第二十話「空手の神髄を見せてやる」(旧ルート)
「舐めるな!」
包丁が腹部に刺さろうとする寸前、僕には一瞬、今までの努力がよぎった。
走馬灯(ソーマト・リコール)に似て違うもの。
カラテ。
柔道。
僕は体を苛め抜いた。
ドラゴンフラッグを毎日繰り返し、メディシンボールを腹に叩きつけて、生半可な攻撃では僕の腹部にダメージは与えられないほどに鍛え上げたのだ。
全ては前世のトラウマ。
強盗に腹をナイフで刺されても大丈夫な体を作り上げるために。
だが、所詮は人間の身体。
人体は刃物に勝てぬのだと。
「少年、刃物で切り付けられても大丈夫な体を作り上げることはできないのだ。残念ながら、ダメージに抵抗する身体を作ることはできても、人は所詮、ただの血肉の塊にすぎぬ。どこまでも鍛え上げたプロレスラーでさえも、出刃包丁の一撃が腹部に決まれば死に至る」
習っていた空手家の先生はそう仰った。
僕は納得がいかなかった。
「つまり先生、僕の努力は無意味だと言うことでしょうか」
「そうは言っていない。努力は人を裏切らぬ。鍛錬は人を裏切らぬ。男子たるお前であれば、女子には及びもつかぬ絶壁に手をかけることもできよう」
カラテの女先生が、かつて、ボロボロの手の平で僕の頭をなでてくれた。
その手刀は岩のようにごつごつとしていて、僕の性癖は無事に捻じ曲がった。
僕が気の強い女が好きなのは、あの女先生のせいだろう。
「人体を鍛えても、辿り着く先は知れている。人はヒグマには腕力で勝てぬ。そう決まっている。なれば、人体は刃物に刺されれば抵抗することはできぬ。そのように定まっているのだ」
「ではどうすれば? 先生はナイフの暴力にでもカラテは勝てると仰った。それは嘘ですか?」
「嘘ではない」
はあ、と先生が拳を叩きつける。
演舞用のレンガではなく、普通のレンガにであった。
「哈(ハ)!」
レンガが粉々に砕け散る。
先生の拳は岩のような塊と化していた。
砂袋を殴りすぎて、熊の手のように膨れ上がった拳であった。
「これとて、地面の力無しではレンガを砕くことなどできぬ」
「それでも刃物には勝てぬと」
「違う。勝つことはできるが、手段を考えろと言っている」
先生は僕と向き合い、姿勢を整えた。
僕も受け構える。
先生が教える、琉球カラテの構えであった。
「鍛えるべきところは鍛え、弱きところは技術で補う。すなわち理合である」
「というと?」
先生の言わんとするところがよくわからない。
僕は単に腹を刺されたくないだけなのだが。
その結論はどこに。
だが、先生は確かに答えてくれた。
「人に刃物で刺されたくないと言うならば、それはシンプルな護身術に行きつく。体を鍛えるだけでは足りぬ。丁度よい、この拳を武器と思え」
先生が拳を差し出す。
僕はおっかなびっくりそれを受けながら、左手を重ねる。
武器を受け止めるのではなく、その拳を受け取るのではなく、僕は左手でそれを捌いた。
カッティングである。
「そうだ。正拳突きを捌くのと何も変わらぬ。拳を受け止めるな。防御するのではない、外受けする。カッティングする。手段はいくらでもある。最悪、腕は刺されても良い。腹部だけを守れ、それならば致命傷にはならぬ」
そうだ。
先生からずっと学んできたじゃないか。
僕は手段を知っている。
その中でも、僕は一番得意な手段を選んだ。
数万回、数十万回とやった技術である。
「――」
一瞬だった。
転掌の受けを左手で行う。
内側から手を伸ばし、突いてくる腕を鞭のようにスナップを利かせて手首で受ける。
狐拳。
まずは相手の手首をへし折った。
「―――ッ!」
悲鳴が上がる。
ワンピースの女の悲鳴であった。
足りぬ。
まだ足りぬ。
相手はまだ活動可能だ。
まだ致命に至らぬ。
ここで抵抗する相手からナイフを奪おうとするのは悪手以外の何物でもない。
「哼(フン)!」
狙うべきは正中線であった。
人を致命に至らしめる剛拳。
先生とは違い、まだ僕が至らぬ絶壁。
なれど、相手を一時的に「活動不能」に追いやる程度の打撃にならば僕にも与えることが出来た。
左手を引き、右手を前に突き出す。
腰を据え、ただ真っすぐに突く。
それだけの動作。
ただ一撃だけの正拳突き。
「哈(ハ)!」
それだけの動作がいかなる威力を産み出すのか。
僕はそれを先生から学んでいる。
「―――ッ!」
心臓を叩いた。
確かな感触。
身長180cmの体躯を活かして、やや正中線からずれたが確かな感触を拳から感じ取った。
ワンピースの女性の身体が吹き飛び、地面に崩れ落ちる。
だが、足りぬ。
「嘿(ハイ)!」
残心を忘れてはならぬ。
確かなダメージを与えたが、それは錯覚にすぎぬかもしれぬ。
相手が起き上がってくるかもしれない。
カラン、と地面に取り落としたナイフを握って襲い掛かってくるかもしれない。
闘争心を途切れさせてはならぬ。
すかさず空手の姿勢を戻し、左手を平手に。
右手で拳を作り、相手の姿を見るが。
「……」
相手は起き上がってこない。
なんというか、ワンピースの女性の左手首は確実に圧し折れているし、おそらく正中線に与えた正拳突きは肋骨をへし折っている。
心の臓にまで突き刺さったのかもしれぬ。
その感触を確かに感じたのである。
残心を忘れてはならぬ。
闘争心を途切れさせてはならぬ。
なれど。
なれどだ。
「うん?」
ちょっと、戸惑う。
あれ、確かに実戦は初めてである。
格闘技の大会には母親から止められて、出してもらえなかったし。
先生も眉をひそめて、女の子との練習試合を禁じていた。
だから、だからだ。
僕はとんでもない勘違いをしているのではないか。
ひょっとして、女性という物はもっと脆くて。
大切に扱うべき存在で――でも相手、僕のお腹を刺そうとしてきたし。
だから、手抜きをする理由はなかったし。
なんだ、だからだ。
僕は悪くないんじゃないかな。
「……イチローくん」
カズキさんが声をかけてきた。
場は沈黙している。
ワンピースの女性はぴくりとも身動きしない。
深い沈黙で静まり返っている。
現代文化研究会の皆も、カズキさんも、カメラ小町たちも。
何が起こったのか少しづつ理解しつつも、やがて戸惑うようにざわつきだした。
「はい」
「えっと……殺した?」
「いや、多分生きてるとは思いますが」
「多分? 多分て何? どういう意味なの?」
カズキさんが戸惑っている。
僕も戸惑っている。
いや、そんな。
まさかな。
まさかだ。
確かに先生から僕が伝授された正拳突きは完璧だ。
人を殺せるとまで言われた。
だから、よく考えれば、だからこそ女の子との練習試合は禁じられていたような。
今、思い出した。
でも、僕は悪くない。
それでも僕は悪くない。
だって、相手は殺そうとしてたし、それで。
「救急車ーーー!」
最初に叫んだのは、高橋部長であった。
いや、悪くないよね。
悪くないよな、僕。
僕はそう自己暗示をかけながらも、これで人殺しは嫌だぞと。
そう思いながらも、僕とカズキさんはワンピースの女性に駆け寄り、心臓が停止していた彼女に蘇生を試みた。
三分後。
確かに僕の心臓マッサージと、カズキさんの人工呼吸で彼女は蘇生したのだから。
僕は悪くない。
悪くないのだ。
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