夢日記―魔性の女(7月25日)
女は、契約書を私の方に見せた。床に座ったまま、床に契約書を置いた少しヘンテコな会合だ。彼女がこちらに向けた契約書は、文字の羅列で紙が埋め尽くされているタイプのものではなく、彼女オリジナルの形式らしい。箇条書きで文が数個並んでいて、下の方にひっそりと署名欄が設けられている、簡素なつくりの契約書だ。なんとなく、法的拘束力はなさそうだと思った。契約を破るつもりはないが。
「守ってほしい約束はここに書いてある通りよ。」
黒くて長い髪は、彼女の腰のあたりまで伸びている。白い肌に、赤い口紅を塗ったのであろう唇がよく映えて綺麗だ。
「まずは、家賃ね。ここに書いてある通り指定の口座に振り込んで。」
この立地と条件にしては安すぎる。彼女曰く、不動産業で儲けるつもりはないとのことだった。ならありがたく、と話に乗ったのだが、一抹の不安に苛まれる。安すぎるのには何か裏があるのではないかと思ってしまうのだ。
「あとは退去について。退去はいつでもいいわ。退去する前日にでも教えてくれればね。あ、でも現状復帰はちゃんとしてもらうから。」
それからも、いくつか注意事項が説明される。といってもおおざっぱで、普通に過ごしていれば守れるようなものばかりだった。
「これが最後ね。で、一番重要なんだけれど……。」
彼女が言葉を切り、こちらをじっと見つめてくる。その黒い瞳に吸い込まれそうになりながらも、私は目をそらさないようにじっと見返す。何度見ても、年齢の分からない女だ。老婆だと言われるとさすがに反論したくなるが、時折中年の女に見えたり、女子高生のように見えたりする。魔性の女とは、こういう女のことを指すのではないだろうか、と思った。彼女は魔女だ。たぶん。
「なんですか。」
産まれて初めて声を出したような気がした。ずっと彼女に圧倒されていたのだ。
「わたしの宗教信条に対し、一切の口出しをしないこと。」
は、と腑抜けた声が出そうになった。
「そこに畳の部屋があるでしょう?」
彼女は隣の部屋を指さした。ほかの場所は洋風なつくりのこの家も、そこだけ作りが和風なのだ。扉もそこだけドアではなく、襖だ。窓ははまっているが、その窓を覆うのもカーテンではなく障子だ。そんなに広くない、五畳ほどの和風空間。
「その部屋の押し入れの下に、木箱があるんだけど。」
彼女は立ち上がって、和室に移動する。わたしも彼女の後を追った。彼女はそのまま襖をあけ、押し入れの前にしゃがむ。そして押し入れの襖をすっと開けると、確かにそこには木箱があった。両手で抱えればもてるだろうといったサイズ感だ。深い茶色をしていて、三つの取っ手がついている。取っ手は黒く輝いていて、鉄製なんだろうと思った。恐らくこれは、引き出しだ。
彼女は口の端だけを吊り上げた。
「この箱は、開けないでほしいの。」
私を見上げる彼女が、なぜかとても恐ろしいものに見えた。
「何が入っているんですか。」
わたしは尋ねた。なにか、いやな予感がしたからだ。
「わたしの宗教信条に、口出ししないでって言ったでしょ。」
これが、彼女の宗教にかかわっているのか。そもそも、彼女の宗教とは何だろうか。このご時世、わざわざ自身の信条を明かすメリットはない。一律で怪しいと判断されてしまうからである。それを自ら明かしてきたのだ。恐らく、神道や仏教ではない、別の何かを信じているのだろう。
「まぁ、いいわ。これが最初で最後の質問ってことにしてあげる。この中にはね、逃げ道が入っているの。」
文法がおかしなことになっている。箱に逃げ道は入らない。
「引き出しが三つあるでしょう? そこに、逃げ道が入っているの。そのうちどれか一つが正しい道。」
彼女は未だ笑顔を向けたままだ。
「この家はあなたに貸すけど、この箱だけはここに置いておいてほしいの。あ、もちろん開けないでね。開けて元に戻しておいても分かるから。」
それだけ言うと、彼女は立ち上がって和室を出た。わたしも急いで後に続く。そして彼女に、気になっていたこと尋ねた。
「その、あなたの信じている宗教って言うのは、何なのですか。」
わたしがそういうと、彼女はむっとした表情をした。頬をぷくっと膨らませて、軽くこちらをにらんでいる。そんな表情をしても似合ってしまうのが、彼女を魔性だと思った所以だ。
「口出しをしないっでって言ったでしょ。まあ、それくらいはいいんだけど、これが最後ね? これ以降は受け付けないから。」
なんだかちょろそうである。
「聞いたことない? ――教って……。」
うまく、聞き取れなかった。
「あの、なんて……。」
「はい、この話はおしまい。さっさと契約の話に戻りましょう。」
彼女はそういうと、また契約書の前に戻ると、ちょこんと床に座った。
「それで、この契約内容でいい? あなたからも、何か付け足したいことがあれば言ってちょうだい。付け足すから。」
これ以上触れないで、という意思が言動から感じられる。私は仕方なく座り、もう一度眼前の契約書を眺めた。
特に付け足してほしい事項もなかったので、そのままハンコを押して契約は終了した。
「それじゃあ、もう今から入居ってことで。分からないことがあったらまた連絡して頂戴。」
そういうと、彼女はわたしの返事も聞かず去っていった。忙しいようだ。といっても、今の今まで即日入居ができるとは知らなかった。このまま元の家に帰ってもいいが、せっかく来たのだ。しておけることはしておきたい。といっても、何も持ってきていないのでできることなんてほとんどないのだが。
やはり、あの箱が気になる。彼女は、宗教とかかわりがあるということを匂わせていた。いったい、なんという宗教なのだろうか。うまく聞き取れなかった彼女の言葉も、なぜか聞き覚えがあるように思えて仕方がない。どこで聞いたのだろうか。
結局、どれだけ考えてもあの宗教のことを思い出すことはできなかった。
どうしても気になってしまい、わたしは帰る前にもう一度箱を見ておくことにした。開けることは許されていないが、見ることは禁止されていない。わたしは押し入れの襖をあけ、その前に正座する。あの会話が幻でなかったことを証明するかのように、箱はそこにあった。そっと手を伸ばし、触れてみる。本当に木でつくられているのだろう、ざらっとした手触りがする。長方形に加工してあるが、継ぎ目は見えない。よほど腕のいい職人が作ったのだろう。
彼女はここに「逃げ道」が入っていると言った。それは、いったいっどういうことなのだろう。
無意識のうちに、取っ手に手が行く。つるっとした鉄の感触を確かめているうちに、この引き出しの中をどうしても開けたくなってしまっていた。取っ手のくろが、彼女の目のそれと重なる。目が離せない。目をそらすことができない。
右手が、取っ手をつかんだ。
「何をしているの?」
後ろから、声がした。
「開けてはいけないって、言ったわよね?」
彼女が、そこにいた。はっとして、わたしは取っ手から手を放す。
「ええとあの、これは、」
わたしは、何とか声を出す。彼女の前ではどうにも委縮してしまうのが、今は輪をかけて
声が縮まってしまう。
「あの、押し入れは使ってもいいんですよね? これは開けていけないってだけで。」
脈略のない言い訳だ。みられた、という焦りが、脳の回転を遅くしている。どうしようという単語だけが頭の中を回る。
彼女の瞳が、食い入るようにわたしを見ている。そのくろに身体を縛られるようにして、わたしは動けなくなった。彼女から目が離せない。その瞳のくろが、唇のあかが、わたしを飲み込もうとしている。
どうにかして逃れなくてはいけない。背後は押し入れでふさがれている。かといって、目の前の彼女を突破する方法もない。大人しく白状すればいいのかもしれないが、彼女の前ではどうにも声が出ないのだ。どうしよう。逃げなくては……。
ふと、手元にある箱に視線がいく。
―この中にはね、逃げ道が入っているの。
この中に、逃げ道が入っている。
この中に……。
夢日記 @uonoragon_daisuki
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