死んだうさぎとタートルネック

初見 皐

死んだうさぎとタートルネック

 「うさぎとかめ」という童話がある。

 あるときかめは友人のうさぎと競走をするのだけれど、当然ながらかめの脚力ではうさぎになど勝てるはずがない。かめは負ける。為す術もなく、負けるのだ。そう記憶している。



「私はうさぎだったんだよ」

「負けを知らない愚かなうさぎ。井の中の蛙よりも、歌を歌ったキリギリスよりもずっと力があって。だから私は失敗した」


 誰に聞かせる言葉でもなかった。処理しきれなかった諦観を、言葉にして吐いただけ。しかし意図しない方向から、応じる声があった。


「馬鹿じゃないですか、あんた」


 第二文藝部室の薄いドア。客が来るならそこから入ると思って、机で塞いでおいたのに。声が聞こえてきたのは逆の方向からだった。


 ──「カメ野郎」


 もうすぐ夏だというのに、タートルネックを脱ごうとしない奇っ怪な後輩。私の友人と言える唯一の後輩が、窓の縁に外から足をかけていた。さすがの私も少し驚く。


「びっくりした。先生かと思ったよ」

「……こんな事して、炎上待ったなしですよ」

「こんな事って? 君が二階の窓までよじ登ってきたこと?」


 後輩は首を振って、手近な椅子を窓の外に投げ落とす。がしゃんと音がして、下の方で脚立が倒れる気配。


「ペットのウサギを殺して、記念写真を撮ったこと」


 そう言って後輩は、起動したスマホを投げて寄越す。画面には腹に血を滲ませて死んだウサギ。SNSの投稿だ。添えられた文章は端的に「港区芝浦町 南高地区3丁目 羽善高校」と表示されている。拡散マークの数は万を超え、今も増え続けている。

 私は今朝、ウサギを殺した。


「ポン太……」


 死んだウサギの名前を呼ぶ。SNSの反応稼ぎのために飼い始めたペットだったが、飼育するうちに愛着が湧いてしまった。

 彼の亡骸は、きちんと布にくるんで弔った。


「死んでますよね。このウサギ。傷跡は写ってませんけど、明らかに他殺だ」

「そうだよ。可哀想だったけど、必要なことだったから」


 それにしても、「記念写真をとった」というのは流石に悪辣な表現が過ぎる。お腹を裂いた時点で酷いことには変わりないから言わないが。

 後輩は私から顔を背けて、窓の外を眺める。校庭にはそろそろ、私の投稿を見たもの好きな人たちが集まっている頃だろうか。後輩はじきに舌打ちをして、カーテンを閉めた。


「こっちに来て座りなよ。とって食いやしないんだから」

「……別に兎崎先輩が僕をどうこうするとは思いませんけど」

「そりゃあね。カメ野郎なら私をマスコミに突き出したりしないでしょ?」

「……どうにかならないんですか。その呼び方」


 言いながら、後輩は向かいの椅子に座る。立ち上がって手を伸ばせば、後輩に届く距離になる。

 言った通り、私はカメ野郎に対して何もしない。遭難もしていないのにウミガメのスープは飲みたくないし。

 椅子の背にもたれかかり、指の隙間から天井を眺める。後輩は黙って座っている。とくに会話は無いけれど、それでよかった。

 後輩が口を開いたのは、そのまま数分が経った後のことだった。


「……先輩」

「うん、カメ野郎はそろそろ帰る?」

「いや、そうじゃなくて。誰か来ます」


 そこまで聞く頃には、私にも足音が聞こえていた。大急ぎで階段を駆け上る、大きな足音。日曜日、早朝の部室棟に訪れる生徒はいない。つまりこの足音は、ウサギの投稿を見て学校に集まった私の追っかけ。


「げえ……早いなあ」

「先輩、隠れていてください。僕が対応します」


 私は椅子に寄りかかったまま気怠い息を吐く。その間にも後輩は扉の前に立って、時間稼ぎのバリケードを椅子で補強する。

 後輩がテキパキと動くのを尻目に、私は小さく息をつく。椅子から立ち上がることは、しない。


 私がテレビの舞台に居場所を失った後は、インターネットが私の胸を張って立てる場所だった。

 世間から私が見失われないようにと、崖っぷちの抵抗のつもりで始めたSNSが、意に反してうまくいってしまった。フォロワー数はどんどん増えて、気がついた頃には私は立派なインフルエンサーだった。

 息苦しいと、そう感じるようになったのはいつからだろうか。最初からかもしれない。だって、私の立ちたかった舞台はそこじゃない。

 私はうさぎだった。カメに勝って、そのままたくさんの他人を足蹴にして、恨みを買った。やがては限界を迎えて袋叩きにされる、愚かなうさぎ。


 足音が階段を上り終えるまでに、時間はかからなかった。足音は歩調を緩めて、第二文藝部室に近づいてくる。

 扉が開けば、もはや息を潜めて誤魔化すこともできない。下手に身動きすれば、もう物音が相手に聞こえてしまう距離。

 一階分上がっただけだというのに、その足音は疲れたように歩調を緩めた。軽い足音だ。女の人だろうかと、ぼんやりと考える。

 足音はやがて扉の前に至って──止まる。ガチャ、と音がして、鍵のないドアが開く──


「……あれ?」

「向かいの部屋……、ですね」


 は、と、小さく息を吐いた。


「向かいは部活倉庫だっけ」

「それより先輩、今のうちに逃げましょう。二階なので飛び降りても──……、先輩?」

「ん……ああ、ごめん、ちょっと寝不足でさ。外の空気が吸いたいから窓を開けてもらえると──」

 そのとき。

 コツン、と、何かが窓を叩いた。小さな音だったけれど、後輩も私も口をつぐんだ。それが何の音なのか、すぐに察したから。

 少しもしないうちに、カーテンの向こうから、また同じ音がした。次はもっと重い音。もっと硬い音。数が増えた。軽い音がたくさん。

 第二文藝部室の窓は校庭に面している。カーテンの向こうでは、きっとたくさんの人が私に悪意を向けている。いや、それは錯覚だ。聞こえてくる罵声も、投げられる物の頻度も、一人か二人程度のもの。

 それが、何千人の悪意を背負って私を貶している。


「ふふっ」


 ウサギの投稿が功を奏した。たくさんの人がここに来て、私を見つけてくれる。すべてが終わったあとの、後処理の準備は完璧。我ながらよくやったものだと思う。

 投げられたもののいくつかは、開いていた窓を通って、カーテンの裏に当たった。後輩が拾い上げたそれを見ると、どこから引っ張り出してきたのか、テニス部の備品だった。


「……」

「テニスボールって……酷いなあ。当たったら結構痛いのに」

「……どうして、こんなことを?」

「本当にね。他人を責め立てるのがそんなに楽しいのかな」

「そうではなくて。ウサギの投稿です。あれが炎上することくらい、先輩は分かっていたはずです」


 分かっている。私は論点をずらすけれど、後輩が本当に言いたいことは分かっているし、後輩が今、私の考えが理解できなくて困惑しているのも感じ取れる。

 ──カメ野郎にはわからない。

 わかって欲しくない。

 後輩はたぶん、この投稿をアカウントごと消して全部やり直そうと、そう言う。今からでも引き返して、私に普通の女子高生としての人生があるのだと、彼ならきっと魅力的な道を私に示してくれるだろう。

 だけど、私はそんなふうには生きられない。


 何年も飼ったウサギ──ポン太を殺したのは、必要に駆られてのことだった。他に選択肢など与えられなかったから、私はあの人に命じられたまま、ポン太を手にかけたのだ。それはあの人の命令だったけれど、命令に従うことを選んだのは私で、私はポン太の命よりもあの人の愛を選んだ。

 私はポン太を自分の意思で殺したのだ。

 だから後悔するつもりはない。今更引き返すことを、私には選べない。


 日曜の朝の第二文藝部室。私は窓から離れたパイプ椅子に身を沈めていて、後輩は窓のそばに立っている。校庭からの罵声が私に聞こえないように、後輩が窓を閉めたけれど、くぐもった声が悪意を伝え、薄いカーテンから光が差し込む。夏の初めの強い日差しが、熱の籠もった部室をさらに加熱している。タートルネックを身に着けた長袖長ズボンの後輩は、そのくせ滝のような汗をかいて、湿った前髪から汗の雫を垂らしている。滑稽なその様子を見て私は笑うけれど、そんな自分もきっと顔が真っ赤に火照っている。

 ──最後だ。これが私の過ごす最後の夏なのだと決めてここに来た。


「ねえ、カメ野郎」

「……はい」

「この部活ってさ、部活の要件満たしてないよね」

「人数が足りてないですからね。来年には新入生が入らないと潰れます」

「ふふっ、同好会の要件も満たしてないもんね? 格下げじゃ済まないか」


 そうなると、部室の本棚に細々と溜め込んだ小説も置き場がなくなって、第一文藝部か図書館に寄贈するなり、処分するしかない。


「私の本、気に入ったのあれば何冊か持って帰りなよ。家の本棚にはまだ余裕あるでしょ?」

「一人暮らしなので本は少ないですけど、ギリギリまでは部活を残す方向で努力しますよ」

「そっか。それじゃあ、いざという時名前だけでも貸してもらえるように人脈作らないと。本の貸出サービスでも始める?」

「図書館で十分でしょう。先輩は心当たりないんですか? 名前貸してくれる一年生の後輩とか」

「私が部活の外でどう思われてるか知ってるくせに」


 どうやら、役に立つ案は出そうにない。ふう、と小さく息をついて、それから大きなあくびをする。昨日の夜はよく眠れなかったけれど、その影響以上に体がだるい。

 密閉したドアの近くのパイプ椅子。熱のこもりやすい部室棟で、汗が目に入るほどに私は蕩けてしまう。


「ねえ、こっち来て」


 なんの疑問も持たず、後輩が近づいてくる気配。私はそれを耳で確かめる。目に入った汗の粒を瞬きで追い払う。


「見えない。もっと近く」


 座った私から手の届く位置まで近づいた後輩の顔を両手で挟んで、ぐいと引き寄せる。自然と、後輩が私に覆いかぶさって、キスをするような姿勢になる。けれど別に、ドキドキしたりはしない。後輩は私の行動に驚きこそすれ、拒絶するような反応は示さない。息がかかるほどに顔を近づけているけれど、照れるでもなく、ただ私の次の行動を待っている。

 端正な顔だ。クラスの中でも、後輩はかなり美形な方に入るのではないだろうか。カメ野郎と呼んではいるけれど、目はキツネのように切れ長で、男子にしては長くした髪もよく似合っている。


「えい」

「──っ」


 腕を伸ばして、後輩の首に腕をかける。そのまま体を引き寄せて、背中に手を回す──ぎゅっと、抱きしめた。

 過熱した部室で、さらに熱い温度を押し付ける。ゆっくりとした心音を耳の奥に感じながら、その感覚を外側にも向けていく。部室の中の澱んだ空気。窓から差し込む陽射しと、くぐもった野次の喧騒。

 ちらと、腕のなかに視線を落とす。タートルネックを着た後輩の首元を指で下げると、少し間があって、後輩が苦笑する気配。その息遣いを確かめるように強く、強く抱きしめる。なんだかほっとして、体に張りつめていた力が抜けていく。安心したのか、まぶたが重くなってきた。


「……先輩?」


 ふと、後輩の声色が変わる。いきなりのことだった。突飛な行動をする私をいつも通りにたしなめていたのと同じ言葉に、怪訝さと、次いで焦りを滲ませる。私の体が椅子に落ちる。体から力が抜けていくのが、怖いほどはっきりと感じられた。

 鼓膜の向こう、遠く水に潜ったみたいになっていく声が、私の名前を呼ぶ。それに応えようと、安心させてあげようと思うのに、何度も口を開くのに、かけてあげる言葉が見つからない。そのうち私の意識も遠のいて、暗く暗く、視界が黒に覆われていく。全部が終わってしまうその前にこれだけはと、耳の聞こえないまま声を出す。

「───、──。」

 後輩が息を呑む音を近くに聞いて、少し愉快になる。私の意識はそのまま、闇に落ちた。



 高校に入る前の春、ウサギを飼い始めた。

 名前をつけていいと言われたから、ポン太と呼ぶことにした。母親の気まぐれだったから、SNSに投稿するネタができたと、その程度に思っていた。

 一ヶ月もすれば母はウサギの世話に飽き、ポン太の面倒を見るのは私の役割になった。その頃はポン太が体調を崩してしまって、原因の分からない私は図書室に入り浸り、ウサギの飼育本を読み漁っていた。

 文藝部に誘われたのもその頃だ。その誘いは私にとってちょうど良かった。私は体を動かすことが好きだったけれど、部活は文化部が良かった。運動部だと洗濯や大会の手間が増えて、片親の母に迷惑をかけてしまう。当時の先輩に頼まれたから、人数の少ない第二文藝部に入った。

 楽しかった。今では人並みに後輩もできて、テレビやSNSの外にもこんなに楽しいことがあるんだと、思ってしまった。

 だから。

 ポン太を殺せと言われたときには、頭の中が真っ白になった。


 次に目が覚めた時、私はまだ部室の椅子に座っていた。窓とカーテンは開け放たれて、扉の前の机はどかしてある。風の通り道ができて、新鮮な空気が駆け抜けていく。先程よりもずっと涼しくなった机の下を足で探ってみても、なんの手応えもない。立ち上がると体は案外軽くて、ふと、校庭のざわめきが聞こえないことに気がついた。


「……あはは。やっぱりダメだったか」


 太陽がまだ私を照らしていて、いつも通りの夏が続く。お天道様は、どうやら私を逃がしてはくれないらしい。



 私はうさぎだった。元来長く生きるつもりはなくて、舞台の上で一瞬だけ輝ければそれで良いと思っていた。

 小学生の頃の私は、絵に描いたような天才で、テレビの舞台に立てば、何をしても褒められた。けれど私が高学年になると、すぐに人気は陰り始めた。

 中学生になったら、テレビの舞台に居場所はなかった。世間と、それに母親からも、私はもう飽きられてしまった。

 高校生になった今、私はSNSの不本意な舞台に立っている。落ちていくだけの人生だ。

 ウサギのポン太は、夜にうるさくして母に見捨てられた。外に捨てたりしたら近所の迷惑になるから、責任をもって〝処分〟しなくちゃいけないらしい。

 次に見捨てられる憐れなうさぎは、きっと私なのだと思う。私にはなまじ力があった。生まれつき速く走れたうさぎと同じように、天才と讃えられる影響力が。だから今、それが陰ってからの生き方がわからない。

 私は暇にかまけてそんな思索を巡らすけれど、今はもう、死のうという気も特にない。もとより気の迷いだったのだ。最近は全部をぶち壊しにしてしまいたい気分になることが、たまにある。ポン太をこの手で殺して、気がまいっていたから。ペットの死にあてられてしまった、それだけの話。


 カメ野郎は今、隣の椅子で突っ伏している。相変わらず何を考えているのか分かりづらい後輩だ。少し躊躇してから、肩に手を触れて起こそうとする。反応が無くて、もう少し強くゆすろうと力を込めたそのとき。ぱしっ、と、後輩の手が動いて、私の手首を強く掴まれる。ぎりぎりと、絞めるような力で強くその場につなぎ止められた。

 すぐに手の力は抜けて、弱々しく触れるだけになる。意図して力を緩めたというよりは、私の腕を掴み続けるだけの力がまるで入らなかったという風情。弱りきったその指先が小さく震えているのを感じ取って初めて、私は少し冷静になる。冷静になって、自分のしてしまったことの意味を理解する。

 ──馬鹿か、私は。

 いや、馬鹿だ、と頭の中で反芻する。後輩が異変に気づいて対処しなければ、私は後輩まで巻き込んで死なせていたかもしれない。最期の場所に部室を選んだ私の身勝手がばかりに、ポン太と同じように。それに、


「ごめん。配慮に欠けてた。……君の前で、私が死ぬとかポン太を殺したとかそういうの、言うべきじゃなかった」


 子どもの自殺とか、虐待とか。今どきいくらでも見つかるそんなテーマの小説を、この後輩は決して読もうとしない。その理由を私は聞いたことがなかったし、これから訊くことも、きっと無い。私は彼がタートルネックで首を隠す理由を問い詰めないし、カメ野郎は私のSNSを話題にしない。そういう距離感で、私と後輩は友達をやっている。

 けれど、今日の私は少し浮かれていた。彼が私のSNSをチェックしていたとは正直思っていなかったし、放課後以外に彼と会うのは実のところ初めてかもしれなかった。部室で意識がぼやけていた私は、窓から入り込んできた後輩を、まるで物語のヒーローみたいだと他人事のように感心していた。

 私が死んで後輩が傷つくなんて、少しも考えていなかった。

 陽射しが差す。風が吹き抜ける。後輩のカメ野郎は首をもたげて、赤く腫れた目で私を睨みつける。


「……やっぱり馬鹿ですよ。先輩は」



 私の謝罪は、やはり的を外していたのだろう。私としては心からの反省を示したつもりだったのだけれど、後輩には「もっと自分を大切にしてください」としこたま怒られてしまった。

 私の投稿したウサギの画像は教員内でもちょっとした騒ぎになっていたようで、その後は休日出勤で駆けつけた担任教師に捕まって、後輩共々お叱りを受けた。SNSに投稿した理由を聞かれたけれど、適当に誤魔化して帰路についた。

 あの投稿は私自身を終わらせる手段で、そしてポン太の葬送だった。たぶん、「助けてほしい」という私の叫びでもあった。けれど今は、もう少し踏ん張ってみようという気になった。だから先生のくれる助けは必要ない。思春期の私は気が変わりやすいのだ。迷惑をかけた先生はどうか事故にでも遭ったと思って、許してほしい。


「恵まれてたんだよなあ、私」


 少し先を歩くカメ野郎の背中を追いながら、なんとなくひとりごちる。

 部室の窓に物を投げつけてきた人たちは、私が帰る頃には校庭から追い出されていた。カメ野郎の他にもうひとり、私とは直接面識のなかった後輩が守衛さんを呼んでくれたらしい。


「ねえねえ、あの子、私のファンだって言ってたよね」

「またその話ですか」

「んふふー、そりゃあ嬉しかったからね」

「実際かなり心配してましたよ。今度ちゃんとお礼を言ってあげてください。先輩から話しかけてもらえれば、きっと喜ぶので」


 にへへ、と緩んだ笑いを手のひらで隠して、ついでにちらと後ろを振り返る。ゆりかもめの駅から徒歩十分。私たちの学校は、都会の真ん中にある。夏の暑さにも、人の悪意にも晒されやすい場所。

 視線を上げる。空は青く、陽はまだ昇りきっていない。私を待って立ち止まった後輩の手首を掴んで、ぐいと引っ張る。そのまま足を踏み出して、地面を蹴って、走り出す。


「え、ちょっと」


 背後の後輩が足をもつれさせる気配。私は愉快に笑って、握った片手を強く引く。そのまま広い歩道の道を、ふざけながら走っていく。

 後輩の足は遅い。地の運動神経は悪くないくせに、筋力がまるで足りていない。手首を掴んだままくるりと回る。後輩がぐるりと目を回す。心の底から滲むように笑いがこぼれる。


「私の勝ちだ」


 私はカメ野郎に勝ちをひとつ重ねて、それでも掴んだ手首は離さない。そうするうちに、私たちは海にたどり着く。無骨な港湾、コンクリートで固められた海の上。

 海の近くまで歩いてから足を止めて、小さく息を吸う。そして、跳んだ。

 石のへりを跳び越えて、海に向かって跳び出した。


 青い青い海の上。陽射しが水面を照らして、きらきらとはね返る。

 私を追って、後輩が跳ぶ。一瞬の浮遊感。そして太陽に温められたぬるい水面を突き破る感覚。

 鼻に、口に、塩辛い海水が入り込む。すぐに周囲の水温が冷たくなって、太陽の温度が届かない深さにまで沈んだことを悟る。繋いでいた後輩の手をいつの間にか見失って、右手の中が空になる。

 塩を我慢して、目を開ける。たくさんの空気の粒がきらめいている。泡の向かう方向を追えば、太陽の光がきらきらと揺れていた。知らず伸ばした手を、やわらかな感触が包む。

 息がくるしい。カメ野郎の手を握り直す。少し迷って、水を蹴る。水面を目指してもがく。息を吸うために。


 やっぱり私は死にたくない。

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