「おかえり」

 翌日、いつもよりスマホのアラームを三十分早く設定をして、自室のベッドの上で起き上がった。

「ふあ……、ねむ……」

 夜に三十分遅く眠るのは全然平気なのに、何で朝に三十分も早く起きるのは、こんなにしんどいんだろう。

 フラフラとおぼつかない足取りで、クローゼットにかけている制服を手に取る。

 着替え終わって階段をおりて、洗面所へ。

 冷たい水で顔を洗ったら、大分目が覚めてきた。

 よし! と気合を入れて、キッチンへ向かう。

 好き嫌いがあるのかを、昨日のうちに聞いておけばよかった。そんなことに気づいた時には、すでにフライパンに生卵を落とした後だった。

 眠たい目をこすりながら、ハムエッグ、トースト、熱湯を注ぐだけで出来上がりのコーンスープを用意して、テーブルにふたり分を並べた頃、トントンとゆっくり階段をおりてくる足音が聞こえだした。

 洗面所へ行くには、キッチンを通らないと行けない。

 キッチンの扉を開けた学さんが、目を見開いてピタッと止まった。

「お、おはようございます! 朝ごはん、出来てます」

 昨夜、目の前で泣いてしまったことが恥ずかしくて、目をそらしてしまう。

「あ、おはよう……。え? これ」

 戸惑う学さんは、手に持ったかばんを床に置いた。

「大したものは作れてないんだけど。朝は、パンで大丈夫ですか?」

「いや、朝は基本食べない」

「えっ、そうなの!?」

 好き嫌い以前の問題だったとは。

 余計なことをしたかもしれないと、密かに落ちていると、学さんは申し訳なさそうに眉を歪めた。

「ごめん、言い方が悪かった。今まで、母さんは仕事で朝早くて朝ごはんの用意なんかされてたことなかったし、自分でわざわざやろうと思ったこともなかったからってだけで……」

 パチパチと何度も瞬きながら学さんを見るけど、当の本人はわざと顔をそらして、目が合うことはない。

「あ、……ありがと。朝早くてキツかっただろ」

 昨日も思ったけれど、人にお礼を言い慣れていないのかな。小さい声と少し染まった頬が、それを物語っている。

 なんか、昨日から学さんが可愛く見える。

「何言ってるんですか。そんなの平気。だって、家族なんだから」


 ふたりで朝食を食べ終わり、遠くの高校に一足早く家を出た学さんを見送り、私はひとりリビングでボーッとしていた。

 目の前に右手を広げて、見つめる。

 初めてだったな……。ママが出て行ってから、雷の夜にそばにいてくれた人は。

「……」

 なんだろう、この気持ち。

 昨日は暗かったし、雷の光と音が怖くて、あまり意識する余裕もなかったけど、思い出すと近すぎたあの距離が恥ずかしくなる。

 昨日は、ご飯おいしいって言ってくれたけど、煮込みハンバーグは数少ない得意料理だからかもしれないし。

 後で聞いたことだけど、昨日は塾の日で帰りが遅かっただけみたいだし、今日は早く夕飯に出来そう。

 何にしようかな。味噌汁は、初めて作った日からパパに「あれは本当に不味かった」と批判され続けているから、和食はやめておこう……。

 今さらパパにはどう思われようと構わないけど、学さんには、できるだけ私の良い面だけを見て欲しい。その内、ボロが出そうではあるけれど。

 大体、パパも勝手だよ。小学生の頃から私に家事全部させといて、ママみたいに出来ないと文句言うし。

 小学生の女子が、家事をするために遊びの誘いを断るなんて、気持ちの面でも大変なことだった。

 今さら何もしなくてもいいなんて言われても、あの時の時間は戻らないのに。

 ソファーに座りながらイライラと思い出していると、玄関からピンポーンと鳴り響き、ハッと現実に帰った。

 きっと瑞貴だ。

 慌ててかばんを手に取る。

 そういえば、今まではママがいなくて、パパとふたりきりの家族だということを悲しく思ったことはあったけど、こんなふうに怒りの気持ちはなかったな。

 雷が怖い勢いで、学さんに気持ちを吐き出しちゃったからかな……。

 催促するように、ピンポーンともう一度鳴り響き、私は急いで玄関へ向かった。


「芙結、昨日大丈夫だった?」

 チャイムの主は予想した通りに瑞貴。並んで学校に向かう途中で、心配そうな表情で顔を覗き込まれた。

「大丈夫って?」

「だって芙結、雷苦手じゃん。停電も困らなかった?」

 ギクッと心臓が強ばる。

 雷のこと、何で知ってるんだろう。瑞貴に話したことは、なかったはずなんだけど。

「うん、大丈夫。学さん……、あ、新しいお兄ちゃんね。学さんがそばにいたから」

 三日間もふたりきりだなんて、どうなることかと思っていたのに。雷は怖かったけど、ふたりの距離が縮まったから結果的にはよかったのかな。

「ああ、仲良くやってるんだね……」

 私の返答に、瑞貴は面白くなさそうに呟く。

「いつでも俺のこと呼び出していいって言ったのにさぁ。ずーっとスマホの前で待機してたのに! 芙結が全然鳴らしてくれないから、寝不足だよ」

「元気いっぱいに見えるけど」

「芙結に会えば、俺はいつでも元気満タンなだけ! 授業中に寝るし」

 子どもみたいにプイッと顔を背ける瑞貴は、同い年の男子のはずだけど、何だか可愛い。

 私は気づかれないようにクスクスと笑って、スタスタと先を行く瑞貴を追いかけた。


 校門を通ってすぐ、見覚えのある背中が前方を歩いているのを見つけた。

 あ、若菜だ。

 そして、隣にいる男子生徒は、後ろ姿でも杉尾先輩だということが分かった。ふたりの間に、赤い糸が繋がっていたから。

 時折見える杉尾先輩の横顔は笑顔で、若菜は少し浮かない表情を見せている。

 どんな内容なのかは分からないけど、杉尾先輩の口から「ミナミ」と発せられたのが聞こえたから、きっと自分の彼女の話を聞かせているのだろう。

 若菜は杉尾先輩のことが好きだから、辛いだろうな……。

「芙結、どうしたの?」

 若菜を見つめて黙り込んでしまった私を、瑞貴が気にかける。

 それが聞こえていたのか、若菜が振り返る。

「あ、芙結、おはよう……!」

 パッと笑顔を見せた若菜は、杉尾先輩に「友達が来たので」と断り、こちらに向かって駆けてきた。

「芙結、よかった……」

 飛び込むように、若菜が私の腕をつかむ。

「いいの? 先輩が……」

「うん、さっきたまたま会って声かけられたんだけど、何話せばいいか困っちゃって」

 瑞貴をチラッと見ると、言葉を交わさなくても伝わったのか、「俺、先行ってるね」と、手を振ってくれた。

 校舎に向かう瑞貴の背中が小さくなる。

「ごめんね、芙結。せっかく瑞貴くんと一緒にいたのに」

「え? そんなの気にしないで。いつも一緒なんだから、朝くらいいいの」

「本当に仲がいいよね。幼なじみで恋人なんて、うらやましい」

「若菜までそんなこと言うの? 付きあってないってば」

「えっ、まだ付き合ってなかったの?」

「まだ、とかじゃないから」

 苦笑いで若菜に答え、再び前を向く。杉尾先輩の背中も、すっかり小さくなっていた。

「それよりも、たまたま会っただけで声かけてくれるなんて、杉尾先輩と結構仲いいんじゃない?」

「ううん、私はミナミちゃんの後輩だから、覚えてもらってるだけ。さっきも、ずっとミナミちゃんの話してたんだ」

 若菜の声が小さく、か細くなっていく。

 好きな人に、他の女の子……しかも、彼女の話をされたら辛いに決まってるよね。

 うつむき加減の若菜の手をギュッと握る。

「大丈夫だよ。昨日も言ったでしょ。杉尾先輩は、きっと若菜を好きになる。だから頑張って」

 若菜は少し驚いて、困ったように笑った。


 瑞貴に遅れて教室に入ると、私の席でリサと瑞貴が何かを話していた。

 ふたりきりでいるなんて、めずらしい。特にリサは、たとえ瑞貴だとしても男子とふたりきりになりたがらないのに。

「あ、芙結」

 瑞貴が私に気づき、手を振る。

 自分の席に向かい、かばんを置いた。

「若菜ちゃん、大丈夫だった? なんか、思いつめた顔してたよね」

「うん、ちょっとね、悩みがあったみたいで」

「あ、もしかして、また恋愛相談? 芙結、昔から頼られてたもんね」

「瑞貴には秘密だよ。簡単に教えられることじゃないんだからね」

「はーい」

 話の輪に入りきれないリサが、「若菜ちゃん?」と、首をかしげる。

「中学の時からの友達なの。ほら、昨日、教室に来た子」

「あの子? そうなんだ……」

 私が説明をすると、リサは何かを考えるようにあごに手を当てた。なんだろう?

「そういえば、瑞貴とリサがふたりきりでいるなんて、めずらしいよね」

「うん、芙結がまだ教室に来る前に、また三年の男子がリサちゃんを見に来たから、こうやって」

 瑞貴が、両腕を開いてみせる。ずいぶんベタなまもり方を。

 リサを見ると、思い出してしまったのか、ほんのり涙目になっている。

「ごめんね、リサ、そばにいられなくて」

「ううん、そんな……! 本当は、梨沙子が自分でなんとかしなきゃいけないのに、いつも芙結ちゃんたちに頼っててごめんね」

「いいの、いいの、友達でしょ?」

「芙結ちゃん……」

 ジーンと感動しているのか、リサから熱い眼差しを感じる。そんな私たちを、瑞貴は嬉しそうに見守っていた。

「今日も付き合ってくれなくてよかったのに」

「いいじゃん。もうちょっと長く、芙結と一緒にいさせてよ」

 放課後になり、食材を買いに行く私に、瑞貴は再びついてきた。さらに、店を出たあとに買い物袋まで持ってくれている。しかも、満面の笑みで。

「買った食材から見るに今日はー、……あ、カレーかな? チキンカレー。当たり?」

「ううん、オムライス。チキンライスが、カレー味なの」

「惜しーい。てか、ふたりきりでオムライスとか、完全に新婚さんじゃん。芙結の手料理、うらやましいなぁー」

 瑞貴が、唇をタコみたいにとがらせて、いじけた表情を作る。

 数少ない得意料理のひとつってだけなんだけど。

 オムライスが新婚さんっていうのも、よく分からないし。

「別に、私の手料理なんて大したことないよ。なんとか食べられる程度ってだけだし」

「そういうことじゃないよー。大事なのは、誰が作ったかってことだから」

 なぜか空に向かって言葉を放つ瑞貴に、つい笑いが漏れてしまう。

「だから、そんな大したものじゃないんだって。そんなに言うなら、今度瑞貴にも何か作ってあげる。お弁当とかでいい?」

「えっ、本当!?」

 パッと一瞬でこちらに笑顔を見せた瑞貴は、右手の小指を差し出した。

「本当に? 絶対? じゃあ、約束」

 そんな子どもみたいな行為に笑って、私も右手を出そうとしたけど。

 小指から赤い糸が伸びているのを見て、すぐに手を背中に隠した。

「そ、そんなことしなくても、忘れたりしないから、大丈夫」

「えー、指きりしようよ」

「恥ずかしいから、やだ」

「ケチー」

 私は、再び唇をタコにする瑞貴から目をそらした。


 自宅に到着して、瑞貴に荷物持ちのお礼を言って別れた。

 家の鍵をあけ、誰もいない空間に明かりをつける。

 まずは、部屋で制服を着替えてから、洗濯物を取り込もう。

 あ、学さんに、今日は何時頃に帰ってくるのか、朝のうちに聞いておけばよかった。

 この家にきてから、通学時間が長くなってしまって、それだけでも大変だろうな。せめて、出来たての料理を食べて貰えるように、帰宅時間は知っておきたい。

 瑞貴に言われた、「新婚さんみたい」という言葉が、今さらになって頭に大きく響く。

 違うし、兄妹だし。

 新婚っていうと……。

『おかえりなさい、あなた。ご飯にする? お風呂にする? それとも……』

 ……って、バカ。

 一瞬で浮かんだ妄想を打ち消すように、頭上でパタパタと手を動かす。

 赤い糸の相手なんだから、将来的に結ばれたりしたら、あながちありえない妄想などではないのだろうけど。

 うーん、でも、血が繋がらないとはいえ、兄妹っていうのはまずくないかな?

 ……なんて、そんなことは、まずは両想いになってからなわけで。

 バカな妄想しちゃった。さっさとチキンライス作っちゃお。

 買い物をしたばかりの袋から、鶏肉のパックを取り出す。

 あとは人参と、玉ねぎにピーマン、カレー粉に……。

 ──ピンポーン。

「ん?」

 鳴り響くインターホンに、視線を向ける。時計を見て、玄関へ向かった。

「はーい! あ、学さん」

 洗濯物を取り込むのに、時間をかけすぎたみたい。私が家に帰ってから、一時間は過ぎてしまっていた。

「おかえりなさい、学さん」

 そうやって笑顔で迎えたつもりなのに、学さんは驚いたように目を見開く。

「え? なに? 私の顔に何か?」

「あ、いや、……ただいま」

「はい」

 学さんがこの家に来て、「ただいま」ってなんか変な感じ。最初なんか、「お邪魔します」だったし。その変化だけでも、嬉しく感じるものなんだな。

「学さん、今帰ってきてくれて、ちょうどよかった。今日の夜ね、オムライスにしようと思ってたの。好きじゃなかったら、今ならまだ変更出来るよ」

「いや、ありがとう。普通に好きだから、そのままで大丈夫」

「よかった。先にお風呂に行って休んでいいよ、……って言いたいところなんだけど、まだ湯船が空なんだ。もうちょっと待っててね」

「え、家事、全部ひとりでやらなくても」

 思いもよらない学さんの言葉に、

「え」

 と、声を漏らす。

「え?」

 それを聞いた学さんまでも、同じ反応に。

「いや、俺もずっと母さんとふたり暮らしだったから、一通りの家事は出来るし。塾がない日くらいは、この家のやり方を教えてくれればするけど」

 戸惑う学さんに、私は目を見開く。

 そっか、パパとふたりきりの時にはずっとひとりで家のことをやっていたから、それが当たり前で、頼るなんて発想すらなかった。

「えーと、じゃあ、お風呂入れてもらいたいです……。42度設定で」

「分かった。洗濯とかは?」

「ううん、それは」

「あ、悪い、下着とか見られたくないよな。俺は、手を出さないでおく」

「う、うん、そうなの」

「乾いたものがあったら、適当に部屋の前にでも置いておいて。自分のものは自分で畳むから」

「は、はい……」

 お風呂場に向かう学さんの背中を見送る。

 すごい。さりげなく気遣ってくれたり、進んで動いてくれたり。これがパパだったら、家事がちゃんとなっていないと嫌な顔をするのに。

 ついさっきの妄想がよみがえる。正に、理想の旦那さん。

 もし、将来……。

 ──ピーッ!

「!!」

 汽笛のような音が耳を貫いて、ハッとする。

 そうだ、さっき、ヤカンを火にかけたんだった。

 慌ててキッチンに向かい、コンロの火を止める。

 危なかった。また、変なことを考えるところだった。

 その後は、ふたりで私が作ったオムライスを食べて、学さんが食器を洗ってくれた。

 今日のオムライスは、チキンライスの味付けもちょうど良かったし、たまごもフワフワに焼けて、成功だった。

 瑞貴にもお弁当で作ってあげるなんて言っちゃったけど、いつもこのクオリティでいけるわけじゃないから、悩むな……。チキンライス、明日のお弁当用にちょっと多めに作っておけばよかった。

 なんて、のんきに考えていた食後のこと。

 ソファーに座って、テレビのリモコンを手に取る。スイッチを入れて、お気に入りの番組に切り替えようとした、その時。

 家の前に車が止まる音がして、間髪入れずに玄関が開き、バタバタと誰かが飛び込んでくる足音が響いた。

 リビングに顔を見せたのは、パパ。少し遅れて、直子さんも。

 キッチンにいた学さんも、不思議そうにリビングを覗く。

「あれ? パパ、帰るの早……」

「芙結、おばあちゃんちに行くぞ!」

「え?」

 私の疑問を無視して、パパは慌てた表情で告げる。

「お、おばあちゃんの家? なんで……」

「おじいちゃんが亡くなったんだ! 旅行中に連絡が入って、急いで帰ってきた」

「え!?」

「じゅ、数珠……数珠はどこにしまって、あ、芙結は数珠持ってないよな。いや、子どもだからなくてもいいのか? あとは黒のネクタイと」

「ちょ、ちょっとパパ」

「芙結は制服で参列だからな。いつものあの短いスカートはだめだぞ」

「え、……ええ?」

 動揺して、自体がつかめない私をよそに、パパはバタバタとその辺を動きまくる。

 直子さんに目をやると、不安そうな顔をしている。学さんは、心配そうに私を見ていた。


 目が回るような慌ただしさで準備をして、大荷物を抱え、パパと一緒にタクシーに乗った。

 おばあちゃんの家は、うちから車で一時間ほど離れた場所にある。

 タクシーの後部座席で、両手に抱えたボストンバッグに目を落とす。動揺して、いらないものまで持ってきた気がする。

 あ、スマホの充電器がない。でも、モバイルバッテリーは入ってる。よかった。

「ごめんな、芙結。夜に突然連れ出して」

 パパが、深く息を吐きながら目元を覆う。

「ううん。私もおじいちゃんのこと好きだから、最後のお別れに行くのは当たり前だよ」

「そうか、そうだな……」

 幸せいっぱいの新婚旅行中に、自分の父親が亡くなったことを知らされるなんて、相当辛いと思う。

 家に着いたばかりの時には忙しなく動きまくっていたパパは、タクシーに乗ったとたんにぐったりとうなだれた。

 おじいちゃんが体を壊しているなんて聞いていなかったから、突然だったのかな……。

 それも、パパの疲弊した様子を見て、聞くに聞けずにいる。

 幼い頃から、何度も連れて行ってもらった、祖父母の家。いつも優しいおばあちゃんと、私の顔を見ると嬉しそうにしてくれたおじいちゃん。

 私は、ふたりのことが大好きだった。

 ふたりの右手を見るのが、大好きだった。祖父母の間には、赤い糸が繋がっていたから。

「おばあちゃん!」

 おじいちゃんの遺体が安置されている病院に到着し、待合所で顔を両手で覆って座っているおばあちゃんに声をかける。

 私の声を聞いた瞬間、小さく縮こまっていたおばあちゃんは顔を上げ、真っ赤な目を細めて笑った。

「芙結ちゃん、遠いところをありがとう」

「ううん、おばあちゃん、辛い時にひとりで寂しかったでしょ?」

 おばあちゃんは泣きそうな顔で笑い、椅子から立ち上がった。

「栄一も、旅行中だったのにごめんね。おじいちゃん、まだ遺体安置室で眠ってるから、一緒に会いに行こう」

 フラフラとおぼつかないおばあちゃんを、ふたりで支える。

 場所を案内してもらわなくても、私には場所が分かっていた。大好きなふたりの赤い糸が、まだ繋がっていたから。


 遺体安置室の前に立ち、意を決して扉を開ける。暗い部屋に、顔に白い布をかけられた人が横たわっていた。

 手は、布団の中だろうか。おばあちゃんから伸びた赤い糸が、掛け布団に入り込んでいる。

「おじいちゃん……」

 顔を見る前に私が呟くと、ふたりから小さく泣き声が届いた。

「お昼まではね、普通に生活してたのよ。ふたりでご飯を食べて、のんびりテレビを見て……。おじいちゃんが、頭が痛いって言って……突然。……それきり」

 優しい声が、途切れ途切れに詰まっていく。

 パパが、顔にかけられた布をめくると、すこし青白く眠った顔があった。化粧で、肌を綺麗に整えられている。

 私たちは、静かに手を合わせた。

 病院で手続きを終え、3人で祖父母の家に向かうことにした。葬儀が済むまでは、パパと一緒にそこに留まることになる。

「おじゃまします」

 古びた一軒家を見上げ、懐かしい気持ちになる。最後に訪れたのは、今年の正月。

 そんなに期間は開いていないのに、懐かしいなんて変な感じ。

 おじいちゃんが倒れて、慌てていた時のままなのだろうか。途中まで畳まれてある洗濯物。リビングには、すっかり冷めた緑茶入りのコーヒーカップがあった。

 おじいちゃん、また会えると思ってたのにな……。

 持ってきた荷物をリビングに置かせてもらい、明日から訪れる予定の親戚やご近所さんに見られても良いように、3人で家の中を片付けることにした。

「仕事行けないって電話しないとな。そうだ、芙結、しばらく休むって学校にも連絡入れるからな。お前も、友達とかには言っておけよ」

 そう言って、パパは早々と上司に電話をかけた。向こう側には絶対に見えているはずはないのに、スマホを耳に当ててお辞儀をしている。

 私は、まずは瑞貴に連絡をしなきゃ。明日もまた家に迎えに来るなんて、無駄足を運ばせちゃいけないし。

 スマホを指で操作して、メッセージアプリのトーク画面を出す。

『おじいちゃんが亡くなったから明日から少し学校休むね』

 これで、よし。次はリサ──

 ──ピコンッ。

「わ」

 リサとのトーク画面を出そうとすると、すぐに瑞貴から返信があり、つい声が漏れた。

『芙結は大丈夫?』

 ひと言、ただ私を心配するメッセージにホッとして、今まで自分が気を張っていたことに気づいた。

『大丈夫だよ。オムライスはまた今度ね』

『ずっと待ってる』

 瑞貴との短いやり取りに、「ふう」と息を吐く。

「芙結ちゃんの彼氏くん?」

「わあ!?」

 おばあちゃんがいることに少しも気づかず、背後から声をかけられて、思わず声を上げてしまった。

「びっくりした……。彼氏とかじゃないよ。友達」

「そうなの? 芙結ちゃんがニコニコしてるから、好きな男の子だと思った」

「やめてよ、仲がいいだけだから」

「ふふ」

 あ、笑ってる。

 おばあちゃん、ずっと悲しそうな表情だったから、少し落ち着いたみたいでよかった……。

 おばあちゃんの右手には、相変わらず赤い糸が見える。相手が亡くなっても、この糸は消えたり切れたりしないものなんだ。

 正に運命だな。そんな人と、生涯一緒にいられたなんて、なんて素敵なんだろう。

 おじいちゃんが亡くなってから、三日目に葬儀は終了した。

 参加してくださった参列者の方へのあいさつや、葬儀が終わってもまだ後片付けに追われて、ホッと息をつけるまで、たくさん時間がかかってしまった。

 パパとおばあちゃんとの3人だけになった家で、私たちはぐったりと疲れていた。

「ふたりとも、本当にありがとうね。おじいちゃん、たくさんの人に見送ってもらえて、きっと幸せだったよ」

 一番疲れているはずのおばあちゃんは、それでも私たちに気をつかって、お礼の言葉を口にする。

「頑張るのは当たり前だよ。私たちだって、おじいちゃんのこと大好きなんだから。もちろん、おばあちゃんのことも!」

「そうだよ、俺だってふたりの息子なんだからさ」

 私とパパが続けて言うと、おばあちゃんはニッコリと笑った。

 おばあちゃんの家に泊まるのは、今日まで。私たちは明日、自宅へ帰る。

 お風呂上がり、一番風呂に入ったおばあちゃんの姿が見えず、探してみると、縁側へ続くガラス戸が開いていることに気づいた。

 おばあちゃんは夜空を見上げ、ボーッと座っていた。

「おばあちゃん、寒くない? 風邪引くよ」

「芙結ちゃん、もうお風呂は入ったの?」

「うん。今はパパが入ってるよ」

「そう」

 柔らかな笑顔を見せた後、おばあちゃんはまた空に目をやる。私も隣に座って、夜空を見上げた。

 雲もなく、星が綺麗に見える。

「芙結ちゃんは、好きな子いないの?」

「えっ!? なに、突然」

「この間、連絡とってた子?」

「だから、瑞貴は友達だってば」

「瑞貴くんっていうのね」

 フフッと楽しそうに笑う目には、夜空以外にも、おじいちゃんの姿が見えてたりするのかな。

「おばあちゃんね、芙結ちゃんよりももう少し大きかった頃かな。おじいちゃんじゃない人と、結婚の約束をしてたのよ」

「えっ、そうなの? 何歳くらい?」

「19歳の時だったかしら」

「うわ、若っ」

 19って、私だったらあと……六年?

 六年後に結婚……。ないな、絶対に。

「彼が海外に行って、戻ってきたら結婚しようって約束だったんだけど、待っていても帰ってこなくてね。結局、現地で亡くなったことにされてしまったの」

「えっ。それって、遺体とかは……」

 聞いてもいいのか迷いながら恐る恐る問うと、おばあちゃんはゆっくりと首を振った。

「そ、そうなんだ……」

 気まずくて次の言葉を言えずにいると、先に口を開いたのはおばあちゃん。

「そんな時に出会ったのが、おじいちゃんなのよ」

 目を見開いて見る私に、おばあちゃんは優しく見守るように微笑んだ。

「私はね、ずっと好きな人のことが忘れられなかったから、いくらおじいちゃんが熱心にお話してくれても、ずっと断っていたんだけど……」

 ふう、と、一息ついたおばあちゃんは、諦めるように笑った。

「あまりにも何日も私の元へ通ってくれるから、困っていたはずなのに、いつの間にかおじいちゃんが来てくれることを待つようになってしまったのよね」

 初めて聞くふたりのエピソードは、知らない本の物語を聞いているようで、不思議な気持ちになる。

 ふたりにも、若い時があったんだ。

「ある日、いつものようにおじいちゃんを待っていた日。その日、初めておじいちゃんが来なかったの。二年間続いて、初めて」

 二年も? おじいちゃん、頑張ったんだな。

「焦ったわ。もう、私のことなんてどうでもよくなったのか、他に好きな人を見つけたのか、って」

 おばあちゃんの声に、緊張が走る。当時のことを、昨日のことのように思い出しているみたいに。

 その姿は、恋をしている少女のようで、可愛く見えた。

「ずっと待ち続けて、夜中になって。そしたらね、突然現れたのよ。頭に包帯を巻いて」

「え!? 怪我してるじゃん!」

「そうなの。うちに向かう途中に、事故にあったんですって。病院から抜け出してきたって言うのよ」

「うわ……」

失礼ながら、ちょっと引いてしまった。

「それでね、気づいたの。自分が、どれだけこの人のことを待っていたかということに。ああ、恋をしていたんだなぁ、って。おかしいわね、ずっと別の人のことを想っていたはずなのに」

 顔を赤らめて笑う姿に、こっちまで恥ずかしくて嬉しくなる。

「すごいね、おばあちゃん! おばあちゃんは、運命の人を見つけたんだね!」

 手を握って力説すると、おばあちゃんは「運命?」と、首をかしげた。

「おじいちゃんは、おばあちゃんの運命の人だったんだよ! だって、ふたりはずっと赤い糸でつながってたんだから」

 「赤い糸」と口走ってしまい、慌てて口を押さえる。

 だけど、おばあちゃんは特に気にする様子もなく、「芙結ちゃんは、昔から赤い糸の話が好きね」と、笑っただけだった。

「……そうね、おじいちゃんは、運命の人だったのかも。出会ってから、ずっと幸せだったもの」

 そう言って、空を見上げる視線を追う。おばあちゃんの目には、その先に何が見えているのか、私には分からない。

 だけど、私には見えていた。おばあちゃんからつながる赤い糸が、空に続いているのを。

「おばあちゃん、また来るね」

「ええ、待ってるわね。元気で」

 翌日の夕方、私はパパと一緒に家に帰ることになった。

 初七日や、四十九日など、まだまだ故人のためにすることはあるけれど、ひとまずはこれでひと段落ついたことになる。

「芙結、昨日の夜、ばあちゃんと何話してたんだ?」

 帰りのタクシーの中で、隣に座るパパが問いかけてきた。

「パパ、見てたの? 声かけてくれればよかったのに」

「風呂上がりにたまたまな。女同士でいるところ、邪魔しちゃ悪いかと思って」

 女同士……。確かにあれは、女同士の会話だった。おばあちゃん、可愛かったな。

「ひみつだよ。おばあちゃんの、恋の話だもん」

 赤い糸は、本物なんだ。亡くなっても、空に舞い上がっていくなんて。


 家に着き、重い荷物を抱えて玄関まで向かう。

 なんで私、音楽プレイヤーとか持って行っちゃったんだろう。机の上に乗せていたお菓子とかも入っていたし。

 動揺していたからって、いらないものまでかばんに詰め込んでしまったみたい。

 パパが家の鍵を探していると、タクシーの止まる音で気づいてくれたのか、直子さんが玄関を開けてくれた。

「おかえりなさい、栄一さん、芙結ちゃん。お疲れ様」

 扉の先に暖かな明かりが見えて、ホッとする。

「ごめんな、旅行途中になって」

「旅行なんて、これからいくらでも行けるじゃない」

 パパが先に入って、直子さんに声をかける。

 私は両腕で荷物を抱えていたから、パパが入ったあとに扉が閉まりそうになって、

「あっ……」

 と、声を漏らしたその瞬間。内側から手が伸びてきて、また玄関の扉が開いた。

「大丈夫?」

「あ、学さん、ありがとう」

 暗い顔を見せないように、パッと一瞬で笑顔を張り付ける。

「ずいぶん大荷物だな」

「なんか、いらないものいっぱい持っていっちゃって」

「貸して」

 学さんは、私が両手で持っても重かったかばんを、片手でヒョイっと軽々と持ち上げた。

「えっ、そんな、いいのに」

「部屋の前に置いとく。中までは、入らないから」

 そういう意味で遠慮したんじゃなかったんだけど……。

 ありがたく甘えることにして、その背中をついていく。

 久しぶりに見た。学さんにつながっている、私の赤い糸。

 おばあちゃんたちみたいに、どちらかが死んでも、空に……。

 部屋の前について、学さんが振り返る。ちょうど学さんのことを考えていたから、ドキッと心臓が跳ねた。

 荷物を廊下に置いてくれて、学さんが私の顔をじっと見た。

 変な表情を見せないようにと、私は変な笑顔を張り付けたまま。

 ……だったのに。

「別に、こんな時まで笑おうとしなくていいけど」

「え?」

「三日前、……家を出る前、すごい悲しそうな顔してたから」

 声に詰まる。

 何かを言わなきゃと、口を開いたその瞬間、涙がポロッと零れた。

「あ、あれ?」

 何とか止めなきゃと頬に手を当てるけど、涙は次々と溢れてくる。

 学さんは深く息を吐き、私の頭にそっと手を置いた。

「ご、ごめんなさい、わたし……っ」

「いいよ。今なら、誰も見てないから」

 その言葉通り、学さんはわざと目をそらしてくれている。

「あんた、父親の前だと無理していい子っぽくしてるみたいだから。今回も、また頑張って明るくしてるのかと思って」

 どうして分かってしまうんだろう。おじいちゃんの死は、一緒にいた時間が一番少ない私なんかよりも、おばあちゃんやパパの方がずっとずっと辛いだろうって、ふたりを励ましながら、無理に気丈にふるまっていたこと。

 でも本当は、思いっきり泣きたかったことを。

 どうして、学さんだけが。


 胸を借りて、その場で泣き腫らして、我に返ったら途端に恥ずかしくなった。

「……すみません……、なんか、わたし……」

「ちょっとはスッキリした?」

「はい……」

 ちょっとどころか、大分。初めて男の人の前で、いっぱい泣いてしまった。

 まぶたが腫れて、視界がせまい。絶対ブスだ。見られたくないな……。

 そんな気持ちのせいで、うつむき加減になってしまう。

 学さんはもう一度私の頭にポンと優しく手を置いて、一階へと続く階段へ向かう。

「言い忘れてた」

 そして、階段の途中で振り向き、上目づかいが私を見た。

「おかえり」

 聞き間違えかと思うくらいの、小さな声。でも、耳が少し赤く見えるのは、見間違えじゃない。

「た、ただいま!」

 初めての「おかえり」が嬉しくて、顔が熱くなる。


 目をこすりながら部屋に入り、かばんから荷物を出していると、スマホにメッセージの通知があった。

『そろそろ家に帰った頃?』

 開いてみると、相手は瑞貴だった。

 すごいな、どこかで見ていたみたい。

『ちょうどさっき帰ったよ』

 返事をして、荷物の片付けに戻ろうとしたら、またすぐに通知音がなった。

『外見て!』

 外?

 まさかと思い、部屋の窓を開ける。二階から外を見下ろすと、そこには両手を大きく振る人物の姿があった。

「えっ!」

 驚き、急いで部屋を出て、階段を駆け下りる。

「おい、芙結どうした」

 リビングからパパの声が聞こえる。私はそれを無視して、玄関から飛び出した。

「瑞貴! どうしたの? びっくりした……」

「こんなに芙結に会わないのって初めてだから、顔見たくて」

「もう……、明日になったら学校だって行くのに……。ずっと待ってたの?」

 瑞貴の赤くなった頬に触れる。夜風で冷えている。

「ずっとじゃないよ。ちょうど今着いた」

「私がまだ帰ってなかったら、どうするつもりだったの?」

「それは、待つしかないよね」

「バカ。寒いでしょ、とりあえず家の中に」

 腕を引いて玄関ま行こうとしたら、瑞貴はチラッと家を見上げて、そっと腕を離した。

「いいよ、芙結の顔が見れれば、それでよかったんだし」

「今さら遠慮しなくていいのに」

「遠慮とかじゃないよ」

 瑞貴は少し切なそうに笑顔を見せて、うつむいた。口元は、ずっと笑っているように見える。

「俺、芙結の運命の人、見たくないし」

 小さく呟いて、顔を上げ、見せたのはいつも通りに明るい表情。

「じゃあ、また明日ね」

「あっ……」

 止める隙もなく、駆け出した背中はすぐに小さくなっていく。

「……」

 引き止めることが出来なかった右手が、その場で止まったまま。

「今の誰?」

 背中からかけられた声に振り向くと、いつからいたのか、学さんが立っていた。

「あ……、幼なじみで」

「へえ……」

 少し言葉尻を濁した学さんは、

「夕飯、出来たってさ」

 と、すぐに家の中に入っていった。

「うん、今行く」

 返事をしながら私は、瑞貴の背中が見えなくなるまでそこに立っていた。

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