる。そういえば、何回か鳴る音を聞いたような……。
ポケットからスマホを出すと、メッセージの通知が何件か入っていた。
ひとつは、リサから。
『芙結ちゃん帰っちゃったの?』
かばん持ってくるから待っててって言ってくれたのに、聞かずに学校を出たんだった。
次のメッセージは、瑞貴から。五通も送られている。その他に、着信まで。
きっと、リサに聞いて心配してくれたんだろうな。
ふたりには、謝らないと。
気は進まないけれど、やっぱり学校に戻ろうかな。
まずは、ふたりに返信を──
「芙結!」
スマホ画面に指を伸ばした時。背中から名前を呼ばれて、導かれるように振り向いた。
「芙結、見つけた!」
「……瑞貴?」
ハアハアと息切れをする瑞貴の手には、ふたり分のかばん。
「もー! 何回ラインしても既読になんないし、電話も出ないし! 心配した!」
「あ、ごめん……。ちょっとボーッとしてて」
「探した! 見つかった! よかった!」
単語だらけの言葉を大声で叫んで、瑞貴はその場にへたり込んだ。その光景に驚いて、慌てて駆け寄る。
「えっ、大丈夫!?」
「大丈夫じゃないよ。梨沙子ちゃんに、芙結が真っ青になっていきなり帰ったとか聞かされてさー! 寿命が縮んだっていうか、何回か死んだ!」
瑞貴が持っているのは、自分のものの他に、私のかばんまで。
瑞貴と目線を合わせるために、屈む。
すごい汗……。
私からの返信がないせいで、居場所も分からないのに走り回ってくれたのかな。
「心配かけてごめんね。ちょっと気分が悪くなっただけなんだ。でも、もう大丈夫だよ」
若菜のことは、いくら瑞貴でも言うべきじゃない。若菜だって、自分が失恋したことを人に知られたくはないはず。
「かばん、ふたり分も抱えて、重かったでしょ? ありがとう」
自分の分を受け取ろうと、両手を差し出す。瑞貴はそれをじっと見つめて、手を伸ばした。
私の手に触れたのは、かばんの感触じゃなくて、大きな手のひら。
ぎゅっとつかまれた後、息をする間もなく、強く引かれた。
まばたきも出来ず、私の体は広い胸の中にいた。
「……え?」
腕は、背中に回って。視界が、すごく狭くて。理解をするのに、時間がかかった。
抱きしめられて……る?
「えっ、ちょ……っ、瑞貴!」
「ごめん、少しだけ」
「っ……!」
背中に回る腕の力が強くなって、苦しくて息が喉元で詰まる。
ドキドキと騒がしい心臓は、……どちらのもの?
どれくらいの時間が経っただろう。
ふたりでしばらくそうしていたら、不意に車のクラクションが鳴り響いて、お互いビクッと反応して、自然と体が離れた。
クラクションが向けられた先は私たちではなかったみたいで、見つめあって黙り込んでしまった。
「……帰ろっか」
先に口を開いたのは、瑞貴。気まずそうに、それでも笑顔を見せてくれる。
「うん、帰ろう……」
こくんとうなずき、いつもならためらいもなく隣を歩いていたところを、一歩分遅れてついていく。
隣にいないと、ちゃんとそばにいるのか不安なのか、道中の瑞貴は時折振り返った。
それが、嬉しかった。
あの胸の音は、きっと私のものだった。
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