第2章: 禁断の詩

 モノトニア中央科学院の図書館は、知識の宝庫であると同時に、厳格な規律が支配する空間でもあった。無機質な灰色の書架が整然と並び、そこには論理学、数学、物理学などの教科書や論文が、完璧に分類されて並んでいる。


 アダムは、いつものように効率的な動きで本を探していた。彼の目的は明確だった。「確率論における新たな定理の証明に必要な参考文献を、最短で見つけ出し、最適な順序で読破する」。それだけのことだ。


 しかし、その日の図書館には、いつもとは異なる空気が漂っていた。アダムの鋭い観察眼が、普段とは違う何かを感じ取る。


 それは、イヴだった。


 イヴは、書架の陰に隠れるようにして、何かを読んでいた。その姿勢には、明らかに「隠れている」という意図が感じられる。モノトニアでは、そのような行動自体が異常なのだ。


 アダムは、論理的な判断を下した。


「イヴの行動には、93.7%の確率で不審な要素がある。調査する必要がある」


 静かにイヴに近づいたアダムは、冷静な声で話しかけた。


「イヴ、君の行動に94.3%の確率で不審な要素を感じる。説明を求める」


 イヴは、まるで電気ショックを受けたかのように体を強張らせた。

 その反応は、モノトニアの市民としては明らかに異常だった。


「ア、アダム……。私は……その……」


 イヴの声には、明らかな動揺が含まれていた。

 それは、感情の表出であり、モノトニアでは厳しく禁じられているものだ。


「イヴ、君の声に感情的要素が87.6%の確率で含まれている。これは違法行為の可能性が高い」


 イヴは、観念したように本を差し出した。

 アダムがそれを手に取ると、それが古い詩集だと分かった。


「これは……禁書だ」


 アダムの声には、わずかながら驚きの色が混じっていた。詩など、モノトニアでは何世紀も前に廃止されたはずだ。感情を刺激し、非合理的な思考を促すものとして、厳しく禁止されているのだ。


「私にも分かっているわ。でも……これを読むと……胸の奥で何かが震えるの。説明できないけど、とても……大切なことのように感じるの」


 イヴの言葉は、アダムの論理的思考では理解できないものだった。しかし、不思議なことに、アダムの心の中にも何かが芽生え始めていた。


「なぜ、そのような非合理的な行動をとる必要があるのだ?」

「理由は……分からない。でも、この言葉たちには力があるの。私たちが知らない何かを教えてくれる気がする」


 アダムは、頭の中で計算を始めた。イヴの行動を報告すれば、彼女は間違いなく更生センターに送られる。それが、モノトニアの法律だ。しかし、なぜか彼の中に、そうすべきではないという奇妙な感覚が生まれていた。


「イヴ、君の行動は明らかに違法だ。しかし……私には、君を報告する義務がある一方で、報告しない選択肢もある。その選択の結果がどうなるか……予測できない」


 イヴの目に、わずかな希望の光が宿った。

 それは、モノトニアではあり得ない表情だった。


「アダム……私たちは何か大切なものを見逃しているのかもしれない。この詩を一緒に読んでみない?」


 アダムは、一瞬躊躇した。

 しかし、彼の中に芽生えた説明のつかない感覚が、イヴの提案を受け入れるよう促していた。


「……分かった。だが、これは純粋に研究目的だ。感情に影響されてはいけない」


 イヴはわずかに頬を緩めた。それは、笑顔と呼べるものではなかったが、確実に通常のモノトニアの表情とは異なっていた。


 二人は、図書館の最も奥まった、人目につきにくい場所に移動した。そこで、イヴは小さな声で詩を読み始めた。


「星は、夜空に輝き…… 人の心に希望を灯す…… その光は、永遠の愛の証……」


 アダムは、その言葉を聞きながら、不思議な感覚に襲われた。

 それは、論理では説明できない、温かく、切ないような、そして同時に心地よい感覚だった。


「これは……どういう意味だ? 星が心に希望を灯すというのは、科学的に不可能だ。そして、永遠の愛という概念は……」

「理屈じゃないの、アダム。ただ……感じるのよ」


 アダムは困惑した。

 しかし、彼の心の中で、何かが確実に動き始めていた。それは、長い間眠っていた感情の芽なのかもしれない。


「イヴ、これは危険かもしれない。しかし……私も、もっと知りたい」


 イヴの目が輝いた。

 それは、モノトニアの灰色の世界に、小さな色彩が生まれたかのようだった。


「ありがとう、アダム。私たち、秘密を共有したのね」


 アダムは頷いた。

 彼は、初めて「秘密」という概念を理解した気がした。それは、二人だけの特別な何か。モノトニアの秩序からは逸脱したものだが、同時に不思議な高揚感をもたらすものだった。


 その日以降、アダムとイヴは密かに詩を読み合うようになる。図書館の片隅、放課後の空き教室、時には学校の裏庭。二人は、モノトニアの監視の目をかいくぐりながら、少しずつ感情の世界を探索していった。


 毎回の密会は、アダムとイヴの心に小さな変化をもたらした。彼らの会話にも、わずかながら感情の色が混じり始めていた。


「イヴ、今日の詩で『美しい』という言葉が出てきたが、その定義が分からない」

「美しいものは、見て心が震えるの。例えば……夕暮れの空とか」

「心が震える? それは身体の異常ではないのか?」

「違うわ。それは……幸せな感覚なの」


 アダムは困惑しながらも、イヴの言葉に興味を持った。

 彼の中で、新しい世界への好奇心が芽生え始めていた。


 しかし同時に、二人の心には不安も生まれていた。

 彼らの行動が発覚すれば、厳しい処罰を受けることは明らかだ。それでも、二人は止められなかった。


 詩を通じて感じる新しい感覚は、論理では説明できないが、確実に二人の心を豊かにしていった。それは、モノトニアの灰色の世界に、少しずつ色彩をもたらすものだった。


 アダムとイヴは、まだ気づいていなかった。この小さな「反逆」が、やがて彼らの人生を、そしてモノトニア全体を大きく変えていくことになるのだと――。

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