第38話 どうして

 ちょんちょん、と頬に触れる柔らかな感触に瞼を上げる。

 窓から差し込む光に開いたばかりの目を細め、ハルはベッドから上半身を起こした。


「今日も起こしてくれたの、琥珀」

 

 言いながら傍らに座っていたもふもふの塊を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。

 しばらくそうしてから、琥珀を抱いて一階へ降りた。


「あ、やっと起きてきた」

 

 食卓に料理を運んでいた歌恋が、ハルを見るなり呆れた声を出す。

 

「もうお昼だから、ちゃっちゃと顔洗ってきなさい」

「うん」


 頷いて、琥珀を下ろしてから洗面台へ向かった。

 冷たい水で顔を洗えば、一気に頭が覚醒する。


──今日も寝すぎちゃったな。


 昨夜は日付けが変わる前に寝たはずなのに、時刻はもう十二時になる頃合いだ。いくら夏休みと言えど、流石に寝すぎな自覚はある。

 歌恋と一緒に翼の家を訪ねてから三日、同じような朝がもう三度続いていた。


「あたし、今日の夕方帰るから」


 昼食を食べている最中、歌恋がふとそう口にした。


「三津ばあちゃん、長く居座っちゃってごめんね」

「いいんだよ。歌恋は孫みたいなもんだからね」

「ふふ、ありがと」


 三津の言葉に嬉しそうな表情を浮かべる歌恋。

 望月家では歌恋の大好きなゲーム類はほぼできないのに、帰る予定を四日も遅らせたのは、ひとえにハルのことが心配だったからだろう。


「ありがとね、歌恋」


 それをわかっているハルは、歌恋の目を見て感謝を述べた。


「どういたしまして」


 歌恋も素直にそれを受け取る。

 

──何も解決はしてないけどね。


 しかし、歌恋の心は晴れやかとはほど遠いものだった。

 いつまでもここにいる訳にはいかないから埼玉に帰るだけで、ハルの問題が解決したわけではない。これ以上やれることがない、という点では解決したと言えるかもしれないが、あまり納得できる結果ではなかった。

 ハルも、まるで吹っ切れたような振る舞いをしているが、あれが素の態度だとは思わない。


「ちょっと外散歩してくる」


 昼食を食べ終え、洗い物などの片付けも全部済ませた午後一時、ハルはそう言って家を出ていった。


「今日もか……」

「ハルのことが心配かい?」


 ボソッと呟いたのが聞こえていたのか、テーブルの斜め向かいに腰を下ろしながら三津が言う。

 歌恋はうん、と小さく頷いた。


「三日前から毎日散歩って言って二時間も三時間も帰ってこないし、朝もなかなか起きてこないし……やっぱり無理してるんじゃないかなって。仲良い友達に『二度と関わりたくない』なんて言われたら、そりゃ誰だって──あっ」


 話の流れのまま、ペラペラと余計なことまで話してしまったことにそこで気づく。


「ごめん。今のは聞かなかったことに……」

「わかってるよ」

「……三津ばあちゃんは、心配じゃないの?」


 穏やかな表情でお茶を飲む三津だが、ハルに何かあったことはとっくに察しているはずだ。だが三津の態度は特段、いつもと変わらないように思える。


「さっきちょっと言っちゃったけど、ハルは先輩に……」

「二度と関わりたくないって言われた?」

「……うん」

「そうさねぇ」


 こと、とコップを置いて、三津は優しげな瞳を歌恋に向けた。


「それは、翼本人から聞いたのかい?」

「? いや、本人は家から出てきすらしなかったわ」

「そうかい」


 不満を滲ませる歌恋と対象的に、三津は納得したように頷く。


「翼はそんなこと言う子じゃないと、私は思うけどねぇ」

「え?」

「良い子だよ、あの子は。擦れてないし、素直だし、困ってる年寄りに迷わず手を差し伸べられる」

「でも、じゃあなんで代わりに出てきた女は……」

「さぁ、そこまではわからないけど」


 わからないと言いつつも、三津の表情は変わらない。よほど先輩のことを信頼しているらしい。


「…………」


 翼と対面したことのない歌恋からすれば、先日の一件以降「いっそ絶交でもなんでもしたほうがハルのため」と思うほど翼への印象は良くない。

 だが、しばらく彼女と一緒に食事をしていた三津はまた違う意見なのだろう。

 それなら。


──まだ、やれることはあるかもしれない。




 夕方、散歩から帰ってきたハルに最寄り駅まで見送られて、歌恋は埼玉へ帰った。

 またね、と改札前で手を振るハルは、やはりまだ気落ちしているように見えて、ハルをこんな風にさせた人間への怒りが沸いた。

 電車が来るまでの待ち時間、人もまばらな駅のホームで、歌恋はポケットからスマホを取り出す。


「あ、ユウキ? 今ちょっといい?」



◇ ◆ ◇



 十六時五十分にかけていたアラームに起こされて、寝ぼけた目を擦りながらから身体を起こす。

 ん〜、と一つ伸びをして、手ぐしで髪を整えながら翼はリビングへ足を運んだ。二時間弱の睡眠だったが、疲労困憊の身体にはそれだけでも体力回復の効果があったようで、頭がスッキリしたのを感じる。


「お疲れ様です、三上さん」

 

 リビングには、ちょうど帰り支度をしていた雫の姿があった。


「あぁ翼さん。ちょうどいいところに」

「?」

「一つお話したいことが……」


 雫はそう言うと、食卓の上に置いていた紙袋を手に取り、翼に手渡した。


「これは?」

「望月ハルさんから、お詫びの品だそうです」

「え?!」


 ばっ、と顔を上げ、紙袋から雫へと視線を移す翼。


「ハルが来たんですか?!」

「え、えぇ」

「いつ頃?!」

「い、一時間ほど前です」


 翼の剣幕に圧され、雫は思わず仰け反った。


「一時間前……」


 翼は小さく呟くと、自分を落ち着けるようにふぅ、と息を吐いた。


「それは……正直起こして欲しかったです……」

「すみません。でも理由があって」

「理由?」

「はい」


 雫は頷くと、どこか気まずそうに翼から視線を逸らした。


「えっと……望月さんが、翼さんのことは呼ばないで、と……」

「? どうして?」


 翼は目を瞬かせ、首を傾げる。


「……望月さんは、今後もう翼さんと関わるつもりはないそうです」


 雫の口から出た言葉の意味を、理解するのに時間がかかった。


「……え?」


 ようやく出たのはそれだけで。


「無理やり吸血して怖い思いをさせた自分に、翼さんと仲良くする資格はない、と。それから……同じ過ちをまた繰り返してしまう前に、翼さんとの関係を絶ちたい、とも」


 固まる翼に、容赦なく雫が言葉を浴びせてくる。

 なんで? どうして? そればかりが頭の中を占めた。

 自分の気持ちにようやく気づいて、これからどう関係を修復していくか考えていたところだったのに。

 だが、心の優しいハルが自責に自責を重ねた結果、そんな結論にいたってしまう可能性は十分に有り得るだろうと、理解できる気持ちもあって。

 それが苦しかった。


「────」


 全身の力が抜け、ガクッと膝から崩れ落ちる。

 紙袋を傍らに、まるで魂が抜けたかのように呆然と床を見つめる翼を、雫が前から包むように抱きしめた。

 その顔に悪魔のような笑みを浮かべて。

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