第39話 ガラス片

 照りつける太陽の下、麦わら帽子を被った翼は朝からお気に入りの海へ足を運んでいた。

 バスから下りて少し歩けば、潮の香りと共に視界一面の海が飛び込んでくる。

 普段は人の少ないこの海も、真夏となればちらほらと人の姿が見え始める。しかし朝早い時間とあって、ボードを持ったサーファーが数人確認できるくらいだった。

 

──前に来たのは、五月でしたね。


 風になびく髪を押さえながら思い出す。

 日差しの強さも気温の高さも、まだそれほど強くなかった五月の終わり。

 増田に強引に迫られていた自分を助けてくれたハルが「もっと早く助けに入れば」なんて優しすぎる後悔をしていたから、誰にも教えたことのないこのお気に入りの場所へ連れてきた。


「たしかこの辺で……」


 砂浜の上を歩きながら呟く。倒れかけた自分を、ハルがすんでのところで抱きかかえてくれたところだった。


「あ……」


 キラリと光る鋭利なガラスが埋まっているのを見つけ、翼はしゃがみ込む。


「まだあったんですね」


 場所的に、あのときハルが見つけたものと同じ欠片だろう。


──誰かが踏んでしまうかもしれないし、どこか目立たないところへ除けておきましょう。


 そう思い、軽い気持ちで手を伸ばした。


「いたっ」


 日光を反射するガラスに距離感を間違えたか、それとも他に考えごとをしていたからか。人差し指の先に鋭い痛みが走って、ぷくりと血が滲み出した。


「あぁ……」


 肩にかけていた小さなバッグから、げんなりした表情でポケットティッシュを取り出す。

 今にも砂の上に零れ落ちそうな血をティッシュで拭き取ろうとして、はたとその手が止まった。


「…………」


 赤黒い血がポタリと一滴、砂浜に落ちる。


──ハルは、この血を舐めたいと思うのでしょうか。


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 あの日、我を忘れて自分の血を貪るように飲んでいたハル。

 吸血鬼という存在にとって、この血はどれほどの価値のものなのだろう。

 人間である翼には想像もつかなかった。


──でも。


 一つだけ言えることがあるとすれば。


──この血でハルが喜ぶなら、私はいくらでも差し出すでしょうね。


 恋というのは恐ろしい。

 相手のどんな所も受け入れたいと思うのは、これまで生きてきた中で果たしてあっただろうか。

 ハルが吸血鬼としての自分をどう思っているのかはわからない。ただ、翼にとってそれはハルを嫌う理由たりえなかった。ハルへの好意を自覚したのはそもそも吸血されたあとのことで、関係を断ちたいと言われた今もその気持ちは変わらない。


「……まぁ、告白する前に終わってしまいましたけど」


 呟きながら、怪我をした指先にティッシュを押し付けた。

 

「一緒にご飯食べたり、水族館行ったり、琥珀と遊んだり……楽しかったなぁ」


 脳裏に蘇るハルとの思い出に、きゅっと胸が締め付けられるように痛くなる。

 何度も連絡をしようと思った。けれど本人の口から「関係を絶ちたい」なんて言われてしまったら、それこそ耐えられる気がしない。

 それでも、もう二度とハルとあんな時間は過ごせないのだと思えば思うほど、反比例するように彼女を求める気持ちが強まった。

 この感情を向ける先はもうないのに。

 自分が恋愛にこうも振り回されるタイプだとは、まったく思っていなかった。

 

──でも、もう忘れなきゃ。


 今度は慎重にガラスの端をつまみながら、人が歩かないだろう場所を探して移動する。

 防波堤が落とす影の下、サラサラと手触りのいいぬるい砂をガラスが飛び出ないくらいの深さまで堀る。


「もう表に出てきてはダメですよ」


 キラキラ輝くガラス片を穴へ落とし、完全に見えなくなるまで上から砂をかけて埋めた。


 二度と地上に出てくることのないように。



◇ ◆ ◇


 

 一日の仕事を終えて、アパートに着くなりユウキはソファに倒れ込んだ。


「あー疲れた……」


 部屋の照明もつけないまま、だらんと手足を伸ばして脱力する。

 今日の仕事はバラエティ番組の収録一本のみ。空が明るいうちに帰れたのは嬉しいが、あまり気持ちのいい仕事ではなかった。


紺野明菜こんのあきなが私のこと嫌ってるかもって、椿さんから聞いてはいたけど……あそこまでとはねぇ」


 収録での出来事を思い出しながら、ユウキは大きなため息を吐く。

 紺野明菜──二十歳にしてすでに数多くのドラマや舞台に出演し、その高い演技力から同世代に敵なしと言わせしめる実力派女優。

 ユウキが今通っている高校の卒業生だが、年齢的に在籍期間はちょうど被っておらず、今回の収録で初対面となった。


 会ったこともなければ話したことすらない相手に嫌われていると聞かされてもな──収録前はそんなことを思っていたが、実際に会ってみた結果、椿の言っていたことは正しかった。

 収録前は廊下で挨拶を無視され、収録中は台本にない無茶ぶりを振られ、収録終了後にはすれ違いざま、自分にだけ聞こえる声で「調子に乗るんじゃないわよ」と吐き捨てられた。

 一つ一つは我慢できる程度だが、それでも積み重なればそれなりにストレスを感じる。


「紺野明菜、ちょっと好きだったのにな。ショックだ」


 芸能界で仕事をする人間同士としてではなく、色々なドラマで披露される彼女の演技をいち視聴者として好んでいた。だから今日の結果は少し悲しいものがある。


「楽しいばっかりじゃないよね、アイドルも」


 仰向けになって、電気のついていない暗い天井を見上げる。

 学校の友人や芸能人に、知らないうちに嫌われていたというのはこの半年で何度かあった。大物芸人に媚びを売っているだとか、承認欲求の塊だとか、他のメンバーのことを自分の引き立て役としか思ってないだとか。SNSにも似たようなことを沢山書かれているのを知っている。

 ありのままの自分で、受けたい仕事を受けているだけなのに、見る人によってはそう見えるらしかった。

 そういうのが嫌になって、椿やハルに「アイドル辞めたい」なんて零したこともある。


 結局、自分を嫌う人のことを気にするより、応援してくれるファンや身内のために頑張りたくて今もアイドルを続けているが。


「……いいや、考えても仕方ないし、切り替えよ!」


 ぱん、と自分の頬を叩いて、ネガティブな考えを頭から追い出した。

 どれだけ考えたところでその人たちが自分を好いてくれるわけではないのだから、落ち込むだけ無駄なことだ。


「お風呂沸かそ。今日は入浴剤入れちゃおうかな〜」


 むくりと身体を起こし、ん〜と背伸びしながら呟く。

 そのとき、ズボンのポケットに入れっぱなしだったスマホが鈍い音を鳴らしながら振動した。


「ん? 歌恋から?」


 珍しいな、と画面の名前を見て零す。

 用件の心当たりが見つからないまま、ユウキはとりあえず応答マークをタップした。


「もしもーし」

『もしもし。急に悪いわね』


 歌恋は外にいるようで、声の後ろにガヤガヤした雑音が聞こえる。


『今ちょっと時間ある?』

「大丈夫だよ」

『今日仕事は?』

「もう終わったー」

『そう』


 ソファの背もたれにかかり、話を聞く体勢を取る。メッセージのやりとりもあまりしない歌恋からいきなり電話がくるなんて、なにかあったようにしか思えなかった。


『……ハルのことなんだけど』


 その一言で、あぁ、となんとなく内容を察する。

 続きを促すと、歌恋はゆっくり用件を話し始めた。




「いやいや、有り得ないよ」


 話をすべて聞き終えて、最初の感想はそれだった。


「翼はそんなこと言う子じゃない。私もばあちゃんと同じ意見だよ」


 自信を持ってそう言いきる。

 ハルと翼の間で何かあったことは察していたが、無理やりの吸血は想定していた中で一番アウトな内容だった。それでも、翼はハルに対してそんな言葉をぶつけたりしないだろう。

 怒ったり悲しんだりすることはあれ、裏切られたとか二度と関わりたくないとか、そういう言葉選びをする人間には思えない。


『ふーん。ユウキってそんなにその翼って人と関わりあるの?』

「いや、そんなかな」

『なのに言いきれるんだ?』

「私、人を見る目はけっこうあると思うんだよね。それに直接会ったのは1回だけだけど、メッセージのやりとりはたまにしてたから」

『……なるほど』


 相槌を打つ歌恋だが、ユウキの理由が弱いのかあまり納得してるようには聞こえない。


「それだけじゃないよ」


 だからユウキは、自分が有り得ないと思った最大の理由を口にした。


「歌恋達が花火大会行った日の少し前かな。翼から電話がきたんだよ」


 ゲームセンターで苦労して取ったぬいぐるみを椿にプレゼントした日。吸血を終えて彼女が帰ったあとのことだ。翼から電話がかかってきたのは初めてで、かなり驚いたのを覚えている。


「翼、開口一番なんて言ってきたと思う?」


 それは、電話がかかってきたことの驚きを一回りも二回りも上回る衝撃だった。


「『』」

『……!』


 歌恋にも、その衝撃はちゃんと伝わったらしい。


「ハルに報復してやるとか、全然そういう感じじゃなくてさ。『言える範囲でいい』『誰にも口外しない』って、電話越しにも頭下げられてるの感じるくらい丁寧だった」


 カミングアウトを含め、吸血鬼という存在については一般人にむやみやたらと話すべきではない。が、翼なら信頼できるだろうと、ユウキは彼女からの質問に可能な範囲で答えた。


「だから私は、ほっといてもいずれ二人は仲直りするだろうなって思ってたんだけど……」

『……でも実際のところ、メッセージでの連絡も直接会うことも拒否されてるような状況よ』

「そう、それがわっかんないんだよね〜」


 ユウキは顎を触りながら、うーんと頭を捻る。

 つい最近まで仲直りの意思があったように見えたのに、急に心変わりでもしたのだろうか。

 しかし、どうにも腑が落ちない。


「わかった。私からちょっと連絡してみるよ」


 部外者らでうんうん唸っているよりも、直接聞いてしまった方が手っ取り早い。

 本人達で解決できたらそれが一番だったが、ハル側から連絡も会うこともできない以上、多少の手助けをしても過保護にはならないだろう。


『うん、お願い』


 歌恋の返事に、ユウキは思わず頬を緩ませた。


──大事にされてるなぁ、ハル。


 妹のそばに歌恋がいてくれてよかったと、心の底からそう思った。

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