19歳ごろ書いたもの
@DojoKota
全話
その頃、〈ぼく〉は十四歳だった。
一言で言えば、子供だった。
当たり前だ、十四歳のオトナなんているわけがない。
どんなにオトナぶって見せても、オトナのまねごとをしても、十四歳はどこまでいっても十四歳で。十四歳の夏、〈ぼく〉はまだ子供の領域にいた。
だから、この〝子供だった〟っていうのは、当時の〈ぼく〉が他の十四歳よりも、ずば抜けてバカで、世間知らずなまぬけで幼稚なヤツだったって意味だ。当時の〈ぼく〉は子供みたいなガキだったってこと。きっとそうだ。
〈ぼく〉より、バカな十四歳なんて見たことがない。だけど、〈ぼく〉よりアホな十六歳なら会ったことがある。
〈ぼく〉は人付き合いの苦手な方で、ほとんどいつも一人でいた。
というか、ロクに学校にもいかないで、一人で街の中をぶらぶら歩きまわる、それが〈ぼく〉の日課だった。
特別な理由があるわけじゃない。悲惨ないじめを受けたわけじゃないし、〈ぼく〉の頭が悪すぎるばかりに、勉強に嫌気がさしたわけでもない(だけど、頭が悪いのは事実だ)。ただ、単に、〈ぼく〉には戸籍がないみたいだったから、〈ぼく〉は学校に通わないことにしただけのこと(日本人でない〈ぼく〉に、教育をうける権利はない)。
特別な理由なんてない。
その日だって(それは夏の日だった。プール開きの次の次ぐらいの日)、〈ぼく〉は、目的もなく、意味もなく、街中をぶらついていた。街といったって、所詮、地方都市。遊んで暇をつぶせるようなところも、観光名所のように、ただ見て回るだけで、楽しめるようなステキな場所もソコには存在しない。
駅の周辺だけがやたらとにぎやかで、それ以外は死んでいるようにさびれている。ここには何もない。
肝心のその日――
〈ぼく〉は駅前で足をとめた。立っているのにも疲れ、駅前の広場にあるベンチを利用しようと思っていた。
夏休みだから、駅前はいつもより人でこんでいた。
ねぇ――」声をかけられた。
夏休みだから、駅前はいつもより人でこんでいる。それはきっと、駅前には小さな噴水があって、見た目には涼しいからだ。 「ねぇってば」しつこく声をかけられた。キャッチセールスか。それとも新手の宗教勧誘だろうか(ぼんやりと考える)。どちらにしたって、〈ぼく〉には興味はない。そもそも財布の中は空っぽなのだ。話を聞くだけ無駄だろう。〈ぼく〉は無視を決め込んだ。…………。 「ねぇってば」彼女の声はやむ気配がない。…………。
…………。ねぇってば、○○くん。
その頃、彼女は十六歳だった。十六歳といえば不思議な年齢だ。たとえば、バイクの運転免許証が取れるのもこの年齢からだし、アルバイトなんかも始められる。だけど、オトナじゃない。最後の一線は越えられない。ビールも飲めないし、タバコも吸っちゃいけない。少なくとも、バレたら小言の一つくらい言われる。たとえば「子供のくせに」と。というわけで、十六歳はオトナじゃない。だから、十六歳ってのは、特別なんだ。ただの子供ではないけれど、オトナだとは言い難い、中途半端な年齢だから。
彼女の名前は、月見里アイル。
〈ぼく〉の前に彼女が現れたのは、〈ぼく〉がまだ十三歳だったとき。
そして、〈ぼく〉が十三歳だったとき、彼女はすでに十六歳だった。
十三歳の〈ぼく〉はくだらないことを訊いた。 『十六ってことは、高校生なんだ?』ほら、くだらない。 『制服姿なんだからわかるでしょ?』彼女は誇らしげに、胸を張って見せる。セーラー服の胸元には、三歳児が描いた鳥の羽根ってこんなかんじかなあってデザインの校章が刺繍されいて、〈ぼく〉は漸く、ああ、彼女は羽衣市立ハゴロモ高校の生徒なんだと思いいたる。 『ハゴロモ高校ってことは頭いいんだ』ハゴロモ高校は、ハゴロモ市に三つある高校のうちでトップだった。 『大したことないわよ、うちの高校なんて』彼女は白けた目をしていた。この世のすべてをバカにしている目だ。 『じゃあ、あなたはハゴロモ高校でトップクラスの秀才なわけ?』〈ぼく〉は尋ねる。たいして興味はなかったけれど。 『ん~ん』だけど彼女は悲しげにかぶりを振った。『わたしは、中途半端に頭のいい学校の中途半端にデキの悪い生徒なのよ』別に同情はしなかったけれど、彼女の声は悲しげに聞こえた。彼女はいつも中途半端な存在だった。…………。
…………で、そんな彼女が、駅前で〈ぼく〉のことを呼びとめていた(なんだ、キャッチセールスでも宗教勧誘でもなかったのか……)。それは〈ぼく〉が十四歳だった時のことで、彼女がまだ十六歳だった時のこと。面倒なことになったなと〈ぼく〉は直感した。 「ねぇってば、水根くん」
〈ぼく〉は、無視しようとした。無視しようと頑張った。
彼女は〈ぼく〉の襟首をぐいっと掴まえた。それでも〈ぼく〉は無視を続ける。彼女の顔がすぐそばにあるのに、そっぽを向いている。
だけど、〈ぼく〉にだって、彼女を無視し続ける理由があるんだ。
ほら、いままさに、彼女の口から、その理由が告げられようとする。 「ねぇ」アイルは〈ぼく〉の耳元で囁いた。せわしない人波のなかで、〈ぼくたち〉は塑像のように固まっている。「ねぇ、水根くん結婚しようよ」プロポーズ。彼女の口から、〈ぼく〉への愛の言葉が告げられる。
これが〈ぼく〉が彼女を避ける理由だ。〈ぼく〉は何故だか知らないけど、そこそこ可愛い、二流進学校のお嬢様に求婚されていた。なんなんだよ、それって状況だけど。 「ねぇ、結婚しようよ」彼女は〈ぼく〉を口説く。「幸せにするよ?」
だけど、生憎。
その頃〈ぼく〉は十四歳だった。早い話が子供だった。子供は結婚しちゃいけませんってことに、この国ではなっている。
その頃、〈水根〉は十四歳だった。一言で言えば子供だった。悪く言えば、世間知らずのガキだったし、良く言えば、純真無垢なおこちゃまだった。純真ってのは混じりっけのないことで、要は単純ってこと。無垢ってのは、何にも知らないバカってことだ。結局のところ、どんなに言葉を取り繕ってみたところで、その当時、〈水根〉がガキであったことと、それでいて単純バカであったことは、ゆるぎない真実だった。 「本当のことなんてドコにもない」
というのが、〈水根〉の口癖だった。 「確かなことなんてドコにもないんだ。だから探してもムダなんだ」 「ぼくは昨日、十四歳の誕生日を迎えたつもりだけど、実はぼくのカンチガイで、十三回目の誕生日だったのかもしれない」ま、そんなことどうだっていいけど。彼の言葉はいつだって、毒にも薬にもならない。 「くだらないこと考えるんだな、お前」どこからともなく、声が聞こえてくる。風邪気味なのか、掠れた声だ。
彼らは、薄暗い室内にいた。ブラインドが下ろされ、照明の切られた一室では、微かに洩れ入る西日だけが、唯一の光源だった。会議室にうってつけの中規模の室内。これまた会議室にうってつけの折りたたみ式の机が乱雑に設置されていた。
彼らは、オフィスビル地上五階でくつろいでいた。そこが彼らの根城だった。 「なあ、知ってるか?」掠れた声が唐突に言った。 「なんだよ、ねこ」〈水根〉は声に呼びかける。ねこ、というのはいわば仇名だ。ねこはソファの上に寝ころんだ状態で新聞を読んでいる。中学にも行っていない〈水根〉は活字を読むのも一苦労だ。どうして、あんな細か字をコイツは長時間眺めていられるのだろうといつも彼は不思議に思う。 「お前が十四になったその日、ついに決まったんだとよ」ねこの言葉には主語がなかった。 「何がだよ」めんどくさそうに〈水根〉はこたえる。 「だから、あれだよ。ハゴロモ特科大の教授がさ」 「あれって、何だよ」〈水根〉は、空き缶を蹴飛ばした。 「ついに、取ったんだってさ。で、授賞式に出ろって、いろいろ言われたらしいんだけど、アイツ変わり者だからさ、結局授賞式には出ないで賞だけもらちまったらしい」ねこは昨日付けの新聞を眺めながらいう。 「だから、何を取ったんだよ。というか、アイツって誰だよ」 「荒山みこに決まってるだろ。アイツがノーベル賞魔術部門をもらったくせに、研究が忙しいとかテキトーな理由で、受賞式をドタキャンしたって話だよ」 「…………」 「もしかして、荒山みこを知らないのか?新聞くらい読めよ」あきれ顔でねこは言う。 「い、いや知ってる。知ってるから」単純バカの彼はうろたえる。「最年少ノーベル賞受賞なるかって騒がれてたアレだろ?で、結局のところ」記録は塗り替えられたのか? 「ええっとな……惜しい!あと三カ月遅く生まれてたら最年少だったらしいぜ」ねこは残念そうに呟いた後で、「といいつつさ。時間の魔術も専門にする彼女にとって、自分の誕生日を三カ月ズラすぐらい簡単なことなんだろうって記事には書いてあるけどな」 「ふ~ん?」
ねこは、ほれ、詳しいことはここに書いてあるぜ、と〈水根〉に読んでいた新聞紙を投げ渡すけれど、〈水根〉は活字なんて読んでいると目が回るだけだ、と突き返す。
「うちへ寄ってかない?」と彼女が言う横で、ジーワジーワジーワ、みんみんみんみんと蝉が鳴いている。その鳴き声が、いまが真夏で地球温暖化は現在進行形で進んでいることを〈ぼく〉に意識させる。 「…………」 「ジーワジーワジーワ」 「みんみんみんみん」 「うちへ寄ってかない?今日は、親も出かけてるし、冷蔵庫にはアイスも用意してあるよ」それは誘い文句というよりは、殺し文句に近かった。………蝉のうるさい真夏の荒野と冷房の効いている楽園を脳内で比較する。涼みたいなら市立図書館にでも潜り込めばいいのだ。だけど、図書館にはアイスはない。
その頃、〈ぼく〉はしけた生活をしていた。臨時収入以外は、ぎりぎり生活できるレベルの金銭しか手に入らない暮らしを営んでいた。
だらだらとながれる汗をぬぐったのと同時に、 「だからさ、うちに来てよ。わたしの分もアイスあげるからさ」 「あ、ああ」夢見心地の〈ぼく〉は二つ返事で承諾していた。 「やったあ!」とアイルは喜んだ。軽く一、二回その場でとびはねるくらい喜んでみせた。
しまったな、と思うけどもう遅い。いきなり求婚してくる女の子について行くなんて正気の沙汰とは思えないけど。だけど、約束してしまった以上しょうがないか。 「こっち、こっち」と先導してくれる彼女の後姿を〈ぼく〉は追いかけていく。
彼女はアパートに暮らしていた。父親は単身赴任中なの。母親は美容師さんで、近所の散髪屋さんでアルバイト中。小さな部屋。とても小さな家。同年代の友達がいない〈ぼく〉は、彼女が暮らしているこのアパートが特別狭苦しいのか、それとも日本の住宅なんて、所詮こんなものなのかはかりかねたけれど、少なくとも〈ぼく〉が寝泊まりしている施設より十倍は狭い。 「遠慮しないであがりなよ」玄関先に佇む〈ぼく〉に、部屋の奥の方から声がかかる。うん、おじゃま…。と〈ぼく〉はぼそぼそという。
猫の額ほどの玄関を抜けると、狭い狭い、この廊下にお相撲さんを押し通せば人間トコロテンができるんじゃないだろうかと思えるくらい細い(そのくせ短い)廊下に出くわす。廊下には、彼女のものなのか、ハゴロモ高校指定の学生かばんが投げ捨てられていた。 「散らかってるけど、ごめんね」と彼女は言った。「お茶いれてる間、居間でテレビでも見ていてよ」
ちゃぶ台。そして十六インチのテレビ。座布団があったので、その上に座る。テレビをつけた。 『政府要人が殺されました』 『とおい国で戦争があります』 『地球の裏側で飢饉があります』 『宇宙の果てには神さまがいます』
リモコンのないテレビの電源を手動で切る。ブラウン管はびん詰めにされた不幸のように、真っ黒になった。
やがて、「粗茶ですが」お盆に冷茶をのせ、彼女が現れた。楚々とした佇まい。そつのない動作。大人だなと思う。大人だなと思うけれど。どうしてこんな大人な女子高生が〈ぼく〉のような男子中学生(学校には行ってないけど)にいきなりプロポーズとかしちゃうのだろう?世の中って変な感じだ、と思う。世界って案外狂っているんだな。
彼女が隣に座る。真向かいじゃなく、隣だ。話しにくいし、どぎまぎする。それに頬に息がかかるくらい近い。 「ねぇ、水根くん」 「なに?」ズズズ…とお茶をすする。 「キスしようよ」 「それより、アイスまだなの?」
雰囲気ブチ壊しだ。彼女は不機嫌な顔をする。 「なめんなよ。中坊」彼女は毒づいた。〈ぼく〉は驚く。「はいはい。アイスくらいあげるって。だけど――」これが豹変というのだろうか。さっきまで甘酸っぱくうるんだ目をしていた彼女が〈ぼく〉のことを睨んでいた。 「だけど、なに?」 「一つだけ、お願いがあるの」彼女の瞳が再びうるんだ。
〈水根〉はいつものように、オフィスビルの一室にいた。ブラインドによって閉じられた空間は、いつものように、彼ら二人によって、占拠されていた。
彼らとは、ねこと〈水根〉のこと。
ブラインド越しの太陽が彼らを照らす。ねこは、長椅子の上で横になり、〈水根〉は窓際で外の景色を垣間見ていた。
青く澄み渡った空の向こうには、水平線と遠くない島影が見える。日本海が視界の大半を覆っている。あの向こうに何があるか〈水根〉は知らない。知らないけど、何かがあるんだろうと彼は思う。ふと視線を落とすと、ちょうどオフィスビルの根元の辺りに、複数の人間がいた。ランドセルを背負っていないから確信は持てないけれど、小学生の集団だ。
ねこの背中には、『昼寝中にて、お静かに!』と張り紙が貼ってあった。 「なぁ、ねこ。おいってば、ねこって」 「…………」ねこは黙って耐えている。返事はない。 「狸寝入りかよ。ねこのくせに」 「うるさいなあ!なんだよ、バカ。起すなよ、バカ。お前の眼は節穴か?俺が横になって、休んでるのがわからないのか?」ねこの声が荒ぶる。 「ごめん、ごめん。でさ」 「『でさ』ってなんだよ。話題かえてんじゃねぇ。謝罪に誠意が感じられねぇぞ」 「はいはい。ごめんって」憤るねこをなだめ、すかす。「そんなことより」〈水根〉は笑った。「仕事の時間だぜ」彼は親指でブラインドを指さした。オフィスビルの根元には、相変わらず小学生たちが屯していた。
彼らは、なにもこのオフィスビルに用があるわけじゃない。たまたま、信号が赤かっただけだ。横断歩道の信号が赤い目をして歩行者を睨んでいる間、彼らはただオフィスビルの影で涼んでいただけだ。 「ああ。そっか」ねこは頷いだ。「獲物がようやく現れたのか」間の抜けた声だ。
ねこは急いで窓際に駆け寄ると、〈水根〉が指さす人影を確認する。
ねこの眼が細められる。まるで、野ネズミを前にした山猫みたいだ。 「丸々と太ったガキどもだ。ターゲットには申し分ないな」ねこがつぶやくと、
〈水根〉は頷いた。冷たい目を二人はしている。
さっきまでのいさかいなど、取るに足らないことのように、ねこの声は落ち着いている。
そして、〈ぼくら〉はどなった。 「業務連絡。業務連絡。本日の仕事内容を確認する。」 「了解。了承。内容確認、その一。目的はナニ?」 「幼児誘拐であります!」 「了解。了承。内容確認、その二。手段はナニ?」 「手段は選ばず!ただし、可及的速やかに且つ穏便に!」 「了解。了承。内容確認、その三。決行時刻及び目的物は?」 「決行時刻は現時刻をもって、また目的物は地上、幼児集団。」 「了解了承!」 「また、本任務の決行人員は、コードネーム〈ねこ〉及び〈ねずみ〉の二名。」
〈ぼくら〉は溜息をついた。なんだよ、これ。〈ぼくら〉二人、バカみたいじゃないか。我ながらそう思う。
ごっこ遊びか、何かか?
生憎なことに、その推理はハズレだ。そもそも十四歳にもなって、ごっこ遊びなんてやらない。
〈ぼく〉は十四歳だけど、中学生じゃない。それには二つ理由がある。一つには、〈ぼく〉には戸籍がないから。二つめは、〈ぼく〉はすでに社会人だから。
〈ぼくら〉の仕事はヒトデナシの仕事だ。本業は暗殺で、今日みたいに、幼児誘拐を請け負うこともある。暗殺にしろ誘拐にしろ、非道い仕事だ。端的に言えば、汚れ仕事請負業者、それが〈ぼくら〉の肩書だった。
言い訳っぽくなるけど、〈ぼく〉だって、本当はこんなことしたくはない。
きっと、ねこもそうだと思う。 「おい。〈ねずみ〉。なに一人でブツブツ言っているんだ?」
とねこが言うので、重い腰を上げよう。嫌なことはさっさと済ませるに限る。
……それにしても、何なんだよ、と思う。〈ぼく〉のコードネームだ。その名も、ね…ず…み。〈ねずみ〉。コードネームの由来は苗字の逆さ読みだ。初めてその名前で呼ばれた時、その安直さのあまり、軽いめまいを覚えたのを、今でも覚えている。
〈ねずみ〉くん。その人は、〈ぼく〉をそう呼んだ。
〈ぼく〉を見つけた時、彼女は〈ぼく〉をそう呼んだ。
〈ねずみ〉くん。〈ねずみ〉くん。
〈ねずみ〉くん。〈ねずみ〉くん。〈ねずみ〉くん。
遠い昔の、思い出だ。こんなに鮮明に覚えているのが嘘みたいなムカシノハナシ。それはとてもバカげた思い出で、 「くだらないな。ほんと」〈ぼく〉はつぶやいた。そのつぶやきは、あの頃の、くだらない思い出に対する〈ぼく〉の公明正大な感想だった。 「なに、ぶつぶつ言ってるんだよ。さっさといくぞ」ねこは空気を読んでくれない。雰囲気のわからないねこは、〈ぼく〉の突発的な感傷などお構いなしで、〈ぼく〉のことをせかす。もとはといえば、〈ぼく〉が言いだしたことだった。仕事熱心なのは、〈ぼく〉の方だ。
だから、
無駄な感傷など切り捨てて、急いでねこのあとを追った。
ジーワ。ジーワ。ジーワ。ジーワ。
それは、向日葵もうつむいてしまう、あついあつい夏の日だった。
少女Aは思った。これが終わったら何をしようか。
少女Bは思った。今日のお夕飯なにかなぁ?
少女Cは思った。明日も世界が平和でありますように!
信号が青に変わる。隣に立っていたOL風の女性は向こう岸を目指して横断歩道を渡って行った。
だけど、彼女は気付かなかった。
彼女=少女Dは空を見上げていた。空の青さに夢中なあまり、地上にある青には気付かなかった。
少女Dは内心(毎日毎日、あつすぎるよぉ。たまにはお日様も休めばいいのに) 「D子ちゃん。しんごー、あおに変わったよ?」E子が注意する。 「あ、またD子がぼんやりしてる。そんなんだから、いつもドジばかりしてるんだよ」F子がからんでくる。 「わ、わたしドジじゃないもん。ちょ、ちょびっと、ぶきようなだけだもん」頬を赤らめ反論すると、
みんなは、小学生たちは、 「「「「「あははは」」」」」と声をあげて笑った。
〈ねずみ〉とねこが現れたのは、ちょうどそんな時だった。
〈ねずみ〉は仕事で出かける時はいつもエレベーターで降りるようにしていた。というのも、彼は臆病だったからだ。ちいさな箱型の空間にいると、いつだって心が落ち着いた。さびしい時は寂しさを。かなしい時は悲しさを。小さな小部屋は、打ち消してくれる。彼は後ろ手に手をまわした。尻ポケットに収納されたスタンガンに指を伸ばす。
ねこはぼんやりと掌を見つめていた。別に手相を見ているわけではない。特に意味があってやっているわけではない。ただの癖だ。やはり、〈ねずみ〉同様、仕事前は緊張するのかもしれない。掌にトラトラトラと三度書いて、ペロリと、舐めた。 「あれ、トラじゃなくて、ヒトの字を書くんだっけ?」
トラトラトラは、旧日本軍が真珠湾奇襲で用いた暗号だ。『われ奇襲に成功せり』 「そんなことより、着いたぞ。一階に」そう言うと、〈ねずみ〉は、スタンガンの安全装置をはずした。
――D子ちゃん。信号、あおにかわ……
――あ、またD子がぼんやりしてる……
エレベーターの扉が開き、〈ねずみ〉は一歩前へ踏み出す。
――わ、わたしドジじゃないもん……
オフィスビル正面の自動ドアが音を立てて、開いた。彼女たちは声をたてて笑っていた。 「あははははは!」笑い声は狂人のそれだ。〈ねずみ〉はけたたましい笑い声を上げながら、目の前に立っていた―― 「お兄さん、だれ?」と反射的に問いかけた
――A子の側頭部に回し蹴りをくらわせていた。少女は吹き飛ぶ。アスファルトの上を二度三度とバウンドし、車道と歩道の隣接部に建てられたガードレールにぶつかり、ようやく静止した。
最初、彼女たちは不思議そうな顔をしていた。だけど、次第に、現実が飲み込めてくる。 「お兄さんたち、だれ」少女のうち誰かが言った。声が微かに震えていた。 「さっさと済まそう。騒ぎになる前に」〈ねずみ〉は彼女の言葉を無視してねこにいう。 「オーケイ」ねこはバチンと音を立てて、ゴム製の手袋を左手にだけはめた。「オーケイ。オーケイ。オーケイ。オーケイ!いやなことはさっさと済ませよう。汚れ仕事なんて、片手間で十分だ。両手ともども汚す必要なんてないんだ」
怯えた少女たちは、持っていた白地の横断幕に身を隠した。そんなことしても、意味なんて無いのに。布地越しにも、〈ねずみ〉のスタンガンは貫通するし、布切れなど、物理的攻撃の前では無意味だ。
横断幕には、『荒山先生、ノーベル賞おめでとう!』と毛筆で書かれていた。
荒山みこ。二十四歳の俊英、ノーベル賞受賞。
――そう言えば、そんな奴もいたな、と〈ねずみ〉は思った。
(くそったれめ!)〈水根〉は天井付近にとりつけられた、それを睨みつけながら、心の中で、悪態をついた。
クーラーが壊れていた。二年くらい前から壊れていたそうだ。
二年間壊れっぱなしのまま、放置して、埃のかぶったまま放置して、なかったことにされた空調機。
その事実を知った時、〈ぼく〉は「はぁあ」と溜息をついた。こんなことなら、わざわざ彼女の家まで来る代わりに、市立図書館にでも行っていればよかった。 『エアコンが故障中って、仕方がないじゃない。私んち、貧乏なんだから。修理するお金ないんだもの』と彼女は残念な事情を教えてくれた。
ぶうう~ん。と扇風機が、ハエの羽音のような音を立てて回っている。
〈ぼく〉は汗をだらだら流しているし、彼女はブラウスが汗でぴったりと肌に張り付いている。 「返事はまだ?」彼女の声は少し怒っていた。 「返事って?」〈ぼく〉は空っとぼける。 「だから、アレだよ」 「アレってなにさ」彼女はジト目で〈ぼく〉をにらんでいた。 「さっき、いったお願いのコト――」
彼女のどちらかといえば、高圧的な態度は、ヒトにものを頼む態度じゃないだろうと思ったけれど、アイスをおごってもらうくせに、お願いごと?ナニそれ?みたいな〈ぼく〉の態度もアレなので、何も言わないでおいた。 「お願いごとか――」〈ぼく〉は口の中でつぶやく。正直、〈ぼく〉はうんざりしていた。彼女のくどさにはうんざりしていた。なんど、断れば、諦めがつくのだろうか。もしかしたら、彼女はアタマの中身がヤバい人なのかもしれない。
そう、彼女は言ったんだ。 『お願い事があるんだ――ねぇ、わたしと結婚してよ。わたしのパパになってよ』本日二度目のプロポーズだった。通算五度目のプロポーズだった。
そして、続けざまに彼女は言った。 『ねぇ、思い出してよ。わたしが幼稚園児で、君も幼稚園児だった時のこと。君はわたしに言ってくれたじゃない。わたしのことが大好きだって』覚えているはずがなかった。もう何年も昔のことだ。〈ぼく〉は記憶力のいい方ではない。彼女の幼年期など、〈ぼく〉は知らない。 「なんなんだよ。結婚って。狂ってる」〈ぼく〉は思わず言ってしまった。 「うん、そうかもしれない」残念そうに彼女は言った。 「そもそも、あなたは高校生で、〈ぼく〉は中学生なわけだし」 「学校行ってないくせに?」なんで、彼女は〈ぼく〉のプライヴェートを知っているんだ?〈ぼく〉は疑問に思った。けど、 「そういう話じゃなくて、〈ぼく〉は十四歳なわけだろ?〈ぼく〉は子供なんだ。子供は結婚なんてできない」 「じゃ、オトナになればいい」 「むちゃを言うな」 「よわ虫」 「…………」〈ぼく〉はそっぽを向く。 「いくじなし!」彼女の語調が荒くなる。 「だいたい、〈ぼく〉はあなたのことが好きなわけじゃない。好きでもない相手とどうして、結婚しなくちゃならないんだ」〈ぼく〉が言いきると彼女は『そんなの嘘だ』って顔をした。まるで、『君がわたしのこと好きじゃないはずないのに……』って顔をしていた。愕然とした顔。今にも泣き出しそうな顔。まるで、〈ぼく〉が彼女をひどく裏切って、彼女を悲しませてしまったかのような顔。 「いじわる。いじわるいじわるいじわる!」足元に落ちていたクッションを〈ぼく〉に向かって投げつける。クッションは〈ぼく〉の腕をかすり、〈ぼく〉の隣で稼働していた扇風機にぶつかった。クッションをぶつけられた扇風機はガタンと音をたてて横に倒れた。 「…………」 「…………ふぅ」〈ぼく〉が黙っていると、彼女は溜息一つ吐いた。「あははは…」と笑う。 「…………」 「ごめん、取り乱しちゃって。ごめん。…………」 「…………」 「あ~あ」と溜息をもらす。「ねぇ、水根くん?」 「……なに?」 「ねぇ、〈ねずみ〉くん?〈ねずみ〉くん!」
聞こえなかったふりをした。 「一緒に、この街を出ようよ。どこか遠くの街へ、行こうよ」 「……ムリだよ、そんなの。この街から逃げ出すなんて〈ぼく〉にはできない」
しばらく沈黙が続いた。沈黙が続いたあと、 「あ、そういえば、アイスまだだったよね。今用意するから」
彼女は台所へ駆けて行った。 「ムリだよ、そんなの。この街をでたら、〈ぼくら〉は死んでしまうんだ」
ほんとうの話。うそじゃない。〈ぼく〉の右目にかけて誓う。
〈ぼく〉は小さな声で呟いた。
けれど、
月見里アイルは冷凍庫の中身をごそごそ漁っていて、〈ぼく〉の話など、聞いてはいない様子だった。
プロローグ?、了
彼女たちの逃亡が、すべての始まりだった。
〈水根〉のポケットには、くしゃくしゃに丸められた紙幣が数枚、突っ込んであった。少なくとも、平凡な中学生が普段から持ち歩いているような額ではない。かといって、法外な額でもない。
一人一万円で、かける六の報酬。というか収入。たった一枚の紙幣で誘拐されてしまった女の子たち。安い命だなと〈水根〉は思う。『ほれ、お前の分だ』といって、ねこが〈水根〉に渡した、六枚の紙幣。 『全額くれるのか?』という〈水根〉に対し、 『ああ、どうせ俺には使い道がないからな』瞼を閉じ、寝転がった姿勢でねこは答えた。
彼らが暮らすオフィスビルの家賃だとか、食費だとか、肝心のものは、ねこたちを管理している西宮という男が面倒を見てくれる。仕事を成功させ、もらえる金はボーナスみたいなものだ。それがなくても生きていける。だから、いらない。 『じゃあ、行ってくる』金を手に〈みずね〉は言った。 『どこへ?』 『野暮用』〈水根〉は肩をすくめる。『お土産に、何か買ってくるよ』
行き着いた場所は、公園だった。時刻は夕方。だから〈水根〉以外、ここには誰もいない。はずだった。 「ねぇ。そこの君」声がした。反応が遅れた。慌てて振り返ると、〈水根〉の見知った顔がそこにあった。彼女は呟く。「どうしたのさ、水根くん」 「また、あなたか」〈水根〉は月見里アイルを不満げに見つめる。「ぼくにつきまとうなよ」 「つきまとうだなんて、心外だなぁ」アイルは頬をふくらます。「うちのアパート裏の公園に来といて、よくいうよ」 (ま、それもそうだ)独り言のように彼は呟く。 「本当は、あなたに用があって、ここまで来たんだ」 「ふぅん?」彼女の声は、弾んでいる。次に、〈水根〉が口を開いた瞬間、彼女にプロポーズでもすると思っているのだろうか。「用って何?早く聞きたいな」 「忠告だよ」彼の声は冷たかった。 「ちゅう、こく?」 「さっきも言っただろ。ぼくにもうつきまとうな。ぼくを見かけても声をかけるな」
彼女はキョトンとした顔をしている。「だって。この前だって、わたしの家に遊びに来てくれたじゃない。おかしいよ、そんなの」 「状況が変わったんだよ。そういうことってよくあるだろ」 「意味がわからない。急すぎるよ」感情を制御できないタイプなのか、彼女は涙ぐんでいる。 「急すぎる?じゃあ、今じゃなく、明日このことを言ったら、あなたは納得してくれるの?」 「納得できないよ。何時だって納得できない」 「あなたの家、貧乏なんだよね?」〈水根〉は優しく言う。 「そ、それがどうしたの?」 「単身赴任っていってるけど、君のお父さんとは、もう何年も連絡が取れていないんだろ?母子家庭はつらいよな」彼の声には、どこかせせら笑う節がある。 「同情してるの?」 「いいや、同情するなら金をくれってやつだ。お金ならやる。だけど、同情はしない」
手切れ金ってやつだ。と〈水根〉は言った。五万九千四百円。有金すべてを彼女に渡す。 「バカにしないでよ!」彼女は、〈水根〉のすねを思いっきり蹴り上げた。彼は、まるで痛覚が存在しないみたいに、平然と、立っている。 「……ウソだよね。今言ったこと全部冗談だよね」 「あいにく、ぼくは、ウソをつくのが苦手だし、ジョークを言うのは好きじゃない」
それから暫く沈黙が続いて。
もう、暗いし、家まで送って行こうか?と彼が言ったら、『バカにしないで』と言われて、また蹴られた。平然と装っているからといって、痛いものは痛いのに。
五万九千六百円は結局受け取ってもらえなかったから、アパートのポストに投げ込んでおいた。
暗闇の中に、彼女はいて、
彼女の名前は、D子。
彼女の背丈は、百二十センチ弱。こう見えて、成人女性だ。二十四歳だ。市立ハゴロモ東小学校新任教師だ。
少し前、彼女は意識が飛んでいた。気がつけば知らない場所にいた。見渡す限りまっ暗闇で、嗅ぎ慣れない匂いだけが充満している、奇妙な部屋。体中痛かった。側頭部からたらたらと血が流れていた。手足が縛られているのに気づいた時、 (ああ、あたしは、誘拐されてここにいるんだ)彼女は現状を認識した。
公務執行妨害っていうのだろうか。こういう誘拐事件って。なにしろ、あたしは公職にあるのだから。ハゴロモ大学法学部を卒業したくせに、彼女は曖昧に考える。ま、なににしたところで、暴行、誘拐、監禁の罪は重いのだろう。あたしを痛めつけた連中は、おそらく死ぬ。必ず死ぬ。極刑で死ぬ。事件が明るみに出れば、公平な裁判の元、嫌な奴らは全員、馘られて、死ぬはずだ。
そう考えると、少しだけ、心がなごむ。
どんなに、不条理な目にあったとしても、最後には正義が勝つのだとしたら、案外なんだって許せてしまうものだな、とD子は思う。うん、最後には正義が勝つ。
だけど、と彼女は不安になる。最終的に、悪いやつらが死ぬとしても、それまでにあたしが生きていられる保証なんて、どこにもない。
最後に勝つのは正義だとしても、あたしは正義でもなければ、悪でもない。平凡な人間だ。正義のヒーローと悪の組織が戦う横で、ばったばったとまきぞえをくらって倒れていくモブ、それがあたしだ。
だけど、もしも死ななくて、結局生き延びたとしても、いいことなんて無いような気がする。周りに人の気配がしないってことは、A子やB子C子やE子やF子は、何処か他の場所で、監禁されているってことだ。
もしも、あたしだけ生き延びたとしたら、PTAは大騒ぎ、教員免許は、夢まぼろしのように、剥奪される。投げやりな思考で、彼女は考える。
折角、苦労したのに。大した苦労じゃないけど。奨学金の返済だって、まだ残っているのに。あたしの人生は、パァだ。彼女はぼんやりと考える。それはきっと、ねこに頭を蹴られた拍子に、大事なねじが抜け落ちてしまったからだ。 「くそっ」彼女は悪態をついた。
直後、
カランッと小石でも転がしたような音がした。
カランッという音に続いて、コツコツコツ……と足音が続いた。
案外天井が高いのか、酷く明瞭に、大きく、その音は響く。 「ねぇ、」彼女が言った。「誰かいるの?」
びくり、とD子の体が揺れた。 「ふ~ん、そこに誰かいるんだ?」月見里アイルは呟いた。 「ねぇ、立てる?」とアイルは尋ねた。 「…………」だけど返事はない。微かな息遣いが聞こえるだけだ。 「ねぇ、君はどうしてここにいるの?」相変わらず、返事はない。「こわがっているのだとしたら、お門違いだよ。わたしは、君の敵じゃない。ま、正義の味方ってわけでもないのだけどさ」やれやれとアイルは肩をすくめた。「ねぇ、目をつぶって、手を握って、そしたら君をこの薄汚い小部屋から、連れ出してあげるからさ」
……彼女に花束を。
〈水根〉は走っていた。なんというか不格好な走りだ。
夜の繁華街の、人混みの中を走り抜ける彼を、通行人たちは不審げな顔で見つめている。 (なんなんだよ、もう)と彼は思う。
月見里アイルとわかれて暫くして、ねこから連絡が入ったのだ。たった一言、ねこは『いつもの場所』と言った。ねこの声は、上ずっていて、緊急事態なのは明らかだった。 『今すぐ来い。すぐに来い。いつもの場所で待っている』
いつもの場所と言われても困る。こんなぼやかした言い方をするのは、通信が傍受されることを恐れてだろうか。
いつもの場所と言われて、すぐに思いつくのは、彼らが暮らしているオフィスビルだ。だいたい、ねこは仕事以外、ずっとあそこにいる。だけど、可能性は一つじゃない。
たとえば、〈水根〉が数時間ほどまえ、月見里アイルと密会していた場所。
あそこだって、彼にとって、特別な場所だ。
もちろん、特別な場所が、いつもの場所とは限らないけれど。
〈水根〉もねこも公園には思い出がある。
だから、〈水根〉は迷ってしまった。 (いつもの場所ってどこだよ?)
迷ってしまう時点で、すでに失敗だ。
距離が近い公園に先に向かったのが間違いだった。自分の予想が外れていたことを知ったとき、すでに日は沈んでいた。間の悪いことに、ちょうどその時、雨が降り出した。
真夏だというのに。熱帯夜だというのに。 (天気予報は嘘つきだ)
びしょびしょになる。濡れねずみだ。
ようやくたどり着いた時、ねこはオフィスビルの正面で彼のことを待っていた。 「遅ぇぜ。すぐに来いって言っただろ?」 「ここにこい、とは言わなかっただろ?おかげで、例の公園まで、無駄足くっちまっただろ」
あそこまで、行ったのか?と驚きの表情をねこは浮かべる。 「わるかったな。どうしても、西宮に知られたくなかったんだよ。緊急事態なんだ。それも俺たちのクビがかかったな」早い話が、生きる、死ぬの問題だ。
いっこうに、雨は降りやむ気配がなくて、〈水根〉は手荷物が濡れないように、両手の上に上着をかぶせている。 「ほら」と、ねこは折りたたみ傘を〈水根〉に渡した。自身は、レインコートを羽織って、雨滴から身を守っている。真夏の夜にレインコート、蒸し暑そうだが、ねこは気にしない 「逃げたんだよ、あいつらが」とねこの言葉が本題に触れた。「俺たちが今日捕まえたガキのうち一人が逃げ出したらしい。そういう連絡が、藪医者から入ったんだ」
ねこはニヒルにわらった。 「ま、驚くことじゃないだろ?ヤツのずさんな管理を考えれば、小学生のガキでも、逃げ出すチャンスくらいある。驚くのは、その連絡のあとにヤツがいったことさ。 『逃亡者を手引きした者がいるらしい』 『可能性が一番高いのは、医院の内部構造に詳しく、謀反の動機があるお前たち二人だ』 『速やかにガキをつれ戻せば、お前たちの謀反には目をつむっといてやろう』
……だとさ。要は、自分の不手際を棚に上げて、俺たちにしりぬぐいをしろってことだ」ねこはアスファルトを蹴りつける。 「つれ戻せなかったら、どうなるんだ?」 「藪医者が、西宮に、ねことねずみは翻意ありと、告げ口するだけだ」 「殺されるな、きっと」 「ああ、西宮は、俺たちを殺しに来る」 「嫌だな、それ」 「仕方ないだろ?西宮は藪医者を信用してるんだ」 「藪医者のくせに」 「仕方ないだろ?藪医者は西宮の息子なんだから。自分の息子を信用しない親なんていなんだよ」 「…………」ため息をついた。 「――というわけだ。さっさと、あのガキを捕まえようぜ?」ねこは肩をすくめてみせる。自分の生死には無頓着な、どこか飄々とした態度だ。「ねこは狩りが好きなんだよ。逃げる獲物を追っている時、俺は安らかな気持ちになれる。今夜は気持ちよく眠れるだろうなぁ」 「そのまま、起きられないかもしれないんだぞ」 「その時は、その時だろ。俺たちは、そう簡単には死ねないんだ」 「お前は、だろ。ぼくは普通の人間だ。西宮が殺しに来たら、ぼくは死ぬほかない」台詞の割には〈水根〉の声は落ち着いている。一言で言えば、〝諦観〟といったところ。一と六しか描かれていない六面ダイスを振るみたいな気持ちだ。どうにでもなれ、どっちにころんでも、おれのせきにんじゃねぇ。 「その時は、おれが守ってやるよ」
D子には、わからなかった。
ここがどこなのか?
あたしを逃がしてくれるっていう、こいつが一体何者なのか?
いっこうにわからなかった。だけど、それは仕方のないことだ。 「君は、偶然この事件に巻き込まれただけみたいね」と彼女が言った。彼女の名前は月見里アイルというけれど、D子は、まだそのことを知らない。
巻き込まれただけの他者が、事件の全貌をることはかなわない。 「あんたは、誰なの」D子の声には、エコーがかかった。なぜなら、
D子たちは、地下駐車場に似た、だだっ広い地下倉庫にいたから。D子たちが今いるのは、D子が目覚めたあの場所ではないから。
月見里アイルの手が、そっとD子の左手を包んでいるから。
月見里アイルの右手に連れられて、この場所へ、D子はやってきた。
それ以来、彼女と彼女は手を握っている。
地下倉庫は、さっきまでいた場所が完全な暗闇だったのとは違って、微かに光が感じられた。もう、手をつないでもらわなくてもひとりで歩ける、と思ったけれど、アイルは手を放してくれなかった。 「ここは、いわゆる廃棄所なの。ゴミ捨て場に警備員とか立てたりしないでしょ?だから、ここは、とりあえず安全な場所なの」彼女はポケットからライターを取り出した。
ボッとライターの炎が点火されて、辺りが少しだけ明るくなる。ほんの一瞬だけ、地下駐車場は炎で照らされる。
目がくらみそうになる赤い炎は。だけど、すぐに消えた。
じわ――という音ともに、外装の紙が燃え、タバコの葉が燃える、甘ったるいにおいがした。アイルは欠伸でも洩らすみたいに、煙を吐いた。 「あなた、高校生でしょ?」 「そういう君は、小学生だね」 「未成年は、喫煙を慎みなさいよ」 「最近の小学生って、むかつくくらい偉そうなんだ?」
小学生じゃないし。反論しても、信じなさそうだから、言わないけど。
女子高校生が、(一見)小学生と手をつないで、喫煙している。へんな光景だ。 「ところで、」とアイルは話題をそらす。「君の他に、誘拐された娘たちって他にいるの?」 「A子にB子にC子E子F子の五人よ」 「変な名前ね。さしずめ君はD子ってとこ?」 「せ、せいかい。なんでわかったのよ」我ながら、いい加減な名前だと思っていたけれど、アイルに自分の名前をズバリ的中され、D子はあわてる。 「D子ね。憶えやすい名前だけど、語感がいまひとつって感じ」アイルは意味もなく言葉を区切る。煙草の煙を吐き捨てるためだ。「一昔前のサッカー監督を連想させるし……」 「悪かったわね」D子はふてくされる。 「でこちゃんってのはどう?ディーじゃなくて、デー。それを短縮してでこ。ぺこちゃんみたいでかわいいじゃん?」アイルはにやにやとわらった。アイルがなにを面白がっているのか、わからないD子はふてくされた顔をする。
綽名にはいい思い出がないのだ。
とくに、でこちゃんっていう呼ばれ方は。 「あいつとおんなじ呼び方で呼ばないでよ」 「あいつ?」 「荒山みこが呼んだように、あたしのことを呼ばないでって言っているのよ」正直言って、彼女は荒山みこがあまり好きじゃない。たまたま、高校が同じで、大学も一緒だっただけだ。共通点など、同じハゴロモ市に暮らす同級生という以外、なにもない。 「荒山教授が?でも、君せいぜい9歳だよね。教授と面識があるなんて思えないけど」 「うるさいなあ。あたしはね、こうみえて二十四歳なの。アイツとは、ためなの」彼女は、転がっていた空缶を蹴飛ばした。「ふん。同い年だって言うのに、あいつは大学教授で、あたしは小学校教師」蹴飛ばした空缶をさらに踏みつける。のっぽだった空缶がぺしゃんこになるのはいい気味だ。世界中のデカ物がこんな風になればいいのに。 「ふーん。チビでも教師になれるんだ?」 「なにがいいたいの?」 「板書とか大変そーだな―って思って。ま、そんなことは置いといてさ、」
その時だった。唐突に、
月見里アイルが、何か言おうとしたその時、
辺り一帯に響き渡る警報器の音。『ビ――――』という、巨大なビープ音。 「あっ」とアイルは息をのむ。 「もしかして、見つかったの?」監視カメラでもあったのだろうか、とあたりをきょろきょろとみまわす。 「あ~あ、しくじっちゃった」アイルは照れたように笑い。吸っていたタバコを靴底でもみ消した。 『現在、地下廃棄所にて、煙が発生しました。火災の可能性があります。現在、地下……』エンドレスに流れる館内放送を彼女たちは黙って聞いていたのは、――一時間前のこと。
そしてこれは、
――一時間後のこと。
〈ぼく〉は映像を見つめていた。
場所は、オフィスビルの〝いつもの場所〟。〈ぼくら〉が暮らす、〝いつもの場所〟、そこには、いつもはない映像機器が搬入されていた。
宇宙船の操縦席にでも設置されていそうな、近未来的デザインの映像機器だ。そのSFっぽい機械が、今まさに録画映像を垂れ流している。
理由は簡単。と言うか単純。
つい先ほど、オフィスビルの正面玄関で、『なにはともあれ、お前に見てほしい映像があるんだ』とねこに言われたから。 『こんな時に、映画鑑賞なんて、そんな能天気なことしていていいのか?』と言ってみたけど、ねこは笑った。
小学生を捕まえられなかったら、〈ぼくら〉が捕まる。コトをしくじったら、〈ぼくら〉は冗談でなく、死ぬというのに。
責任逃れの藪医者と逃げだした小学生のせいで、〈ぼくら〉は西宮に殺される未来。
それはいやだ。
とてもいやだ。 『俺だっていやだよ。そんな運命お断りだ。――だとしても、だ』 『なんだよ』 『お前は、あの映像を見なくちゃならない。――なぜなら』なぜなら?なんだよ、なんだっていうんだ?〈ぼく〉はいい加減いらいらしており、ねこにむかって突っかかりそうになる。『――ま、理由なんてどうだっていいだろ。どういうワケがあるにしろ、お前はあの映像を見なくちゃならない。それだけわかれば充分だろ?』すべてを説明するのが面倒になったのか、ねこは投げ遣りな言葉でいった。
逃げたな、と思った。次の瞬間には、ねこの姿は遠ざかっていた。 『映像を見たら、俺のあとを追ってこい。俺は先に奴らを追う。けど、お前が奴らを追うのは、映像を見た後だ』なにがしたいのか、なにが言いたいのか、わけがわからない。
日はとっくに暮れていて、雨が降っているというのに。
〈ぼく〉は溜息をついた。あまりのわけのわからなさのためだ。 『はぁ――』
溜息をつき終えるより先に、ねこの姿は〈ぼく〉の視界から消えているし。
〈ぼく〉はオフィスビルに向かう。大した距離じゃない、というかすぐ目の前にあるから、ねこにもらった折りたたみ傘は使わない。〈ぼく〉は雨が嫌いじゃないし、もう十分にびしょ濡れだったから、これ以上濡れても気にならない。
エレベーターは、一階に止まっていた。ねこが降りてきたばかりなのだから、当たり前だ。
上がるのボタンを押す。自動ドアが開く。自動ドアの開閉に一瞬遅れて、エレベーター内の明りがつく。橙色の光だ。蛍光灯がぶら下がってる上の方に、ホクロのような黒い点があって、それが〈ぼく〉のことを睨んでいた。
エレベーターという小さな箱の中で、女性や子供といった弱者が犯罪行為を被らないよう監視する装置。
――いわゆる、監視カメラというヤツ。
そして、今、
〈ぼく〉が見ている映像も、とある監視カメラが撮影したフィルムだ。監視カメラの質が悪く、極度の暗闇で撮影されたものらしく、画像が粗い。ドット絵のような映像が垂れ流されている。映像を再生しているのが、SFっぽいデザインなのに、流れている映像が、これじゃ、釣り合いが取れない気がする。それとも案外、超高性能な再生機器だからこそ、ここまで鮮明に再生できているのだろうか。
すくなくとも、彼女が、月見里アイルが立っている地下駐車場のような灰色の背景、そして彼女の顔は認識できる。肩にかかるくらいのセミロングヘア。眼鏡をかけているわけでもないのに、なんとなく真面目そうな雰囲気。だけど、
映像の中の彼女は、タバコを吸っている。
てっきり、タバコとかは、吸わない種類の人間だと思っていた。
おいしそうに煙を呑み込む。となりに立つ小学生の手をしっかりと握ったまま彼女は煙を深々と吸い込む。一見すると、女児をカツアゲする不良少女の図、あるいは妹を悪に誘うヤンキー少女(姉)の図と言ったところだ。
となりに立つ小学生が不満げになにかをいった。おそらく、彼女の喫煙を非難したのだと思う。この映像では、音声は再生されないらしい。
〈ぼく〉はこう見えて、暗殺者(またの名を汚れ仕事請負業者)だから、読唇術程度なら扱える。だけど、あまりに映像が粗すぎるのと、口許がしっかり映っていないため、彼女たちの会話の中身は読み取れない。
何を話しているんだろうと思った。
ま、彼女がどんな言葉を話していようと、小学生相手の会話だ。中学生相手の会話と同様、他愛もないことに決まっている。
ふと、目があった気がした。
監視カメラ越しに、映像越しに、彼女と目があった気がした。
彼女は、じっと監視カメラを凝視していた。
彼女は、おそらく監視カメラの存在に気が付いていたはずだ。
だけど、監視カメラの前から立ち去るでもなく、監視カメラを破壊するでもなく、彼女はただそこにいる。
変だな、と思った。いまさらながら、どうして彼女はこんなにも無防備にカメラの前に身をさらしているのだ?と思った。
映像の中で、彼女が煙を吐く。ふぅーと思い切り。違和感を感じる。だけど、違和感の正体がつかめない。まるで、欠伸でも洩らすみたいに、彼女は煙を吐き出す。 「ん?」――欠伸でも洩らすみたいに?
普通、煙草の煙をこんなゆっくり吐き捨てない。しかも、口許が、カメラに映るように配慮しない。
彼女は煙を吐き出すしぐさはとても緩慢で、なにかを示そうとしているみたいだった。まるで、彼女の唇の動きから、画質の荒いカメラ越しでも、なんとか読み取れるように。
じっと観察していると、煙を吐き出す、唇の動きから、『ば』という音が聞こえてきた。
月見里アイルは、映像の中で、〈ぼく〉に向かって微笑みかける。
「天気予報のうそつき」彼女は小声でつぶやいた。その声は月見里アイルのもので、肌寒い夜の街を彼女の声だけが響いている。
雨が降っている。雨にぬれたブラウスが彼女の肌にぴたりと張り付いている。 「ねぇ」と彼女がいった。この声はD子のものだ。「ねぇ、これからどこへ行くの?」やけにフリルの多い、ゴスっぽい衣服が、桜の花のように、雨に打たれしょんぼりとしている。「捕まってるあたしの生徒はたすけてくれないの?」 「ごめん、予定ではそのつもりだったんだけどね」悪びれもせず、彼女はいう。「火災警報が誤作動して、あんなに騒ぎが大きくなっちゃったあとじゃ、どうしようもないのさ。あの場を一目散に逃げ出すくらいしか、手立てはなかった」棒読みの台詞だった。 「あんたの所為じゃない。あんたの不注意がいけないんじゃない」
D子はアイルの背中を追って歩く。身長差があり過ぎるから、ややもすると、引き離されて、置いてきぼりにされてしまうのだ。 「このままどこへ行く気?交番にでも行くの?あたしの生徒は見捨ててしまうの?」
D子たちは、橙色に光るファミリーレストランの前を通り過ぎる。
車道を勢いよく車が通過して、水溜りを跳ね飛ばした。泥水が、D子の靴下に付着する。
――掃除中に遊ぶからだ。
ふざけて、廊下端から端まで雑巾がけで競争なんかしているからだ。あの日、競争をしていた男子生徒は、案の定、バケツに蹴躓いて転んでしまった。
彼に蹴飛ばされたバケツからは、牛乳にかびが生えたような汚い色の水が飛び散って。
その場にD子は、たまたま居合わせた。
それは彼女の靴下を汚した。
そして彼女の靴下は汚れた。
掃除中に遊ぶからだ。ふまじめにしているからだ。
彼女は叱責しようかと思ったが、やめにした。なんとなく。
――泥水を撥ね飛ばしていった車をぼんやりと、D子は見送る。思い出してしまったのは、去年の秋ごろ、彼女が勤務している小学校で起きた出来事のはずだ。もしかしたら、一昨年だったかもしれないけど。
余りに、唐突過ぎる思い出。
どうでもいい話だ。
D子はブンブンと首を振る。
そんなことよりも。
こんな昔話よりも大切なことが、 「ねぇ、答えなさいよ。これからどうしようっていうの?拉致られたままの生徒たちはどうなるの?」 「そんなことどうだっていいんだ…」アイルの声は静かだった。「そんなこと、どうだっていいの、実を言うと」 「彼女たちのこと、助けてくれないの?」 「うん、助けてあげない。だって」自己陶酔ぎみに月見里アイルはいう。「だって、君を助けたことで、わたしの目的は達成できたのだから。別に、必要ないんだ。見ず知らずの人間を、これ以上助けなくちゃならない必要なんて」
彼女は立ち止った。月見里アイルは歩くのをやめにした。目的の場所にたどりついたからだ。いつもの場所だ。
D子も立ち止まった。
雨は相変わらず、降り続いており、D子の前髪はべったりとおでこに張り付いていた。 「」D子が何か言おうとすると、D子の言葉を遮るように、アイルが言葉をつづけた。 「だってね。わたしがあそこへ侵入して、君のことたすけちゃったのは」呂律も怪しく、彼女は呟く。「ある男の子に、メッセージを伝えるためだったんだから」 「……。じゃ、あたしが助けてもらえたのは、たまたま運が良かったってことなの?」 「うん。そういうこと。だって、わたしは、拉致られた子達が逃げ出したぞ、ていう事件を作りたかっただけだから。つまり、拉致られたあなたたちを人質にとって、ある男の子と交渉をしたかっただけだから」アイルは肩をすくめる。
D子の口から溜息が洩れた。
なんとなくだけど、バケツを蹴飛ばしたあの悪ガキを叱らなかった理由が、わかった気がした。 「ねぇ」とD子がいう。 「なに?」不思議そうな顔でアイルは訊く。 「ばかっ」D子はうつむきがちにいった。いきなりの罵声だ。「ばかっ。ばかっ。ばか…」
D子は、受け持ちの生徒のことが、特別好きわけじゃなかった。ただ、嫌いじゃない。普通に好きだ。 「あの子たちのことを、助けてよ!お願いだから!正義の味方になってよ!あの子たちを救いだしてよ!」彼女の口調は恫喝に近いけれど、小学生に恫喝されても、痛くも痒くもない。
だから、アイルは、冷めた目でD子のことを眺めていられる。
まるで、デパートのおもちゃ売り場で駄々をこねる子供みたいだ。 「だまってないで、何か言いなさいよ。このまま放っておいたら、あの子達がどんな目に遭うかわからないの?」
D子の不安をアイルは笑った。 「大丈夫だよ」とアイルの言葉。「捕まってしまった彼女たちなら、大丈夫。べつに、殺されるわけではないから。大丈夫。安心して。彼女たちは運が良かったら、死なないから」
彼女たちは、立ち止まって休んでいたけれど、雨は休むことなく、降り続けている。あ~あ、と月見里アイルは思う。ほんと、うそつきだよ。天気予報のばか。
ふと、アイルはある事に気が付いた。
誰かがいたのだ。
誰かが、じっと身を潜めているのだ。
その誰かは、ぽそりと、自分自身にしか聞きとれない小さな声で、 「ばぁか。なにくだらないこといいあってるんだよ。あいつらは」
と、呆れと侮蔑の気持ちを込めてつぶやいた。
声の持ち主は、ねこだ。ねこは気持ちよさそうに、伸びをした。レインコートがごわごわと音を立てる。そろそろ仕事の時間だな、とねこは思った。 「おれは、これから、久しぶりに人を殺すかもしれない」
ねこは溜息をつく。 (逆に、殺されなかったら、の話だが)
簡単な話だった。
本当に、本当のところ、どうだっていい話だった。 「なんで、今日に限って雨が降っているのだろう?」と〈水根〉はつぶやく。 (なんで、今晩に限って雨なんて降っているんだ?)と〈水根〉は思う。
彼女が残したメッセージを読み解くことなんて。簡単なことだ。
彼女の煙草をはきだす唇をじっと見つめていればいいだけだ。あとは、〈水根〉の目が、勝手に解読してくれる。
彼女が最初に煙を吐き出した時、彼女の唇は「にぃ」と悪ガキが浮かべるような笑みを浮かべていたけれど、同時に、
〈水根〉には『い』という音が聞こえた。 「はぁ――」と〈水根〉は溜息をつく。
やんなっちゃうよ。ほんと気がめいる。
こんな、雨の日に、逃げだした小学生を追いかけるなんて。 『いつもの場所で』 「いつもの場所でまってる、か」それが、月見里アイルのメッセージだった。「こんなことをつたえる為に、あいつはここまでやってきたのか?」 「あなたは、なにがしたいんだ……」〈水根〉はつぶやく。
〈水根〉はオフィスビルを出る。
『いつもの場所』がどこなのかは、だいたい見当がついていたから、迷いのない足取りで目的地を目指す。
場所は、公園だった。
たしか、名前は鏡公園。
集合住宅地に隣合うよう建設されたこともあって、日曜日の午後には子供たちであふれかえる憩いの場所。だったはずだ。
だけど、今は、誰もいない。
夏休みだというのに。 (そりゃそうだ)と少女は思う。(こんな場所に、こんな夜更けに、来ようなんてばか、他にいるわけがない。あたしたちの他に――)
少女の名前は、D子という。(こいつが、藪医者から逃げ出したガキなのか――)とねこは思う。だけど、ねこは知らない。ガキの名前がD子だということ。D子がはるか昔に成人を迎えた、社会人であること。(あ~あ。おれはばかだ。藪医者にいいようにつかわれて、その上戦闘直前だというのに、ひざがガタガタ震えてやがる。どうして、なんであいつがここに居やがるんだよ――)
ねこは、公園に囲む植え込みの裏に身を潜めていた。夜目の利くねこは、植え込み越しにでも、彼女の姿をはっきりと視認できた。
彼女とはあいつのことだ。
あいつとは月見里アイルのことだ。
ねこは、彼女のことを知っている。
ねこは、監視カメラの録画映像を見たときから、一抹の不安を抱えていた。
まさか、とは思っていた。 『ガキを逃がしたのは、奴なのか?いや、他人の空似か?』
ねこは、始め自分の目が信じられなかった。
だが、信じるほかない。
つぶやいた、ねこの隣には、一人の男がいた。その男が言うのだ。 『骨格、人相からみて間違いなく、この女が奴だろうな。八年前我々を裏切った、バカな女だ』吐き捨てるように、男は言った。男の本名をねこは知らない。
ただ、ねこは彼を藪医者と呼んでいる。
藪医者は続ける。 『死にたくないよな。ねこ?』
あたりまえだろ?とねこは思う。 『返事がないということは、死にたいのか』 『んな、わけあるか』強がってみせる。 『そうか、お前のような、人殺しの機械でも、自分の命は惜しいのか』
藪医者には表情というものが欠如している。声からして抑揚が一切感じられない。 『それじゃあ、取引といこうか』 『勝手にしろ』ねこは唐突に泣きたくなった。この男は嫌いだ。おれは、もうこれ以上、この男と話していたくない、と思った。 『逃げだしたガキと裏切り者のバカ女を殺せ』 『報酬はいくらだ?』再び、強がってみせる。泣きださないためにだ。
藪医者は鼻で笑った。ねこは自分の心が見透かされたような気がした。 『ふん。奴らを殺せたなら、お前ら二人を殺さないでやる。それだけで、充分だろ』
黙っているねこに対して、 『返事は?』 『了解だ。先生』 (――ああ、クソ)とねこは思う。(どうして、よりによって、あいつなんだよ。なんで、あいつを俺が殺さなきゃならないんだよ。――逆に殺されたらどうするんだ?) 『ああ、それとだ』記憶の中で藪医者がいう。
立ち去ろうとしていたねこは呼び止められる形で、藪医者を振り返る。 『この仕事は、君一人でやり遂げてくれ。聞くところによると、八年前、ねずみはあの女と親しかったらしいからな。仕事という〈公〉に個人的感情をさしはさまれては困る』 『だけど、あいつ、あの女の戦闘能力はおれより……』言葉は中途半端に区切られる。
藪医者がねこを睨んでいた。それだけで、ねこは二の句が継げなくなる。 『それがどうした?相手は素人。お前はプロの人殺しだろ?』
藪医者はそれだけいうと、さっさといけという風に、手を振った。
ねこが彼の側に居たくないのと同様、彼だってねことなど話したくないのだ。 『……あいつの能力はおれより上だ。もしかしたら、やられるかもしれない。おれは死にたくない。そんなのいやだ』ねこはつぶやく。けれど、それは独り言にすぎない。藪医者の姿は、いつのまにか、掻き消えていた。
――つまり、そういうことだ。ねこはこの大仕事を一人でやり遂げる必要がある。だいたい、そのために、ねずみを置き去りにして、一人ここにいる。 (それにしても)とねこはおもう。(こんなに簡単に、あいつらの所在がわかっていいのかよ)呆れと侮蔑の気持ちを込めて思う。(案外、おれは知能犯なんだよな)
ねこは、録画映像を一目見た瞬間から、月見里アイルのメッセージに気付いていた。
ねこだって、ねずみ同様、読唇術のたしなみくらいある。というより、正直なところを言えば、ねこのほうがねずみより読唇術はうまい。 『いつもの場所でまってる、か。なんなんだろうなこのメッセージは。だれに向けた伝言なのか』そう言えば、とねこは数分前の記憶をたぐりよせる。『藪医者の野郎、ねずみはあの女と親しかったらしい、とか言っていたよな――つまり、だ。このメッセージはねずみに宛てのものだというのも案外妥当な線だ』 (それにしても)とねこは繰り返し思う。(こんな簡単な方法で、あいつらの所在がわかっていいのかよ)
ねこは、電話した。 『おい、ねずみか?耳をかっぽじって、よおく聞けよ!』
ねずみが返事をする隙も与えず、ねこは続ける。 『今すぐ来い。すぐに来い。いつもの場所で待っている』
ねこの言った『いつもの場所』という言葉から連想して、鏡公園に、ねずみは足を運んだらしい。 (だめでもともと、ダメモトの作戦だったが、案外成功するもんなんだな)
ねこはD子たちが公園に現れた時、監視カメラ越しに月見里アイルを確認した時以上に、彼女たちの存在が信じられなかった。 (さて、殺すか)恐怖心から、膝は震えっぱなしだったが、これは武者震いなんだと言い聞かせて、ねこは心を決めた。
〈ぼく〉は走っている。
さっきから、嫌な予感しかしない。理由はわからないけれど、吐き気に似た感触がある。
夜のオフィス街を走り抜ける。
ハゴロモ市は、いかにも地方都市って感じの、――中途半端に開発してみましたよって感じの、片田舎だ。
オフィスビルの群生をぬけると、遠い山々に天然の自然林が顔をのぞかせるくらいだから、夜更けになればしんと静まりかえる。
そんなほぼ無人の街を縫うように走り抜ける。
あぁあ。
と思う。
雨が降っていなかったら、満天の星空だったはずだ。
あいにくの曇天がすべてをぶち壊している気がした。
水溜りに足を取られる。
顔面から雨におぼれ、鼻をしたたかに打ちつけられる。
(ねぇ)とアイルは思う。(そこにいるのは、水根くん?)
公園には誰かがいた。目的地の鏡公園に到着して、しばらくしてわかった。どこに潜んでいるのか、わからないけれど、なにかが園内に潜んでいた。 「ねぇ、水根くん!」思い切って、叫んでみる。 「ねぇ、水根くん?」返事がない。不安になる。
膨らんでいた期待が、一気にしぼんでいく。 「そこにいるのは、君だよね!」 「そこにいるのは、きみ、なんだよね?」
なんとなく、夕方のことを思い出す。夕方に、水根くんとかがみ公園であった。そして、嫌なことを言われた。
彼女は、あの時の彼の言葉を、理解できない。理解しなくていいと思っている。ニセモノなのだ。うそっぱちなのだ。口から出まかせの言葉を、彼は言ったのだ、と彼女は思っている。
だからこそ、彼女はこうして、ここにいる。
待っている。水根のこと。
水根ともういちど、直接会って、話したいことがあるのだ。言いたいことがあるのだ。だから、危険を冒してまで、彼にメッセージを送った。
膨らんでいた期待が、一気にしぼんでいく。
だけど。
膨らんでいた期待が、一気にしぼんでいく。
もしかしたら、彼の彼女を拒絶する言葉は、嘘偽りのない本当の言葉だったかもしれない。
あの偽悪的な言い回しは、真心から、彼女を傷つけたくていった言葉かもしれない。
あるいは、彼女のことが心の底から目ざわりで、彼女のことをなんとかして遠ざけたいと思っていったのかもしれない。 (アパートに来てくれたのに。一緒にアイスを食べてくれたのに) 「ねぇ、ねずみくん!」 「ねぇ、ねずみくん?」 「そこにいるのは、ねずみくんなんでしょ!」 「そこにいるのは、ねずみくんなんでしょ?」
返事がない。それはきっと、水根くんがまだ、わたしが残した暗号を解読できていないからだ。
きっと、そうだ。と彼女は頷く。 (もしかしたら、わたしが感じた気配は、野良猫かなにかなのかもしれない)
ん~ん。と彼女は首を振る。 (わたしが感じた気配は、野良猫かなにかに決まっている)
ほら、その証拠に、
植え込みの陰から今、「にゃあ」とねこが鳴いた。
それからしばらくして、ねことアイルの殺し合いが始まった。
始まってすぐ、勝敗は決した。彼女は死ぬことになった。
ねこは、死体一歩手前の、肉塊に姿を変えた。
ねこが植え込みの陰から姿を現した時、彼女の死は決まった。
彼女はなすすベもなく、倒れた。
ねこはなすすべもなく、倒れた。
こんなものかな、と彼女は思った。
血まみれの、ねこ。あっけなかった。
もしかしたら、D子を人質に取ろうとしたのが間違いだったのかもしれない。
だいたい、はなっから勝敗など決まっていた。
戦う前から、ねこの死は決まっていた。
彼女はなすすべもなく、倒された。
手足がまるで動かない。
ねこの両手両足は真っ赤な花に染まっていた。彼岸花というやつだ。三図の川に咲く花が、ねじりきれた肉の代わりに咲き誇っている。
びりびりにやぶれたレインコートの隙間から、ねこの体を雨が打った。
地面にしみ込む雨水が、溢れだした血をピンク色に薄めていった。 (あっけないなあ)と思うけれど、言葉にする力はねこにはなかった。
だけど、誰かの影が、猫に覆いかぶさった時、 「にゃあ」と一声鳴いた。 「ほら、」と、誰かがねこに呟く。
「ほら、土産に、何か買ってくるって言っただろ」〈ぼく〉はクシュクシュにしおれた花束を、彼女の上に置いた。できるだけ、傷口を隠すように、
まるで、両手両足が花でできた、菊人形のように。
最終話、了
(昔の話)
春だった。
その頃〈ぼく〉は六歳だった。
幼稚園を出て、小学生に上がるそんな頃合いだった。
物心がつき、文字を覚え、学力競争に片足を突っ込むそんな時期だった。
当然ながら、〈ぼく〉はまだ、人殺しではなかった。純真無垢とは言えないけれど、罪のない男の子だ。
そんな男の子が彼女と出会った。
彼女の名前は――
……………………
むむむ、覚えていない……。
髪の長いきれいな女の子。目の細い典型的な東洋美人。
真っ白なワンピースがすごく似合っていた。
〈ぼく〉のせいだ、と思う。彼女をあんな風にしてしまったのは〈ぼく〉なんだ、と思う。〈ぼく〉がナニモカモ悪イ。
母親がいた。名前は水根マサコ。職業は専業主婦、だったが、昨日その仕事を辞めた。運命という名の上司に、問答無用でリストラされたのだ。 「どうしてなの?」と〈水根〉が尋ねると、 「ん~、悲しいお知らせなの」
キョトンとした顔の〈水根〉に母はそう告げた。 「昨日、パパが消えちゃったのさ。タンスの裏にもベットの下にも、どこを探しても見当たらなくてね。つまり、パパは完全に完璧に消失しちゃったってこと」彼女はそこでため息をついた。「マコちゃん(それは水根のこと)は、まだわからないかもしれないけど、人間生きていくにはお金がいるのさ。これまでは、パパが稼いできてくれたけど、もうパパはいないんだ。だから、今度はわたしが、お金を稼ぎに働きに行かなくちゃならないのよ。専業主婦をやめて、新しい仕事を見つけなくちゃならないのさ」 「たいへんだね」と〈水根〉はそっけなく答えた。 「人生サバイバルだからね。大変だとしても、前だけを見て、突き進んでいかなくちゃならないんだ」 「ふ~ん。そーいうものなの?」〈水根〉はその頃、ガキだったから、肝心のことは理解できない。 「よくわかんなくていいの。ほら、今日は日曜日でしょ、外で遊んでなって。失業中のママは、ハロ~ワ~クまで、仕事探しに行くからさ」
〈水根〉は玄関へと向かう。建てつけの悪いアパートは、彼がぱたぱたと駆けぬけるだけで、ぎしぎしと音をたてて揺れた。 「廊下ではしるな!」と、いつもなら怒られるはずなのに(怒られたところで〈水根〉は気にしないけれど)、彼はなにも言われない。そうか、パパは本当に消えたのだ。
パパは消えたから、いつものようにパパは怒らない。消えるということは、優しくなることだろうか、それとも無口になることだろうか。パパは消えたので、優しくなって、無口になって怒鳴らなくなった。今日はパパの姿をまだ見ていない。パパはまだ眠っているみたいだ。 (それにしても、『消える』ってどういういみだろう?) 「いってきます」 「いってらっしゃい。カギはいつもの場所だからねん」
〝いつもの場所〟、か。
〈水根〉はアパート裏の鏡公園へと向かう。そこが彼の遊び場だったし、社交の場だった。ともだちが何人かいる。〝いつもいつも〟、その公園で遊んでいた。
幼児期ってのは奇妙なもので、自分のことには興味が尽きないのに、他人には一切無関心だったりする。〈水根〉は、公園にいるともだちひとりひとりの名前が思い出せない。かすかに、覚えているのはニックネームくらいで、知らない子がいても、無頓着に遊んだ。
四人の子供がいた。
四人の女の子がいた。
ちょっとしたデジャビュを覚える。
四人が寄ってくる。 「ねぇ、マコちゃん、遊びましょ」少女たちのうち一人、少女Aが誘った。 「あ、うん…」この子誰だろう、と〈水根〉は思う。 「こいつ、だぁれぇ」と少女Bが唐突に尋ねる。 「そー、そー、しらない子とあそぶなって、ママがいってたよ」少女Cも追従する。 「この子は、マコちゃんっていうんだよ。わたしのともだちなの。仲良くしましょ」 「Aちゃんがそういうなら、かまわないけどぉ」少女Bはなんだか、不服そうにこたえる。
けれど、 「おにごっこをしようよ」唐突に少女Eが提案したとたん、
みんなで鬼ごっこをすることになった。 「十かぞえるまで、めえあけちゃ、だめなんだからね!」 「うん、わかったよ」と〈水根〉はこたえる。 「いーち」 「にーい」 「さーん」 「よーん」 「ごーお」 「ろーく」 「なーな」 「はーち」 「じゅう」
目を開けると、当たり前だけど、少女たちは姿を消していた。探す。探す。探す。夕方まで、ひたすら彼女たちを探し回ったけれど、誰一人見つからなかった。 「おーい。もう、勝手にかえるからなぁ!」公園のど真ん中で叫んでみる。からかわれたんだと思った。返事はないけど、そのまま帰ることにした。 「おつかれ。マコちゃん」 「仕事みつかったの?」 「ん~、微妙かな。求人ならあるんだけど、都合のいい仕事ってなかなかないんだよねぇ」
テーブルには、コンビニ弁当が並んでいる。酔ってるのかな。ビールの空缶が、五、六本洗面台の上に投げ込まれている。 「なんでだろうね。なんでみんないなくなるんだろうねぇ」 「ふしぎだね」
パパが消えた日。ともだちも消えた。人生ってそんなもんだと思った。こーゆーもんなんだって。〈水根〉は思った。みんなが消えた日、〈水根〉は妙に胸が苦しかった。
「マコちゃん。それは不条理と言うのさ」と母親が言った。
水根〈マコト〉は黙って聞いていた。
日に日に汚くなっていく、我が家。六畳一間のアパートの一室、その至る所に、ごみでぱんぱんに膨れ上がったコンビニ袋が散乱していた。父が消えて、もう何日もたつ。 『部屋ぐらい、掃除しろよ』 『うるさいなぁ。わたしは、仕事で忙しいんだもんソウジくらいマコちゃんがやってよ』 『僕は六歳だぞ』 『ママは二十×歳だよ』 『僕は子供なんだ』 『それがどうしたのさ。ママはオトナだよ。お酒だって飲めるんだも~ん』 『酒臭いよ』 『にゃはは』笑うなよ、と〈マコト〉は思う。 『子供は守られるべき存在だ。少なくとも僕は六歳なんだから』 『だぁれが決めたのさ。そんなへんな決まり』 『知らない。だけど、先生はそうおしえてくれた』 『先生、ねぇ。くだらないことを教えてくれるよ。ほんと』 『ねぇ、ママ――』
三本目の缶チューハイが開封された。プシュという気の抜けるような音に次いで、ぐびりぐびりと液体が勢いよく嚥下されていく。三本目の缶チューハイがゴトリとちゃぶ台の上に、置かれた。 「マコちゃんも飲む?」 「ん~ん」首を振る。すると、唐突に話題が変わった。 「マコちゃん。それは不条理と言うのさ」
〈マコト〉は黙って聞いている。仕事から帰ってきたばかりの母親。着崩したよそゆきのセーターに、ピントのずれた瞳。マスカラが汗に溶けて、形を変えていく。 「ねぇ、マコちゃん?ちゃんと聞いてる?」
そんな母親が〈マコト〉をじっと見つめるのだ。〈マコト〉は返事をしなくちゃいけないのかな?と思う。 「きいてるよ」 「どーせ、よっぱらいのたわ言だと思って、聞き流してるんでしょ」 「ちゃんと、きいてるよ」 「ほんとなのかなぁ」 「ほんとだってば」 「ほんとにほんとぉ?嘘ついてない?」 「……うん」 「ありがとぉ」と言って、母親は彼の頭をなでる。「嘘をつかない子、ママは好きだよ」 (じゃあ、ぼくのことはきらいなんだ……) 「マコちゃん、不条理って言葉しってる?」 「しらない」と彼は首を振る。「どういうイミなの、おしえてよ」母親に話を合わせる。 「えっとね。一言で言えば、不条理っていうのは、原因なの」 「よくわからないよ」 「たとえば、イヤなこと。だめだなぁって思うこと。目をそらしたくなるような悲惨なこと。そうしたことの原因こそ不条理なんだね」 「ふーん」わかったような、わからないような顔をする。 「もっと、わかりやすく言うとさ。パパやマコちゃんのともだちが消えてしまったことも不条理が原因というわけ」
この説明には納得がいったのか、〈マコト〉はふむふむと頷く。 「そして、マコちゃんが不治の病に罹ってしまったのも、不条理が原因なのさ――」
三本目の缶チューハイが飲み干される。カランというゴミ箱に空缶が投擲される音、そして、「ホールインワンだ」とはしゃぐオトナの声。ベッドの上に横たわる〈マコト〉はぼんやりと、その光景を眺めていた。 「あ~あ、やんなっちゃうよ。パパが消えちゃった途端これだだもの。パパがいなくなったと思ったとたんこれだもの。ようやく仕事が決まったと思ったら、これだもの。
ん~ん。別に。
別に、マコちゃんのこと責めてるわけじゃないよ。マコちゃんは悪くない。
悪いのは、全部、〝運〟。
タイミングの問題なのさ。運が悪かっただけなのさ。
あ~あ、って溜息をつきたい。
やりきれないってこーゆー感情のことかぁ、て思うよ。
マコちゃんが悪いわけじゃない。けど、やっぱりマコちゃんのせいなんだ。マコちゃんが全部悪い。ママは貧乏なのに。貧乏なのに、そんな贅沢な病気になっちゃうのが悪い。 「…………」 「……ごめん。今のは嘘だから。全部全部嘘だから。よっぱらいのたわ言だから。お願いだから、聞き流してよ」 「…………」
〈マコト〉はゴロリと寝返りを打った。胃のあたりがとび跳ねるように痛み、心臓がばくばくと脈打つ。右腕が上半身の下敷きになってしまったけれど、痛覚も皮膚感覚もないので、気にしない。 (イヤなこと。ダメなこと。目をそらしたくなること。そのすべての原因が不条理なのか。なら、もしも不条理をやっつけられたら、このむねのムカムカも、体のしびれも、おさまるのだろうか。ぼくは不条理とたたかって、不条理をたおしてしまわないといけない) (そうすれば、何もかもが、よくなるのだから)
少女A、というか彼女は気がつくと、見ず知らずの場所にいた。 「…………」辺りをみまわす。
彼女の中で、記憶が途切れていた。
遊んでいたはずだ (ノーテンキに)
遊んでいたはずだ (おにごっこ、くだらない遊び、オトナになったら絶対にやらない遊び)
だのに、気が付いたら、猛獣の檻を連想させる、四方を鉄の柵で囲まれた小さな部屋に閉じ込められていた。今が、朝なのか、昼なのかさえわからない。真っ暗な小部屋。
たとえば、 「あ、あ、あ~」と叫んでみる。
目の前に立ちはだかる壁に反射された声が、耳朶を打つ。大音響に彼女は耳を押さえる。のたうちまわる。
――アイル。彼女の本名は、アイル。月見里アイル。だけど、新聞の三面記事では、少女Aと報道された。『少女A他、複数名、行方知らず。集団誘拐か!?』 (ここはどこだろう)とアイルは思う。(わたしはラチられたのかもしれない)
くだらないことを考える。 (もしかしたら、わたしは、おにごっこをしているうちに、本当のおににつかまってしまったのかもしれない) (Bに、CにEはどうしたんだろ?あの子たちも、どこかでこうしてつかまっているのだろうか。……マコちゃんはどこだろう?マコちゃんはどこでどうしてるだろう?) (だいじょうぶかな?不安だ。とても不安だ。マコちゃんはつかまっていなければいいけれど)
彼女は、マコトのことが好きだった。
彼女が初めて、マコトを知ったのは、幼稚園の頃だ。その頃、彼女は年長組で、彼女の前に、彼は新入生として登場した。そして、なんとなく、
好きだな、と思った。(心の底から大好きだ)
別に、特別なことではない。人より少しだけ早い、性の目覚めだ。
幼稚園時代の最後の一年間、彼女はできるだけ、彼の側にいた。
その頃の彼女の口癖は、 『しあわせだなぁ』
わたしって、なんてめぐまれてるんだろう。いつもそんなことばかり考えていた。好きな子の側にいられるわたしは幸せ者だ。
彼女は、ある日、知ったのだけど、幼稚園には、いつまでも通ってはいられないらしい。
最大で三年間。ある年齢に達すると、ショーガッコーというところに、無理やり通わされるらしい。 (ショーガッコーなんて大っきらいだ。これじゃあマコちゃんと離れ離れだッ) (だけど、それは仕方ないことだ。ふかこうりょくだ。あきらめるほかないことなんだ) (どうせ、あと二年したら、マコちゃんもショーガッコーにしんがくするのだから、まっていれば、いいだけのこと) 「ことしが」と彼女はつぶやく。小さな真っ暗闇な部屋の中で彼女はつぶやく。「ようやくだったのにな」 (二年間まったのに、いつまでだって、まつつもりだったのに。来月になれば、さくらの花がさくというのに) (やになってしまう) (わたしはふうんだ)
ここで、ようやくあの男が登場する。通称藪医者。本名はシューヤ、あんぐ… 「暗暗終夜、はい、それがワタクシの名前でございます。おたくに、急性○○✖○症候群のお子さんがいらっしゃると伺って、やって参りました」
〈マコト〉が目覚めると、玄関に男が立っていた。やせ気味のひょろ長い男だ。対応に、母があたっていた。母親は突然の来訪者にあわてたような、とまどったような表情を浮かべていた。男は、にこにこと不自然なくらい笑っていた。 「いえいえいえ……。ワタクシ共は決して怪しい組織ではございません。いわば、ボランティア、慈善組織なのでございます。このごろはやりの、エヌ・ジー・オーというやつですね。非・政府・組織。辞書的に定義いたしますと、『国家間の協定によらずに民間で設立される非営利の団体で、平和・人権の擁護、環境保護、援助などの分野で活動する(広辞苑)』組織なわけでございます。で、肝心かなめの用件、ワタクシがおたくに伺わせていただいた理由、つまり、わが組織の目的にお話しを移らせていただくと、ずばり、おたくのマコトちゃんの御病気に関することことなのです。そう、我が組織は、国内・外を問わず、金銭的問題のために、適切な治療を受けられない子供たち、ワタクシたちオトナにとって未来の宝である、お子様たちに、適切な治療をうける状況をセッティングすることを目的にしているのです。かくいう、ワタクシも医者のはしくれ。母校市立ハゴロモ大学医学部を卒業し、独り立ちをいたしました。が、そこで数多くの挫折を体験したのです。そう、技術的に救える命であるにもかかわらず、金銭的援助がないばかりに、つまり、国の公共福祉、公共扶助の制度がシッカリとしていないばかりに、医療費を払えず、みすみす見殺しにされていく子供の、なんと多いことか。ワタクシは絶望いたしました。自分の非力さに、国の無情さに。しかし、ただ、自分の無力さを嘆いているだけでは、人間前へは進めません。ワタクシが幸運だったのは、そのように、絶望していたときに、我が組織、いまワタクシが属している組織を見つけたことでございましょう。人は、一人では生きてはいけません。人が、一人の人間ができることには、限りがございます。しかし、ならば、一人ではなく、二人で、二人でもダメなら、複数人で、コトにあたれば、人間に不可能などありはしないのです。ワタクシは絶望から救われました。ワタクシは、己をさいなむ、無力感から解放されました。そもそも、人々があつまり、村や町が、ひいては国家が形成されていくのは、人々が本能的に、孤独のむなしさ、一個人の無能力さを本能的に理解しているからではないでしょうか。しかし、更にいえば、さきにも申しましたように、現在、国の公共福祉、公的扶助に、国会予算が十二分に割かれていない為に、命をないがしろにされる子供たちが存在しているのです。つまり、このままでは不十分なのです。国家という中規模の組織では、人は救われない、これは現代の実情、そしてこれは過去の国家制度および社会制度の数え切れない挫折をすこしでもひも解けば、ご理解いただけることでしょう。そこで、NGOなのでございます。国を政府を越えた、より普遍的な組織しか、子供たちの未来は救えない。考えてみてください。なぜ、今日、これほどまで、NGOが取りざたされるのか。それは、人類がこれまで越えられなかった壁を越えるためには、それ以外に、道がないからです。考えてみください。ノーベル平和賞が、他の、たとえば、ノーベル文学賞と違って、個人ではなく、組織に授与されることが多いのは何故か。答えは、誰の目にも明らかでしょう。それは、人は、集まれば、繋がれば、協力すれば、力を得ることが可能だからです。世界の平和のためには、マザー・テレサが一人いただけでは不十分なのです。彼女をしたって集まってきた修道女、協力者たちが存在したからこそ、彼女はあのような偉業を達成できたのです。例えていうなら、織田信長などどうでしょう。彼は、智・武・勇ともに優れていましたが、協力者がいなかった、味方に裏切られてしまったばかりに天下布武の志を絶たれてしまったのではなうでしょうか。いわば、世界平和とは、戦争と、とても近似したものではないでしょうか。戦争の原理は数の暴力。世界平和の原理だって……おっと、口が滑った。つ、つまり、ワタクシが言いたいのは、マコトちゃんの御病気を、ワタクシたちの組織力で癒してさし上げたいということなのでございます」
彼の話はまだまだ続く。
だけど〈マコト〉は眠くなった。というか、いつの間にか、眠っていた。たいくつな話は、あまり好きじゃないのだ。 (…………) 「ん?ふぁあ」欠伸をする。伸びをする。
目が覚めると、やせた男の姿はどこにもなく、母親がうれしそうな顔で、〈マコト〉のことを見つめていた。
と、カツ、カツ、カツ
足音が聞こえてきた。誰だろう、と彼女は思った。
カツ、カツ、カツ。続いていた足音が唐突に途切れる。彼女の目の前に、誰かが佇む。
と、唐突に、「パッ」と明りがついた。超強力な懐中電灯のようなものが男の手に握られており、彼女の顔面を照らす。男の体は、やせ型だった。 「初めましてだね、お嬢さん。自己紹介をしようか。僕の名前は、暗暗終夜だ。君のお名前は?」 「……月見里アイル。あなたは何者なの?」 「僕のことは、先生と呼びたまえ。何者かと訊かれたら答えは簡単だ。一言で答えられる。医者だ」くだらなそうに、暗暗はこたえ、「クソがッ」と唐突に彼は怒鳴った。「やりなれないな、おべんちゃらはっ!ほんと肩がこる。原稿用紙五枚分くらい、即興で喋ったぞ?」 「おべんちゃらってどういういみなの?」 「オトナになったらわかる。……性別は女か?」 「そーだよ。…見てわかんない?」 「一応、確認だ」暗暗は、懐中電灯をわきに挟むと、右手に持っていたクリップボードにペンを走らせる。「俺は医者で、お前は患者だ、で、これカルテ」トントンとボードを叩く。「つまり、これは問診だ。大人しく答えていればいい」 「ドイツごはわからない」 「子供だからな。アレルギーはあるか?」 「どうして、わたしはここにいるの?」 「知るか。で、アレルギーは?」 「お兄さんは、悪いヒト?いいヒト?」 「知るか。アレルギーは?」 「じゃあ、もし、わたしが、おなかがいたいようって言ったら、助けてくれる?」 「ん、助けるかもな。アレルギーは?」 「じゃあ、いいヒト?もしも、ここから出してってたのんだら助けてくれる?」 「助けるのは、医者だからだ。もしも、お前をここから出したら、おれが親父に怒鳴られる。つーか、アレルギーはあるのか、ないのか?答えろよ。しまいにゃ、蹴るぞ」 「じゃあさ、こうしよ。わたしがお兄さんのしつもんに答えるでしょ、そしたら、わたしもひとつ、お兄さんにしつもんして、お兄さんもそれにこたえるの」 「なに、そのルール。ま、質問に答えてくれるなら、それもいいだろ。で、アレル」 「アレルギーは、ないよ。わたし、見た目どおり、けんこうゆうりょうしょうじょだから」 「見た目通り、ね」暗暗はメモを取る。「はやく、質問しろよ」 「じゃ……ここはどこ?」 「地球だ。間違っても、アノ世じゃない」 「まじめにこたえてよ。そりゃ、いきなり真っくらな部屋で目が覚めて、ちょっとふあんだったけど……」 「生年月日および、年齢は?」 「年号でいい?今の天皇がそくいしてからちょうど四度目のはる、四月四日に生まれて、年は、八才」 「N4・4・4、八歳のお子ちゃま、と」 「お子ちゃまっていうな。さっきは、お嬢さんっていってくれたのに」 「さっきは、さっきだ。やたらと敬語使いすぎた後だったから、おもわずいっちまったんだ。で、ガキンチョ、次の質問いえよ」アイルは頬ふくらませる。わたしはオトナだからと、内心思う。わたしはオトナだから、ガキンチョとかいうな、とか子供っぽいことはいわない。 「じゃあ、そ、そうたいせいりろんについておしえて」 「お前、そんなこと、ほんとに知りたいのか?」あきれ顔で暗暗が呟く。 「う、うん。ま、まあ、お兄さんが、どうしてもこたえられないっていうなら、『ぼく、おばかさんだから、そんなむつかしいことわかりませんよぉ』って言うならしつもんかえてもいいけど」 「俺を困らせたい、ね」 「うん」頷くなよ、と暗暗は言う。 「じゃ、おあいにくさまだ。さわり程度なら、俺でも教えてやれるよ、そーたいせー理論ねぇ。まず、前置きとして、相対性って言葉のイミからいうとな……」 「す、すとっぷ。ストップ」 「そう、〝ストップ〟、俺たちからみて、停止しているように見える地面だって、太陽とか、月とかから眺めたり、プレートテクトニクスの考えに基づけば、ダイナミックに動いてるわけでさ、つまりこういう観点の違いによって、評価が異なるという……」 「だから、ストップって言ってるじゃん。しつもんかえるから」 「えー」 「だいたい、そうたいせいナントカの説明してたら、お兄さんのカルテだって、いつまでたってもうまんないよ。というわけで、しつもんかえるね」 「相対性理論、めっちゃ面白いのに。つーか、相対性理論が正しかったら、未来にだって行けるんだぜ?」不服そうに暗暗はペン先で頭をかく。 「で、あたらしいしつもんだけど、そうだ、お兄さんがいま言った、未来についてきいてもいい?わたしの未来。わたしはこれからどうなるの?お兄さんにカルテをとられたあと、どうなるの?」 「あー」と暗暗は言いにくそうに、口を半開きにする「すっごく、言い難いんだが、八十パーセントの確率で、俺に殺される」
気がつくと、〈ぼく〉は真っ白な部屋にいた。手術台の上に、寝かされていた。
母親は言った。 『よかったね、マコちゃん。やったね、マコちゃん』
――なにが、なにがよかったのさ?――〈ぼく〉はあなたに共感できない。 『そんなの、決まってるじゃん。マコちゃんの病気のことだよ』
――□…………。 『アノ人たちが、マコちゃんの病気を治してくれるかもしれないんだよ?それって、とても素晴らしいことでしょ?』 「ママはわからないんだ」〈ぼく〉はぽそりとつぶやく。「アノ人たちがぼくらをだまそうとしていることが」
手術台の上には、円盤型のライトがついていて、〈ぼく〉には、なんとなく、それがUFOの形に見えた。宇宙人にさらわれて、UFOに吸い込まれていく瞬間って、こんな心持なのカナって。
手術台の隣には、オトナの女性がいて、〈ぼく〉の独り言を聞き付けたらしく、 「ぼくちゃん、どうかしたの?」
この女性は、いつもマスクをつけている。それは、彼女が看護師だからと、ママは言ったけれど、本当は、この人は口裂け女だからだと、〈ぼく〉は踏んでいる。
〈ぼく〉は目を閉じる。
〈ぼく〉は目を開ける。
辺りは、真っ赤に変色していた。手術室のすみっこには、母親の死体が転がっていた。
真っ暗な部屋から移されたのは、真っ白な部屋だった。そこは手術室か、あるいは墓場のような雰囲気だった。 (ここはどこだろう?なにがおこるんだろう?)と彼女は思った。
隣には、暗暗終夜がいた。彼女とは、アイルのこと。 「ここは俺の私有地にある廃ビルの一室を改装したものだ」 「お兄さん金持ちなんだ?」 「廃ビルなんて買い占めてよろこぶ金持ちなんかいねぇよ。なんだかんだで、安くなってたところをローン組んで買い叩いただけだ」 「ふーん、そういうものなんだ?けいざいってふしぎだね」 「ああ、大抵のことに、不思議はつきものだ」 「そうね。たとえば、いま、わたしがここでこうして、しらない男の人といっしょにいることなんかも」
目の前には、ベッドがあり、少女たちが寝かせられてある。少女B・CそしてE、その他、見知らぬ女の子たちも。ベッドの上に、拘束されている。 「お兄さん、へんたいだったんだ?」 「どうだろうな」
血のにおいがした。少女たちが拘束されているベッドのシーツが真っ赤な血で濡れている。というか、死んでいる。少女たちの幾人かは、顔面は鋭利なナイフで刳りぬかれたのか、円錐状に穴があいていた。顔面から切り離されたブロックは、床一面に散らばっており、リノリウムの床を真っ赤に染めている。 「あー、ちなみにいっとくと、この隣の部屋には、男の子の死体が二十体ほど収容されてる。なにも、俺が性的興奮のために、女の子たちを惨殺してるなんて勘違いするなよ?」 「かんちがいしないよ、お兄さんは単なるひとごろしだ」 「いや、それも誤解なんだが……」暗暗終夜は困った顔をする。「いわば、こいつらは、実験動物、モルモットなわけだな。で、俺はこうみえて医者なわけじゃん?あくなき、医学の探求つーか、なんつーか」つまり、人体実験。
暗暗終夜は困った顔をする。 「じゃ、わたしもそのモルモットの一匹というわけね?」 「まぁ、そうなるな。だけど、正真正銘の変質者に拉致られるより、幾分マシだろ?」 「どうだろ、わかんないや」 「ま、どっちもいやかもしれないが……」 「そういえば、ずっと聞きたかったことがあるんだけど、聞いてもいい?」 「なんだ、唐突だな。ま、手術、というか実験でこれから死ぬかもしれないわけだし、今のうちに訊いといてもいいんじゃないか」 「だよね。じゃ、そのきもちにあまえるね」 「子供は、オトナに甘えるのが当然だからな」 「じゃ、聞くよ?」 「遠慮せずに、訊けよ」 「男の子を知らないかな?小さな男の子。わたしがラチられた時、いっしょにあそんでいた男の子。あの子のこと好きなんだな。あの子、というかマコちゃんが、わたしといっしょにラチられたのか、どうか。じっけんで死んじゃったのか、どうか、おしえてほしいの」 「俺の記憶が正しいなら、だ」彼は気休めを言う。「あの公園で捕まえたのは、女の子四人だけのはずだ」実を言うと記憶の曖昧な彼は(たぶんな)と小声で付け足す。 「そっか、よかったぁ」 「よかったな。というわけで、手術だ。そこにある台の上に寝ろ。手術中は麻酔が効いてるからな。痛くないから安心しろよ」 「うん。あんしんする」 「あ、でも、いくら痛くないって言ったって、麻酔を打つ瞬間だけは痛いからな?覚悟しとけよ」 「わかってるってば、先生。ここにねればいいんでしょ?こう?」 「本当は、麻酔なんて、笑気つーか、いわゆる一酸化二窒素を吸引させれば十分なんだが、ちょっと専用のマスクがなくてな」 「ふーん、それは残念……あっ」彼女はちょっぴり悲鳴をあげる。 「よしっ、うまく打てた。効果が現れるまでしばらくかかるから、ぼんやり天上でも眺めていろ」 「うん。そーする」
〈マコト〉は眠っていた。ベッドの上に横たわり、白い手袋とマスクをした人たちに取り囲まれた途端眠たくなった。それは、麻酔ヤクというものを打たれたからで、それを打たれると、どんな屈強な男でも、バタン・キューと寝込んでしまうらしかった。だから、〈マコト〉は眠るほかなかった。 「おやすみ、マコちゃん」
と母親が言う。
〈マコト〉の隣に、彼女は立っていて、彼の手をそっと握ってくれていた。
本当はだめなのだ、とお医者は言った。
手術室には、医者と看護師とインターンという名の社会人未満しか、立ち入っちゃだめなのだとお医者は言った。医者の名は、暗暗終夜という。彼が〈マコト〉の執刀医だった。
だけど、世の中には例外と言うモノがある。
〈マコト〉は六歳の男の子だ。
だから、いいのだそうだ。
手術室に母親と言う異物がいてもいいのだそうだ。
子供だから許してやろう、そういうことらしかった。
だから、大丈夫なんだってさ。安心だね、マコちゃん?
ママは隣にいる。マコちゃんの隣で、じっとマコちゃんのこと見守っている。だから、頑張って、手術を受けるのさ。
――だから、そこには、母親がいる。
というか、母親がいてくれた――
…………麻酔ヤクが切れ、目が覚めると、辺りは真っ暗だった。母親の姿はどこにも見当たらないで、たった一人のミイラ男がそこにいた。
やがて、〈マコト〉は、体じゅう、そして顔面を覆うように全身を包帯で巻かれていることに気付いた。エジプトのファラオのように、体じゅうぐるぐるまきの水根〈マコト〉。
どうにも、手術は終わったらしい。ということだけ、わかった。 (ぼくのびょうきはなおったんだろか)
両目も包帯でふさがれているため、何も見えやしない。だから、何もわかりやしない。
よく、刑事ドラマで、警部役の俳優が、乱暴にブラインドをかき分けて外をみるけれど、それを真似るみたいに、目元の白い帯をかき分けて辺りをうかがった。
眩しさに目を眇める。眼球をライターの炎で焼いたみたいに、眩しかった。急いで瞼を閉じる。瞼を閉じてもまだ、眩しい。だけど、目が光になれるまで、そんなに時間はかからなかった。
光になれると、相変わらず、自分が、手術室のベッドの上にいることがわかった。
だけど、何かが違う。違和感がある。
手術室はガランとしていた。
寝ぼけていた意識が明瞭になり、なにがおかしいのかようやくわかった。
真っ白に塗装されていたはずの四方の壁は真っ赤に血塗られている。
血のにおいが、充満している。壁面には、メスが突き立てられており、ちょうどその真下には、どことなくキクラゲを連想させる人体の一部が転がっている。それは耳だ。そぎ落とされた耳、たぶん、〈マコト〉の耳。
血のにおいが充満している。手術室なのだから当たり前だ。手術中に、血が天井や壁に飛び散ることもあるかもしれない。だけど、それ以外のいろんなことが不可解だった。 「あっ、しんでいる」彼はなにかを見つけた。
口許にも、包帯が巻かれていたため、くぐもった声になっただけで、別にうめいたわけじゃない。
人の死体を発見したくらいで、彼はうめいたりしない。
部屋のすみっこには彼女の死体が転がされていた。彼の母親が転がっていた。
血のにおいが充満している。
血のにおいが充満している。 (ああ)と彼は思う。(なにかへんだと思ってたよ)なんというか、達観した気持ちだ。
部屋のすみっこには母親の死体が転がされていた。 (だって、びょうきをなおそうというのに、びょういんじゃなくて、はいいろのビルにつれていくのだから)
彼らが連れてこられたのは、廃棄されたオフィスビルで、その一室が手術室に改造されていた。 (ママはくちぐるまにのせられたんだ。それも、とくべつじょうずってわけでもないくちぐるまに)
目が覚めると、母親が死んでいた。手術室で死んでいた。腹をぶっ刺されて死んでいた。両手両足垂れて死んでいた。頭垂れて死んでいた。腕からは血の気が引き、爪がはがれて死んでいた。必死に抵抗したのか、筋張った両腕には、打撲痕が散見された。髪の毛がぼさぼさに乱れていて、本当に、必死に抵抗したみたいだ。服装も乱れ、ボタンもはじけ飛んでいた。彼女の周りには、血があふれていて、その血は何処か赤黒く、それはつまり、血中の鉄分が酸素と化合し、赤黒く変色してしまったということだった。
〈マコト〉は彼女の亡骸のことをじっと見つめていて、(ひどいことになったんだな)とぼんやり思った。その時―― 「ガタンッ」と物音がした。耳元を包帯で覆われた〈マコト〉には、ギリギリ聞きとれるか、とれないかという微かな、 「う、う、う」母親のうめき声がきこえた。 (ああ)と彼は思う。(なんだ)という拍子抜け感に続く、(よかった)という安堵感。 (なんだ。いきてたの、ママ?よかった…)
と、唐突に、唐突に、唐突に、 「あはは…は」と彼女は笑った。 「あ~あ、しくじっちゃった。わたし、間違えちゃったわたし…… 「おかしいとは、思っていたんだけど、そんなうまいはなしあるわけないと思っていたのだけど、…… 「だけど、間違えちゃったみたいだ…… 「あ~あ、…… 「くそったれめ……」
諦めきった、くだけた口調。誰にともなく彼女は話す、というか、独り言をいう。 「くそったれめ。くそったれめ。くそったれめ…くそたれめ…… 「うすうすおかしいとは思っていたのに、騙されてしまった…… 「騙されてしまったのかも、と思った時には、もうあとのまつりだった…… 「いまさら、急ブレーキを踏んだところで、ガードレールを突き破り、崖に転落したあとじゃぁ、どうにもならないのと一緒…… 「ヤメてよっていったよ。一応ね… 「手術室が、いつの間にか、不穏な空気に包まれていたからさ、このままじゃ、ヤバいって思った。ヤメてよって言ったよ。一応… 「あの藪医者が、マコちゃんの頭蓋骨をくりぬいて、耳を削ぎ落して、眼球を刳りぬこうとした時、へんだなって思ったからさ…… 「マコちゃんの、心臓の病気を治してほしかっただけなのに、目を刳りぬこうとするなんて、イミがわからないじゃん…… 「だからね、一応…… 『ヤメてよ。ヤメてよ。ヤメてよ!』 『マコちゃんに酷いことしないでよ』 『これじゃあ、約束と違うじゃない』 「てね、一応、叫んでもみたのさ。執刀医の股間に蹴りを入れたり… 「とりあえず、抵抗して、抗議して、暴れてみた。 「だけど、暴れたところで、無駄だった。わたしが手術中暴れることを、奴らは想定していたし、……まぁ…いいや。 「それにしても… 「あの時は、ひどかったな。わたしが暴れた途端、」
彼女の行動にうっとうしさを感じたのだろう。暗暗終夜は、〈マコト〉の鼻に勢いよくメスを突き立てると、自由になった右手で彼女の頬を打った。〈マコト〉は白目をむき、ぴくぴくと指先を痙攣させた。火山の噴火みたいに、鼻先から、ぴゅーと血がほとばしった。 「そしてさ、 『簡単にいえば、だ。奥さん、あなたは騙されたんだ』 「と、あいつは言った…… 『当然だが、俺たちは、慈善家じゃない』 『当然だが、俺の目的は、慈善じゃない』 『暗暗終夜。裏社会の、人体実験請負屋といったところかな』 『おたくの坊やの手術も、その関係で引き受けただけってこと、』 『心臓の方は、治すさ、ついでにな』 『だが、それと同時に、モノとして扱う。実験体として、扱う』 『ごめん、俺の中じゃあ、おたくの息子は、もう死んでんだわ』 『生き物に視えない。同じ人間だと思えない』 「溜息混じりに、彼は言った(はぁ、と彼女もため息をつく)…… 「その時、ようやく、理解できた。ああ、わたしは騙されたんだって、…… 『おたくの、坊やが選ばれたのは、実験に都合のいい素体だったからだ』 「言い換えれば、運が悪かったから、だってさ… 『そして、奥さんには、死んでもらう。筋書きなら、できているんだ。まず、俺はおたくの息子の手術が失敗したと公表するだろ。手術が失敗して、死んでしまったとね。あとは、わかるだろ?子供をなくし、夫もいないあなたは、人生に絶望しきって、自ら命を絶つ、』 『表向きは、な』 「と彼はいった。そしてサ 『殺せ』 「と彼は言葉をつづけた。隣に立っていた、インターン風の若い男の子に向かってさ」
男の子は、台の上に乗っていた、手術用の電ノコを手に取ると、彼女の瞼に突き刺した。 「かわいい顔した、男の子だったんだけどなぁ。わたしより、五、六歳年下で、従弟のケン君に似た、中の上くらいのイケてるメンズ」
そして、ぼんやりと、放心したように、言葉を止めた。
十数秒後。 「あの時は、痛かったな」
そして、彼女は、意識を失った。子供だからだろうか、体が小さいぶん、薬の回りが早いのか、麻酔薬を投薬して、まもなく、彼女――月見里アイルの意識は途切れ、安らかな寝息を立て始めた。 「本当は、局部麻酔で十分なんだが」終夜はつぶやく。「子供には刺激の強すぎる光景だからな」
彼は、鼻歌まじりに、彼女を切り裂く。
彼の目的は、人体実験だ。
いわば、彼は研究者なのだ。
人体実験というよりは、人体改造。
彼の、専門の一つは、サイバネティック・オーガニズム。いわゆる、サイボーグ技術。
彼は、彼女の右手を切り取った。出血多量で、死んでしまわないよう、切り株のように、断面図を露出する腕の付け根には、きつく止血帯が巻きつけられてある。が、切り取られた腕からは、だらだらと血が流れ続ける。 「ロケットぱ~んち☆」と切り取った、腕を紙飛行機のように投げ飛ばしてみる。度の過ぎた悪ふざけだ。放り投げた腕は、エンジンの止まった、ヘリコプターのように、ぼてっと落下した。 「はぁあ」彼は、ため息交じりにつぶやく。「今回は成功するだろうか。俺のサイボーグ」
彼は見栄っ張りだった。言い換えれば、大ウソつきだった。 「嘘なんだよ、本当は」眠っているアイルに語りかけるように、彼はいう。「本当は、嘘なんだよな。……いや、ついさっき、俺、八割方の確率で、お前が死ぬっていったろ?アレ嘘なんだ」
本当は、本当の成功確率は、もっと低い。(さっき、見せた、女の子の死体の山見りゃわかるだろ?)本当の成功確率は、限りなく、ゼロの近い。無作為に千人あたれば、九百九十九人は、死んでしまう。もちろん、終夜は手術が成功しそうな子供たちばかりを集めていたけれど、それでも、なお百人に一人くらいしか、成功しない。 「技術力はあるんだ。ただ、オペが難しすぎるんだ」言い訳をする。 「今度こそは、成功してくれよ」諦め交じりに彼はつぶやく。「俺たちの組織には、サイボーグが必要なのだから」
意味もなく、溜息をついた後、彼は、彼女の眼球をえぐり取った。
「あの時は、痛かったな」
彼女――水根マサコは、闇の中にいた。彼女からは、視界というものが奪われていた。電ノコで瞼を突かれたのだから、当たり前だ。別に、失明したというわけではなかったが、血が瘡蓋のように瞼を覆い、視界を閉ざしているのだった。
思い切って、瞼を開く。びりびりと生地の裂けるような音がして、ぼろぼろと血の欠片がこぼれおちていく。
彼女はヒュッ――と息を吸い込む。目の前に、小さな子供が立っていたからだ。彼は、全身を包帯で巻きつけ、まるでミイラ男のような格好をしていた。誰もいないと思って、独り言をつぶやいていた彼女は、意表を突かれ、息をのみ込んだ。こんなとき(体中から、血が抜けてるとき)でも、紅潮するのだな。気恥ずかしさを感じながら、彼女は思った。 (この子(男の子or女の子)は誰だろうか)彼女は、貧血気味のぼんやりとした頭で考える。包帯越しからのぞく、その子の目は、何処か睨んでいる風だった。(もしも、女の子だったら、不憫だな。だって、この子、まるで鼻でも削がれたみたいに、顔面に起伏がないのだもの――わたしも、人のことを言えないけどさ) 「ねぇ」彼女は声をかけた。 「なに」まるで、マスク越しのような、くぐもった返事だった。抑揚にかけていた。 「一つ、訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
彼女の声が、微かだったためか、子供は彼女の口許に、顔を寄せる。 「わたしの子供を知らないかな。背丈はちょうど君くらいの男の子で、だけど、心臓の病気でうまく体を動かせない子なんだ」 「……知らない」彼は、自分でも理由のわからない嘘をついた。 「そう…かぁ」彼女は残念そうにつぶやく。「じゃあさ、もしも見つけたらでいいの。もしもあの子を見かけたら、あの子に伝言を伝えてくれないかな」 「……うん、いいよ」彼はさっきからずっと無口だ。ハイかイイエか、その二択の返答しかしていない。よかった、と彼女は微笑んだ。でも、君みたいな子供だと伝言をうっかり忘れてしまうかもしれないね。彼女は震える指を、彼女の周りにできていた水溜りに浸すと、彼の顔面にまかれた包帯の上に、そっと指先を滑らせた。「ぼ…オレだって、伝言くらい…わすれず、伝えられるよ」
彼は、自称を変える。なんとなく、〈ぼく〉と言ってしまったら、彼が彼であることを悟られそうな気がしたからだ。悟られたくない理由はよく解らないけれど。 「ふ~ん。君は男の子だったのか」彼の抗議など意に介さず、彼女は、彼の包帯に血文字を書きつづる。おそらく、彼女のいう伝言なのだろう。「君は、男の子だ。つよく生きなくちゃだめだぞ?」 「うん、わかってる」 「じゃぁ、おばさんと、約束しよう。ゆびきりげんまん…」
と、
彼女は唐突に笑いだした。彼もつられて、えへへと笑う。 「あはははは……、小指が、小指が千切れてるぅっ。そうだよ、小指と薬指はあいつらに切り取られたんだったよ。それなのに、ゆびきりげんまんって、ナニ言ってんだろ、わたし」暫くして、漸く彼女は開き直る。「ま、指は三本残っているんだから、小指の代わり、中指でいいけどさ」
彼女が息を引き取った、あるいは、再び意識を失った(幼い、水根マコトにはその判断がつかなかった)のは、それから十分後のこと。
彼は、一生懸命手術室の天井に張り付けられた、鏡を睨んでいた。
包帯に書きつけられた、血文字を解読するためだ。 「…ね…いん……」
鏡文字になったそれは、とても読みづらいけれど、わかる範囲で音読していく。
といっても、彼は、ほとんど解読できていない。だいたい、彼に読めるのは、ひらがなとカタカナほんの少しの漢字だけだし、にもかかわらず、母親は、漢字交じりのメッセージを彼に託していたのだから。彼にはなにが書かれているのか、ほとんどわからなかった。 (なんでだろう)と彼は思う。(どうしてこんなメッセージをママはのこしたのだろう?)
と、 「はん」と、男の人の声がした。人を小馬鹿にしたような、笑い声だ。
彼が振り向く、手術室の戸口のところに、暗暗終夜がいた。 「ふん」もう一度、終夜が笑う。「悪口の文学的センスが問われるな?その血文字、お前の母親が書き残したのか?『死ね、インポ野郎』、ね……おそらく、自分を殺した、俺のことをさしているんだろうな?」
別に、終夜はプライドの高い方ではなかった。だから、この程度の罵詈雑言を吐かれたところで、彼は何とも思わない。ただ、彼は生来、暴力を好む性質だった。
蹴り上げる。振り下ろす。顔面を殴りつけ、側頭部を蹴りつける。水根マコトから、ボコッベコッとペットボトルを踏みつぶす時のような音がした。それから、傍らで寝転がっていた母親の腹を何度も何度も蹴りつける。
水根マコトは呆然とした。
なんなんだろう、と〈カレ〉は思った。
なんなんだろう、と〈オレ〉は思った。
どうして、母親は、〈オレ〉の顔に、暗暗終夜あての恨み事を書いたんだろう。どうして、〈オレ〉は、蹴られてるんだ?蹴鞠のように。 「ふん」暗暗終夜がまた、笑った。「俺が蹴りを入れても、死なない丈夫な体だということは、手術が成功したということだな。よかったな、水根マコト。今日から、お前は、立派な人でなしだ」
サイボーグねぇ…。まぁ、それもありかもしれない、と〈オレ〉、水根マコトは思った。
月見里アイルが目覚めた時、天井には蛍光ランプがぶら下がっており、開け放たれていた窓辺からは、桜の花びらが吹きこんでいたから、 「わたしは、生きているんだな」
と彼女は思った。
時刻は、昼過ぎ。日の光が窓辺から差し込んでいる。 「わたしは、生きているようね。ということは、手術は成功したのかしら」
彼女がいるのは、どこの病院にもありそうな、こぎれいな病室だった。彼女には、窓際のベッドがあてがわれており、窓と正反対の方向には、小さなブラウン管のテレビが置いてある。
包帯でぐるぐる巻きにされた右手がむずむずする。右手以外にも、ところどころ(左足とかに)、包帯が巻かれており、不格好な感じがした。
遠いところへ来た気がした。考えてみたら、彼女は、ただ公園で遊んでいただけだった。公園で鬼ごっこをしていたら、いつの間にか、誘拐され、病室にいるのだ。普通に考えて、大事件だ。もしも、わたしが生還したら、きっと、大々的にほうじられるのだろう。
――と、だ。
さらさらと舞っていた、桜の花びらが彼女の鼻にぴたり、とくっついた。 「あっ」
桃色の唇から、思わず声が上がる。
「あっ」という、息をのむ音に、彼は、この病室に誰かいるのだ、と勘付いた。
暗暗終夜に蹴り飛ばされ、彼は、意識を失った。
彼が気付いた時、彼は、白塗りの壁に四方を囲まれていた。――ここが、病室であり、自分がベッドの上に寝かされていることに、気付くのに、数瞬かかる。真っ白な天井の中心では、蛍光ランプが揺られていた。
と、いうことは、風の流れがあるということだ。と、彼は思う。風の流れが生じるのは、窓が開け放されているからで、そこから流れ込む空気が蛍光ランプを揺らすのだった。
窓が開放されている、ということは、逃げ道が用意されているということだ。 (逃げなくちゃ)と思うより先に、空気の流れを目が追っていた。
意識するより先に、逃げ道を確認していた。 (オレはよわむしだな)と彼は思う。(にげることばかりかんがえているんだから)
――と、
当然だが、彼の視界を花びらが横切る。
窓際には、少女が一人、佇んでいた。
「あっ」という、拍子抜けした声が響いたのは、彼女が彼に気がついたからだ。 (マコちゃんだ。マコちゃんの目にそっくりな子がそこにいる)彼女は、事情がのみこめない。 「ねぇ、」と声をかけた。「ねぇ、マコちゃんなのかな」不安げに、包帯の隙間からのぞく、彼の目に、問いかける。
だけれども、
彼は彼女に返答をしない。 (なんでだろう)と彼女は思う。彼は彼女の方を見ているはずなのに。 「あっ」と溜息をつき、ふとある事に気がついた。
――彼は、彼女を見ていない。彼が見ているのは、月見里アイルのすぐそば、窓辺に佇む一人の少女だ。
窓辺の少女は、物思いにふけっていた。彼女のまわりを、くるくるとサクラの花びらが回っている。 (ふーん、これが、サクラの華というヤツなのか)
彼女は、ぼんやりと、あたりを見回しながら思った。彼女の長い黒髪に、花びらがへばりつくけど、気にも留めない。
彼女は、左腕に、真っ黒いゴム手袋をはめていた、そして、〈オレ〉と目を合わせると、 「にゃあ」と鳴いた。
彼女は、まるで髪飾りの様に、髪の毛に花びらをちりばめていて……。
第一話、了
「今日から、君の名前は――」
と言われた。
白衣を着た若い男が、ニヤニヤとした表情で〈オレ〉に告げた。
白衣姿の男、つまり暗暗終夜の隣には、髭面の、むさくるしい中年がいて、そいつも同じく笑っていた。少なくとも、〈オレ〉には、そう見えた。 「今日から、君の名前は、ねずみだ。つまらない名前だと思うかもしれないが、君にはそれがふさわしい」暗暗の言葉を、隣の中年男が受け継ぎ続ける。 「つまり、貴様は生まれ変わったというわけさ。人間水根マコトから、我々の殺人サイボーグへとね」
その声は、見た目とは裏腹に、澄み切ったハイトーンで、なんだか気持ちが悪くなった。 「君には、二人の仲間がいる。病室で目覚めた時、少女が二人いただろう?」 「あの子たち二人が、貴様の仲間であり、我々が目的を遂げるための、要となる主力というわけさ」中年は肩をすくめた。
〈オレ〉たちは薄暗い密室にいた。窓はなく、〈オレ〉の眼球だけが、青白く発光していた。サイボーグの〈オレ〉は眼球が点灯する。らしい。 「つまり、そういうことだ。貴様の左目は、もはやナマモノではない。電子信号一つで、暗闇を照らすし、取り外して、遠くへ投げれば、手榴弾代わりになる」 「もう、後戻りは、できないってことだ。君の肉体も、俺たちもね」暗暗終夜が、冷たく笑った。「俺たちは、怒りっぽい人間なんだ。少なくとも、俺は、常に、常に、何かに対して怒っている」 「我々には、殺したい、八つ裂きにしたい、と思える人間が山ほどいるわけだ。貴様と残り二人のサイボーグの役目は、そうした人間を我々の代わりに、始末することだ」
〈オレ〉は何か言おうとしたはずだ。口答えして、そんなことしたくはない、というはずだった。 「おっと、言い忘れるところだった」中年男はおどけた調子で、言葉をつづけた。「その義眼には、ライトと手榴弾の他に、もうひとつ役割があるんだよ。自爆という役割がね。我々の命令に背いた時、貴様の瞳は、ためらいもなく爆砕する」 「ふーん、そっか」〈オレ〉はこともなげに、こたえて見せる。「そういうことか」 「もちろん、その義眼を、貴様が取り外そうとすることは、我々の命令に背くことだよ」
中年男の手の中には、携帯電話ほどの電子機器が握られていた。電子機器には、小さなボタンがくっついている。
これがスイッチなのだなと思う。〈オレ〉の眼球を爆発させる、スイッチなのだなと思う。
と、 (中年男が、ニヤリと笑い、電子機器のボタンをカチリと押した……)
あっ、と思う。
そのスイッチを押してしまうと、〈オレ〉の左目が見る見るうちに、巨大に膨張して、〈オレ〉の頭蓋骨が破壊されてしまうじゃないか。
ようは、〈オレ〉が死んでしまう。
が、何のことはなかった。
辺りが闇に包まれただけだ。何も見えなくなっただけだ。最初、この暗闇が、あの世なのかと思ったけれど、何のことはない。〈オレ〉の眼球の照明が消えただけだ。 「トントントン、トントンだ」意味のわからない、台詞に〈オレ〉は混乱する。「つまり、このリズムで瞬きをすれば、貴様の瞳は、光を放つ。ま、最初のうちはなれないだろう。念のため、遠隔スイッチを渡しておくよ」
暗闇の中で、何かが〈オレ〉の手のひらに押し込まれた。
中年男が、いじっていた電子機器が〈オレ〉の右手にはあった。
スイッチを押す。押すと、左目から、淡い光がもれてくる。
その淡い光が照らすものは何か、というと、だ。
中年男と暗暗終夜は、いつの間にか、〈オレ〉の目の前から姿を消していて、一人の、俺より一つ二つ年上の女の子が、眩しそうに目を細めていた。
あれっ?と〈オレ〉は思う。
いつの間に(と言っても、照明が消えたあの数秒間の間なのだが)、奴らは消えたんだ。そして、この娘は、いったいどこから現れたんだ? 「□□□□□□」女の子は、わけのわからない言葉を吐く。そして、唐突に「にゃあ」と猫の鳴きまねをする。 「猫?」
そういえば、この娘、あの病室みたいなところにいた娘じゃないか。 「ねこ?」と彼女は鸚鵡返しに呟いた。「にゃあ」ついでに、鳴きまねまで付け加える。
もしかして、〈ねこ〉というのが、彼女の名前なのだろうか。考えてみれば、〈オレ〉の名前は、今や〈ねずみ〉だ。『ネコとネズミ』あまりいい組み合わせじゃないけれど、さもありなん、といった感じだった。 「お前の名前は、ねこって言うのか?オレは、ねずみだ」 「ねずみ……」とても難しそうな顔をしながら、彼女は〈オレ〉を睨んでいた。
なんだよ……、と思う。ああ、照明が眩しいのか? 〈オレ〉は、左目の瞼を下ろし、光量を抑えた。
彼女は、相変わらず、難しそうな顔をしていたけど、〈オレ〉はそれを無視することにした。
彼女が、 「Ⅰ‘m a Chinese.Where‘re here?(私は、中国の女の子。ここはどこ?)」
と、たどたどしい英語で尋ねてきたけれど、それも、無視する。なにしろ、〈オレ〉は、その頃、六歳で、つまり、小学校に上がるか上がらないかと言った年齢で、日本語以外に、言葉があるなんてこと、思いもよらないくらい、子供だったからだ。しかたない。
彼女は、ロリポップが好きだった……。ガジガジとかじる、すると、真ん中の棒から、ねちゃあ、とパルプを固めるための接着剤なのか、それとも飴玉を構成する水あめなのかよく解らない粘液が染み出してくる。ロリポップっていうのは、ようはそんなものだ。
甘くて、おいしくて、何本でも食べたくなるけれど、何本も何本も食べていたら、化学調味料だとか、香料だとか良く解らない化学物質を摂取しまくって、いつの間にか、バカになってしまうんじゃないかと思わせる、そーゆー、アメ菓子(アメリカの菓子)。どんどんどんどん、バカになれ、あたし――と彼女は思う。 「あたしは、天才すぐるのだぁ~」
寝ても、覚めても、彼女の頭の中では、万華鏡のように、様々なイメージが飛び交っている。たとえば、彼女が、小説を読むと大変なことになる。彼女は一冊の小説を読み終えた時、そのたった一冊の本に対して、百万通りの感想(こわい、かなしい、こんにゃくみたいに柔らかい)と、十万通りの解釈(この作者のバカだ)と一万通りのサイドストーリー(そして、彼らは末長く暮らしませんでした)を思いついてしまう。当然だけど、彼女の頭は爆発する。頭の中に、ありとあらゆる考えが駆け巡り、彼女は眩暈を覚える。だから、彼女は、小説が読めない。
というか、漫画だって、映画だって、学術書だって、彼女には読めない。少なくとも、読むたびに、偏頭痛をおこして、ぶっ倒れる。
そういうわけで、彼女は、ばかになりたい。余りに天才すぎるあたしにはもう飽き飽きだ、と彼女は思う。
というわけで、彼女は、ロリポップをガジガジとかじる。球体をしていたアメ玉はいつの間にか、ギザギザの歯形だらけになり、なんだか、殴ったら痛そうなハンマーのような形になった。 「もっと、手っ取り早く、ばあかになるには、煙草でも、麻薬でも吸えばいいんだろうけど、あたし、なんだかんだいって、品行方正な女子高生だしなぁ」食べ終わった、ロリポップをペッと眼下に吐き捨てる。「そんな不良じみたことしたら、D子に怒られちゃうよ」
彼女が立っていたのは、立ち入り禁止区域の屋上だったから、ロリポップの棒は、はるか、眼下、グラウンドの上に落下していく。
とだ、 「えいやっ」と彼女が掛け声を発した瞬間。ロリポップの棒は、急ブレーキをかけ、一時停止した。そしてそのまま垂直に上昇していく。
次の瞬間には、棒は彼女の手の中に包まれている。 「うん。うん。品行方正なあたしは、ポイ捨てなんかしちゃいけないのだ」
その頃、彼女は十六歳だった。市立ハゴロモ高校二年一組〈荒山みこ〉。別に、大したことじゃない、荒山みこ――彼女にとって魔法を使えるなんてこと。大したことじゃない。
「わたしの名前は、うさぎって言うの」
と、彼女は言った。 「うん。これは、わたしの新しい名前。お前は、うさぎみたいににかわいいからって、終夜お兄ちゃんが、名づけてくれたんだよ」
うさぎのように、ぴょんぴょんはしゃいで、女の子は言う。
誰だろう?と〈オレ〉は思った―― 「忘れたの?わたしです。幼稚園も一緒だったし、かがみ公園でよく遊んでた……」 「あ、ああ」 「思い出してくれた?」 「うん」とりあえず、頷いておく。 「よかったぁ」と彼女はにこにこ。
場所は、例の病室。〈オレ〉が目覚めた場所であり、何故だか知らないけど、やたらとサクラの花びらが舞いこんでくるあの場所。
手術後のリハビリというか、手術によって手に入れた能力(〈オレ〉自身まだ把握しきれていない)を使いこなすための練習期間というか。〈オレ〉は、この場所に寝泊まりさせられ、毎日毎日、体力測定のような、基礎トレーニングを強制されていた。
彼女は、相変わらず、にこにこしている。なにがそんなにうれしいのだろうか、と〈オレ〉は疑問に思う。 「ねぇ、聞いた?」と彼女は囁く。 「なにを?」 「これから起こることについて」 「知らない」きっと、暗暗終夜から訊きだしたのだろうと思う。彼女は、終夜と仲が良かったから。 「じゃあ、教えてあげようか」 「いいよ、別に」 「知りたくないの?」 「別に、知りたくないってわけじゃないけど」 「じゃあ、教えてあげるよ」
ずいっと、彼女の顔がせり寄ってきて、桃色の唇が〈オレ〉の耳元で囁く。 「こそばゆい」と〈オレ〉は、不平を垂れる。
何故だか知らないけど、顔が真っ赤になる。 「じっとしてて。誰にも聞かれちゃいけない話だから」 『わたしたちは、明日人を殺します。その人の名前は――』
『――つまり、わたしのパパってこと』
ジトジトと湿り気のある、淀んだ空気が漂っていた。ハゴロモ駅、駅前、行き交う人々は一様に、ビニール傘を携えていた。
が、そこには、ただ一人、例外がいた。傘を携えず、レインコートも身につけていない少女が一人佇んでいた。 「ふふん」と彼女は、笑う。「みんな、みんな大間違いなのだぁ」って、笑う。
一見平凡な女子高生、彼女には、予知能力(魔法)がある。だから、天気予報も、みんなの期待も裏切って、今日一日、雨が降らないことをすでに知っている。ジトジトとした雨が、桜の花びらを汚さないことを彼女は知っている(だけど、それは、彼女だけの秘密だ)。 「といってもさ、」彼女は、自嘲気味につぶやく。「別の、雨なら降るのだけどね」 「血と涙という雨がね」彼女にしては、キザったらしく、そんな独り言をつぶやく。。 「あぁあ」と彼女は溜息をつく。「他人の不幸がのぞき見できるなんて、予知能力って、ヤなのーりょくだ」 「……………………」
彼女は、ぼんやりと空を眺めていた。――と、 「ごめん、ごめん。みこちゃん、おまたせっ」少女が一人駆け寄ってきた。 「遅いよぉ、十五分の遅刻だよ」 「だって、補講があったんだから、仕方ないじゃん」 「…………」荒山みこはすねた顔をした。 「もう、許してよ。だいたい、雨が降りそうだから駅まで迎えに来てって言ってきたのは、みこなんだし」 「でこちゃんの頼みだから、不服だけど、許してあげる」
少女=D子はなんだかなぁ、という表情で、へそ曲がりな親友の顔を眺めて、 「天気予報を確かめておけば、傘を忘れることもなかったのにさ……」
彼女にとって、父親は、エイリアンのような存在だった。わけのわからないことを言うし、わけのわからない行動をとる。
気がつけば、彼は暑苦しいスーツなんていうものを着ていて、何処かへ消えてしまう。月見里アイルには、不思議でならなかった。
父親はよく家を空けた。一週間。二週間。三週間。四週間。彼の顔の輪郭が、記憶の中で綿あめと化すころ、ようやく、彼は帰ってくる。無口で陰気な、『フーテンのトラさん』彼女にとっては、そんなイメージ。
彼女の母親が言うところでは、彼女の父親は、とても立派な人らしかった。中央政府の高官で、日々大変な難題に立ち向かっているらしい……。 「そんなの、信じられないけどね」 「そういうものか?」と、〈オレ〉はこたえる。 「そういうものだよ。だって、パパと話したことなんて、数えるほどしかないんだよ?働いてるところだって、見たことないし、それに……」 「うん?」 「それに、パパの姿なんて、もう何年も見たことないし」 「にゃあ」とねこが鳴いた。
〈オレ〉たちは、室内にいた。その室内は、高速で移動しており、ゴトゴトと、枕木を踏みならすような音を響かせていた。 「それにしてもさ」と月見…うさぎがいう。「わたしたちなんで貨物車両に乗っているのかな」 「そりゃあ、中央にいるうさぎのパパに会いに行くためだろ」 「そうじゃなくて、どうして、フツーに客車じゃなくて、貨車のにっているのってこと」
そんなこと、〈オレ〉が知るかよ、と思いながらも、適当にこたえる。 「金がなかったからじゃないのか?」 「たった三人分の電車賃が払えないって、どんだけ貧乏なのかしら」 「じゃあ、」席が全部埋まってたからじゃないのか、とこたえようとしたところ、唐突に、 「怪しい…から」とねこがこたえる。大抵じっと黙っているだけの存在だったから、〈オレ〉とうさぎは、キョトンと驚く。「子供だけ…旅行…怪しいから」 「ま、それもそうか。子供三人で、汽車の旅なんて、フツーあり得ないよな……」〈オレ〉はこう見えて、六歳児だった。手術を受けた時点で、人間をやめた気でいたので、自分が人間(の子供)だという気持ちはさらさら、ないのだけれど。 「そういうものなの?」 「そういうものだろ」 〈オレ〉たちが乗る、貨物車両はどちらかと言えば、快適だった。もともと客車だったものを改装して、貨物車両にしつらえたのか、左右には窓があったし、手すりのようなものが残っている。荷物と言えば、ずっしりと重い木箱が三つ。
木箱の一つに、うさぎは、腰かけていた。
どういう事情かは知らない。彼女の右手を、真っ黒い、ゴム手袋が覆っている(よく見れば、ねこの左腕も似たような手袋で包まれている)。 「不安なんだぁ。これから、パパを殺さなくちゃいけない。本当に、パパを殺せるのかどぉか」唐突に話題が変わった。不安を紛らわせるみたいに、うさぎはつよく〈オレ〉の手を握った。 「不謹慎だよ、殺す、殺さないなんて」〈オレ〉の言葉に、彼女はぱっと手を離す。 「いいよね。サポート役のねずみクンは」彼女はため息を漏らす。「実際に、闘ったり、殺したり、酷いことするのは、わたしたち、女の子の役目なんだから。ねずみクンは、後ろの方で、終夜お兄ちゃんと連絡とったり、援護射撃したり、敵が来ないか見張りをしているだけでいいんだから」
黙りこくる〈オレ〉をよそに、 「ねずみクンは、理解しているの?たとえ、君が放った援護射撃がパパに命中したとしても、その返り血を受けるのは、最前線で戦っているわたしたちだってことを。君の援護射撃は、わたしたちを血まみれにするだけだってことを?」 「…………」ねこが黙って、〈オレ〉たちを見ていた。 「……理解なんて、できないけど。それが仕方ないことだろ。暗暗終夜の言うとおりに働かなきゃ、オレたちが殺されるんだ。やるほかないだろ?」少なくとも、〈オレ〉の脳ミソははじけ飛ぶ。暗暗終夜や西宮の意向に逆らえば、〈オレ〉の頭蓋骨に、真っ赤な花が咲き誇る。
いやだよ、そんなの。 「どうしてなんだろ?どうして、よりにもよって、パパなんだろ?」 「運命…」とねこはぽそりと言った。 「運命かぁ、運命だから、仕方ないのかなぁ……?」 「未来なんて、オレたちには変えられないんだよ。それこそ、予知能力でもないかぎりさ」
「あーぁ、晴れてくれないかなぁ。ジトジト、むしむしの曇り日和なんて、大っきらいだよ」
少女が二人歩いている。一人は、せいぜい一メートル二十センチあるかないかという小さな女の子で、もう一人は、中の下くらいの背丈の女の子。
二人とも、市立ハゴロモ高校の制服を着ていることから、比較的勉強のできる女子高生だということがわかる。といっても、田舎では、ありがちなことだけれど、このハゴロモ市には、高等学校なんて数えるほどしかないくて、数えるほどしかない高校のうちでの上位校なんて、大したことはない。
いきかう人々も、背の小さい女の子――D子同様、忌々しげに、曇り空を睨んでいた。 「ねぇ」と荒山みこはつぶやく。「そんなに、雨が降るのが嫌いなのぉ?」 「嫌いだよ。雨が降ったら服は濡れるし、髪の毛も湿気て変な感じになるし」 「ふぅん」 「みこも、雨、嫌いじゃないの?」 「別にぃ。というか、好きでも嫌いでもないよ、雨なんて」空き缶を蹴飛ばした。「だって、どうでもいいじゃん、雨なんか。そりゃ、雨が降ってる時に、車に泥をはね飛ばされるのは嫌いだけど、雨の日にこうして、デコちゃんと一緒に帰れるのは好きだし」 「あたしは、雨なんて大っ嫌いだけど」 「――じゃあさ」荒山みこがそっと囁く。「もしもあたしが――もしもあたしが、魔法少女だとしたら、デコちゃんは驚く?」
という言葉に、彼女は、ぱちくりと目を見開いた。脈略のない言葉だ。ついさっきまで、空の天気について話をしていたのに、どうして、急に電波なことをこの子は言いだすのだろう?D子は不思議そうな顔で、荒山みこを眺めていた。 「実はねぇ。あたしぃ、魔法使えるんだぁ」 「へ、へぇ――」頭のおかしい人でも眺めるみたいに、D子は、ともだちを見つめた。 「信じてないでしょ」 「そ、そんなわけないよ。ただ、驚いただけ」 「たとえ、信じてなくても構わないよ。――今から、教えてあげるからさ。今から、信じさせてあげるからさ」彼女は能天気な声で呟く。「君の嫌いな雨雲を退治してあげるからさ」
電車は一時間おきに駅に着いた。いわゆる、特急快速というものらしく、ほとんどの駅を素通りして、ただひたすら、目的地へ突き走る。列車の前半分は客車で構成され、残り半分は、貨車で構成されているため、駅に到着する度に、遠くの方から、下車する人々のにぎやかな声が聞こえてくる。 「ねぇ」と声をかけられる。眠っていた〈オレ〉は、はたと目を覚ます。
彼女が、〈オレ〉の前にいて、〈オレ〉の肩をゆすっていた。 「ねぇ」
普段は、めったに喋らないはずのねこが、〈オレ〉の肩をゆすっている。 「ねぇ、ねずみ」 「なんだよ?」 「教えて…」 「なにをだよ?」 「おし…えて」 「だから、なにをだよ?」
彼女は、心細そうな顔をして〈オレ〉を見ている。ねこの話し方は、まるで失語症の患者のようだ。要領を得ない。 「だから…お願いごと…教える。ねずみ…ねこに…教える。ことば…ここのことば。ねこ…よく解らない」 〈オレ〉は、へんな顔をしていたはずだ。つまり、ねこは、ここ――日本の言葉がわからないと言っているのか。だけど、こいつ、今話してるじゃないか。〈オレ〉と同じ言葉を。 「ねこ…遠くからきた。暗暗につかまって来た。暗暗…ねこ…にことばを教えた。…けど…不十分」
なんとなく、わかってきた。つまり、アレだろ。ねこは、何処か遠くの国から、拉致られて、ここまで連れてこられたんだろ。おそらく、ねこの体が、暗暗の手術に適した体だったから、拉致られたのだろう。いや、手術に適した体というのがどういうものなのかは、知らないけど。 「不十分…困る。困ると…苦しい。苦しいと…死ぬ」
苦しいと死ぬのか?言葉が話せないだけで、死ぬのか? 「わかったよ」と頷く。「オレでいいなら、教えてやるよ」
多分、うさぎの方が教え方はうまいだろう、と思ったけれど、〈オレ〉は了承してやる。 「おめでとう…」いきなり、わけのわからないことをねこはいう。 「お礼を言う時は、ありがとうだ」 「…………」 「黙るなよ」〈オレ〉の説明が理解できていないのか?仕方ないので、〈オレ〉は天井を指さす。「これは、天井だ。あれは壁。で、これが床」 「天井、壁、床」もの覚えがいいのか、すらすらと発音する。
そして、〈オレ〉は、〈オレ〉の鼻の頭に指を突き立てる。 「そして、オレだ」 「お、おれ」彼女は彼女自身の鼻の頭を指さして、「おれ」と繰り返した。
……後々、〈オレ〉は、 〈オレ〉のせいだ、と思う。彼女をあんな風にしてしまったのは〈オレ〉なんだ、と思う。〈オレ〉がナニモカモ悪イ。
女の子だというのに、男言葉を覚えさせてさ。ねこに、がさつな言葉を覚えさせたのは、〈オレ〉だ。〈オレ〉が、あの時、あの場所で、もう少しだけ慎重だったら、と未来の〈オレ〉は後悔している。 「そして、夜だ」 〈オレ〉は、窓の外、漆ぬりの茶碗のように、真っ黒な夜景を指さした。 「今日は、もう遅い。勉強の続きは明日からにしよう」
列車はガタゴトと走っていて、〈オレ〉はゆっくりと目を閉じる。夢の中へ、〈オレ〉は逃避する。
〈オレ〉は夢を見ていた。むかしの夢だ。といっても、二年も三年もむかしの夢じゃない。――というか、ついに三日前のことを、〈オレ〉は夢の中で、回想していた。〈オレ〉が乗っている列車は揺れている。ガタゴトと音を立てて、揺れている。だからだろうか。まるで、ゆりかごの上に寝かせられていたときのように、深い眠りの中に、〈オレ〉はいる。
夢の中……
そこには、〈オレ〉と暗暗終夜――藪医者しかいなかった。〈オレ〉と藪医者の間には、かなりの身長差があるため、〈オレ〉は彼を見上げるほかなかった……。
そこは、まるで真珠のように真っ白な部屋だが、病室ではない。壁際にはコンピュータが並んでおり、その前には椅子が、背もたれに白衣を引っ掛けた状態で放置されている。
白衣が、藪医者のものであることは、すぐにわかる。
白衣は、赤く、汚れている。藪医者は白衣に腕を通した。
だれの血だろう?と思う。 〈オレ〉の血かもしれない。
手術中に飛び散った、〈オレ〉の血かもしれない。 「なにを見てるんだ?」と藪医者はいった。 「あんたの白衣だよ」と〈オレ〉はこたえた。 「そんなもの見てないで、俺の話をちゃんと聞いてろ」〈オレ〉は仕方なく、白衣から視線をそらし、藪医者の顔を見つめた。(いつ見てもブサイクなつらだな)と〈オレ〉は思った。
藪医者は黙っていた。
視線を戻したというのに、やつは話を始めなかった。 〈オレ〉は黙って、奴の顔を見ているほかなかった……。 「君は、捨て駒だ」ただ、一言、藪医者はそう言い残して、〈オレ〉の夢から、姿を消した。つまり、〈オレ〉は夢から覚めた。
とても、とても、微かな音が、囁くような微細な声が聞こえてくる。 〈オレ〉は、目を覚ます。その囁き声に、目を覚ます。
列車はガタゴトと揺れている。まだ朝にはなっていないらしく、夜の景色が窓辺に広がっている。辺りには田圃と民家しかない田舎の夜景だ。光源は月明かりくらいしかない。 「……おい」聞きとれるか、とれないかという、微妙な声が、〈オレ〉に届いた。それは、男の声だった。 「なんだよ」と、〈オレ〉は、不平を垂れる。「今は、夜なんだぞ」 「うるさい……。文句を言える…立場か……」と、〈オレ〉の右耳がささやいた。 〈オレ〉は右耳をもぎ取る。右耳は、合成ゴムのような、ふにゃふにゃとした感触だった。 「あーあー。こちら、ねずみ。どうぞ」 「こちら、暗暗だ」〈オレ〉は右耳を左耳に、押し当てる。早い話、〈オレ〉の右耳は、プラスティック製だった。肌色の合成樹脂にコーティングされた無線機、それが、〈オレ〉の右耳だった。「至急……、連絡することがある」藪医者の高慢ちきな声が、〈オレ〉の右耳から流れてくる。 「へぇ、そうなのか」ちなみにマイクは奥歯に内蔵されており、口を閉じた状態でも、相手には通じる。けど、そんな面倒なことをしたくなかったから、そっと窓を開け、貨車の屋根へと飛び移った。ここなら、うさぎもねこも聞き取れないだろう。
まるで、携帯電話みたいに、〈オレ〉は千切れた右耳を、左耳へと押し当てる。 「風の音がすごいな。屋外にいるのか……」無線通信だと、やっぱり語尾が不鮮明になる。ザザザ――と、無駄な雑音が入る。 「ああ」と、だけこたえておく。どうせ、だれも見ていないだろうから、平気だが、六歳の男の子が、疾走する列車の上を歩いているのを発見されたら、きっと、ただでは済まないだろう。「大丈夫、屋外と言っても、誰にも見られていない」 「なら、いいんだが……。万が一にもしくじるなよ……。しくじった時、お前は……」 「わかっている」わざわざ、念を押すなよ。万が一にも、しくじった時のことを想像してしまうじゃないか。〈オレ〉ぼんやりと、貨車の上をあるく。夜の散歩だ。すぐ隣の貨車へ、ぴょんっと、飛び移る、 「ギシッ」と体重が軽いためか、ほんのかすかにしか、音はたたなかった。 「で?」連絡事項があるから、無線してきたんだろ?早く、用件を言えよ。夜風に当たり、眠気が覚めたとはいえ、夜はまだまだ長い。ゆっくり休んでいたい。 「大した用じゃない……。出発前に伝えた、作戦内容の確認と、最新状況の通達だ……」 「へぇ、大した用じゃないなら、明日の朝、連絡してくれても、よかったじゃないか」 「だまれよ……。ガキは黙って、命令通り働けばいいんだ……。この連絡事項は、どうしてもうさぎとねこ、特にうさぎにはきかれたくないんだよ……。やつらは、ちゃんと眠っているだろうな?」 「ああ、ぐっすりとね」 「ぐったりとね?」難聴か。 「ああ、ぐったりとね」話を合わせる。 「ギシッ」再び飛び移った先も、またまた貨車で、何の変わり映えもしない、列車の屋根を〈オレ〉はそろりそろりと歩いて行く。 「まずは、確認からだ……」終夜は言った。 「中央の役人である、うさぎのパパを殺す。それだけだろ?」 「勘違いするなよ……。殺すのは、お前じゃない。うさぎかねこかのどちらかだ……。お前は、サポート役だ……。陰で、こそこそ銃でも撃っとけ……」藪医者の言葉に、〈オレ〉はそっと、鼻筋に触れた。 「ことばのあやだよ。勘違いしたわけじゃない」〈オレ〉は人を殺さないで済む。それは、きっと、ラッキーなことだ。 「お前の、役目は、サポート役……。つまり、主戦力の二人が、人を殺せる状態にコーディネートするのが、お前の役目だ……。ついでに言えば、二人が負傷した時は、その治療とかもな……。早い話が、雑用係だ……」 「わかってる。たとえばオレの血が、二人が出血した時、輸血できるよう、血液のタイプが塗り替えられてるってことも、理解してるさ」〈オレ〉が目覚めた時、手術室が真っ赤に、汚れていたのはこのためだ。一旦、〈オレ〉の体内から、すべての血が抜き取られ、二人の少女と同じ型の血が、注入された。その際に、こぼれ落ちた、〈オレ〉の血が、あの部屋を真っ赤に染めた。 「わかってるじゃないか……」終夜が笑った。ザザザ――という、BGM越しの笑いは、耳触りな上、不気味だった。 「ギシッ」骨がきしむような音をたて、〈オレ〉はまたまた跳躍する。飛び移った先は、またまたまた貨車の上だった。 「なぁ」 「なんだ……」 「もしも、オレとあの二人、どちらもが死にそうな時。オレは、自分を見殺しにしてでも、あいつらを助けないといけないのか」 「愚問だな……」
もしも、彼女たちに、輸血が必要なら、〈オレ〉は、自分がミイラになっても、彼女たちに、血をわけてやらなくちゃならない。血液以外だってきっとそうだ、 「もしも、ねことうさぎが、空腹で死にそうなら……、お前は、その体を捧げなくてはならない……。たとえ、お前が人質に取られても、ねことうさぎは、お前ごと、敵を殺す……。決まっているだろ?」 「だけど……」 「そして、もしも、そうしなかったなら、お前は、眼球に埋め込まれた爆弾によって、死ぬ……。どうせ、死ぬなら、彼女たちのために、死ぬべきだろう?」 「ああ……、そうだな」(暗暗終夜のためには、死にたくはなかった) (ギシッ)〈オレ〉は、またまたまた飛び移ろうとして、はたと気がつく。ここは、列車の最後尾だ。これより、先は、もう、どこにもない。ぽっかりと、闇だけが広がっている。ガタゴトと車体が揺れる。その振動が、足元から、徐々に伝わってきて、いつの間にか、髪の毛の先まで震えていた。
体全体が揺れる。ぶるぶると震えている。 「なぁ……おい、聞けよ」終夜の声だ。 〈オレ〉はぼんやりと…… 「ここから先が、大事な話だ……」
「君は、雨は嫌いだって言ったよね」 「うん」 「つまり、雨なんて降ってほしくないってことだよね?」 「……うん」 「その願い、叶えてあげるから」 「…………」 「あたしの魔法でさ――ねぇ、あたしたちは、一生ともだちだよ?」
いつの間にか、背後にねこがいて、〈オレ〉のことをぎゅっと抱きしめていた。 「なんだよ、おい?」と〈オレ〉は思う。藪医者との通信はもうとっくの昔に終了しており、無線機は沈黙してる。今や、それは、ただの耳だ(ゴム製の)。マギー新司に売りつけてやろうか? 「なに…してた?ここ……不安定、危ない」疾走する列車の屋上。確かに、不安定だ。 「起きてたのかよ」〈オレ〉は、呆れ交じりに、いう。 「だから……なにしてた?ここ…危ない」〈オレ〉の右耳があった場所には、ぽっかりと穴があいており、そこからは、脳ミソがのぞき見できる。(嘘だ)。「すぐ…降りる。下に…行く」ねこは、〈オレ〉のことを心配なのか〈オレ〉の手をぎゅっと、引っ張る。〈オレ〉たちが寝ていた、貨車まで連れ戻そうとしているのか? 「すぐ…降りる。今すぐ…ここから」 「今、ここから、飛び降りたら、ミンチになって死んじまうぞ?」時速六十キロで疾走する、夜行列車。ミンチにはならなくても、ただでは済まないだろう。 「揚げ足を…とらない」彼女の頬が膨らんだ。
……もしも、ここから、飛び降りたら、〈オレ〉はズタボロのボロ雑巾になって、死ぬ、死ぬはずだっ。(……死ぬのは嫌だ。だけど、生きていたって、いいことはない……?)
だいたい、なんで〈オレ〉が 「だいたい、なんで、オレが、こんな目に遭わなくちゃならないんだ!」 「ねずみのことばは…むつかしい」ねこは、困った顔をした。
春になってから、ずっと、つらいことが続いてる気がする。父親は消えたし、変な病気に罹ったし、母親は死んだし、思いっきり蹴られたし、騙されたし、耳を削がれたし、眼球もえぐられた、気付いたら、誰かの為に、死ぬことを強要されている。 「にゃあ」とねこが鳴いた。 「…………」じろり、と睨みつける。 「にゃあ」 「何が言いたいんだよ!」〈オレ〉の知らない言葉でしゃべるなよ。うんざりする。 「にゃあ……」 「うるさいなぁ、鳴くなよ」 「泣いているのは…あなた」 「うるさいなあ!」それしか言えないのか、〈オレ〉? 「慰め……必要?」 「だまれ!」 「わかった」
じゃあ、黙る、と、ねこは息をとめたみたいに黙りこむ。〈オレ〉には、こいつの真意が掴めない…………。 「…………」 「…………ハァハァ」 「………………………………」 「………………………………ハァハァ」自分の息遣いだけが響く。 「慰め…必要?」目を見て話すな。 「うるさい、だまってろよ」 「にゃあ……。ねずみ…ここから…いなくなれ…言わない。それつまり……そばに…いて欲しい?」 「つきまとってるのは、お前の方だろ。なんなんだよ。どうして、オレに構うんだよ。オレは所詮」
捨て駒だ。ねこが死にそうな時、〈オレ〉は死ぬ。うさぎが死にそうな時、〈オレ〉は死ぬ。誰かの為に生きる。誰かの為に死ぬ。身代わりになって死ぬ。身代わりとして生きる。 「ねこ…ねずみ…必要」 「捕食対象としてか?」 「違う…ねずみ…食べない」 「猫を被りやがって。上っ面の言葉で、ごまかしやがって」 「必要…違う意味。理解できない…ねずみ頭悪い」 「頭が悪いのは、お前だ。オレの気持ちも理解しないで」 「理解…してるよ」 「嘘だ」 「嘘…じゃない。ねことねずみは…一緒…同じ。ねことねずみは…一人ぼっち。同じくらい…一人ぼっち。誰も…いない。ねこは…連れられてきた。知らない…おじさん。白衣きたおじさん。おじさんは…言った。お前は…ねこだ。ねこは…一人ぼっち。誰も…いない。一人ぼっち。ねこは…さびしい。さびしいは…嫌い。嫌いは…苦手。苦手って…苦しい。苦しいと…死ぬ。ねずみ…死にたがり?今…ついさっき…ちょっと前…死のうとしてた。車から…落ちて。ねずみ死ぬ…寂しいから?それ…とも…苦しいから?ねことねずみ…おんなじ。きっと…ねことねずみの気持ち…何も変わらない…。きっと…なにも変わらない」 「ねこの言葉はむつかしいよっ」〈オレ〉は、ねこの言ってることの半分も理解できない。 「やっぱり…一緒。ねこもねずみのことば…むつかしい」 〈オレ〉が黙っていると、 「死なない…約束」とねこが〈オレ〉に強要してきた。「ねことねずみは…おんなじ。双子のように…おんなじ」〈オレ〉は黙りこんだ。
どうも、ねこは、 〈オレ〉に死んでほしくないと言っているみたいだった(その理由は、いまいちよくわからないけれど)。 「…………」 「ねずみ…約束…死なない」〈オレ〉はねこの口調を真似てみた。
ねこは、嬉しそうに笑う。 「ねずみ…約束…破らない」
――どうでもいい話をしよう。
そして、D子はぽかんと口を開け、空を見上げていた。
その光景を行きかう人々は、不審げに見つめ、やがて、ああ、と納得して通り過ぎる。 「あ、あっれぇ?」とD子の嬌声。 「不思議なこともあるものだな」と、行きかう人々は独り言を言う。
さっきまで、どんよりと曇っていた空は、今や、真っ青に晴れ渡っていた。絵の苦手なD子には、もってこいの写生対象。画用紙に青インキをぶちまければ、ほら出来上がり。題して、『本日は晴天なり』。 「へへんっ」と荒山みこは、ない胸を張った。「これが、あたしの魔法なのさっ。あたしが、念じれば、あら不思議!天気だって、運命だって、自由に変えられるのだぁ」
本当は違うけれど。本当は、こんなの魔法でもなんでもなくて、運命の歯車が、その予定通りに、働いただけなんだけど。 「それ、本当なの?」というD子の問い掛けに、 「うんっ」と彼女は、嘘をつく。
理由なんてない。
ただ、嘘をついてみたかっただけだ。「あたしは、魔法少女なんだぁ」
それは、明け方の話。
列車は、停車していた。駅についたらしい。〈オレ〉は、もぞもぞと毛布代わりにくるまっていたオトナサイズのコートからはい出した。「眠い。」どうして、コートなんてものがここにあるかとえば、ここが貨車だからだ。貨車に積み込まれた木箱には、なぜか、オトナ用のオーバーコートが数着押し込まれていた。幸運って、こういうことを言うのかな。と昨夜の〈オレ〉は思った。オーバーコートはとてもあたたくて、なんだか知らないけど、アライグマのにおいがした。 「なぁ、起きてるのか」
いや、アライグマの匂いなんて知らないけど。なんだか得体のしれない獣臭がしたから、きっと、これは、アライグマの匂いなんだと思うことにした。 「なぁ、起きてるか?」 「起きてるよ」 「あ、おはよう」 「えへ、おはよー」 「にゃあ」 「ねこも、おはよう」 「ねこちゃん、おはよー」 「ねずみ…おはよお…うさぎ…おはよお」 「「「ふゎあぁ」」」三人で、同時に、あくびを漏らした。 「ねぇねぇねぇ」突然、うさぎが大声を上げる。「朝ご飯にしようよ。ちょうど…」がさごそと彼女は木箱を漁る。「…ほらっ。缶詰もここにあるしさ」 「缶切りがねぇよ」 「ナイフがあるじゃない」彼女は、大振りのナイフを木箱から取り出した。 「ここの木箱は、四次元ポケットかよ」 「んなわけないじゃん。きっと、お兄ちゃんが、用意してくれたんだよ」 「気が利く男だな」 「ねぇねぇ。何缶がいい?コンビーフンに、カニ缶。やっぱり、ねこちゃんは、サバ缶かな?」 「オレはあまったやつでいい」 「じゃあ、勝手に選ぶよ?わたしは、カニ缶もらうから」ちょっぴりすねた声で、うさぎは言った。
案の定というか、ねこは、サバ缶を選んだ。〈オレ〉は、コンビーフンを取り出そうと、木箱へと近づいていく。
と――アレ?と思った。なんだこれ。木箱の中――コンビーフンの隣に、レモンに形のよく似た、鉄球が転がしてある。そして、木箱の底に蜂の巣のようにびっしりと詰め込まれた、円柱状の何かが。それは、ちょうど人間の人差し指ほどのサイズをしている。
インドには、アングリマーラという伝承がある。アングリマーラとは人名だ。なんだかんだあって、そいつは、人間の薬指で髪飾りを作ろうとする――そういう伝説。 〈オレ〉は唐突に、そんなヤツもいたな、と思った。木箱の底に敷き詰められていたのは、弾薬の詰まった、ガンベルトだ。アングリマーラが作ろうとした、髪飾りも、こんな感じのごてごてした、装着しただけで肩の凝りそうな代物だったのだろうか。……コンビーフンの隣には、レモン型のグレネード弾が転がっていた。 「なんだよ、これ?」 「お兄ちゃんが、用意してくれたんじゃないの?」 「気が利く男だな」いや、待てよ。用意するにしたって、限度があるだろ?一応、(〈オレ〉たちが見つからない時点で、あってないようなものだけれど)検閲だってあるだろうし。だいたい、たかが、一人の男を殺す為だけに、数え切れないほどの弾丸も、グレネードランチャーも不要だ。 「そうよ、お兄ちゃんは、気が利くの」 「万が一の備えってことか?」 「知らない。そういうことは、直接、終夜兄ちゃんに訊きなよ」うさぎは、うまそうに、カニ缶を食べる。ぺろりと、食べる。
どうでもいい話……あたしは、無力だ……。
彼女、荒山みこは、溜息をついた。彼女の隣には、もう誰もいない。D子は、塾に行ってしまった。夕暮れ時を、あてもなく、彼女は一人、歩いている。
彼女は、またまたふぅーと、遠い目をして溜息をつく。
どうしようもなく、むなしさを覚える。例えて言うなら、目の前に、バナナをつきつけられたサル。餌は目の前、だけど、エサとボク(サル)の間には、見えない壁(ガラス)がある。ボクは、エサ、食べたい。けど、ボク、エサ、食ベレナイ。
そんな感じ。
予言というのは、彼女にとって、その程度のものだ。先に起こること、絶対に変えられない未来をただただ、傍観しているだけの、「あたし、」 「あたしは、無力だぁ」
たとえば、今から、八年後、今日と同じくらいよく晴れた日に、 「友達だった、デコちゃんが、さらわれちゃうとかさぁ」知っているけど、止められないのだ。その他にも、いろんなこわいこと、知ってるけど、止められないのだ。 「あたしに使えるのは、ちっぽけな魔法ばかりなのだぁ」彼女は、天才だから、魔法が使えるなんて、当たり前。だけど、それだけだ。 「例えて言うならさ。予言なんて、背中のかゆいとこがわかるのと一緒。例えて言うならさ。予言なんて、展望台の上で、望遠鏡を眺めるのと一緒。背中どこが、痒いのかわかっても、そこに手が届かなきゃ、意味なんて無いし、望遠鏡の先に、百円玉硬貨を見つけたって、そこまで足が届かなきゃ、価値なんて無い」 「あたしは、傍観者にすぎないんだ。運命が見えたところで、運命を変えることができなきゃ、人生という表舞台に立つ資格なんて無いのだから。あたしは、観客でしかないんだぁ。他人の運命を眺めているしか、能のない、バカな魔法少女なんだから」
彼女は、小石を蹴り飛ばした。つまりさ、と彼女は愚痴る。 「あたしの――この物語での、あたしの出番、これでおしまいっ!てこと」
あたしは、ジュリエットじゃぁないのだ。
つまり、そーいうこと。
〈オレ〉たちの目的って何だ? 「そんなの、簡単だよ。わたしたちの目的は、人殺し。終夜お兄ちゃんにとって、目障りな、バカを殺して殺して、殺しまくることが、私たちの宿命。それが、たとえ、パパだとしてもね」うさぎは、アンニュイな表情でつぶやく。「あ~あ、どうして、よりにも寄って、パパなんだろう」
仕方ないだろ、運命ってそんなもんだ。 〈オレ〉たちは、列車から飛び降りる。線路の上には、砂利が敷き詰められてるし、貨車には、ステップがついてないしで、足の裏がかなり痛い。とがった小石が、安物の靴底に、きつく食い込む。 「ねぇ、これから、どうするの?」うさぎが訊いてきた。 「オレが知るかよ。お前のパパを探すんだろ?」ターゲットはうさぎの親父。どこへ行けば、パパに会えるかなんて、うさぎ自身が、一番知っていることだろう?
遠く。百メートルくらい先に、駅のホームが見える。きっと、列車は、〈オレ〉たちが乗っていた貨車を途中で切り離し、客車だけひきつれて、駅のホームに向かったんだ。駅の方からは、もくもくとまっくろな水蒸気がわきあがっている。
ここからでも見える。ホームにはでかでかと、〈中心都市東京〉の文字。 「ここが、東京かぁ」うさぎは感慨深げに、辺りを見回す。「……煙くさい」 「仕方ないだろ。大都会東京なんだから」 「東京なんて大嫌いだ」うさぎは、当然のように宣戦布告した。 「なんだよ、いきなり」 「東京なんて大嫌いだ」 「繰り返すなよ」 「けほっ…けほっ」とねこが、せき込む。 「ここから、離れるぞ」と〈オレ〉は命令する。いつから、〈オレ〉がリーダーになったんだ、と思うけれど、先導役がいなければ、話が進まない。線路の真ん中。しかも、こんなホームと近い場所で、何時間も戯れているわけにはいかない。〈オレ〉は、ねことうさぎを引き連れ、線路を越えてゆく。
線路は、背の高い金網のフェンスで囲まれていた。しかも、そのてっぺんには、有刺鉄線がぐるぐる巻きだ。これを乗り越える。というのは、正直、気後れする。
どこかに、抜け道がないものかと、探してみるけれど、見渡す限り、頑丈そうなフェンスで囲まれいる。無数のひし形の穴を形作る金網のフェンスは、巨大な蛇腹を連想させる。 〈オレ〉は溜息をついた。やわらかい掌が有刺鉄線で、ぷすぷすになる未来を想像した。
だけど、 「ひらけ、ごま!」その一言で、
まるで、トラックが猛烈な勢いでぶつかったみたいに、巨大な穴が、フェンスに空いた。 「何をしてるの?ねずみクン」呆れた表情で、うさぎがいう。彼女の左手には、極太の針金が、フェンスの一部が、毛糸玉のように、丸められ、握られている。「早くいこうよ?」 「あ、ああ」
うさぎのあとを、〈オレ〉は追った。 「急がないと。警察に見つかったら、器物損壊で捕まっちゃうでしょ」 「あ、ああ」
しばらくして、 「あ、そうだ」とうさぎが言った。唐突に、何かを思い出したみたいな、そんな声だ。「ねずみクンとねこちゃんは、ここで待っててくれる」 「なんだよ、急に?」 「ごめん、忘れ物したみたいだ。少し待っててよ、すぐに戻ってくるからさ」彼女は、来た道をそのまま、引き返していく。 「なんだよ…おい」
〈オレ〉たちは、ふたりっきりになった。ねこと〈オレ〉の二人きり。
春先だというのに、じっとりと汗ばむ街だ。〈オレ〉の前髪は、べっとりと額に張り付き、ねこは、相変わらず、「けほっけほっ」とせき込んでいた。
ハンカチがないので、鞄の中から、止血帯を取り出す。 「ほら、これ湿らせて、口覆っとけ」 「湿らせる……何?」 「濡らすってことだよ」
「……濡らすって…何?」 「あー、水をかけるんだよ、それに」さすがに、面倒臭くなる。〈オレ〉は、ぞんざいに水筒をつきつける。中には、ぬる~い、甘露が詰まっている。「ちゃぽんっ」 「ああ…なるほど…おめでとう」まだ、間違えてる……。 「…………」〈オレ〉たちは、沈黙した。特に、話すこともなかったし、共有できそうな話題なんて、思いつかなかったからだ。 「……ねぇ」 「なんだよ?」 「……なんでもない」 「おい……」 「………?」いや、やっぱいい。 「…………」 「……ねぇ」 「こんどは、何だよ」 「あそこにあるの、なに?」ねこは、ちょうど電信柱の下にある、小さな円筒形のものを指さしている。 「あれは、ゴミ箱だ」 「じゃ、あれは?」ねこは頭上を指差した。ものすごい勢いで、鉄塊が横切っていく。 「飛行機だ」 「ひこう…き…言いづらい」ねこは、困った顔をする。 「じゃ、有人浮遊物体とでも呼べ」適当なことを〈オレ〉は言う。 「もっと、言いづらい」 「…………」 「…………」
会話が途切れる。
途切れた会話を修復する。 「あー、実を言うとさ、オレも言いづらいことが、一つだけあるんだよ」 「……なに?」
それは、昨日、暗暗終夜から、聞かされたことだ。その話を聞かされた時、あの野郎、面倒なことを〈オレ〉に押しつけやがって、と憤りを覚えたが、今は、虚無感が大きい。 「なぁ、オレたちがここにいる目的って何だと思う?」 「…………」ねこは、黙りこっくている。口に出して、言いたくないのかもしれない。 「早い話が、人殺しだ。政府高官を殺すのが、オレたちの役目」ねこは、ペコリと頷く。「だったんだけど、昨日連絡が入ってさ、ある事実が知らされたんだ」 「それは…なに」 「ターゲットはすでに死んでいる。オレたちがここまで来たのは、骨折り損のくたびれ儲け」って、日本のことわざを使っても、ねこには、理解しづらいだけか……。「……というわけらしい」 「…………?」ねこは、何が言いたいの?って顔で〈オレ〉のことを見ている。 「だからさ、伝えづらいんだよ、うさぎにさ。それが、例えこれから殺そうとしていた存在だとしてもさ、やっぱり、親は親だろ。肉親がつい先日死んだなんて、オレには言いだしにくいんだよ」
つまり、そーいうこと。〈オレ〉は悩んでいる。 『あなたが、殺そうとしていた、パパは、とっくの昔に死んでますよ』なんて、台詞、〈オレ〉には、平然と言えそうにない。
ぼんやりとした空。真っ黒な大地。はるかかなたで、ウミネコがカァカァと鳴いている。潮のにおいが鼻をくすぐる。ほんのりと薄暗い不発弾の香りも。
タタタタッと、彼女が、両手にグレネードランチャーを抱えて駆け戻ってきた。 「おまたせ」の一言。だけど、次の瞬間『あれ?』と言う顔で彼女は首をかしげた。 〈オレ〉の悩みは杞憂に終わった。〈オレ〉が言うまでもなかった。彼女は父親の死を知った。 〈オレ〉たちの目の前にはブンブンと飛びまわる蠅たちがいて、
その中央で、
彼女はパパの死体を見つけた。
第二話、了
それがだれの顔だったなんて、覚えていない。ゆらゆらと揺れる大地。頭がくらくらと回転する。視界が妙に歪んで見える。四角いものが丸に、丸いものが四角に見える。 「ねぇ、パパ!」って誰かの声。耳鳴りのように、遠くから聞こえる。
それがだれの顔だったのかは、忘れた。けど、それが、男の人の顔であることは確かだ。 「ねぇ、パパ!」ってうさぎの声が、近くで聞こえる。 (さわぐなよ)と思う。
それがだれの顔だったのかは、忘れた。だけど偉そうな、スーツ姿の男だ。ネクタイは締めていないけれど、背広は羽織っている。 「ねぇ、パパったら!」すぐ近く、頭のすぐ横で、うさぎが喚く。
(おいおいおい……)〈オレ〉は動転していた。(どうして、お前がここにいるんだ!)
男だ。〈オレ〉の目の前で、成人男性が死んでいた。
ボロのスーツを着くずし。右手には、ミリタリーナイフ、左手には、マシンガンを握り、頭から血を流し、倒れていた。 (おいおいおい……どうして、こいつがここにいるんだ?)
父親。うさぎの父親。そう、父親、とうさぎの親父。二人の男が、路地裏に倒れていた。
再会した場所は、大都会東京の片隅。 「ねぇ、パパ!」 「ねぇ、パパ!」 「ねぇ、パパったら!」 (さわぐなよ。うるさいだろ?) 「死ん…でる?」ねこの疑問に、 「当たり前だろ?脳ミソをくりぬかれているんだから」〈オレ〉が答えてやる。
消えたはずの父親。母親が、タンスの裏にも、ベッドの下にも、どこを探しても見つけだせなかった父親、が、路地裏で、脳ミソをぶちまけ、倒れている。そして、彼の隣では、
うさぎの父親が、両手首から血を流して、倒れている。
手首が切り取られ、足首はよじれ、断面図からは、白い骨が覗き、 「あ、生きてる」
死に損ないが、蜈蚣か蚰蜒のようにのたうちまわる。 「でも、死んだ方がマシだろ」
そして、〈ぼく〉は、銃口を向けた。 「ま、待って」とうさぎが止めに入る。 「どうせ、長くはない。というか、こいつを殺すのが、オレたちの目的だ」
彼の手首は、〈ぼく〉の足元に転がっていた。〈オレ〉は、そいつを蹴飛ばす。手首に握られていた、アサルトライフルが、遠くへ落ちる。ポチャン、グガチャン、ばーんばーん。暴発したのか、へんな音。
びくんっ、と彼がのけぞる。相変わらず、昆虫じみた動きだ。
例えて言うなら、陸地で、無理やり背面クロールを泳いでみましたよって感じの動きだ。泳げてねぇ。
苦痛のあまり、理性が吹き飛んでいるのか、知らないが、 「あびぶほわっへ、くかちゃりらっじゅっくじゅっくっっ!!」
親父と同様、泥だらけスーツを着て、右手にはライフル、左手にはミリタリーナイフを掴まえて(だけど、彼はその右手と左手を手放した状態で)、よく解らない言葉をしゃべっている。 「死んだ方がいいよ、こいつ」〈オレ〉は、撃鉄を上げた。 「やめてよっ」うさぎは叫んだ。 「うるさい」〈オレ〉は一蹴した。 「やめてよ……」どうしてだよ?どうして、やめなくちゃいけないんだよ。〈オレ〉たちは、こいつを殺すために、ここまで来たんだろ?
藪医者と西宮は、〈オレ〉たちの行動を完全に把握しているに決まっている……。〈オレ〉の知らない、監視カメラが、〈オレ〉の体内に埋め込まれているはんだ。〈オレ〉の知らない盗聴器が、〈オレ〉の心臓に埋め込まれているはずだ。もう、後戻りなんてできないんだ。 『見逃そう』と言った次の瞬間。 〈オレ〉の右目は膨張し、〈オレ〉の頭部は膨張し、ゆで卵のからでも剥くように、〈オレ〉の頭蓋骨はひび割れ、〈オレ〉は死ぬ。〈オレ〉が殺されてしまう。だから、〈オレ〉は、寸分もたがわない精確さで、壊れかけの彼の額に銃口を向け、引き金を引かなくちゃ。
「ばんっ」
「ぱーん」とすがすがしい音が響き渡る。 「ばんっ」と鉛玉が吐き出される音と同時に、火薬が爆発する音が響き渡る。 「あっ」とねこの声。 「うっ痛いだろ……」と〈オレ〉の声がうつろに響いた。 「うるさいっ」うさぎは、俯いて怒鳴る。〈ぼく〉の頬は、腫れている。おもいっきしびんたをくらってしまった。「ねずみクンが、パパを殺そうとするからだっ」
うさぎが、さらに〈オレ〉を殴ろうとしたから、ねこがうさぎを組みふせた。
狙いのそれた、弾丸が、アスファルトにほくろのような穴をあけて、〈オレ〉が尻もちをついたすぐ横で、うさぎのパパが、ぐびんぐびん、動いていた。気持ちが悪い。
がらがらと瓦礫の崩れる音が響く。
五十メートルほど離れた、ビルディングのドテッぱらにには大きな空洞ができていた。うさぎがびんたした拍子に、飛び出した、〈オレ〉の左目(爆発物)が、『ばんっ』と効果音と一緒に、ぶち抜いた、穴が、今、崩落した。 「あ~あ、」と〈オレ〉はつぶやいた。「自由って、こんな味がするんだな」〈ぼく〉は、まだ子供で、煙草の煙とか、吸ったことはなかったけれど、煙草の煙も、きっと、こんな味なのだろうなと思った。胃液のような、酸っぱい味だ。
うさぎの父親を殺すのは、やめだ。
子供たちが、走っていた。 「あはははは……」と笑う。 「待ってよう」A子はB子を追いかけた。 「待ってよう」B子はC子を追いかけた。 「キャハハハ……」と笑う。
「あーー」と、彼は言った。「ぅ、あーー」と、彼は言った。
完全に知性を失った表情。瞳孔は、開きっぱなしで、焦点もあっていない。 〈オレ〉が巻いてやった、包帯からは、ぽたり、ぽたり、と血の雫が垂れている。 「パパ、何があったの?」とうさぎは、彼に尋ねた。
けれど、半開きの唇は、涎と、唸り声以外、なにも吐きださない。 「教えてよ、パパ。パパはどうして、ここにいるの?」 「…………」 「ねぇ、聞いてるの……?」
「……ねぇ、埋めなくていいの?」 「なにをだよ?」と〈オレ〉は訊いた。 「おじさんを、だよ。ねずみクンのパパ、ちゃんと、埋めなくていいの?」 「生憎、ここは、東京だ。ハゴロモ市じゃない。四方八方が、アスファルトで固められたこの場所で、どうやって、親父を埋葬すればいいって言うんだ?」 「手伝うよ?」 「何を?」 「埋葬」 「誰が?」 「わたしが」 「必要ない。埋める必要なんて、ない。放っておけば、誰かが、処分審してくれる」 「だけど、」 「だけど、何だよ?」 「本当に、そう?どこかの誰かが、そんな親切なことしてくれると思う?」 「どういう意味だよ?」 「この街は、フツーじゃないってこと……」
「あ~あ、これからどうしようか?」と、彼女は〈オレ〉に訊いた。彼女とは、うさぎのこと。〈オレ〉の隣には、ねこもいて、思案気に、〈オレ〉の顔色をうかがっている。「終夜お兄ちゃんの命令に背いて、パパ、助けちゃったし、助けたパパは、パパで、お礼も言えないくらい、幼児退行してるし」
どこにでもありそうな、公園のベンチに彼女は座っている。〈オレ〉がいるのは、その隣。ねこは、いつのまにか向かい側の鉄棒の上に、腰掛けて、〈オレたち〉を見ている。
話題の男は、滑り台の上に、寝そべっていた。冷たい鉄板の上で、気持ちよさそうに、腹ばいの姿勢だ。スーツ姿なだけに、不審者だった。
すでに太陽が落ちた、濃い藍色の空には、まんまるいお月さまがのぼっている。 「この街は、フツーじゃないよ」うさぎが言った。今日、何度目かの言葉だ。 「フツーじゃない……そりゃ、都会なんだから、ハゴロモ市とは、違」 「そういう話じゃないよ!」うさぎが、怒鳴るように言う。 「なんだよ、急に、大声出すなよ」
滑り台の上の、彼が、不安げに、キョロキョロオドオド見回してるじゃないか。 「どうして、ねずみクンは、気付かないのかな?」 「だって…ねずみは…鈍感…だから…」 「なんだよ、ねこまで」 「…………」ねこは、黙りこくる。 「この街は、十分変だよ、着いて早々、君のパパは死んでるし、わたしのパパは、馬鹿になってるし、だいたい、パパたち二人以外、誰とも出会ってないし」
駅には、何人か人間がいたようだけれど、それっきりだ。
日没後だからだろうか、見渡す限り誰もいない、シンっと静まり返った、大通り。高層ビルや高層マンションが立ち並ぶ中、場違いに存在する児童公園の中で〈オレ〉たちは、途方に暮れている。 「変な…臭いが…する」ねこがつぶやいた。 「変な…臭い?」〈オレ〉の問い掛けにうさぎがこたえた。 「そう、腐蝕の臭い…この街には、腐蝕の香りが漂っているの。この街には、もう誰もいない。だって、こんなにも、人の腐っていく臭いが充満しているのだから」彼女は、両手を広げて、息を吸い込む。 「変なにおいってなんだよ。わけわからないこと、言うなよ」〈オレ〉の言葉に、ねことうさぎは、きょとんと顔をゆがませた。〈オレ〉には、そんなにおい、一切感じられないのに。 「わけわからないことを言ってるのは、君の方だよ」〈オレ〉は怖くなった。理解できないことを、うさぎは呟く。「どうしてねずみクンは、この臭いに気付かないの?」 「わけわからないこと、言うなよ!」〈オレ〉の怒鳴り声に怯えたのだろうか。滑り台の彼も、叫び始めた、 「あびぶほわっへくかちゃりっ、じゅくっじゅっくっっ!!」 「わけわからないこと、言うなよ!」〈オレ〉は拳銃を掴み上げると、彼に向けた。「この街は、へんかもしれない。だけど、あなたたちの方が、もっと変だ!」 「興奮…良くない」 「興奮しないでよ」 〈オレ〉が、振り回す拳銃を、うさぎは、軽々と取り上げた。〈オレ〉が、振り回す、両手を、こともなげにひねり上げる。 「落ち着いて聞いてね。臭いがするの。どこか、近くで、人間の腐食していく臭いがするの」うさぎが吐息を吐く。「腐食の臭いがするというのは、たくさんの人が死んでいるということ。だって、生きている人は、めったなことで腐らないから」
子供たちが走っていた。 「待ってよう」C子はE子を追いかけて。 「待ってよう」E子はF子を追いかける。
子供たちが遊んでいる。
と、だ。 「あっ」と彼女が声を上げた。 「どうかしたの?A子ちゃん」少女たちは立ち止った。 「ほらっあれ!」 「あれ?」 「あれってどこさ?」 「東京タワーなんてゆびさしてさ?」 「そうじゃないよ。東京タワーの、そのとなり!」 『あっ』と彼女たちは息をのむ――流れ―― 「ながれぼしだ……」と思ったら、巨大な爆弾だった。次の瞬間には、辺りは、火の海と化す。
「とりあえず、」と〈オレ〉は言った。 「とり…あえず」かみしめるように、ねこが〈オレ〉の発音をリピートする。 「とりあえず、オレたちは、ここから離れるべきだよな。ねことうさぎ曰く、嫌な感じ」 「変な感じ、つまり、フツーじゃないってこと」すかさずうさぎが訂正する。 「うん、変な感じ。この場所は、変な感じがするわけだし、だいたい、藪医者を裏切ってまで、あいつを助けた以上、あいつらから逃げなくちゃならないしさ」
ぷぅ――うさぎがすねた顔をした。 「暗暗さんって呼びなよ。藪医者じゃなくて」 「どうだっていいだろ、あんなやつ。だって、あいつは」母親を殺したし、それに……と言おうとして、言葉を区切った。
グゥゥウと、〈オレ〉の腹がなったからだ。 「あはは。そーいえば、朝に缶詰を食べたっきり、何も食べていなかったもんね」 「とりあえず、飯にするか」どうして、お前らは、腹が鳴らないんだよ。ふてくされた気持ちで、そう提案する。
笑うなよ。
それにしても、誰もいない。こんなにマンションがあって、ビルも建っているのに、店内には、客はおろか店員さえいなかった。
コンビニの中。 「だから、死んでるんだって。みんなみんな腐って死んでるの」〈オレ〉の隣で、スナック菓子を二三箱みつくろいつつ、うさぎはつぶやく。 「そんなわけあるかよ」根拠のない〈オレ〉の反論に、彼女は肩をすくめる。
人はいないけれど、機械はちゃんと働いてるのか。春だというのに、微妙に冷房の利いた店内は、肌寒い。 「ねぇ、パパ」 「うーあーー?」 「そこの棚の上、取って」
缶ジュースを指さして、彼女は言う。 「あー、うー?」 「いや、缶チューハイじゃないって。子供に何のませたいのよ、パパ。その隣だよ」
店員が不在なのをいいことに、というか、すでに店員が死絶えていることを確信しているうさぎは、傍若無人に店内を物色する。
手首のない、彼の腕がぼとり、ぼとりと商品をつき落す。
まるでクレーンゲームだな。だけど、プレイヤーが下手くそだから、目当ての景品はなかなか落ちてこない。いや、逆か? 「もう、パパ。エッチな本見てないで、ジュース取ってよっ」
――プシュッ。
と、プルタブが開く音がした。ごくり、ごくりと液体を嚥下する音。 〈オレ〉の背後に、ねこがいた。
ねこは、ぼんやりとした顔で〈オレ〉を見ている。 「どうかしたか?」 「ん~ん」ねこは首を振る。けど、「あっ。やっぱり…ねこ…どうかする」ブンブンと首を振りもどす。ねこは、こっちこっちと手招きした。 〈オレ〉が立ち止まると同時に、ウィンッっと、自動ドアが開いた。夜風がザァっと吹き込んでくるけれど、室内も屋外も同じくらいの寒さで、室温は、あんまり変わらない。
出入り口のそばには、ビニール傘が置いてあった。
そばに立つ、ねこの手には、飲みかけの缶ジュースが握られていて、 「ねぇ、ねずみ…あげる」と強引にアルミ缶を押しつけられる。 「サ、サンキュー」別に欲しくはなかったし、同じものなら、あと二十本くらい、店内に置いてあった気がするけど。 「ねぇ、ねずみ…文字読める?」と唐突にねこが尋ねた。 「ほんの少しなら、読めるけど……」 「なら…教えて。それあげたお礼…ねこに教えて」ねこの両手には、いつのまにか新聞紙が握られていて、それをバッと〈オレ〉の前にかざしてみせる。 「…………」〈オレ〉は、黙りこくってしまった。
というか、黙りこむほかなかった。 「…………」ねこは、新聞紙の上に、指をさして、「これ…読める?」彼女は、文字を指さた。
〈オレ〉は、困ってしまう。〈オレ〉は、心底困り果てていた、
だから、これは、苦し紛れだ。 〈オレ〉は、突如魔法使いになり、 「……ツたジュウ…クコいちギャクレ」と、自分でも良く解らない呪文を唱えた。 「にゃあ」わけのわからない、ねこは、困惑して、「にゃあ」と鳴いた。 〈オレ〉が唱えたこの呪文は、きっと、窮地に立った魔法使いを救ってくれる魔法の呪文なんだ。きっと。
瞼をぎゅっと閉じ、そう信じ込むけれど、信じたところで、どうせ何も変わらない。
瞼を開けても、無能な自分を見つめるだけだ。
小学一年生の〈オレ〉に読めるのは、ひらがなとカタカナとほんのわずかな漢字だけだ。ねこが、指さしたのは、〈オレ〉の苦手な漢字だった。ねこの期待に添えないのは、なんだかとても、やな気分だけれど、 「ごめん、わからない」というほかない。
お手上げだよ、と両手を上げる。 「だけど大丈夫。ねこには…読める…から」ねこの口元が笑っている。
ねこが指さした、二文字の熟語。その『戦争』という形の文字は、『人殺し』という意味だそうだ。ねこが、そう教えてくれた。
わたしは、もじゃもじゃと線の多い字は読めるから、この『あ』だとか『カ』だとか、線の少ない文字を教えて、読んでっ
みたいなことを、ねこは言った。
わたしは、あなたが必要なのです、
みたいなことを、ねこに言われた。
なんとだか、照れる。 『わたしは、あなたが必要なのです』 (中国人だから、漢字が読めるというのは、安直な設定だけど)とうさぎは小声で呟いた。
あたりは、火の海だった。火星に降り立った最初の宇宙飛行士のように、子供たちは、呆然と立ち尽くしていた。 「なにこれ?」 「どーゆーことぉ?」 「耳がジーンッてする」 「せっかくのながれぼしだと思って、」 「たくさんおねがいごとしたのにさ」
ペって、唾を吐くと、ジュッと音を立てて蒸発した。まるで、焼け石に水って感じだ。
それにしても、と〈オレ〉は思った。 「こんな時に、わざわざ新聞なんて読まなくてもいいのに」 「新聞なんて、オトナが読むものだ」 「子供は、絵本があれば、十分だし。ニュースならテレビが教えてくれる」テレビなんて、どこにもないけど……。藪医者にさらわれて以来、もうテレビを見ていないけど……。だけど、もしもテレビを見れたなら、テレビはきっと教えてくれるはずだ。 「東京で起きた事件のこと。もう何年もむかしから始まっていた事態のこと」 「結局、テレビは教えてくれなかったけれど、新聞は教えてくれた」
やれやれと、〈オレ〉は肩をすくめる。 「こんな事実知りたくなかった」 「なんだよ、これ……」目の前が真っ暗になった気分だ。いや、多分だ。きっと、現に真っ暗なんだと思う。新聞紙の次のページをめくった途端、真っ赤な写真が目に映ったから。
見たくないものを、〈オレ〉は見ない。〈オレ〉は、自然と目を閉じた。真っ暗。
『本日未明』という文字をさして、ねこは言った。 「今日…朝」ねこはそう解読した。 『本日未明』という文字の次に『に、』という記号が続いていた。だから、〈オレ〉は、 「今日の朝に」と、口語訳した。 『東京都○○区』という文字をさして、ねこは言う。 「多分…地名」ねこはそう解釈した。 『は』という記号が〈オレ〉の視界に入る。 「今日の朝、とある場所は」〈オレ〉は意訳した。間違いだらけの訳文だった。 『爆撃』という文字が紙面を踊る。 「攻撃」ねこは簡潔に、ことばの本質を言い当てる。 『された。』という、記号がそのあとに続くようだったけれど、これは、わざわざ解釈する必要もない記号だった。
だから、次の文に、視線を移す。 『死者』 「死体」 『数千万』 「たくさん」 『行方不明者』 「消えて無くなった人」 『推定数十万人規模』 「もっと…たくさん」 「これは」と〈オレ〉は言った。 「人殺し」とねこが言った。 「である。」 『我々(わたしたち)』 『の』 『敵』 『は』 『人類(わたちたち)』 『の』 『敵』 『である。』 『本日未明』と始まるくせに、一週間前に発行されたその新聞は、水で滲んでいた。きっと、その日は、雨だったのだと思う(ビニール傘も置かれているし)。きっと、激しい横雨のせいで、入口近くに置かれていた新聞紙は、湿ってしまったのだと思う。
だから、これは、その次の文章じゃない。滲んで読めなくなった文を飛ばして次の文へ。 『アメリカによる』 『爆撃(攻撃)』 『は』 『失敗(不十分)』 『に』 『終(止まる)』 『わった。』 『我々(わたしたち)』 『は』 『次(二番目)』 『の』 『一手(片腕)』 『を(で)』 『打(殴る)』 『たなければならない。』 『わたしたちは、二番目の片腕で殴らなければならない……?』疲れてるんだきっと。意味不明な訳文ができた。それ以前の訳文も意味不明な気がするけど。 「休むか?」と提案すると、 「うん」とねこはうなづいた。新聞紙の上を這わせていた人差し指がインクで真っ黒に汚れていた。運のいいことに、すぐそばには、ミネラルウォーターが転がっていたから、それで洗い流した。 「おっと」手が滑って、思わず、水が新聞紙の上にこぼれた。新聞紙上をみるみる水が広がっていく。インクは溶け出す。墨汁を十倍希釈したような色の液体が、〈オレ〉の足元に広がっていく。
記事の隣のカラー写真が、一瞬にして水墨画に変わった。
水を含んだ文字は、ぶよぶよに膨れ上がって、甲骨文字より意味不明だ。
まぁ、いっか。気になる記事は読み終えたのだし。いつまでも、時間をかけて新聞を読んでる場合ではないのだから。 〈オレ〉は、そうためらいを振り切ると、水にぬれた灰色の紙切れを部屋の隅へと蹴り飛ばした。 〈オレ〉が、新聞の片隅には『水根誠二他、義勇兵玉砕』とかいう、〈オレ〉には、読めない文字が躍っていたが、気にしないでおいた。水根誠二とは親父の名前だ。
子供たちは、相変わらず、
火の海にいた。
というよりも、他に行き場がないのだ。
爆心地は、東京都港区芝公園にある電波塔から、少し東にずれた家電量販店の屋上だった。家電量販店の屋上駐車場を突き破り、数秒後にそれは爆破した。
その炎は、たちまちのうちに、彼らの視界を覆い尽くした。 「ねぇねぇ、見てみて」 「なによ、A子」うんざりとした顔でE子がこたえる。 「誰かいるよ、ほらあそこっ」 「ほんとだぁ、おっさんがいる」
あれほど、生茂っていた高層建築物は、爆風でなぎ倒され、四方八方焼け野原のこの東京に、防護服(耐火服?)姿の男がひとり、佇んでいた。 「ねぇ、おっさん、何してるの?」あどけない表情で、B子が尋ねる。
だけど、おっさんは、言葉が通じない。右肩に結わえつけたトランシーバーに、何事か、喚き散らす。 「ねぇ、異人さん。あなたは、ここで何をしてるの?」男は右手に銃口を構え、A子の下顎に向けて、トリガーを引いた。まるで児童性愛者のような台詞を男は吐きながら。 「Fuck…(だけど銃声にかき消される)
ぽろり、とそっけなく右耳を払い落すと、当然ながら、彼女は呟いた。 「ねずみ…耳とれた…よ」 「いや、別に」と、肩をすくめてごまかしてみるけれど、そんなことで納得してはくれるねこではない。「右耳に偽造した無線機なんだ、それ」 「ふぅん」一瞬、ねこの目が丸くなった。驚いたらしい。「それ…もういらない?」 「うん。要らない。暗暗と連絡を取る必要はもうないから」 「じゃあ」
といって、彼女は、右耳を思いっきり踏みつけた。何度も何度も踏みつけた。鉛筆削り機に無理やり小指を入れた時のような音がして、合成樹脂が破け、中身があらわになった。
ねこは、中身を取り出すと、 「これ…ちょうだい」 「別に、いいけど」 「ごちそうさま」と間違った日本語で、ねこはこたえる。 「ねぇ、二人とも何してるの?」ベンチの上でコンビニから持ち出した菓子を仕分けしていたうさぎが横やりを入れた。滑り台の上では、缶ビール三本で酔っ払った彼が横たわっている。 「さぁ?」と肩をすくめる〈オレ〉の隣で、ねこは必死に無線機の周波数を合わせていた。
つまみを弄り、ボリュームを最大にした。 「ピガー、ガー」と発情期のカラスのように無線機はわめきたてる。 「何してるんだよ?」と尋ねると、 「助けを…求める」 「誰に?」 「オトナに」
そもそも、助けってなんだよ。べつに誰かに助けてもらわなくちゃならないような状況じゃないだろ。 「ピガー、ガーガー」なかなか、周波数が合わないのか、ガーガーと、雑音ばかりを垂れ流される。と、ようやく、周波数が合ったのか「□□□□□」と〈オレ〉の知らない外国語が、受信機から飛び出してくる。って、よく考えてみたら、〈オレ〉の右耳は、あくまで、受信機だ。送信用のマイクは〈オレ〉の口内にある。 「おい、ねこ」と叫ぼうものなら、『□□□□□』といった相手は、意味不明だ。日本語のわかる外人は滅多にいない。
ねこは、機械の仕組みを理解しきれていないのか、受信機に向かって大声で喚いている。 「おい、ねこ。マイクならこっちに」っておいおい、マイクは〈オレ〉の奥歯に埋め込まれているのだ。受信機のように、取り外して使うことのは無理だ。〈オレ〉が代わりに会話をしようにも、言葉が通じない。
どんなに一生懸命訴えても、一向に意思の疎通が取れない。困り果てたねこは〈オレ〉を見つめた。
と、だ。 「ズドォン」と受信機から銃声が聞こえたかと思うと、『□□□□□!』という声は、急に黙りこくってしまった。
男の放った銃弾は、A子の下顎を見事に打ち抜いた……下顎を破り、A子の口内に侵入した鉛玉は、五本の永久歯と十六本の乳歯を打ち砕き、破壊した……まるで、コルク栓の抜かれたワイン樽のように、彼女の顎からは、血が溢れ出す――はずだった。 「ア…ア…アァ!」顔の下半分が破壊されているのだ。声が言葉になるはずがない。 「ねぇ、おっさん、なにをするのさ」 「大丈夫?A子ちゃん」とB子は問い詰め、C子は心配した。 「う、うん。大丈夫。へいきだよ」とA子は立ち上がり、C子を安心させる。 「ふぅ~ん、わかった」E子は、冷たい目でそう呟き、 「オジザンは、わたしたちのテキなんだね」F子は、見放すように彼に言った。 「ア…ア…アァ……!」言葉にならない。彼の言葉は声にならない。少女を殺しそこねたことよりも、自らが負傷していることの方が、驚きとしては大きいかった。彼の下顎は、一瞬にして打ち砕かれた。彼は悲鳴を上げたかったはずだ。だが、悲痛が悲鳴にならない。
彼女の靴は、汚れていた。真っ赤な血で汚れていた。俺の血だ、と男は思う。
彼女の手には、汚物が握られていた。俺の顎だ、と男は思う。
彼女の目は悲しい色をしていた。 「ねぇ、おっさん。なんでこんなことするの?」
彼女は、傷口を抑えうずくまる男に話しかけた。 「もし、万が一、A子ちゃんの顔に、きずでものこったらどうするつもり?」 「ァ…ア……?」 「ばくだんを落とした上、こんなことするなんて、ひどいよ」 「死ねばいいのに」と誰かがつぶやく。「殺そうよ。こんなやつ」 「うん。そうだねフツーの人間は、殺して殺して殺しちゃえばいいんだ」
全会一致で、殺人が可決されていく。だが、(死にたくない)男は思う。だいたい、彼がここにいるのは、死ぬためじゃない。殺すためだ。(化け物を殲滅するために、俺は…) 「じゃあ、だれが殺そうか?」 「じゃあ、どうやって殺そうか?」 「じゃあ、いつ殺そうか?」 「じゃあ、どこで殺そうか?」 「じゃあ、わたしが、今、ここで、蹴り殺すってのはどうかしら?」A子が提案すると、みんなはそれがいいね、とおざなりに追従してくれた。
男の身分は、軍人だった。軍人としての彼の任務は、爆撃後の東京での事後処理。生き残りは容赦なく殺せ、それが、某国につかえる彼の使命だった。日本の旧首都〈東京〉に巣くう不都合な人々を殺しつくすことが、某国ひいては人類の本望だと、男は聞いていた。
楽な仕事だ、と聞いていた。爆撃で死に底なった残党狩りなど。だけど、 (楽な仕事じゃなかった……)
男は、顎を抑えるふりをしながら、懐に隠し持っていた手榴弾をまさぐった。自爆をしようというわけではない。少しかっこわるいが、自爆されたくなかったら、俺を見逃せとジェスチャーするつもりだ。 (殺すのは好きだが、殺されるのはまっぴらだ) 「ア、ア…」と、手榴弾を取り出し、掲げて見せたのと、 「じゃあ、そういうことで」と、A子が男の前に立ちはだかったのは、同時だった。A「ふ~ん」彼女は、男の手榴弾を見て、笑った。 「殺したあと、食おうと思ってたけど、やっぱり、や~めたっ」
彼女は、男を蹴りを入れた。
男は、手榴弾のピンを抜いた。
男ごと、空高く蹴りあげられた手榴弾は、しょぼい花火のように、「ぼんっ」爆ぜて…… 「あっ」彼女は、蹴りあげた拍子に、靴を蹴り飛ばしていた。しばらくして、靴はひゅうぅと音を立てて落下した。縁起の悪いことに、靴は上下が逆になっていた。(あしたは、雨がふるみたいだ……)
……男ごと、天高く蹴りあげられた手榴弾は、しょぼい花火のように、「ぼんっ」爆ぜて、男の体を血の雨に変えた。
――シンっと静まり返っていた街に響き渡った、一発の銃声。そして、それに続く爆音。
公園の樹々に、寝泊まりしていたカラスたちがバタバタと、飛び上がる。
おい……。
おいおい……。と〈オレ〉は思った。近いぞこれ。銃声からして、いわゆる拳銃のような生易しいものじゃない。警官が使うそれではなく、軍用に開発されたそれだ。 「近いね」とうさぎが言った。「無線機から、銃声が響いて三秒後に、生の銃声が聞こえたってことは、ここから約340×3メートルの地点での発砲というわけだ」
彼女の計算式が正しいのか〈オレ〉は知らない。
問題なのは、街中で銃器を放った彼が、誰なのかということ。彼が〈オレ〉たちを見つけるかどうかということ。彼が何に向かって攻撃したのかということ。
それから、 「騒ぐのは駄目…大丈夫だから」銃声と爆音に驚いた滑り台上の彼が、ねこになだめられている。ねこは優しくなだめるけれど、彼は、不安で不安でたまらないのか、今にも泣き叫びそうな、涙でぐしょぐしょの表情をしていた。オトナのくせに。スーツ着てるくせに。
銃をぶっ放した奴が、敵かどうかわからないけれど、軍用兵器を携えてる奴とは、できるだけ関わりたくない。 「血のにおいがする。血のにおいがするよ」 「一キロ先の銃撃だろ?血のにおいなんて、届くはずないだろ」 「届くもん。鼻のいい、わたしにはわかるよ」
眉唾もののうさぎの主張に〈オレ〉は肩をすくめる。 「で、これからどうする?逃げる、隠れる調べに行く?選択肢はこの三つ」 「――大丈夫だから…ほら?」滑り台上でねこは泣き虫の彼を抱き上げて見せる。どちらかと言えば、やせ型の少女が、七十キロ近い成人男性を抱き上げて見せる。 「あ~あ」とうさぎが言った。「パパ、泣き上戸だから」諦めのこもった声だ。 「あ…」〈オレ〉は、その光景に……、
意味もなく、怒りを覚えた。体中震えるような怒りだった。
甘えるなよ。オトナのくせに。(と思った)
おっとっと、とねこがよろける。
甘えるなよ。オトナのくせに。(なんだか、嫌気がさした) 「ふぁっふあっ」と、しゃくりあげるオトナをねこが抱きしめていた。
気がつけば、〈オレ〉は、拳銃を取り出し、彼に向けていた。 「ダン!」まるで、風船が破裂するような音がして、彼の耳元を弾道が通り抜ける。
彼は、一瞬キョトンとした顔をした、 (ねぇ、僕になにしたの?) (ねぇ、僕になにしたの?) (ねぇ、僕になにしたの?)とでも言いたげな顔をした。
拳銃をぶっ放して、きっかり三十秒後に、彼は泣きだした。 〈オレ〉はただ呆然と、
オトナの肺活量で、全力で叫ばれたら、こんなにうるさいんだって、思い知った。 「ねずみぃッ」と怒鳴るうさぎの顔が、こわかった。
「甘えるなよ。オトナのくせに」 「オトナのくせに。甘えるなよ」
A子は、落ちていたトランシーバーをゆっくりと拾い上げた。 「オトナのくせに。甘えるなよ」 「甘えるなよ。オトナのくせに」
A子はつまみを調整する。水根マコトの独り言が、明瞭に聞こえてくる。
そして、 「ダン!」という銃声。 「ぺろり、ぴちゃぴちゃぴちゃ……ねぇ、A子ちゃん?」 「ガツッガツッ。クチャクチャクチャ」 「ミチャメチャ。メチャミチャ」 「にちゃぁ~あ。ジュルル。ジュルル」 「ぴちゃぴちゃ……ねぇ、A子ちゃん、どおかしたの?」 「ガリガリッ。ぐちゅげちょ」 「ンチャンチャ。ばくばく…ごきゅり」 「チュル。ちゅるぢゅるちゅうちゅう」 「……さっきから、キカイをいじってばかりで、ぜんぜん食べてないみたいだけど?」C子が、不思議そうに、心配そうにA子を見つめる。「もしかして、さっきうたれたところが、まだ痛むとか……」 「ん~ん、大丈夫。そういうわけじゃないから」そういい、彼女は、C子を安心させるように、地面に落ちていた肉片を、しゃぶるように口につっこむ。 (本当は、こんなばくだんでやけた死体より、生肉が食べたいんだけどな)彼女は、つい先ほど殺した男の欠片にしゃぶりつきながら思う。
――そして、三十秒経過。
A子は、余りのうるささに、トランシーバーを破壊する。 「ガリガリ……もぉ、うるさいなぁ」と文句を言うB子。 「ばくばく……ん、んん!」音に驚き、肉をのどに詰まらせるE子。 「ちゅうちゅうちゅ?」相変わらず骨をしゃぶっているF子は、視線で疑問を投げかける。 「Eちゃん、だいじょうぶ?」 「B、B子。み、み、みず~ぅ」落ちていた頭蓋骨を切り裂くと、まるでヤシの実のように、甘ったるい脳漿があふれ出す。「ぷはっ、生き返ったぁ」 「…………それにしても、A子、今のは、何なの?」
B子の質問に、A子は小首をかしげて、考え込み、 「たぶん、わたしたちのつぎのえもの」
心臓の音が止まるくらい息をひそめて、耳をそばだてると、微かだけれど聞こえてくる。 「ぅぁぁぁ……」みっともないオトナの鳴き声が。 「こんどは、なまにくがたべれるかもしれないね」
「なんで?」とねこは言った。「なんで…こんなこと…する?」
まるで、無声映画でも見ている気分だった。彼の鳴き声が激しすぎて、ねこの声が聞きとれない〈オレ〉は、目をこらして、字幕を見つめる。 「おかしいよ…ねずみ」ねこの唇の動きを解読する。いわゆる、読唇術という技術だった。
……おかしいのは、〈オレ〉じゃない。彼の方だ。そして、泣き叫ぶ彼をかばう、ねこだっておかしい。うさぎだって、おかしい。〈オレ〉に乗るなよ。重たいだろ?彼女は、〈オレ〉の腹に馬乗りになり、〈オレ〉の手からもぎ取った拳銃を、〈オレ〉の頬に押し当てていた。彼女の怪力なら、拳銃なんて無くたって、〈オレ〉を無力化できそうなものだが、痛いくらい銃口を〈オレ〉の顔面にめり込ませ、ぎちぎちとばねの引き伸ばされる音が響くくらい、引き金に引いていた。だけど、おあいにくさま。そいつはもう、弾切れだ。子供の手でも扱える〈オレ〉専用の拳銃は、超小型化の為に、弾薬数が極端に少ない。今日一日で二発も消耗した。もう、品切れだ。うさぎは、そのことを知っているのか〈オレ〉はしらない。〈オレ〉は、おかしくない。おかしいのは、オトナのくせに、泣き叫ぶ彼と、子供のくせにオトナを庇うねこと、空の鉄砲で、〈オレ〉を殺そうとしている、うさぎだ。〈オレ〉は、おかしくない。
あいにく、頬をおさえられているため、〈オレ〉は、思いを言葉にできない。ねこも、〈オレ〉同様、読唇術が使えるのか知らないけど、どちらにしろ口を動かせない〈オレ〉の気持ちは、ねこには伝わらない。 「ねずみは…いけない子。弱い者いじめ…ダメ」
どうでもいい話だけれど、こうやってまじまじと眺める、彼女の唇は、なんだかやわらかそうで、なんだかやわらかそうで、なんだかやわらかそうだ。はじめてだよな、こういうふうに、ねこの顔を眺めるなんてこと。
そういえば、今日は満月で、曇りのない空では、最大限の月の光が〈オレ〉たちを照らしていた。 「ねずみは…間違ってる」滑り台の上から、ねこは〈オレ〉を見下ろしている。
子供たちがいる。子供たちが三人、真夜中の公園で野宿している。男の子が一人に、女の子が二人、楽な獲物だ。
と、彼女は思った。
オトナも一人もいるけれど、ただの飲んだくれだ。数には入らない。 (だいたいさ、)と、彼女は思う。(わたしたちは、ばけもの。人間なんてもののかずじゃないのよ)
そう、彼女たちは、化け物。それは、子供でありながら、米国の職業軍人を虐殺したことからも、殺した彼をむさぼり食ったことからも明らかだ。子供の歯では、軍人の筋肉は切り裂けない。子供の顎では、オトナの大腿骨をかみ砕けない。 「ころそうか」 「ころそうよ」 「ダメ、ぜったい!」と彼女が叫んだ。 「どうしてさ?」 「いきたままたべたほうが、おいしいにきまってるから!」 「ふぅ~ん」と、B子は、F子をからかうようにいった。「Fっちゃんは、もしかして、あの男の子がきにいったのかな?」 「へぇ、Fちゃんは、あぁいう子がタイプなんだ?」E子もいぢわるそうな顔をして追従する。 「ちがうって!そーいうんじゃないよ」とF子は、反論するけれど、二人は信じてくれない。 「ん~ん。ちがわない。だって、あたしたちにとって、生きたままたべる――生きたままだれかの血をすするってことは、あたしたちと同じばけものにすることなんだから」 「そーだよ。生きたまま、たべるのは、わたしたちのなかまになってって心からのお願いなんだから」
F子は、あの子とともだちになりたいんだよね?と二人揃って、念押しをする。 「う、う~ぅ」 「狼男のように唸らないでよFっちゃん」 「むゥ……」 「ゾンビのように呻かないでよFちゃん」わたしたちは、吸血鬼なのだから。(いや、吸血鬼って、ゾンビの一種だっけ?) 「あ~あ」とF子は、溜息をつく。そして、二人のとんでもない勘違いを肩をすくめて彼女は許す。「カン違いしないでよ、二人とも。わたしがきにいったのは、ベンチのそばのあの女の子!男の子にうまのりになってあばれてる、あの子を、わたしは、いもうとにしたいの!」
他に異論はなかったから、
彼女たちは、F子の願い通り、男の子と女の子とオトナを殺して、残った女の子の生き血を抜くことに決めた。
一秒後、公園は血の海と化し。
二秒後、世界は刷新された。
第三話、了
随分と昔の話だ――〈ぼく〉が生まれて数年後のこと。
月見里安雄こと、うさぎの父親は、数年後襲撃を受ける(ちなみに、彼は命を落とす)東京の公園にいた。つまらなそうな、なに一つ、やるべきことを思いつかないような顔をして、真昼間に公園のベンチを占領している。こう見えて、彼は国家公務員だった。
よれよれのスーツを着て、ぼろぼろのスニーカーを履いて、 「俺は、一目見てホームレスって感じなんだよな」と、彼は呟く。
彼自身、自覚している。
彼の不格好な姿には、理由がある。
服がないのだ。というか、鞄も靴も帽子もネクタイも、大抵の物品は、今の東京では、不足している。一言で言えば、物不足。
彼の目の前で遊んでいる子供たちは、着の身着のままという感じの、露出狂一歩手前のなりをしている。 「困ったことだな」と彼は頭を掻く。彼がホームレスでない証拠に、フケはいっさい落ちてこない。
極端かつ大規模な物不足。その原因は、日本が鎖国をはじめたからだ。日本にとって、もはや、世界は存在しない。とはいったものの、日本には、一億人の人間を十分に養える生産力などはなからなかったらしい。 「鎖国した理由を知りたいって?」安雄は誰も訊いていないのに、勝手にしゃべりだす。「大陸にとある病が蔓延したんだ。その病気のせいで、大陸では、たくさんの人たちが死んでね、そーいう病気を持ちこませないために、国は大陸諸国と一切の交流を禁止したんだ。でもって、行政が実施したってわけ」つまらなそうに、安雄は呟く。独り言のやばい男だ。「ちなみに、その病名は、」そばで遊んでいた子供たちが彼のそばから離れていく。 「オニイサン、完全にイっちゃっテルネ。モット、タノシイクスリ、ほしくナイカイ?」どこからともなく、大陸由来の密売人が現れ、彼に幻覚物質を勧めた。 「いや、大麻は、昔やったが、どうにも体に合わなくてね」 「ソウカイ、ザンネンダネ」 「すまないな。」そう言うと、密売人は、肩を落として去っていく。安雄同様、ぼろぼろの服をした密売人の背中は、なんだか、寂しげだ。「ええっと」安雄は口ごもる。「あっ、そうそう、その病名は、」 「吸血症。伝説上の化け物であるヴァンパイアと酷似した症状を示すため、こう名付けられた謎の病」突然現れた白衣姿の男が、彼の台詞を奪い取る。「おい、売人!チョコをひとかけ売ってくれ」 「終夜遅いじゃないか」という安雄の言葉と、 「マイドアリッ!」という外人の声が混然と混ざり合い、よくわからない音になる。その上、ミーンミーンと蝉の声まで響き渡る。 「なんかいったか、安雄?」代金を支払いながら、暗暗は尋ねる。 「遅いじゃないか」 「別に、いいだろ。大した用でもないんだから。――売人ちゃん、俺、ライター持ってないの。火ぃかしてちょ」外人に借りたライターで、点火すると、暗暗は、深々と煙を吸い込んだ。まさしく紫煙というヤツで、紫色の煙が、彼の鼻から溢れだす。「で、どうして俺を呼びだしたんだ?」
意味もなく、安雄は溜息をつく。 「アハハハハ」と、遠くの方で、子供たちの歓声が響く。彼らは鬼ごっこでもしているのか、きゃっきゃと騒ぎながら公園中を駆け回る。 「つい、先ほど、吸血症発症患者が見つかった」 「ミーン、ミーン」というセミの声。 「ふーん、」暗暗は無感動につぶやく。「どうせ、そんなことだろうと思ったよ」 「アハハハハ」と、子供たちの歓声が再び響く。
「アハハハハ」という歓声。
子供たちが、走っていた。 「あはははは……」と笑う。 「待ってよう」A子はB子を追いかける。 「待ってよう」B子はC子を追いかける。 「キャハハハ……」と笑う。
子供たちが、走っていた。 「あはははは……」と笑う。 「待ってよう」C子はE子を追いかける。 「待ってよう」E子はF子を追いかける。 「待ってよう」F子はねこを追いかける。 「キャハハハ……」と笑う。
子供たちが、走っていた。 「あは…はっ」と乾いた笑い/荒い息。 「逃げなきゃ」とうさぎが走る。 「逃げなきゃ」とねこが駆ける。 「逃げる…?」とねずみが問う。「でも、どこへ……?」
気付いた時には、逃げ場なんてなかった。
「逃げる……?でも、どこへ……?」
闇雲に走る。散り散りに走る。当然、全力で逃げた。逃げるほかないのだから。
うさぎやねこが、どこへ行ったのかはしらない。うさぎの父親のことなど、もっと知らない。だいたい、〈オレ〉が今、どこにいるのかもわからない。
振り向かない。振り向いたときが最期だ。振り向き、ほんの少しでも、速度を緩めた時、〈オレ〉は、〈オレ〉は、こなごなになる。公園で、アレがそうなったように。 『ねぇ、あなたたち、なにしてるの?』そう言いながら、少女は小石を拾い上げた。 『遊んでるなら、あたしたちもまぜてよ』そう言いながら、少女は小石を拾い上げた。 『わたしたち、暇なんだ、だからあそぼ?』そう言いながら、少女は小石を拾い上げた。
彼女が小石を拾い上げる時、スカートがまくれ上がった。彼女たちは、みな小石を拾う。
そして、 『いっせーのせっ』という掛け声と同時に、全ての小石が宙を舞った。 〈オレ〉は呆然としていた。たぶん、ねこもうさぎもそうだ。 『ちゅんっ』という効果音とともに、うさぎの髪が吹き飛んだかと思うと、背後にあったブランコが『ガインッ』と音を立てて、潰れた。
思わず、伏せた、ねこの頭上を、『ちゅんちゅんっ』と音をたて小石が飛びかった。『ばん』と音をたて、公衆便所は吹き飛んだ。『どん』という音とともに、人間一人埋められるクレーターが、砂場に完成した。もうもうと砂塵が舞う。 『あ~あ、はずれちゃった』彼女たちは、残念そうに、だけど、くすくすと笑って…… 「――ねぇ、」と声がした。「どうしてそんなにいそぐのかな?」〈ねずみ〉の全力の走っているのに、少女は息一つ切らしていない。「つかれるとおもうよ?そんなに、がんばって走ってたらさ」 「…………」高層ビルだらけで、遠くまで見渡せない大都会が、唐突に切り開かれる。爆風で、押し倒されたようなビルディングが、ランナーを迎え入れる。荒野が広がっていた。 「そんなに、こわいの?わたしが。――そんなに、逃げだしたいの?わたしから。おともだちの女の子たちを、ほうっておいてまでさ」彼を追いかけていた、足音がぴたりと止まった。「わたしは、もうつかれたな。こーゆー、ただただ不毛なおいかけっこ」 「ぽたり、ぽたり」と、彼の口許から、血の滴り落ちる。うさぎが強く銃口を押し付けたからだ。〈ねずみ〉の頬は切り裂かれていた。点々と血がアスファルトを染めている。
立ち止まっていた彼女が、アスファルトの上にはいつくばった。ぴちゃりと音がして、 「きみの血ってなんだか、とてもおいしいね」舌先についた血を、彼女は、ごくりと飲み込んだ。「他の子はどうかしらないけど、わたしは、きみのことすきだな。きみとなら、なかよくできるきがする」辺りがよほど静寂なのか、どんどん距離が開いて行くというのに、声だけはしっかり聞こえる。「おいしい血の人に、わるい人はいないもの」 「気持ち悪いこと…するなよ」 「何が?」息を切らしている彼の声は、聞き取りづらいらしい。 「気持ち悪いこと…言うなって言ってるんだ!」 「きみに、めいれいされるすじあいはないよ」そう言い、彼女は、彼の額にでこピンをかました。「――――」もう、一度でこピンをかます。「……なに、おどろいているのさ?」彼女は、彼を蹴り飛ばす。思いっきり。尻もちをして、彼はこける。
彼女の背中に、一瞬悪魔の翼のようなものが生えたけれど、次の瞬間消えてしまう。 「きゅうけつきってね、こうもりにへんしんできるんだよ」
自分で、蹴飛ばしておいて、彼女は、彼に手を差し伸べた。「ほら、立ちなよ」
彼女は、棒キャンディーでも舐めるみたいに、彼のほっぺたをペロペロとなめる。 「ぺろぺろぺろ……なにふしぎな顔してるの?」 「……殺すのか?」みじめな声で彼は言った。でも、それが〈ねずみ〉だ。 「だいじょうぶ。だって、ひつようがないもの。きみとわたしがたたかうりゆうなんかない。だから、あなたは、わたしをころせないし、わたしも、きみをころさない」 「……………………」生まれて初めて、宇宙人に遭遇したアメリカ人のように、彼は呆然とした面持ちで、立ちつくした。 「ぴちゃぴちゃぴちゃ」 「………………………」彼女は、ぺろりと、舌なめずりをして、 「F子が、あのこをすきなように、わたしもあなたがすきになったみたい」
「ねぇ、パパ!」と彼女は言った。うさぎは言った。「逃げるよ、パパ!」
逃げなければならない、追いかけてくる少女たちと関わってはならない。戦ってはならない。それは、自明のことだった。
何故なら―― 「あうあ…」と彼女のパパが鳴いた。足がつかれたのだ。足が棒のようだった。彼は、もう走りたくないよお、と弱弱しく、首を振った。「あうあ。あうあ。あうあァァ」
何故ならば――うさぎの側には、父親/弱者がいたから。
彼女は、もう、人間ではない。暗暗によって、肉体改造手術を施された殺人機械だ。
一人でなら、戦える。あるいは、ねこと協力すれば、勝つことだって、可能かもしれない。けれど、彼女のそばには、父親がいる。彼女のパパは無力な存在だ。
彼女のパパ。ヤマナシヤスオ。
――両手首を切り取られ、幼児並みの知性しかなく、よれよれのスーツを着て、ぼろぼろのスニーカーを履き、うさぎが見ていなければ、空腹のあまり、自分で自分の両腕にかぶりついてしまいそうな、哀れな男。それが彼女のパパだった。うさぎは、そんなパパが嫌いじゃなかった。
昔のパパとは違う。昔のエイリアンみたいなパパとは違う。
まるで原始人のような、今のパパのほうが、わたしにはお似合いだ。
人間味が、ほんの少しだけ、感じられる。すくなくとも、手をつなげば暖かいのだ。
父親の腕を握り、引きずってでも、うさぎは、逃げ出そうとする。 (これまで、手をつないだこと、あったっけ?)
だけど、そんなこと今はどうだって良かった。
――追手が迫る。
その数は、二人。
そのうち一人が蹴りあげた小石が、信号機の赤を貫いてガラスの破片をまき散らした。追いつめられた。 「あはぅ、あはぅ」 「立ち止まらないでよ、パパ!走ってよ、お願いだから!」スーツの袖を、びりびりに破けそうなほど、強く引っ張る。だけど、座り込んだ父親は動かない。 「Fちゃ~ん、あの子、とまっちゃったよ?」誰かが言った。小石を蹴りあげた少女が言った。「しとめるなら、いまがチャンスじゃない?」結局のところ、うさぎたちを、追い立てていたのは、走らせて、疲れさせるためだ。一瞬で食えるはずの、生肉、そんなものを目の前にぶら下げての徒競争だ。E子の欲求不満は、臨界地点を超えている。
苛立ちまぎれに、E子は、信号機の黄色も、小石で貫いた。
少女の頬が、ぷぅーと膨れる。 「すこしくらい、すこしくらいさ」
E子の態度を、不服気に眺めるF子。 「すこしくらい、みらいのいもうととのおいかけっこをたのしませてくれもいいじゃない……Eちゃんのいぢわる」ぷぅーとふくらんでいた頬から、ふしゅーと息を吐き出す。 「みらいのたのしみは、みらいにとっておきなよ。それより、いまは、いまをたのしまなきゃ」 (あ~あ)と彼女は、思った。うさぎは思った。(結局戦うんだ。パパが、歩くのやめちゃったばかりに、戦わなくちゃならないんだ?)だけど、それはパパのためだ。パパを守るために、戦うんだ。
と、 「ばーーーん」! 「ぼーーーん」! 「がーーーん」!
気がついた時には、E子が投げた、マンホールが、パパのドテッぱらに穴をあけて、パパの背景にあった、電信柱をへし折って、その背後にあった、セダン車を両断していた。
爆音だとか、苦痛だとか、唐突さだとか、きっと、驚きのあまり、一瞬であれ、彼は理性を取り戻したのだと思う。 「いたい、いたい、いたい」
彼は、からっぽの胴体をかきむしり叫んだ。 「いたい、イタイ、痛イ、苦しい、痛イ」彼は、数日ぶりに、日本語を話した。「痛イよぼぼぼおお!」彼は叫ぶ。
うさぎは、耳をふさぎたくなった。父親の涙を初めてみた。 「キャハハハ」と誰かが嗤った。
「みんな…何処かへ行った」ねこは呟いた。ねこは、あいかわらず、滑り台に登っていた。ここからだと、満月が良く見える。 「うん、どこかとおくへいっちゃったね」A子は相槌を打つ。 「あんた以外、みんなおくびょうで、にげっちゃったもんね」B子が楽しげに言う。 「あなたたち…誰?」 「そのしつもんにこたえるまえに、わたしたちのしつもんにこたえてよ」 「殺してもいい?」 「食べてもいい?」
ねこは、ぶんぶんと首を振る。 「なんだぁ、ざんねんだなぁ」 「ていこうされない方が、ザイアクカンかんじないでラクなのに」 「罪悪感って何?」ねこの問い掛けに、C子は肩をすくめる。 「被害者には、カンケイのないことば」 「アハハハハ!」と唐突に、A子が笑う。 「あなたたち…誰?」ねこは、質問を繰り返すけれど、彼女たちは、それを無視する。 「じつは、わたしたち二人きょうだいなの」 「アハハハハ!」意味もなくA子が笑う。 「姉妹…じゃないの?」 「うるさいなぁっ」とB子が喚いた。そして、 「ねぇ、けっこんしよ」とA子が告白する。 「意味…わからない」 「イミなんてないよ。なにひとつね」 「……ねぇ、あなたの血、なにいろ?」 「ねこ…日本語…わからない」 「かみ合わないなぁ。カイワがかみあわないっ……アハハハ」 「ねこねこねこ!ニャーニャーニャー!」 「…………」 「……………………」 「……………………」 「ちんもく、それは、リョーカイのあかし?」 「殺していい?」 「食べていい?」 「………………」 「……嫌だ」
――吸血症。それは、感染者を吸血衝動に駆りたてる一方、それを実行可能にするだけの強靭な肉体を与える病である。彼らの肉体は、人間の血を原動力とし、強力なパワーを発揮する。また処女の血を好み、まるで、伝説上の化け物のように好戦的だが、彼ら患者には、聖書も、聖水も、ニンニクも、十字架も効かず、唯一の弱点といえば……
ハゴロモ大学第○年度生卒業論文集所収『吸血鬼の研究』
足元に、濃いねずみ色の紐が絡みつき、それが、彼のスニーカーを固く縫いとめていた。靴がボロければ、靴紐もボロい。今にも擦り切れてしまいそうな、ねずみ色のそれが、彼の足首をしめつけている。 「おい」
と言った。 「おい。暗暗終夜」
一方、終夜は、深々と紫煙を吸い込んでいた。 「僕の話を、聞けよ」 「聞いてるよ」 「なら、返事くらいしろ」 「そんなの俺の勝手だ。――隣、座ってもいいか?」と暗暗。返事を待ちもせず、ベンチに腰を下ろす。「で、吸血症の発症患者がどうしたって?」気楽に尋ねた。 「どうもしない。どうにもならない。動かぬ事実だからこそ、困ってるんだ」 「秀才月見里君がお困りとはねぇ」暗暗はやれやれと、肩をすくめる。「つまり、アレか?吸血症に対する対策案を、吸血症研究者の俺に考えてほしいってことか?」それにしても、と暗暗は辺りを見回す。「吸血症なんて危ない単語、こんな真昼間から話してていいのかよ」 「ガキは、聴いちゃいないさ」ジャングルジムによじ登る子供たちを眺めながら安雄は呟く。「それに聞いたところで、理解できない」 「ガキにだって理性はあるさ。限りなくゼロに近いしろな」 「吸血症が東京に蔓延すれば、大抵の奴らは、その日のうちに死ぬ。例え、ガキが僕たちの話を理解できても、手遅れになってしまうことに比べたら、大したことじゃない」吸血症は、死に至る病だ。人を化け物に変え、国を死滅させる。安雄は足を組みかえる。泥だらけで、汚れきったスニーカーが、ズボンに泥をこびりつかせた。 「折角の鎖国政策も、功を奏さなかったわけか」 「抜け穴ならいくらでもあるさ。違法入国者なんか、今どき珍しくもないだろ。だいたい、上の奴らも、本気で鎖国したいわけじゃないんだ」安雄はため息交じりに言った。 「ま、そりゃそうだ。所詮吸血症患者なんて近い将来根絶やしになる――吸血症など、ほっとけば、消える。吸血鬼患者も、いづれ自滅し、人間の脅威じゃなくなる」と暗暗は吐き捨てるように、言った。「吸血行為ってのは、一種の食人行為だ。同族をたべるってことは、何かと、ストレスのたまることなんだよ。吸血症=死に至る病というわけ」 「クールー病の併発、か」 「そ、パプアニューギニアの食人部族にみられた、死に至る病。食人行為が間接的原因と考えられる病だ」 「類例としては、ひとむかし前に流行った、BSE、いわゆる狂牛病とかな」 「クールー病にかかれば、数か月で死に至る。吸血症にかかり、クールー病を後発すれば、当然、数か月で死に至る」 「当たり前のことを、偉そうに言うなよ」 「強調して言ったまでだ。だいたい、クールー病は、死に至るまでの過程がつらい。手足の震えによる歩行障害それにくわえ、――言語障害、記憶力・知力の低下それに伴う、性格の変化、そして錯乱――まるで、アル中か、認知症じみた、状態になる」そして、暗暗は一拍置く。「吸血症患者が、クールー病を発症すれば、それだけで、彼らは弱体化する」 「言語障害って、『あぅあー、うあうぉー』みたいな感じのことか?」 「そーいう、重度のも含むだろうな。ま、発症するまで多少タイムラグがあるだろうが…」 「ふーん」安雄はそっけなく、頷く。 「ところで、さっきから、訊きたかったんだが、吸血症の発症者ってどこのだれなんだ?」 「ああ、それは」めんどくさそう月見里安雄は、 「…………」 「僕だ」蝉の音が妙にうるさい。
吸血症の代表的な症例として、肉体の強化の他に、強力な自己再生能力も含まれる。それは、もがれた腕が一瞬にして生えてくる、というSF染みたな能力ではないが、傷口は数瞬後にはふさがれ、失われた部位も血液の補充とともに回復する。これは、彼らのもう一つの特殊能力である、コウモリや霧への変身能力と同様の原理であると考えられる。つまり、肉体を自在に、意志の力によって、修復、変形させることが可能なのだ。(以下略)
前掲書
〈言語障害、記憶力・知力の低下それに伴う、〉
うさぎは、ぼんやりとした頭で考えていた。 (パパのおなかに、穴が空いた) (パパはすぐに死んじゃうんだ。それは、確かなこと。何故って、大腸と小腸をまき散らしている人間が、そう、長々と生きてはいられないから) (パパにお別れを言わなきゃ) (だけど、なんて言おう……)
彼女の顔には点点と、血が付着していた。まるで、冗談見たいな血の雨が、辺り一面に、まき散らされているからだ。 (パパのおなかに、穴が空いた。内臓を引きずりながら、パパが狂ったみたいに、暴れている。そりゃぁ、あんな大けがをして、正気でいろなんて、無茶な要求かもしれないけど) (パパは、おかしくなったんだ。仏の顔も三度まで?大魔神怒る?彼女たちの素行があまりに酷かったから、パパは怒ってしまったんだ)
まき散らされているのは、彼女たちの血だ。二人組の吸血鬼の血。うさぎを襲った、酷いヒトたち。 (人間の血と、吸血鬼の血ってどんなふうに違うんだろう?彼女たちの血は、昆虫のように、緑色なのだろうか――) (なんて、思っていたけれど、)何のことはない。(真っ赤な血が、彼女たちにも溢れているんだ?)
つまらなそうに、彼女は、てのひらを見つめる。 (パパのおなかに穴をあけて、『キャハハハ』と笑った子が、今、六つに分裂した) (わたしを妹にしたいとか、わけのわからないことを叫んでいたサイコキラーが、今、七つのパートに分解された)
指をちぎられ、腕を引っこ抜かれ、それでも意識があって、生きているらしい、彼女たち二人は、 (どーせ、勝てるわけないのに)
一生懸命防戦している。
所詮、オトナと子供だ。たとえ、二対一で、どちらも吸血症に感染していたとしても、どちらも吸血症に感染しているからこそ、 (勝負は目に見えているよ。百パーセントわたしのパパの勝ち。だいたいさ、吸血鬼うんぬんをのぞいて、吸血鬼でない、フツーの女の子二人が、大のオトナを殺せるわけないじゃん。……きゅうけつきだって、同じだよ)
父親の脚が震えていた。さすがに、出血多量で意識がもうろうとしているのだろうか。 (なんなら、わたしの血。分けてあげようかな。親子だもの、もしも、パパが吸血鬼で、血液が足りないなら、飲ませてあげるよ)
と、うさぎが考えている横で、彼は、F子から切り取った、右大腿に口を押しつけ、ごくごくと、血液を嚥下していく。 (うへぇ、吐き気がする……)
まるで、水分を失ったスポンジのようにスカスカの大腿を投げ捨てると、彼は、倒れているF子へ近づいて行く。 「イヤダ!」とF子は叫ぶけれど、重度のクールー病患者の彼にはその声を理解できない。 「イ・ヤ・ダ?」彼女の声を、反復、復唱してみるけれど、やっぱり、理解できない。だいたい、彼には、彼女の言葉を理解しようなんて、心の余裕などないのだ。彼の心を満たしていたのは、嫌悪と憎しみ、苦痛への怒りとわけのわからない現実への混乱、そして、自分でも理解できない、『血を吸いたい』という衝動に他ならない。 「おい、クソおやじ!」とE子が叫んだ。「Fぢゃんがら、いまずぐはなれろ!」
彼女の手のひらには、砕かれ、先のとがったアスファルトが握られており、それが、 (わたしの頬に、押しつけてあった) 「Eちゃん…」とF子は泣き出しそうな顔で、E子を見つめる。 「ア…ア……?」理解できない、という表情で彼はE子とうさぎをながめる。 「だから、クソおやじ、今ずぐFちゃんからはなれろっづっでんだよ!ごいづをころざれてもいいのかよ!」彼女の左腕は、ちぎり取られ、なにやら左肩から白いプラスティックのようなもの(多分、骨だ)が覗いている。彼女の右手の中指と薬指と小指はどこかへ消えてしまったようだったけれど、どうにかアスファルト片くらい、握っていられるようだ。 「ア…ア……アイル?」どうやら、彼は娘の名前を覚えていたらしい。 「クス…クスクス」とうさぎが笑う。哀れだなって彼女は思う。 (わたしのちからを見くびるなんてさ。わたしが大人しく人質役を演じてくれる都合のいい弱者だなんて、思いこんじゃうなんてさ)殺戮機械のわたしを。 「なに、わらっでんだよっ」 「なんでもないよ」だけど、余裕もつかの間だった。 「グシャンッ」って音がして、 (パパの顔が、)
アルミ缶を踏みつぶすみたいに、クルミ割り人形が、クルミを割るみたいに、 (パパの顔がひしゃげた)
まるで、笑っているみたいだな、とうさぎは思った。上から下へ思い切り押しつぶされた、彼の顔面、つぶれたアルミ缶のようにしわしわな彼の顔面。その口元は、まるで口が裂けてしまったみたいに横に広がり、目元にはしわがよっている。 「ドテン」と彼が無様に倒れた。
まるで、案山子のように、片足立ちをしているF子の手に握られた、彼女自身の右大腿が、もう一度、彼に振り下ろされる。 「センッ、トウッ、チュウにッ、よそみを…するな!」なんどもなんども、彼女は殴り続けるけれど、きっと、もう、彼は死んでいる。 「イヤだ。パパ死なないでよ」いまさらのように、うさぎが、うめくけれど、もう、どうしようもない。
〈性格の変化、そして錯乱〉
そして、少女は、唐突に、笑いだして、
「いたいじゃないか。おれは、おまえのちちおやだぞ。おやにはんこうするとは、なにさまのつもりだ?」 「…………」 「って、父さんはいったんだ」と〈ねずみ〉の耳元で囁いた。彼の血をなめていたのだから、意識しなくても、彼女は、自然耳元に口を寄せる格好になる。 〈ねずみ〉は、つまらなそうに、目の前の交差点一面に描かれた横断歩道を眺めている。スクランブル交差点とかいうヤツだ。田舎育ちの〈ねずみ〉はだだっ広い道路が物珍しい。 「いま、おもいだしたの」 『何を?』と〈ねずみ〉は訊かない。だいたい、彼女とは、赤の他人で、そんな、気兼ねなく話し合えるような仲じゃない。そもそも言葉が通じないような気がしていた。 「いまおもいだしたの、父さんが、わたしをくいころしたひのこと」
傷口は既に固まったのか、〈ねずみ〉の頬からは、もう、血は流れていない。 「ふーん」と〈ねずみ〉がつぶやく。「こわい話はあまり好きじゃないな」独り言をいう。 「どうでもいいことだけどさ」と彼女は前置き、「父さんは、ジャージ姿でかいしゃにかよってた」「ふくがなかったから」「べつに、ちゅうがくのたいいくきょうし、てわけじゃなかったけど」彼女は話を続ける。「さいしょは、フーフげんかかとおもった」 「『なによ、これ』って母さんがいった。ひどく、おこってた。まるで、なぐりつけるみたいに、りょうてを、ふりまわして『その首筋にあるくちべにはなによ?』って、父さんにといつめてた。すると父さんは『うがあああ』って、わたしには、よくわからない、ことばをわめきながら、母さんをおしたおしたの。すごく、とうとつに。」 「父さんは、かいしゃからかえったばかりで、ジャージ服をきてた。父さんのきていたジャージ服は、よれよれで、そのくびのところは、ももいろのえのぐでよごれていた。そのえのぐのちゅうおうに、くろいほくろみたいなのが二つあって、どうにも、それはカサブタみたいだった」 「うん。あれは、カサブタ。だって、父さんのくびに、ほくろなんてなかったから」 「父さんはわめきながら、母さんをおしたおしたけど、母さんもわめいていた。『なにをするのよ』って……さ。だけど、父さんは、母さんのことばがりかいできなかったみたいに。『おまえなんか、××××だ』って、みゃ、まくりゃくなく母さんのわるくちをいった」 「父さんのくびは、あおじろく、へんしょくしていた。きっと、父さんは、ビョーキになっちゃったんだ、ってそのときおもった」 「きがつくとね。母さんのおなかから、たんすのカドが、つきだしてたんだ。父さんのあしに、ほうちょうがつきささっていたんだ。父さんは、あらいいきをして、おおいかぶさるように、母さんを見下ろしてたんだ」 「そういう、こわい話が、嫌いなんだよ」〈ねずみ〉は呟く。だけど、少女は無視する。 「そして、父さんが、わたしの方を、ふりむいたの――。……あれっ?それからナニがどーなったんだっけ?つづきがおもいだせないなあ……」 「あ、そうだった。お兄ちゃんが、きんぞくバットで、父さんをなぐりつけると、『痛いじゃないか。俺は、お前の父親だぞ。親に反抗するとは、何様のつもりだ?』って、父さんが、」いったんだ。 「『だいたい、物で殴るとは、何事だ。ケンカは、素手でやるもんだろう』すででなぐった」アルミ缶のように、兄は潰れた。そしてね、
C子の貌から表情が抜けおちた。 「『おい、C子!』」と父さんは言った。 「『殴ってやるから、こっちへ来い』」と父さんは 「『他のヤツと違って、お前だけは、従順だな。特別に優しく殴ってやろう』」言った……。
C子は〈ねずみ〉を見据えた。 「…………」〈ねずみ〉が黙り込んでいると、 「『おい、てめえ』」とC子が叫ぶ。「『殺してやるから、黙って目を閉じろ』」
〈ねずみ〉は、黙って、彼女の額に、銃口を押し当てた、 「ばんっ。ばんっ」と引き金を引いた。けど、 「『痛いじゃないか。何様のつもりだ?』」とC子は尋ねてくれたから、
〈ねずみ〉は、また、人殺しにならなくて済んだ。
治療は不可能だ。吸血症は、死んだって、治らない。 「なにせ、前例のない病だからな。治療法が完成されるのは、これから、何十年も先だ」いいわけでもするように、暗暗は言った。「安雄、お前が、本当に吸血症に感染したとしても、俺に言える言葉は一つしかないよ」 「…………」 「ご愁傷さま」 「…………」 「お前も、医学をかじった人間なら、わかるだろ。諦めろ。迷路で袋小路に迷い込んだ時と一緒だ。初めからやり直せ」 「…………」 「さいわい、お前は、仏教徒だろ?キリスト教と違って、吸血鬼だって、生まれ変われば、やり直せるさ」 「生憎、僕は無神論者だ」 「奇遇だな、俺もだ」彼の細長い手に一粒の錠剤が握られている。「ほら、天国への特急切符だ。早くしないと、乗り遅れるぞ」 「だから、僕は無神論者だって…」安雄は、暗暗の表情の変化に気付く。なんなんだ、こいつ。僕を絶望の淵に突き落すようなことを言っておいて、ニヤついてやがる。 「バーカ、知ってるよ。これは、さっきのバイヤーからついでに買った抗鬱剤(覚せい剤)の一種だ。八方ふさがりで、落ち込んでるなら、これでも飲んでろ。気分転換ってやつだ」 「気分転換って、言ったって」 「吸血症は、感染から、症状の発現まで、少なくとも一ヶ月はかかる。それまでに何とかすればいいだけの話だ」 「さっきと、言ってることが変わってるぞ」 「さっきは、お前の深刻そうな顔をからかってやっただけだ」暗暗は安雄の肩をたたく。 「…………」 「だから、これ飲んで、元気になれ」暗暗は、安雄に錠剤を渡す。 「というか、医者のくせに、密売人からこんなもの買うなよ、薬事法とか、もろもろ違反してるだろ」 「今みたいな物不足の時代には、正規のルートより、闇ルートの方が、安定して供給してくれるんだよ。医者なら、誰だって、密売人を大事にするさ」と、
安雄はふらふらと立ちあがり、子供たちが遊んでいる方へ、歩いて行く。 「どこへ行くんだよ」 「水がないと、薬が呑み込めないタチなんだよ」子供たちは、水飲み場から、噴水のように水を飛ばして遊んでいた。「水を飲ましてくれ」と、安雄が言うと、少年たちは、つまらに、道を開けた。 「さいわい、お前は、仏教徒だろ?生まれ変われば、やり直せるさ」
水と薬を一緒に飲み下した途端、「どて」と彼は倒れた。 「まさか、こんなに素直に死んでくれるとはなぁ」 「…………」子供たちも安雄も黙りこくっている。 「ほんと、ご愁傷さまだ」
と、言いながら、
月見里安雄は死に損なっていたのだけど。心臓に強い衝撃を感じ、気を失ったものの、区の死体安置所で、彼は目を覚ました。
彼が死に損なった理由は、暗暗の予想に反し、彼が既に吸血症を発現しつつあったからだ。吸血症発症者の強力な再生能力によって、彼は息を吹き返した。
何よりもその証拠に、目覚めた彼には理性がなかった。
彼は、死体を食べた。目の前に横たわっていた、水死体にかぶりついた。越前クラゲのようにぶよぶよな水死体を、彼は食べ、 「じゅるる」いやぁ~な音を立てて、彼は血をすすった。
「結局のところさ」と暗暗終夜は、思う、というか独り言を言う。「吸血鬼には、三つの選択肢しか残されてはいなんだ」
彼は何処か暗い場所を歩いている。微かに響く空調機の音から、そこが室内であることがわかる。 「一つ目は、人殺し。吸血衝動が満たされるまで、人間の血を吸い、人間を殺すというもの(あまりおすすめしないな)」
彼は一定のリズムで歩き続ける。同じ場所をぐるぐる回っているようだ。 「二つ目は、反対に死ぬこと。人間に駆除されるのか、それとも自分の病を儚んで、自殺するか。あるいは、クールー病の併発で狂い死にするかの違いはあっても、結果は同じ」 (あいつが、二つ目の選択肢を選んだのは、あいつに運がなかっただけだ。予備知識のない三択問題なんて、結局運の良し悪しの問題になる。あいつは、たまたま俺に助けを求め、俺には、あいつを助ける手段があるかもしれないと夢みたのがいけないんだ。俺が悪いんじゃない。あいつが俺に助けを求めたのが悪いんだ。あいつは、自業自得で死んだんだ) 「ハァ…ハァ」彼の息は荒い。まるで、悪夢から目覚めた直後のように、心臓が高鳴っている。「ハァ…ハァ……」
気持ちを落ち着かせるように、止めていた歩みを再開する。足音が再び響き渡る。天井が高いのか、よく響く。 「三つ目は、……言うまでもないことだ。生かされるという選択肢。人を殺すのではなく、人に生かされる。一昔まえ、アメリカが宇宙人を捕獲して、飼育・研究していたのと同じだ。吸血症を研究するために、吸血鬼を捕まえ、飼いならす」 「ところで、どうして、暗暗ちゃんは、お友達に三番目ではなく、二番目の選択肢を与えたのかしら?」どこからともなく、声がした。女の声だ。 「ふん、決まってるだろ。彼が嫌がるだろうと思ったからだ。――プライドの高いあいつのことだ、俺に研究対象として飼われるくらいなら、害虫として駆除された方が、幾分マシなはずだ」 「わたしから、いわせれば、どっちもどっちだけどね……」 「当事者の言葉は、重みが違うな」 「鶴の一声ってやつ?って意味が違うか」 「…………」 「ねぇ、おなかがすいたよ」彼女が言った。「血ぃ呑みたいよぉ」 「あと、六時間三十五分後に、売人から輸血パックが届く。それまで我慢してろ」 「暗暗ちゃんのサディすとぉ。首に巻かれた鎖が痛痒いんですけど?」 「…………」 「あと、その鎖に繋がれてる鉄球が、とてつもなく重いんですけどぉ」 「お前は危険なんだよ。血を飲むためなら、なにをしでかすかわからない、病人なんだ」 「暗暗ちゃんのほうが、危ないヒトっぽいけど?ともだちを平気で毒殺するし、そしてなにより、」 「なによりなんだよ?」 「いや、こんな美少女ヴァンパイアを監禁してるなんて、変態すぎるよって言おうとして、美少女ってトコに照れちゃったっ」 「なんだ、そりゃ。というか、監禁っていったって、合意の上だろ?」 「一つ目の選択肢も二つ目の選択肢も、イヤだから、三つ目の選択肢でお願いってね。確かにそう頼んだのはわたしだけどさ」不服そうな声で彼女は言う。「監禁は監禁、そこんところは、譲れない」 「ことばの問題なんて、どうだっていいさ。呼びたいように、呼べよ」 「じゃあ、呼ぶよ。この監禁犯!人殺し!マッドサイエンティスト!」死んじゃえっ。 「…………」 「それにしても、さ」 「なんだよ」 「どうして、わたしの腕を切ったの?」薄闇の中の彼女には腕がない。鋭利な刃物で切り取られたのだろう。傷口もきれいに、切除されている。 「決まってるだろ。お前が、吸血衝動に駆られて暴れだした時のためだ」 「じゃ、脚を切り取ったのも、同じ理由?」ほんとにそお?という顔を彼女はする。 「ああ、そうだよ。前もって、無力化して置かないと、吸血鬼なんて、飼えるわけないだろ?」 「ほんとに?」 「そうだよ」 「ふーん?そっか。ま、そぉだよね。うんうん。……べつに、手なんて無くたって、暗暗ちゃんが、食事もお風呂も排泄もぜぇんぶお世話してくれるし、鎖でつながれてる以外は、痛いことも酷いこともされていないものね。我慢しなきゃ。我慢。我慢」 「鎖、そんなに嫌なのか?」 「やにきまってるじゃん?」
暗暗は、彼女の首から、鎖を取り外す。 「暗暗ちゃんは、将来、お嫁さんのお尻に敷かれちゃうタイプだね」彼女は、ふふん、と笑い、そして呟く。独り言みたいに。誰にも聞こえない小さな声で。「暗暗ちゃんは、どうしてそんなに嘘つきなのかな……?」
彼女は死にかけていた。体中から、体液がもれていた。それが、彼女のモノトーンで統一された夜の景色に色彩を与えた。彼女の胸部がぱっくりと割れ、オレンジ色の体液があふれ出す。彼女の胸元には、まるで真夏の向日葵のような、模様が生まれる。 (痛いッ)と思うけど、声には出さない。
声に出している余裕などないからだ。
――場所は公園。人物はねこ――
A子とB子の挟撃を、彼女は身をかわしてよける。ねこに残された道は、ただ一つ。防御に専念し、一分一秒でも長く、生きながらえることだけだ。さもなくば、次の瞬間には、死んでしまう。殺されてしまう。 (孤独っていやだな)と彼女は思う。思いの中では、声に出して言うのとは違って、不慣れな日本語に頼る必要はない。心の中でなら、彼女は言葉に詰まることなく、自由におしゃべりができた。 (孤独っていやだな)と彼女は思う。(一人ぼっちだから、こんな酷い目にあうんだ)
もしも、彼女に仲間がいたら、助けがあれば、こんな風にはなりはしない。
仲間はいたけど、何処かへ行った。
助けを呼ぼうとしたけど、無線機は通じなかった。
結局のところさ、と彼女は思う。(手遅れなんだ、きっと、もう)
彼女にできるのは、一分一秒でも生きながらえようとすること。あがいて、もがいて、命乞いするしか、――彼女には道がない???
また、血の華が咲いた。暗闇と月明かりの関係で、青紫色の華に見える。
少女の片割れが、じゅるりと舌なめずりする。「ちのにおい。チノニオイ。ちのにおいだあ」 (私の血の色って、こんな昆虫じみた色をしていたっけ?)彼女は右手首を、まじまじと見てしまう。
ジャングルジムを駆け上り、A子の当て身をかわすけれど、B子がすかさず、足首を掴んでくる。 「痛い…」と言っても、放してはくれない。 「やめて…」と言っても、許してはくれない。
やめろ…!と叫んだって、きっと、聞いてくれないはずだ。
あ~あ、と彼女は思う。短い人生だったな。Good-bye(彼女の発音はとてもきれいだ)私の人生。Good-bye私以外のモノ・ヒト・セカイ。ワタシ以外の全て。…………
――――――――ブツンッ。
そして、彼女は、ハッと目が覚めて 「夢…?」
「??????」 (???????)
ねこが、目を覚ますと彼女の傍らには、A子とB子が横たわっていた。冷たい体だ。人はそれを遺体だとか、死体だとか、亡骸だとか、骸だとか、屍だとか、遺骸だとかいろんな単語で言い表すけれど、早い話が、肉体から魂の抜けさったモノがソレだ。
ねこは、キョトンとした表情で辺りを見回している。 「???????」 「夢……?」 「ん~ん…そんなわけ…ないか」彼女は独り言のように言う。「夢…だなんて…ごまかせや…しない、か」彼女の手には、べっとりと、自分のものではない血がついている。ふてくされた、赤ん坊のような表情で、掌のそれを見つめている。「本当は…いやだったんだけど…」本当は…本当に、本当に…」
A子たちの死体とねこの間の地面には、ぽたぽたと足跡のように血痕が続いている。
ぐずぐずと、泣きべそをかくふりを、ねこはしてみる。けど、無理だ。悲しくはなれない。自分を殺そうと襲ってきた奴らのために、涙は流せない。 「ごめんね…と…言いたいのだけど」 「言えそうに…ない」 「殺して…ごめんね…っ…て」言えそうにない。 「本当は…殺したくなかった…のは」 「…確かなこと…なのに」
彼女がA子とB子の攻撃から、ただ逃げ続けるばかりだったのは、二つの理由がある。彼女たちを油断させるため、と。
彼女たちを倒す時間を、未来へ未来へ先送りにするためだ。 「確かなこと…本当のこと…ねこは…人…殺したくなかった」
だけど、あいにく、残念なことに、彼女達は吸血鬼だ。人ではない。と〈オレ〉は思う。
そして、〈オレ〉はねこの隣にいた。
ねこは、利己的だな、と〈オレ〉は思う。〈オレ〉自身、吸血鬼の女の子を一人、斃して、ここまで戻ってきたわけだけど、ねこみたいに、自分が彼女を殺したことを、夢オチで片付けようなんてつもりも、ねこみたいに、泣きまねをしようなんてつもりもない。 「大丈夫だよ」と〈オレ〉はねこに言った。「死後の世界なんて所詮、存在しない夢物語なのだから。だから、死者を弔う必要なんて、どこにもないんだから」むなしい言葉を〈オレ〉は言った。(消えてしまった人間を悼む必要なんてどこにもない)
F子は、今まさに、凄惨な笑みを浮かべていた。凄惨な笑み、と言われても、想像できないかもしれない。
具体的に言いなおそう。
案山子のように片足立ちをしている彼女は、片腕だ。
その傷口からは、電気機器のコードのような管が、数十本はみ出している。
彼女の残された左腕には、ちぎり取られた右脚が、まるで野球のバットのように、握られている。片腕じゃあ、野球はできないけれど。
彼女は血まみれだ、全身鮮やかなオレンジ色にまみれている。
それでも、彼女は笑っている。微笑んでいる。
彼女の目の前には、E子と、もう一人女の子がいた。うさぎだ。うさぎの頬に、押し付けられていたアスファルト片から、ポチャンっと血の雫が落ちた。 「ねぇ、」とうさぎは言った。瞬きをするたび、波紋が広がる。そのくらい、彼女の目には、涙がたたえられていた。もう、びしょびしょだ。 「ねぇ、」彼女は言った。「わたしって、カッコいいよね?だって、こんなふうに、いちげきで、大のオトナを、斃せちゃんだから」 「ねぇ、」とうさぎは言った。だけど、再び、遮られる。 「ねぇ!だからさ。だから、わたしはおもうの。もしも、わたしに、いもうとがいたら、ナンテステキなお姉ちゃんに、わたしはなるんだろうって……だ、っだ、だからっ。わたしのいっいもうとになってくれないかっかな?」 「ねぇ、」 「ん?もしかして、ねぇって、姉ぇってこと?」あはは、と彼女は照れたように笑うけれど、 「ねぇ、パパ」うさぎは呟く。「本当に、死んじゃったの?返事をしてよ?」と言うけれど、返事はない。頭蓋骨が陥没して、脳が致命的に、損傷しているんだ。生きていたとしても、言葉をしゃべれる状態じゃない。「そっか、やっぱり、ダメだったんだ?死んじゃったんだ?――ふぅ」とうさぎは溜息をついた。「復讐しよっ。そうだ、復讐をしよう!パパを殺した、人たちを、逆に殺してしまおう。別に。いいでしょ。神様。だって。
人殺しは、牢屋に入れられて、罰せられて、死刑になるのが、この国のルールだって、テレビのニュースでやっていたもの」少年法という例外もあるけれど、「別にいいでしょ。だって加害者は少女だもの。少年じゃ、ないんだから。吸血鬼だもの。人間じゃ、ないんだから。
殺したって、構いはしないよ。
うん。構いはしない!だって、手負いの吸血鬼に後れを取るほど、わたしはやわじゃないもの」なにしろ、彼女は、人殺しの機械なのだから。。
十分後、「ズリッ」と音がして、E子の首が、斜めに滑り落ちた。
そして、二十分後。はぁはぁと息を切らして、うさぎは座り込んでいた。F子の胸の上で。ぎりぎりと。彼女の首を。うさぎは絞めながら。
「サイボーグなんて言うのは、真っ赤な嘘だ」と暗暗は言った。「いや、嘘と言うよりは、ことばのあやかな」 「なに、自己正当化しているんだ」と、もう一人の暗暗が言った。もう一人の暗暗というか、ただの虚像だ。つまり鏡の越しの暗暗は「ま、自分で自分を批判したって意味ないよな」と、言葉を続ける。 「フン……」
彼がいるのは、全面鏡張りの部屋だ。六畳ほどの小部屋なのだが、全面の鏡のため、六百畳の大広間にも、一畳未満の、玉手箱よりも小さな空間にも思える。鏡のせいで、距離感が狂う。並の人間なら、一瞬で気が狂ってしまうはずだ。 「フン、」
彼は並の人間ではないのか、すでに狂ってしまった後なのか、答えは二択だ。 「別に、大したことはない。論理的帰結さ」と暗暗は言った。 「なにがさ、なんのことさ」暗暗は尋ねた。 「アレのこと、そう、アレのこと。吸血症を発症したやつらを斃す方法だ」と暗暗の言葉。 「月見里安雄が播いた種を、俺、自ら取り除いてやろうってわけだ」暗暗は胸を張った。 「すべての吸血鬼を倒せないにしろ、九割方は、この方法で仕留めることができるはずだ」と暗暗の断定。 「自信に充ち溢れているな」暗暗はちゃかした。 「ああ。自信家だからな。それ意外に、取り柄がないんだよ」暗暗は…… 「高学歴のくせに、よく言うぜ」暗暗が…… 「自分で言うなよ」暗暗…… 「はは……」暗…… 「……まぁ、ともかくアレで吸血鬼が倒せることは、間違いないんだ」「結局、吸血症は、東京に蔓延しちまったらしいしな」「お前が、月見里を殺し損なったからな」「いや、お前だろ?」「違う、俺だ!」「そんなこと、どうだっていいだろ?」「ああ、誰のミスかなんて、この際どうだっていい、些細なことだ」「だな」「フフ」「話がぐだぐだしてきたな。この際、一度仕切り直すか……」………… 「――要は、吸血鬼は、アレで倒せるんだ」と暗暗は言った。 「そうだな」暗暗はうなずいた。 「現に、うさぎたちは、吸血鬼を倒せたんだ」暗暗は唐突に笑った。 「そうだな」暗暗は涙を流した。 「俺は間違ってなかった。うさぎ達は、状況次第では、吸血鬼より、強い」暗暗は胸を張った。 『……で、アレってなんなんだよ?』
――吸血鬼は、不合理なんだよ―― 『おい、無視かよ』 「だけど、アレは合理的なんだ」暗暗はしゃべった。 「吸血鬼のなにが不合理かわかるか?」暗暗は喚いた。 『……吸血鬼のなにが不合理か?わかんねぇよそんなもん』 「人間の血を吸う点だ」暗暗は答えた。 「お前の卒論に書いてあるだろ?『彼らの肉体は、人間の血を原動力に、強力なパワーを発揮する。』って」暗暗は思い出す。 「つまり、吸血鬼は、その爆発的な攻撃力を維持するために、人間の血が必要なわけだ」「仮定の話だ」「吸血鬼の体内に、人間の血を作り出す器官があったら……最強だろ?」「つまり、アレはこれだ」暗暗はまくしたてた。 「○月×日、俺は、彼女から切除した左手を、少女たち、血液製造機に、移植した」 「失敗した」 「○月△日、俺は、彼女から切除した右手を、少女たち、血液製造機に、移植した」 「失敗した」暗暗は落胆した。 「…………」暗暗は笑った。 「成功したのは、五十回目のことだ。そして、百一回目のことだ」暗暗は計算をした。 「あとは簡単だ。少女たちを、吸血鬼にぶつければいい」暗暗は…… 「いや、待てよ」と、誰かが言った。「どうして、移植先を少女に限定するんだ。だいたい、あの男の子は……?」 「ねずみは、ただの輸血パックだ。ヤツの体には、失敗作の少女から抜いた血が詰め込んであるだけだ」 「いや、だから」 「『彼らの肉体は、人間の血を原動力に、強力なパワーを発揮する。また処女の血を好み』吸血鬼は処女の血が好きなんだ。どういうわけだか、処女血のほうが、エネルギー効率がいいらしい。不純なものが、入ると効率が悪いんだよ……それだけの話だ」
そして、暗暗は溜息をついた。 「理解したか?」
第四話、了
戻ろう、と彼女が言ったのを覚えている。
「戻ろう…」とねこが言った。
帰ろう、と彼女が言った。たしか、その時……
「帰ろ…う」とねこが言った。彼女は〈オレ〉の袖を引っ張る。すでにぼろぼろだった〈オレ〉の服は、伸びて、さらにみっともなくなる。 「でも、まだ」みたいなことを、〈オレ〉は言った。 「ねぇ、帰ろ…う?」有無を言わせぬ、疑問形。ねこは、〈オレ〉の袖をぎゅっと握ったまま、ぐるぐると首を振り回す。(もう嫌だ。ここは、この場所には、これ以上居たくない!) 「だけど、うさぎが……」と言いかける、〈オレ〉の目の前に、ねこは人差し指をかざす。 「一週間…姿消したまま…一週間。うさぎ…もう帰ってこない」
一週間。〈オレ〉たち二人は、少女たちに襲われたあの公園で寝泊まりしていた。公園の入口のところには、〈鏡公園〉とその名前が浮彫にしてある。 「ねぇ、帰ろ…う?」とうさぎがせがんだので、 「帰るか、」と〈オレ〉は言った。「でも、どこへ?」
行くあてもないから、来た道をそのまま引き返す。樹海のように、日射を遮るビル群の中、東京駅へと、とぼとぼ歩く(帰り道、父親に再会した)。
東京駅には誰もいなかった。来た時は、あんなに煙っぽかった駅のホームは、まるでファミレスの禁煙席のようにきれいな空気で満たされていた。深呼吸をする分にはいいのだが、それは、列車が動いていないということだ(きっと、生きた人間すべては、東京から逃げ出してしまったのだろう)。 「運転…できる?」と、停車中の列車を指して、ねこは言った。〈オレ〉は首を振る。
ハゴロモ市へ帰ることもできなければ、東京から抜け出すこともできない。困り果てた、〈オレ〉は、思わず言ってしまった。 「暗暗…終夜。オレたちはどうしたらいいんだ?」奥歯に内蔵された発信機が〈オレ〉の声を電波に変換した(はずだ)。
「助けを求めているのか?」と暗暗は呟いた。そこは彼のラボで、机の上には無線機が置いてある。「ま、吸血鬼を何体か殲滅できたらしいし、このあたりで戦略的撤退というのも、ありと言えば、ありだな」
「独り…言?」と、ねこは〈オレ〉の顔を見て言った。
受信機がないから、暗暗の返事は聞えないし、〈オレ〉の言葉が届いたのかすら確認できないが、〈オレ〉は独り言を続ける。 「場所は、駅だ。巨大な駅。ひらがなで、とうきょうえきと書かれた看板がある。ちなみに、受信機は紛失したため、そちらの指示は聞こえない」
戻りたい場所でも、帰りたい場所でもなかったけれど、暗暗の元に戻るほか、仕方がない。小一にしては、妙に大人びた喋り方だな、と自覚しつつ、暗暗への通信を終える。
とにかく、〈オレ〉の言葉が、〈オレ〉の暗暗への通信が、東京での事件の幕を閉じた。
そう、事件は終わった。
――どこか遠くの方で、〈オレ〉には聞き取れない遠くの場所で、 「ぱぱあ!ぱぱあ!」とうさぎは啼いているはずだけれど、 〈オレ〉には……………………
エピローグ?、了
……………………〈ぼく〉の目の前には、ねこが倒れていて、彼女の死体を挟むようにして、アイルと……見ず知らずの少女が立っていた。 「あ~あ」と溜息をついた。溜息をつくほかない。怒り狂ったり、泣き叫んだりする方がしっくりくる場面かもしれないけれど(あるいは、〈ぼく〉の鼻に偽造された、〈ぼく〉の顔に内蔵された二弾拳銃を抜き取り、アイルに銃弾を撃ち込むべきなのかもしれないけれど)、〈ぼく〉にはできない。そんな風に取り乱すより先に、虚脱感に襲われる。「あ~あ」また、ため息が出た。 「――――」アイルが、〈ぼく〉を見て、何か言っているけれど、〈ぼく〉には聞こえない。それはきっと、真夏だというのに、激しく降りしきる雨音のせいだ。耳を聾する騒音ってのは、案外沈黙とイコールの関係を結ぶ。
ずたずたでぼろぼろのねこの姿。
とりかえしのつかないほど、壊れている。
ふと、記憶が甦った。思い出す必要のない、断章だった。
「ねずみ…キスしようよ」
と彼女が言った。
なんだよ、藪から棒に、と〈オレ〉は思った。
「だって、言っただろ、昨日?ねずみはおれのことが好きだって。それはいわば、告白ってやつだ。付き合ってくださいってメッセージだ。おれは思ったんだよ。お前なら、いいかなって。少なくとも、おれはお前のことが嫌いじゃないし、消去法で言えば、お前以上に、気に入っている人間なんてどこを探してもみつからないしさ。それって、つまり、おれはお前のことが、世界で一番大好きだってことだろ?だから、おれは、思うんだ。お前とならつき合ってやれるし、つき合う以上、キスの一つや二つしたいって」
そう言えば、そうだったな、と〈ぼく〉は思い出す。昨日はねこが余りに無反応だったから、てっきり失敗したのだと思っていた〈オレ〉の告白。 「ねずみ、キスしようぜ」と彼女が言った。「キスしようぜ」
確か、あの時、〈オレ〉はこくりと首を縦に振った。
〈ぼく〉はぶんぶんと首を振っていた。めまいがする、吐き気がする。 「キスなんて、所詮、唾液と唾液の交換だ。生々しい言葉を好めば、体液と体液の交流でしかないんだ」いまさらのように、横たわっている、ねこに向かって言う。
早い話がさ、と〈ぼく〉は思う。その行為によって、彼女の血に混じりけを生まれた。暗暗も言っていただろ?彼女の左手に接木された吸血鬼の腕は、処女の血を好むって。ねこは、〈ぼく〉とキスすることによって、ほんのちょっとだけ、処女から遠ざかった。生者から遠ざかった。
つまり、品質が落ちたってことだ。品質の落ちた半吸血鬼の彼女は、同じ半吸血鬼のうさぎによって殺された…………。
ジュリエットは、ロミオとのキスによって、死んでしまう。
あいにく、〈ぼく〉はロミオじゃない。
だけど、ねこは
「ねずみ…キス…しよ?」と彼女が言った。なんだ、まだ生きていたのか。とぎれとぎれに、きれぎれに言うねこの口許に、しかたないなと口を近づけた。 「しょっぱい雨が…降っているな」と彼女は言った。
断章 了
19歳ごろ書いたもの @DojoKota
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