アイラス先生の宇宙講義
スペースデブリ課が始動して二日後。事務室内では、以前からデブリ課にいたというアイラスさんによって、特別講義が行われていた。ウフルによると、三十代なのだそうだが、三つ編みに眼鏡という出で立ちのせいか、どうも文学少女といった感じが拭えない。
特別講義を受けているのは私と、スリーズ。ウフルとヴァンガードは部品など資材の調達があるからといって出て行ってしまった。
「はい、じゃあ次の資料をカグヤさん、読んでもらえる?」
とある事故によってデブリ回収のプロジェクトが凍結しているあいだ、アイラスさんはアカデミーで
「えー、デブリボックスとは、木星での資源採集が始まったころと同時期に発見された第二の地球だった。重力がやや小さく、気温こそ低いものの、酸素は充分にあり、地表に液体もある。まさに人間が住むために用意された場所のように思えた。しかし、致命的な問題を抱えていたのだ」
書いてある通りに抑揚なく資料を読み上げると、アイラスさんは満足そうに相槌を打った。
「そう。それがさっき話した正体不明のウイルス。これだけ技術が発展した今でも、何にも分かっていないの。だから名前がXウイルス。未発見の惑星なんかも、惑星Xって呼ばれたりしていたのよ」
安直な名前ではあるが、資料には、感染後約一週間で死に至るという旨が書かれている。
「では、次のページね」
今までスムーズに読んでいたアイラスさんがここで少し間を置いた。全員がページを捲るのを待っていたというよりは、読むのを躊躇うような感じがする。だが、アイラスさんは咳払い一つで何事もなかったかのように続けた。
「デブリボックスの調査船がXウイルスによってほとんど壊滅して、当時は大騒ぎになったの。そのXウイルスが木星軌道スペースコロニーや月面都市、あるいは地球にまで広がれば、対処の仕様がないからね」
資料によれば、人類は第二の地球への移住を断念した、と書かれていた。人が暮らせないのならば、無理もない。
「でも結局、宇宙のゴミを捨てるだけの廃棄星にしちゃうなんて勿体ないですよね」
「仕方がないわよ。バイオテクノロジーに精通してる知り合いがいるけれど、もうお手上げなんだって。仮に何百年とかかってワクチンや薬を開発できたとしても、莫大な費用が掛かるだろうって」
「そうですよね、うんうん」
医学関連の費用のことなどは全く分からないが、アンドロイド課でも経費やらの問題は山積みだった。
「……せめて資源だけでも、採集しなかったんですか?」
「スーちゃん、いい質問ね」
いつも間にやら定着したあだ名に、スリーズ本人は気に入っているようである。
「もちろん、資源採集の話も上がったわよ。でも、既に木星で比較的安全な資源採集がスタートしていたから、わざわざ未知の危険なウイルスがある場所でやる必要はないだろうってね。ウイルスに対抗する費用と、得られる資源が割に合わなかったってことね」
確かに、探査船が壊滅するレベルの未知のウイルスで、対処ができないから諦めたほうが無難なのは分かる。それでも、何だか勿体ないな、と思ってしまう。もしかしたら、まだ見ぬ資源エネルギーが眠っているかもしれない、などと考えてしまうのは、日本人特有のもったいない精神だろうか。
「でも、どうしてデブリをそこに捨てようってなったんですか? 別に今まで通り、回収船で回収したり、地球に落として大気圏で燃やしきる方法でも良かったんじゃないんですか?」
「もちろん、それでもいいんだけれど……デブリ課にある回収船の推進エンジンで、デブリボックスから地球までどれぐらいかかると思う?」
「ええっと……」
私の脳みそにある演算機能をフル稼働しても、答えは出てきそうになかった。それでも、あくまで考えているフリはする。
やがて痺れを切らしたのか、隣に座るスリーズが
「……約、二年」
「そう。スーちゃん正解」
アイラスさんが頭を撫でると、スリーズは年相応の無垢な笑顔を見せた。私より賢くて、愛嬌があるなんて、天は二物を与えずとは嘘っぱちだと涙が出そうになる。
私の悲しみなど露知らず、アイラスさんは話を続ける。
「つまり、地球から近いデブリは地球へ、木星から近いデブリはデブリボックスへ。でも、地球側のデブリを回収して、デブリボックスに落とすこともあるのよ」
「どうしてですか?」
「地球に落としたときに燃え尽きず残る可能性のあるものだって、あるからね」
資料に目を落とすと、制御不能落下物という項目に太平洋などに落下した事例が数多く載っていた。
「それにデブリは今となっては凄い数で、低軌道上で十センチ以上、静止軌道上で一メートル以上の物体は全部カタログ化されているの。割と新しい観測データでは四万以上のデブリがカタログ化されているのよ」
「そんなに! どうしてそんなにデブリだらけになるんですか?」
「さぁ、どうしてでしょう」
急に始まったクイズに考える暇も与えず答えたのはスリーズだった。
「……ケスラーシンドローム」
その言葉に、アイリスさんは驚いたように頷いた。分かるとは思っていなかったのだろう。
「スーちゃん大正解! スペースデブリが互いにぶつかったりすると、それにより新たなデブリが生まれる。そうして、連鎖的に増えていくことがあるのよ」
どんどん新しい言葉が出てくるので、忘れずにメモを取る。なんだか知らないことが多すぎる。Xウイルスに、デブリを捨てるために存在する第二の地球とも言われた星。ケスラーシンドローム。宇宙開発というのも大変だな、と他人事のように思っていると、ふと気が付いた。
「つまり……そうしてデブリが増えていくと宇宙での活動が難しくなるから、デブリを除去する必要があるってことですか?」
「その通りだ」
不意に扉が開いて、段ボール箱を持ったヴァンガードがデブリ課に戻ってきた。思っていたよりこの事務所の会話は廊下まで届いているらしい。
「未来の宇宙を守るために、俺たちがいるのさ」
ヴァンガードの言葉のせいか、自分の置かれた環境にようやく気付く。これは重大で、とても人類のためになる仕事なのだと。
「スーちゃんは分かったかしら?」
アイラスさんが眼鏡を持ち上げながら訊くと、スリーズはこくりと頷く。
「基本的なことはほとんどアカデミーで習ったし、本でも読んだことある」
「さすが、飛び級するだけのことはあるわね」
アイラスさんはなぜか誇らしげである。ヴァンガードも、そんな二人を柔和な眼差しで見つめていた。
私は元々アンドロイド課に配属だったこともあり、あまり宇宙に関しては詳しくない。エリートといえる宇宙飛行士は、有人探査機で更に遠い土星探査を行っているらしいが、私には縁のない話だろう。
「……カグヤはどうしてここに来ることになったの?」
あまり自分から質問することのなかったスリーズが、首を傾げた。正直あまり話したくなくて私が言い淀んでいると、ヴァンガードが口を挟んできた。
「
「タイロス所長に? それはなかなか大胆ね、カグヤちゃん……」
アイラスさんは処置なしといった様子で片手をおでこに当てて俯いている。スリーズは言葉の意味があまりよく分かっていない様子だった。
「ぐっ、ヴァンガードさんどうしてそれを……」
「今じゃ有名な話だよ。理由は何となくわかるけどな。でも、限度ってものがあるだろう。火傷は大したことなかったみたいだけどな」
基本的な業務はアンドロイドに関するプログラミングなどがメインだったが、ちょうどその時は事務の子が別件対応に追われており、私が代わりにお茶汲みを担当した。アンドロイド課にきたタイロスとかいうハゲ親父にお茶を持っていったところ、あろうことか事務の子と勘違いしたのか知らないが、お尻を撫でまわしてきたのである。あの時の気持ち悪さといったら今まで生きてきたなかで一番気持ちの悪い体験だった。思い出すだけでも鳥肌が立って怒りがこみあげてくる。
「あのエロ河童が悪いんですよ。それに、管制課の所長だなんて知らなかったんですから……」
「……カッパって、日本の妖怪?」
スリーズが傾げていた首を今度は反対側に倒して訊いてくる。そもそもセクハラされたなどということを、この子の前でするべきではなかった。
「よく知ってるね。日本好きなの?」
「……うん、ママが日本人だから」
「そうなんだ」
綺麗な銀の髪ゆえに北欧のほうの人かと思っていたが、ハーフらしい。じろじろと見ているとアイラスさんがぱん、と資料を閉じた。
「さ、座学はこの辺にして、この後は
「うげっ、あれ嫌いなんですけど」
「文句いってると、痛い目にあうのは自分よ。低圧純酸素に慣れておくだけで、何かあったときに違うんだから。ね、ヴァンガード」
「まぁ、そうだな。初仕事の前までに、抗ヒスタミン剤(注2)も貰ってきておくよ」
ヴァンガードは髪をかきながら目を逸らした。文句をいって、何か痛い目にでもあったのかと勘繰ったが、それもおかしなことではない。ヴァンガードはもうかれこれ十五年も宇宙飛行士をやっているんだと、ウフルが言っていた。
(注1)減圧症とは、減圧によって体内の窒素ガスなど生理的に不活性なガスが過飽和状態となり、血液や組織中に気泡が形成され引き起こされる障害。
(注2)無重力環境にいると前触れなく吐き気、めまいなど宇宙酔いと呼ばれる症状が起きるが、その時に必要とされる常備薬。
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