大爆笑
武功薄希
大爆笑
彼の乾いた唇から、最後のジョークが絞り出された。それは、コメディアンだった彼の十八番である、完璧なタイミングと表現で練り上げられた、傑作だったはずだった。しかし、廃墟と化した街角に設置された即席のステージに、笑い声は響かなかった。
虚ろな目をして瓦礫の上に座り込む人々。彼らの視線は、彼に向けられることはなく、ただただ、空から迫り来る巨大な隕石に注がれていた。世界の終わりが、刻一刻と近づいている。そんな状況下で、もはやジョークに耳を傾ける者などいるはずもなかった。
「何が面白ぇんだ! 俺たちはもうすぐ死ぬんだぞ!」
怒号と共に、男が立ち上がり、彼に殴りかかった。男の拳は、彼の顔面を捉え、彼はステージから転げ落ちた。
「笑わせる? 何を言っているんだ! 笑えるわけがないだろう!」
周りの人々は、彼を嘲笑い、石を投げつけた。それでも、彼は諦めなかった。
「笑ってくれ…頼むから…笑ってくれ…」
しかし、彼の言葉は、虚しく空気を震わせるだけで、誰の心にも届かない。無力感と絶望が、彼を容赦なく襲いかかる。
「これが…人類最後の顔か…」
彼は、よろめきながら立ち上がり、その場を逃げ出した。その時だった。かすかな笑い声が、風の音に紛れて、彼の耳に届いた気がした。
「え…?今の…」
幻聴か? 死への恐怖が、彼をこんなにも狂わせるのか? 彼は、自分の耳を疑いながら、音のした方へ、瓦礫の山を乗り越え、崩れかけたビルの中を駆け抜けた。
そして、辿り着いた薄暗いビルの片隅で、信じられない光景を目にした。ボロボロの毛布にくるまれた、生後間もない赤ん坊が、一人でそこにいたのだ。
「こんなところに…一人で…どうして…」
彼は、息を呑み、赤ん坊に近づいた。誰かが置き去りにしたのか? それとも、両親は…。赤ん坊は、不安そうに泣き声を上げたが、次の瞬間、彼の顔を見ると、にこやかに笑い出した。その笑顔は、あまりにも純粋で、汚れのない、この世のものとは思えない輝きを放っていた。
「わっ…!」
彼は、驚きと戸惑いを隠せない。世界の終わりが目前に迫り、大人たちが絶望に打ちひしがれているというのに、この赤ん坊は、まるで何も気付いていないかのように、無邪気に笑っているのだ。
彼は、赤ん坊を抱き上げると、自然と「いないいないばあ」を始めていた。
「いないいない…」
彼が両手で顔を隠すと、赤ん坊は、じっと彼の顔を見つめている。そして、彼が両手を広げ、
「ばあ!」
と言うと、赤ん坊は大声で笑い出した。大爆笑。その笑顔は、まるで、太陽の光のように、彼の凍りついた心を溶かしていくようだった。彼は、我を忘れて、何度も何度も「いないいないばあ」を繰り返した。赤ん坊の笑い声が、廃墟と化した街に響き渡る。それは、絶望に覆われた世界への、一筋の希望の光のようだった。
「そうか…これが…最後のネタか…」
彼は、赤ん坊を抱きしめながら、呟いた。苦笑しつつも、彼の目には、涙が溢れていた。それは、悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。世界が終わろうとも、この赤ん坊のように、純粋に笑える心がある。その事実に、彼は、心の底から救われた気がしたのだ。
残された時間を、彼は赤ん坊と過ごすことに決めた。彼は、ありったけの愛情を込めて、赤ん坊をあやした。ミルクの代わりに、少しだけ湿らせた布を口に含ませ、子守唄の代わりに、いつか、ステージで歌ったおかしな歌を歌って聞かせた。赤ん坊は、そんな彼の顔を見ながら、笑い続けた。大爆笑。
巨大な隕石が、地平線を覆い尽くす。世界の終わりが、秒読みに入ったその時も、彼は、赤ん坊を抱きしめ、笑い続けた。赤ん坊の笑い声だけが、静寂の世界に寸前まで響き渡っていた。神様の子供たちは皆笑う。
大爆笑 武功薄希 @machibura
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