ひとつ屋根の下で

 学校が遠いからなのか、朝に目を覚ました時には、学さんはもう家を出た後だった。

 今日から、三日もふたりきり……。大丈夫なのかな、それって。

 学さんって多分、私のことを良くは思っていないみたいだし。

 最初の、運命の人発言が、明らかにマズかった。

 制服に着替えて、二階にある自室から一階へ降りる。シーンとしていて、誰もいない。

 学さんが、朝食を食べた形跡もない。

 私とパパだけなら、この時間に起きてからの朝食作りで間に合っていたけど、明日からはもっと早起きしようかな。

 ため息をつきながらも、のんびりと朝の準備をして、そろそろ家を出ようかというところで、玄関のチャイムが鳴った。

 チャイムの主を確認することもなく、玄関を開ける。

「おはよー、芙結。学校行こ!」

「おはよう、瑞貴」

 いつも通り、いつもの時間の元気な声でニコニコと笑う顔を見て、ホッと安堵の息をつく。

「あれ? なに? 芙結、なんか疲れてない?」

 鍵をしめて、瑞貴の隣に並ぶ。

「あ、そう見える? うん……、今日から、パパと直子さんが新婚旅行に言っちゃって……。新しいお兄ちゃんとふたりきりなんだよね」

「え!? あの、例の赤い糸とかいう人……?」

「そう。私、あんまり好かれてないみたいで」

 はあ……、と、思いっきりため息をつくと、瑞貴は不安そうな表情で私を見た。

「ふたりきりって、それ大丈夫なの?」

「今のところは、大丈夫じゃない」

「えっ!? その人に何かされ」

「胃が痛い」

「ああ、そういうこと……。良かった」

「全然良くないよ。学さん、ロボットみたいなんだもん。ペッパーくんの方が、学さんより人間っぽいくらいだよ」

 右手を、目の前に掲げる。

 赤い糸は、今日もあるなぁ……。

 同じ赤い糸でも、パパと直子さんとは大違い。

 また深く息を吐く私に、瑞貴がポンポンと優しく頭を撫でた。

「もう……、子どもじゃないんだから」

「子ども扱いしてるわけじゃないよ」

 ニコニコと優しい笑顔を見せる瑞貴は、まだ撫でるのをやめるつもりはないらしい。

「困ったことがあったら、いつでも呼んで。夜中でも駆けつけるから」

 そんなこと、するわけにはいかない。でも。

「……うん、ありがとう」


 瑞貴と一緒に教室に入ると、すでに来ていたリサが、自分の席でソワソワした様子で座っていた。

「おはよう、リサ」

「あっ、芙結ちゃん! 待ってたの!」

 声をかけると、パッと花が咲くような笑顔でリサが席を立った。

 うーん、可愛い……。無表情の時点ですでに可愛いのに、笑顔になると三割増し。

「私に何か用だったの?」

「ううん、芙結ちゃんに会いたかっただけなの」

 なにそれ、かわいい。

「リサちゃんって、本当に芙結が好きだよね」

「瑞貴くんは、いつも芙結ちゃんと一緒でずるい……」

 リサは私に隠れるようにして、瑞貴を恨めしそうに見る。

「芙結ちゃんたち、そんなにいつも一緒にいるのに、付き合ってるわけじゃないの?」

 リサが私の腕に抱きつき、上目遣いを見せる。

「何言ってんの、リサ。私たち、ただの幼なじみだよ」

 この手の質問は、リサ以外からも、何十回とされている。

 男女ふたりが一緒にいるだけで、すぐにこんなことを言われてしまう。男女の友情っていうのも、あると思うんだけどな。

 苦笑いでリサに否定をすると、

「そうそう。それに、俺は芙結にとっくの昔にフラれてるからさ」

 瑞貴が明るく笑って、キッパリと打ち消した。

 その返答に、リサよりも私の方が驚く。

 あんなに毎日「好き」って言ってくれているのに、そんな感じなんだ。そっか……。

 人知れず視線を落としていると、教室の扉の方から私を呼ぶ声が届いた。

「芙結ー! 芙結、呼んでって」

「あっ、はーい」

 クラスメイトの女子のそばにいるのは、小学校が同じだった友達の、若菜(わかな)。

「久しぶり、芙結」

「そうだね、クラス違っちゃうとあんまり会えないもんね。どうかしたの?」

 若菜に話しかけながらも、私の目は彼女の右手に向いてしまう。少し前に会った時にはなかったのに、赤い糸が結ばれている。

「えっと、あの……」

 歯切れ悪く口ごもる若菜は、教室の中を気にしている。その先を追うと、リサが瑞貴と一緒にじっとこちらを見ていた。

「ごめん、ちょっと廊下出よっか」

 と、若菜を廊下に連れ出す。

 ふたりで窓の外を見ながら、若菜が小さく口を開いた。

「あのさ、芙結って……なんか恋愛相談? みたいの、得意だったよね?」

「得意っていうのも、ちょっと違うんだけどね」

 相談をしてくれた子の赤い糸が繋がっていれば背中を押して、逆に赤い糸がまだ見えなかったり、意中の人に繋がっていなければ、さり気なくアドバイスをする。それだけ。

「そんなこと聞くってことは、……好きな人でも出来た?」

 顔を除き込むように、ドキドキしながら問いかける。若菜は頬を赤く染めて、無言でうなずいた。

 彼女には、赤い糸が繋がっている。ってことは、もしかして……。

 期待がふくらむ。私は、ウキウキと浮き足立つ気持ちを隠しきれず、身を乗り出した。

「相手の人も、見てみたいな」


 若菜と一緒に階段を上がり、上級生のクラスに移動する。二年五組。

「好きな人って、先輩だったんだね。どの人?」

「えっとね、今……前の方の窓に……」

 ふたりでコソコソと、教室の扉についている小窓から中を除く。

 若菜が控えめに指を差す、その先を目で追うと、背の高い爽やかなイケメンがいた。

 その見た目の華やかさから、うちのクラスでも密かに女子の注目を集めていた、杉尾先輩。

 彼の右手の小指からも赤い糸は伸びていて、それはまっすぐに若菜へと続いている。

「あ!」

 繋がっている運命に、歓喜の声を上げそうになるけど、その瞬間に杉尾先輩の隣に当たり前のように女子が寄り添っていった。ふたりは、楽しそうに笑い合っている。

 ……あれ?

「若菜、先輩ってもしかして……」

 私の言葉の続きが、すぐに想像出来たのだろう。若菜は、小さくうなずく。

「彼女、いるの」

 しかも、その相手には見覚えがある。小学生の時、若菜とよく一緒にいたミナミ先輩。

「ミナミちゃんと私、幼なじみなんだ。今もよく遊んでくれるんだけど。最近、彼氏が出来たって紹介してくれて……」

 若菜は、顔を自らの手で隠した。

「ミナミちゃんの彼氏……好きになるつもりじゃなかったのに」

 なんて声をかけたらいいのか分からず、言葉が出ない。

 でも……私に恋愛相談をしたっていうことは、杉尾先輩と結ばれたいって思ったからなんだよね?

 そして、ふたりは赤い糸の相手。

 それなら、私が言えることは、ひとつしかない。

「……ミナミ先輩には悪いけど、私は、若菜を応援するよ」

「え?」

「頑張って。杉尾先輩は、きっと若菜を好きになるから」

 目をまっすぐに見て宣言すると、控えめに「ありがとう」と返ってきた。

「あれ、雨?」

 放課後になって、帰ろうとした、正にその時。昇降口を出たとたんに、大粒の雨がポタッと一粒頬に当たって、思わず顔を上げた。

「芙結、傘は?」

「降らないと思ってたから、今日は持ってきてなくて」

 それを聞くなり、隣にいる瑞貴が自分の通学バッグをゴソゴソと探り出した。

「はい、折りたたみ傘。一本しかないから、一緒に入っていきなよ」

 瑞貴がニコッと笑って取り出したのは、鮮やかなブルーの傘。

 私は、男子で折りたたみ傘を持ち歩いている人を、他に知らない。

「すごいね。女子力高すぎない?」

 カバーから取り出して傘をバサッと広げる隣を見て、一応女子である自分が情けなくなる。

「芙結が傘忘れた時に、相合傘するためだよ」

 ……何か、サラッと言われた。

 瑞貴は、特に反応や返答は求めていなかったらしい。気にかける様子もなく、頭の上に普通に傘をさしてくれた。

「ありがとう……」

「久しぶりだね、芙結と相合傘するの。昔は、どっちかって言うと、俺が傘忘れてたから」

 肩が触れそうなくらいに近いこの距離が少し気まずくて、視線をそらす。

「そうだね。小学生の頃なんて、男子にからかわれて大変だったよね」

「でも芙結は、そういうの気にしなかったじゃん」

「だって、そんなことしか言えない男子なんて、くだらないと思ってたし。瑞貴との相合傘だって、別に嫌じゃなかったからいいの」

「……」

 瑞貴が私を見て、何も言わずに黙る。

 私、変なことでも言ったかな。

 不安になって、そっと隣の顔を見ると、耳が赤くなっていた。

「はー……、芙結がかっこいい」

 まさか、褒められているのだろうか。

 うーん、と無言で考え、前方を向く。

 当然のように通学路を歩こうとする瑞貴に、ハッと気づいた。

「あっ、ごめん、今日はスーパーに寄ろうと思ってたんだ」

 直子さんがいないから、私が夕飯を作らなくちゃ。朝に冷蔵庫を見た時には、そんなに食材は入っていなかった。

「え? じゃあ、引き返そっか」

「いいよ、瑞貴は先に帰って。すぐそこだし、私は走れば……」

「ダメダメ。俺から、芙結との時間を奪っちゃ。ね」

 その可愛い笑顔に戸惑いながらも、私も微笑を返した。


「付き合ってくれて、本当にありがとう。雨が強くなってきたから、気をつけて帰ってね」

 買い物もふたりで済ませて、ずっと傘をさしながら家まで送ってくれた瑞貴に、お礼を言う。

 自分の傘を持っていたとしても、結局は瑞貴に頼っていたかもしれない。買い物袋があったから、両手を使えて本当に助かった。

「あのさ、芙結」

「え?」

「今日……」

 瑞貴の物言いが、めずらしくハッキリしていない。

「……なんでもない。新しいお兄ちゃんと、仲良くなれたらいいね」

 きっと、本当に言いたかったこととは違うのだろう。それでも笑って、瑞貴はこの場から立ち去っていった。

 歩くたびに、パシャパシャと水が跳ねる音がする。

 私は動けずに、足音が聞こえなくなるまで、その姿を見送った。


 家に入って、まずは部屋干しをしていた服を取り込んだ。雨は、どんどん強くなっていく。

 学さん、ちゃんと傘持って出たかな。

 今日も、昨日くらいの時間に帰ってくるんだとしたら、夕飯はゆっくり作っても間に合いそう。

 今日のメニューは、数少ない得意料理の内のひとつ、煮込みハンバーグ。昨日、パパに料理下手を暴露されたばかりだし、食べてもらうのは少し躊躇してしまう。


 バチバチと、窓ガラスに雨が強く打ち付ける。土砂降りになってきた。

 雷が鳴らないといいんだけど。

 雨の音を打ち消そうと、リビングのテレビをつける。キッチンから、テレビ画面は見えない。

 どれだけ時間が過ぎても、雨が止む気配はない。


夕飯の準備も終わったし、湯船にお湯も張ったし。洗濯物は……今はない。

 やることもなくなって、時刻は午後七時。学さんは、昨日よりも帰るのが遅いみたい。

 当然のように家で夕食をとるものだと思って、ふたり分の準備をしてしまったけれど、そんな言葉はひと言も交わしていないんだった。どこかで食べてきたりして。

 今さら聞こうにも、連絡先は知らない。

 ため息をついて、窓に目をやる。カーテンを閉めたから外の様子は見えないけど、雨が降り続いているのは音で分かる。

 やだな……。遠くの方で、雷が鳴っている。

 リビングのソファーの上で体育座りをして、クッションを抱きしめながらテレビ画面を見つめる。内容は入ってこない。


 学さん、まだかな……。

 リビングにある、壁掛け時計で時刻を確認する。もう少しで、八時。

 雷は、どんどん近くなっている。

 リビングのテーブルに置いた、スマホに目をやる。

『困ったことがあったら、いつでも呼んで』

 首を左右に振る。

 瑞貴に頼るなんて、絶対にダメ。

 雷が光る。私はついにテレビに目を向けるのをやめて、体育座りの膝に顔を埋めた。

 やだな。こんな日にはいつも、思い出す。

 『好きな人』の絵を描いて、校内の賞をとった画用紙を片手に、息を弾ませながら帰った小学生の私。家に飛び込んで名前を呼んでも、返ってくるのは雨の音。

 リビングの上には、置き手紙と離婚届。

 あの日も、雷が鳴っていた。あの日も、ひとりだった。

 ゴロゴロと雷鳴がうなって、全身がビクッと震える。

 だから、雨は嫌い。嫌なことを思い出す。頭の中で、小さな私が震えて泣いている。

「ママ……」

 誰にも、……本人にも絶対に届かないことを知っていながらも、呟かずにはいられない。

 ──ピンポーン。

「っ!!」

 絞り出した声に応えるように、玄関からチャイムが鳴る。

 弾かれるようにソファーから飛び降りて、走り出す。

 向こう側の人物を確認もせずに、飛び込むようにドアを開けた。

「おかえりなさい……っ!」

 勢いをつけすぎて、ぶつかりそうになったその人は、頭で思い描いていた人物ではなかった。

 学さんが、面食らった表情で目を見開いている。

「え、あ、ま、学さん? お、おかえりなさい。濡れてないですか?」

「ああ、うん……」

 胸に飛び込みそうになったことが恥ずかしくて、早口でまくし立てる。

 彼の右手にはビニール傘が握られていた。うちにはビニール傘は無かったはずだから、どこかコンビニででも買ったのかな。

「涙……」

「え?」

 学さんが、私の顔を見て何かを言いかけた、その時。ドアを閉める直前に夜空がピカッと光って、空から電気が落ちるのが見えた。

「きゃあ!?」

 ドン! と、大きな落下物のような音と共に、家中の明かりが一瞬で全て消えた。

「どこか落ちたな。停電か……、困ったな」

 冷静な物言いを聞きながら、私はその場でペタンとしゃがみこんでしまった。

「おい?なに……」

「ご、ごめんなさい……、私、雷がちょっと苦手で……」

 いつまで待っても帰ってこないママ。鳴り響く雷鳴。

 真っ暗な部屋で、目を閉じて、耳を塞いで。夜遅く、パパが帰ってくるまでずっと、ひとりぼっち。

 もう、すっかり慣れたはずなのに。

「ごめんなさい、放っておいて大丈夫だから……」

 頑張って少しだけ口角を上げてみたけれど、顔を伏せていたせいで見えなかったかもしれない。

「だから泣いてたのか」

 ボソッと呟いた学さんは、その場から去るどころか、私のそばに座った。

「雷、怖い?」

 思いがけず優しい声に、顔を上げる。暗くて、よく見えない。

「は、はい……。私が小学生の時に、ママが出ていって。……その日も、雷が鳴ってたから、なんかトラウマになっちゃって」

 えへへ。と、強がって笑ってみせるけど、

「泣くくらい辛いのに、無理して笑わなくていい」

 学さんに無表情で諭されたから、スッと口角を下げた。

 見られてたんだ……。

 沈黙が続く。気まずさはあるものの、体の震えは少しずつ治まってきた。学さんは、ずっとそばにいてくれている。

 雨と雷の音は、止まない。

「……学さんは、パパと直子さんの再婚には反対なの?」

「なんで?」

「嫌そうだから」

「母親の再婚に口出しするほど、そんなガキじゃないし」

「じゃあ……」

 どうして? と、私が問いかけるより先に、学さんは諦めたようにため息をついた。

「そっちの……栄一さんは、再婚は初めて?」

「パパ? うん、直子さんがふたり目の奥さんだけど……」

「俺は、もう父親が四人目」

「えっ!?」

 ため息と共に吐き出された言葉に、びっくりして、迷惑なくらいの声を上げてしまった。

 直子さん、パパの赤い糸にたどり着くまでに、苦労したんだな……。見てもいないのに、勝手にそんな想像をしてしまう。

「だから、どうせまたうちの母さんは別れるし、また別な人と結婚する。この家族も、長くは続かない。それなら、他人だと思ってた方が楽だから」

 だから学さんは、最初から全てを諦めているような目をしていたんだ。

 ママがいなくなって、今までずっとパパとふたりきりでいた私には、学さんの気持ちを簡単に分かることなんて出来ない。でも。

「ううん、これからは、もう絶対に大丈夫。だって、パパと直子さんは運命の相手だから」

 体を乗り出して気合を入れて言うけど、学さんの反応は初めて会った時と同じ。

「は? 運命とか、あんたそれ最初の時も言ってたけど、本気で言ってんの?」

「も、もちろんです!」

 だって、私たちにも、パパたちにも赤い糸が繋がっているんだから。

 学さんは、眉を寄せる。

「だったら何で、また泣きそうな顔してんだよ」

 ……え? 泣きそうな顔? 私が? なんで?

 ママと運命じゃなかったパパに、やっと赤い糸が結ばれたのに。

 ツーっと頬に温かいものが伝って、手で触れる。

 ……濡れてる。

「うわ!? 別に泣かせるつもりじゃ……!」

 学さんが、慌ててる。すごい、初めて見た。

 不思議。どんどん涙が溢れてくる。おかしいな。何も悲しくなんてないはずなのに。

 パパと直子さんの赤い糸が繋がっていて、嬉しかったのは、本当。でも……。

「パパには、ずっとママだけを好きでいて欲しかった」

 ああ、そっか。だから、私は泣いてるんだ。

「パパとママの赤い糸が繋がっていて欲しかった……」

 いつかママがまたここに戻ってきても、いつでも向かい入れられるようにって、頑張ってきたのに。

 小学生の頃から、皆が遊んでいても全部断って、家事に費やして、ひとりぼっちでパパの帰りを待つ毎日。

 でも、大丈夫。きっとすぐにママは帰ってくるって、ずっと自分に言い聞かせていた。それなのに、パパは直子さんを見つけた。

 パパは、ママがいなくても平気だったんだ。

 待ち続けていたのは、私だけ。

 パパに幸せになって欲しいのは、本当。

 でも、パパとママと……私の三人で。それが、願いだった。

 心の内を吐き出して、ハッとする。……言ってしまった。ずっと誰にも明かさずにいた、本音を。

 頑張って、新しい家族になろうとしていたのに。

 頑張って、パパと直子さんの前では明るく振舞おうと思っていたのに。

 学さんも、こんなことを言われたって、きっと困るだけ。

「っ!?」

 不意に、頭の上にふわっと落ちてきた手のひらに、声にならない叫びが飛び出す。

 撫でられて……いる?

 学さんはぎこちなく手のひらを動かしながら、目をそらした。

「……悪い。泣かせたかったんじゃないんだけど」

 あったかい……。大きな手のひらが、心地いい。

「俺も、あんたと同じこと……思ったことがある。本当の父さんは、優しい人だったから。だから、他に家族なんかいらなかった」

 学さんも?意外。家族関係とか、関心がなさそうに見えたのに。

「大人は勝手だよな」

 ……見間違いかもしれない。すごく優しい笑顔が、外から漏れた雷の光で、一瞬だけ照らされた気がした。

「電気、まだつかないな。俺、部屋に置型のライトあるから、持って……」

 学さんが言葉を止めて、立ち上がる途中で振り返った。それは、私が服をつかんで引き止めたから。

 目の前に、自分の右手から伸びた赤い糸が見える。繋がる、その先は……。

「ご、ごめんなさい……!」

 つかむ手をとっさに離して、すぐに鳴り響いた雷に、ビクッと身を縮めた。

「……来る? あんたも一緒に」

「!」

 仕方なしにかけられた情けに、私はぴょんと跳ねるように立ち上がった。


 学さんは、まだ慣れていないうちの間取りを、暗い中で私の声を頼りに部屋に進む。二階に上がり、私の部屋の隣まで。

「あんたはちょっと廊下で待ってて」

 と、ドアを開ける後ろ姿にムッとして、私は口を開いた。

「……芙結です。学さん」

「え?」

「私、芙結っていうんです。……家族には、名前で呼んでほしい」

 恋じゃない、まだ。好きなわけじゃない。いくら、赤い糸が繋がっていたって。

 でも、あなたはきっと運命の人。

 学さんは難しい顔で頭を掻き、部屋に入った。

「あ」

 逃げられた。

 他の家族はいらないと言った直後に、私に家族呼ばわりされたって嫌だったかもしれない。学さん自身も、母親の再婚自体を良くは思っていない。

 だからって、私もずっと「あんた」呼ばわりされるのは嫌だ。

 ぷくっと頬を膨らませ、閉まったドアを睨んだ。──その時。

「芙結」

 小さな小さな声で、聞き慣れない名前が届いた。……聞き間違い?

「学さん、今なにか言いました?」

 ドアが閉まっているから、気持ち大きめの声を出す。

「言ってない」

 そっか、聞き間違いか。

 学さんが、右手にライトを持って部屋を出る。

「うわ、なんか笑ってる」

 そして、私の顔を見て口元を引きつらせた。

「人の笑顔を見てドン引きするの、学さん以外に知りません」

「あっそ」

 さっきまで、ちょっと優しいと思ったのに、もう塩対応だし。

 ライトを持って歩く背中を追う。相変わらず雷は怖いけど、すごく安心できるのはきっと、この淡い光のおかげ。


 その後は、食卓テーブルの真ん中に学さんのライトを置いて、ふたりで遅い夕飯を食べた。

 オール電化住宅の楯岡家では、すっかり冷めてしまった煮込みハンバーグを温める方法が見つからなくて、冷たいままだったけど。

「あの……昨日、パパにバラされたから分かると思うけど、私、料理下手だから……」

 学さんが、ハンバーグを口に運ぶ。

「あ、あの! まずかったら残していいんで! 直子さんのおいしい料理ばっかり食べてきた学さんの口に合うなんて思ってないから!」

 ドキドキしながらまくし立てると、冷静にモグモグしていた学さんの喉元がごくんと動いたのが見えた。

「まずくない。ていうか、うまいけど」

 テーブルに両手をつき、勢いよく立ち上がる。背中の方で、椅子がガタンっと倒れる。そんなことは構わずに、私は身を乗り出した。

「ほ、本当っ!?」

「え、ああ……」

 背中をのけ反って引き気味の反応をされたのを無視して、私はさらに詰め寄る。

「本当に本当!? 嘘だったとしても私バカだから、本気にするからね!?」

 ポカンと呆気にとられている学さんが、目をパチパチと瞬かせた。その表情に、やっと自分の今の格好に気づいた。

「あ、ご、ごめんなさい……」

 恥ずかしくて、目を伏せながら椅子を直す。

 バカ、お世辞に決まってるってば。

 暗くてよかった。停電が続くのは困るけど、まだ明るくなりませんように。

 恥ずかしさが前面に出すぎて、パクパクと急いで口に運ぶ。

 冷たいよりも、温かい方が絶対においしかったはず。そう考えると、やっぱり停電にはならないで欲しかったとも思ったり。

 かき込むように食べ終わって、すぐに立ち上がる。

「ごちそうさまっ!」

 さっさとシンクに食器を運ぶ。

「停電が復旧したらまとめて洗うから、食べ終わったら学さんもここに置くだけで」

「うまいよ」

 自分の声に重なって、うまく聞き取れなかった。シンクに手を入れたまま、一瞬体がかたまる。

 ゆっくり振り向くと、テーブルに置いたライトに照らされて、学さんの顔がぼんやりと見えた。

「嘘じゃない、おいしい。作ってくれて、ありがとう。……芙結」

 ぎこちなく、目をそらされて、ほぼ棒読みで発せられたその言葉は、今度こそ聞き間違いなんかじゃない。

 淡い光のせい?顔が、赤いように見えるのは。

 年上の、しかも男の人にこんなことを思ったら、怒られるかもしれない。でも。……可愛い。

 目を合わせてくれないその顔を見つめて、私は口角を上げた。

「よかったです」

 私が背中に隠した右手から、赤い糸が伸びている。

 それは、まっすぐに学さんに繋がっていた。

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