響く悲鳴
木星軌道スペースコロニーでは擬似太陽光があるものの公園や、サイクリングロードなどはない。体が資本な私たちにとって運動不足を解消するにはトレーニングルームに来るしかない。そのため、D区画だけでも十を超えるトレーニングルームが用意されている。
そのうちの一つ。スペースデブリ課から一番近い場所にあるトレーニングルームに入ろうとすると、どこからともなく現れたヴァンガードに声を掛けられた。
「おう、ヒナバチ。トレーニングか、精が出るな」
相変わらずスキットル片手に呑気そうな彼を見ていると、この間の真面目な話が夢だったのかと疑ってしまう。
「ヴァンガードさんはトレーニングしないんですか?」
「俺はちょっと野暮用でね」
ヴァンガードはそれだけ言い残してそそくさとその場を後にする。なんだかいつもデブリ課の事務室にもいないし、どこをフラフラしているのか分かったものじゃない。またあの喫茶店にでも行くのだろうか。
気持ちを切り替えて更衣室に行き、運動しやすい恰好に着替えてからストレッチルームに行くと、髪の毛をポニーテールにしたスリーズがトレーニングマットの上に寝転がっていた。いわゆる股割りを行っており、左右に足がまっすぐ伸びている。スリーズはこちらに気付くと、その体勢のまま片手を挙げた。
「スーちゃん、体柔らかいね」
「……柔軟は毎日やってるからね」
毎日やっているとはいえ、その柔らかさは一朝一夕で出来るものではないのは分かるが、当たり前のように続けられるものでもない。こういった面からも努力家な部分が見て取れる。
「……カグヤもストレッチするでしょ、押してあげる」
「うげっ、お手柔らかにね」
とりあえず隣に座る。押すというからには長座体前屈だろう。腕を伸ばしてみるが十センチ動いたかどうかといったところでピタリと止まった。スリーズがすぐに背中を押してくる。ちょっと押されるだけで、痛みが走る。
「いたたたた」
逆にスリーズを押し返すように体勢を戻すと、呆れたような声が返ってきた。
「……カグヤ、体硬すぎ」
「アンドロイド課はね、主にデスクワークなのよ」
「……それにしても、だよ」
これでも前よりはマシになったんだとは口が裂けても言えなかった。今度はスリーズが押し返されないように、両手を背中に当てて、重心を乗せてきた。
「ギブギブ! ギブアップ!」
更に力を込めて姿勢を戻すと、スリーズもやけになったのか今度は自分の腰に手を当てて、片足を私の背中に押し付けてきた。
「ス、スーちゃん? まさか足で押さないよね?」
「……だってカグヤ、すぐ押し返してくるんだもん」
途端に、ぐんと容赦なく蹴飛ばされる。生まれて初めて伸ばされた気がする筋肉の繊維一本一本が、悲鳴をあげたのは言うまでもない。
ストレッチでほぼ力を使い果たしたようなものだったが、スリーズが去り際に、ちゃんとトレーニングもするんだよ、と言い残していったので、少しだけマシントレーニングもしようと場所を移す。すると今度は、アイラスさんがラットプルマシンで背中を鍛えているところだった。
「アイラスさんも、トレーニングですか」
老婆のように腰を曲げて近づいていくと、アイラスさんはタオルで汗を拭きながら振り返る。スリーズはポニーテールだったが、アイラスさんは普段と変わらずに三つ編みで眼鏡をかけたままだった。
「カグヤちゃんやっぱり来たわね、ストレッチルームからここまで悲鳴が聞こえてきていたわよ」
「うっ、お恥ずかしい……」
トレーニングルームにはアイラスさん以外にも数名トレーニングしている人がいる。この会話も聞かれていそうなものだが、誰もこちらを見ようとはしない。本当に聞こえていないのかはたまた気遣いなのか、なんだか胸が締め付けられる。ただでさえ拷問のようなストレッチの悲鳴がこの部屋にまで響き渡っていたというのに、これ以上の醜態は御免だ。
「やっぱり今日はお
「何言ってるのよ。さぁさぁ、折角来たんだからしっかり追い込まないとね」
今日ここに来たのは間違いだったのでは、と思い始めていたが、アイラスさんの笑顔には何だか圧がある。もう後には引けなかった。
およそ一時間。みっちりアイラスさんにしごかれて、満身創痍のまま、ナメクジのように動いてトレーニングマットで寝そべる。アイラスさんは気持ちいい汗をかけた、と言っていたが、私は汗よりも倦怠感と吐き気に襲われていた。
「アイラスさん、いつもこんなハードにやっているんですか?」
「まぁね。ここじゃどうしても、運動不足になっちゃうからね」
二人でトレーニングマットに上がってストレッチを始める。当然のことながら、アイラスさんは私よりも体が柔らかく、しなやかで、何だかストレッチの教材を見ているようだ。
「前からデブリ課にいたって言っていましたけれど、みんなこんなにトレーニングに励んでいたんですか?」
「ん-、そうだねぇ。ヴァンガードとリモンチクは負けず嫌いで、まさに切磋琢磨って感じだったかな」
何だか想像通りというような気もする。EVAのトレーニングも、きっと同じだっただろう。
「でも、私とタイロスと、サクラはマイペースにやってたかな」
タイロスは管制課のエロ河童だとすぐ分かったが、サクラ、という人の名前は初めて聞いた。
「サクラさんは、今回のデブリ課に配属にならなかったんですね」
「ああ、うん。彼女、月面都市で入院してるんだ。前の事務だった子で、リモンチクの奥さん」
「えっ、ということはスーちゃんのお母さんってことですか?」
「なんだ、結構知ってるんだね。リモンチクの一目惚れってやつ。木星探査チームに誘われていたのに、サクラがいるからデブリ課志望してたのよ。何度も相談されていたの、懐かしいわ」
ヴェスタ孤児院から宇宙飛行士として大成して、英雄とまで言われていたリモンチクさんが、木星探査ではなくデブリ課にいたのはそういう事か、と納得した。
「サクラさんも、日本人なんですよね。一度お会いしたいなぁ」
「そうね、月面都市に行けたら一緒にお見舞いに行かなくちゃね……」
ふっ、と
「実は2204の悲劇から、一度も連絡をとっていないんだ。産後うつって言うのかな。スーちゃんが産まれてからしばらく精神的に不安定なときがあったんだけど、今はそれ以上だってタイロスから聞いたの」
タイロス所長は管制課のお偉いさんだから、月面都市に行くこともあるだろう。昔のよしみで、情報交換しているらしい。
「リモンチクの奥さんだからね。タイロスが事故の概要をしっかり説明しにいったんだけど、追い返されたって言ってた。私がいっても、面会してくれるか分からないけれど、やっぱり一度ぐらいは顔を出さないとね」
そういうとアイラスさんはペットボトルの水を飲み干して、再び座りなおすと別のストレッチを始めた。まだもう少し話そうということだろう。
「カグヤのご両親は?」
「私の両親は、地球にいます。月面都市のアカデミーに行くのは賛成されてたんですけど、結局木星軌道のスペースコロニーに行くって聞いたときは反対してました。すぐに会えないですからね」
「やっぱり、親って普通はそういうものよね」
普通は、という言い方が妙に引っかかった。アイラスさんは座りなおすと、大きく足を開いてそのまま前に寝そべった。私と違ってスタイルもいいのに柔軟性もある。綺麗に結ばれた三つ編みがトレーニングマットに乗っていた。
「アイラスさんのご両親は違うんですか?」
「私のとこは二人とも宇宙産業に関する技術者で、私が産まれて次の週にはもう月面都市で仕事に追われていたわよ。成人したら、一緒に仕事をしたかったけれどそれももう叶わなくなっちゃった」
すぐに言葉は出なかった。理由は分からないが、不幸があったのは確かだ。わざわざ迂遠な言い回しをしたのに、深く追求するのは野暮だろう。
昨今、宇宙産業は木星での資源採集が軌道に乗ったことで
「前にも話したと思うけれど、デブリボックスの探査船がウイルスでほとんど壊滅したっていう話。覚えている?」
「それはもちろん、アイラスさんに教えてもらいましたから」
「その時の探査船に、私の両親も乗っていたの。感染して、二人ともそのまま……」
「そう、だったんですか……」
かける言葉が見当たらなかった。アイラスさんはあの講義のときに、その時の辛さを出さないように努めていたんだろう。もしも自分が同じ立場だったとして、アイラスさんのように振舞える気がしない。何とか明るい話に戻そうと、全く別の話題を振ってみた。
「アイラスさんは、デブリ課のこと好きですか?」
急ハンドルだったが、アイラスさんはフレキシブルに対応して、すぐに笑みを作った。
「そうね。ええ、名誉ある仕事よ」
その笑顔は本物だろうか?
ヴァンガードから聞かされたジオテールの陰謀が、私の心の深い部分に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます