第1章: 無彩色の日常

 モノトニアの朝は、いつも同じように始まる。時計が正確に6時を指した瞬間、アダムの目が開く。彼の脳は、睡眠サイクルを最適化するアルゴリズムに従って、完璧なタイミングで目覚めるよう調整されているのだ。


 アダムは無表情のまま起き上がり、灰色の壁に向かって呟く。「効率的な一日となりますように」これは、モノトニアの市民が毎朝唱える慣例の言葉だ。感情を込めるわけではない。ただ、一日の生産性を最大化するための儀式的な行為にすぎない。


 彼の部屋は、必要最小限の家具だけが幾何学的に配置された、無機質な空間だ。ベッド、机、椅子、そしてクローゼット。すべてが同じ灰色で、形も大きさも完全に統一されている。個性や好みを反映させることは、非効率的だとされているのだ。


 アダムは起床後のルーチンを淡々とこなしていく。歯を磨く時間は2分間。シャワーは3分間。髪を整えるのに30秒。すべての動作が、秒単位で計算され尽くされている。


 鏡に映る自分の顔を見つめるアダム。そこには何の表情も浮かんでいない。彼は17歳。モノトニア中央科学院のトップ生徒であり、論理学の天才だ。しかし、その瞳の奥には、かすかな違和感が潜んでいる。それが何なのか、アダム自身にも説明がつかない。


「朝食摂取開始」


 アダムは時計を確認しながら、台所に向かう。そこには、栄養価が完璧に計算された灰色の食事が用意されている。味も香りもない。ただ、身体に必要な栄養素を効率的に摂取するためだけの食物だ。


 食事を終えたアダムは、クローゼットから制服を取り出す。モノトニアの全市民が着用する、同じ灰色の制服だ。サイズも形も完全に同一。個性を表現する衣服など、この世界には存在しない。


 玄関を出たアダムは、隣人のベータと出会う。


「おはようございます、ベータさん。今日の気温は摂氏18度、湿度は45%です。快適な環境下で仕事の生産性が10%向上すると計算されています」


「その通りですね、アダム。私の計算でも、今日の労働効率は平均を3.7%上回ると予測されます」


 二人は無表情のまま、淡々とした会話を交わす。

 感情的な挨拶や世間話は、時間の無駄だとされているのだ。


 街路に出ると、そこには同じ灰色の制服を着た人々が整然と歩いている。みな同じペースで、同じ方向に向かって歩く。その様子は、まるで精密な歯車が噛み合うかのようだ。


 信号が赤から青に変わると、人々は一斉に動き出す。誰一人として急ぐこともなければ、立ち止まることもない。すべての動きが、交通の流れを最適化するアルゴリズムによって制御されているのだ。


 アダムは、いつもの通学路を歩きながら、頭の中で今日の時間割を復唱する。


「1限目: 高等量子力学、2限目: 非ユークリッド幾何学、3限目: 確率論、4限目: 人工知能プログラミング……」


 彼の脳内では、各科目の重要度や難易度が数値化され、学習効率を最大化するための方程式が常に計算されている。


 道を歩きながら、アダムは周囲の建物を観察する。すべての建築物が、同じ灰色の直方体だ。窓の位置も大きさも、すべて同一。美しさや個性を追求することは非効率的だとされ、建築様式は完全に均一化されているのだ。


 中央科学院に到着したアダムは、クラスメイトのイヴと出会う。イヴは16歳の数学の prodigy で、アダムと並ぶ優秀さを誇る。二人は互いに無表情のまま挨拶を交わす。


「おはよう、イヴ。今日の確率論の講義は97.8%の確率で有益なものになると予測している」


「同意する、アダム。私の計算では98.2%だが、誤差の範囲内だ。なお、今日の講義で扱われる定理の85%は、既に我々の知識範囲内にある」


「その通りだ。しかし、残りの15%の新規情報を獲得することで、我々の論理的思考能力が0.5%向上する可能性がある」


「正確な分析だ。その0.5%の向上が、将来的に我々の研究成果にどのような影響を与えるか、計算してみる価値があるだろう」


 二人は、感情的な交流を一切排除した、純粋に論理的な会話を続ける。しかし、アダムはイヴの瞳の奥に、何か異質なものを感じ取る。それが何なのか、論理的に説明することはできない。この説明のつかない感覚に、アダムは僅かな違和感を覚える。


 教室に入ると、そこにはすでに多くの生徒たちが着席している。みな同じ灰色の制服を着て、同じ無表情の顔で前を向いている。教室の空気は静寂に包まれ、誰も私語を交わすことはない。


 教師のガンマが教室に入ってくる。生徒たちは一斉に立ち上がり、「効率的な学習となりますように」と唱和する。これも、感情を込めない、単なる儀式的な行為だ。


「着席しなさい。今日の確率論の講義を始める。まず、ベイズの定理の応用について……」


 生徒たちは一斉にデータパッドを取り出し、教師の言葉を正確に記録していく。質問や議論はない。ただ、効率的に情報を吸収することだけが求められているのだ。


 アダムは講義に集中しながらも、頭の片隅で奇妙な思いにとらわれていた。この完璧に秩序だった世界の中で、何かが欠けているような気がする。それが何なのか、論理的に説明することはできない。しかし、その感覚は確かに存在していた。


 そして、アダムはまだ知らない。この小さな違和感が、やがて彼の人生を、そしてモノトニアの世界そのものを大きく変えていくことになるのだと――。

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