第37話 夏、夕焼け

「あれ?」


 玄関の扉を開け、誰もいない外を見て雫は首を傾げた。


──馴染みの配達員さんは玄関まで来てくれるって話だったけど。


 日鷹家は自宅を白い外壁に覆われており、家に入るにはまず外壁に設置された門扉を通らなければならない。

 来客は基本、勝手に中には入らず門扉の外からインターホンを押すが、鍵がかかっているわけではないため、よく来る配達員には玄関まで来るよう話をつけている──とのことだったが。


──あ、やっぱり向こうにいる。


 門扉の外に人影を見つけ、はぁ、と気だるげに息を吐く。

 大した距離ではないにせよ、たかが荷物を受け取るために炎天下に身を晒さなければいけないのは、豪邸に住むデメリットの一つだろう。

 日差しを遮るように額に手をかざしながら、雫は外に出た。


──ん?


 歩き出してすぐに気づく。

 待っていた人物のシルエットが、明らかに配達員のものではないことに。


「……!」


 来客は、雫もよく知る人物だった。

 短い黒髪に小柄な身体、少女にも少年にも見える中性的な顔立ち。

 そして、人間の域を出た美しさを備える容姿。


 驚いて一度止まりかけた足を、雫は慌てて動かした。

 彼女が何をしにきたのか、あらかたの予想はつく。


「…………」


 雫の口角が、不敵に吊り上がった。

 しかしそれもすぐに引っ込み、穏やかな表情に早変わりする。


「──どちら様ですか?」


 茹だる暑さの中、雫は素知らぬ顔で門扉の外へ問いかけた。




 心臓が速い。

 紙袋を持つ手が震える。

 自宅を出たときは思ったよりも落ち着いていたのに、いざ目的地に到着すると途端に怖くなった。

 少しでも気を抜けば、足が勝手にこの家を離れようとする。

 一緒に来た歌恋は、気を遣ったのか「そのへん散歩してるわ」と少し前に離れていった。


「…………」

 

 インターホンを押せないまま、ここに立ってもう五分経つ。そろそろ覚悟を決めなければ、これではただの不審者だ。

 ぎゅ、と拳に力を入れて、怯える自分を奮い立たせる。

 唾を飲み込んで、左手をゆっくりインターホンの高さまで持ち上げた。


── こ、こないで……!


 ぴた、とインターホン目前で手が止まる。

 怯えた少女の声が脳裏に鮮明に蘇った。


「っ、」


 だらん、と持ち上がった手が下がる。

 呼吸が早くなり、汗が頬を伝っていく。

 

──……今日は帰ります。


 涙で頬を濡らした先輩の顔が、追い討ちをかけるように頭をよぎった。

 自分の犯した二つの罪がどっと脳内に押し寄せてくる。

 思考力を奪われ、他に何も考えられなくなった。上手く息が吸えず、過呼吸じみた息遣いを繰り返す。


「──落ち着きなさい」


 必死に酸素を取り込んでいたら、突然視界がなにかに遮られた。


「大丈夫だから」

 

 背後から、ハルの両目を覆うように歌恋が右手を添えている。

 じんわり目元が温かくなって、脳を支配していたトラウマが霧散していった。

 呼吸が徐々に落ち着きを取り戻し、意識が現実に帰ってくる。


「……今日はやめとく?」

 

 しばらくして、歌恋がそう言った。

 その問いに、うん、と頷きたくなるのを堪える。


「……大丈夫。いくよ」


 歌恋の手を自分の目元からそっと離し、振り返る。

 歌恋は複雑そうに眉根を寄せてこちらを見ていた。応援したい気持ちと、帰ろうと言いたい気持ちが混じって何も言えない──そう顔に書いてあった。


「……わかった」


 最後はハルの気持ちを汲んだのか、歌恋は渋々頷く。


「でも、すぐ近くにいるから」

「うん」


 歌恋はハルから離れると、門扉のすぐそばの外壁に寄りかかって腕を組んだ。ハルのことを見るでもなく、しかしスマホなどをいじる素振りもなく、ただ周囲の景色を静かに眺めている。心配しつつも、ハルの気が散らないように配慮しているのだろう。

 歌恋のおかげで落ち着いたハルは、今を逃したら一生インターホンを押せないと、地に立つ両脚に力を入れた。

 ふぅ、とひとつ息を吐いて、両目を開き、左手を持ち上げる。


「っ……」


 ボタンを押す寸前、一瞬の躊躇いに指が止まるが、顔を振って恐怖を払い、とうとうハルはインターホンを鳴らした。


「………………」


 どっどっど、と痛いくらいに心臓が動く。

 たった数秒が何時間にも思えるような、そんな待ち時間だった。

 

「!」


 がちゃ、と扉の開く音がして、ハルの肩が跳ね上がる。

 逃げるように落ちた視線が灰色の地面を映した。

 人影はどんどん近づいてきて、とうとうそのつま先が視界に入る。

 けれど。


「──どちら様ですか?」


 放たれた声は、あきらかに翼のものではなかった。


「……え」


 思わず上げた視線の先には、やはり翼の姿はなく。


「配達の方では、ないですよね?」


 眼鏡をかけた同い年くらいの女性が、畳んだエプロンを腕に提げ、門扉一枚を隔てた正面に立っていた。


──……もしかして。


 新しい家事代行の女性は自分と同い年だと、翼が以前言っていたことをハルは思い出す。

 年齢から察するに間違いなく翼の母親ではないし、翼は一人っ子だ。エプロンも持っているし、この大人しそうな女性がおそらくそうなのだろう。


「わたしは……」


 どちら様、という質問の答えに、一瞬言葉が詰まった。


「翼さんと同じ学校の……生徒で」


 少しでも親しさを感じる呼称は躊躇われて、友人とも後輩とも言えず、結果そんな表現をしてしまう。

 翼という名前を声に出したのも、かなり久しぶりだった。


「……翼さんと、話したいことがあってきました。呼んでいただくことはできますか」


 声が震えないよう、ゆっくり丁寧にそうお願いする。連絡がつかなかったから仕方ないとはいえ、アポなしで訪れてしまった申し訳なさもあった。


「申し訳ありませんが、それは致しかねます」

「え」


 返ってきた答えに、ハルはぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 翼に伺いを立てるまでもなく、家事代行の女性に断られるとはどういうことか。


「あ、いま家にいないとか……ですか?」

「いえ、いらっしゃいますが」

「じゃあどうして──」


 ハルが困惑していると、女性ははぁー、と大袈裟にため息をついた。


「あなた、


 何を言われたのか、一瞬理解ができなかった。


「……え」


 言葉にならない声が口をついて出る。

 吸血鬼と、そう聞こえた気がした。


「翼さんから相談を受けたんですよ。後輩の吸血鬼から無理やり血を吸われたって」

「…………?!」


 次から次へと流れてくる衝撃に、脳の処理が追いつかない。

 何も言えずにいるハルへ、女性は侮蔑の視線を向けた。


「男が女を強姦するのと同じようなことを、あなたは翼さんにしたんですよ? それを承知でここにきたんですか? 半月も経って?」


 言葉を連ねるたびに女性の声に熱がこもっていく。


「無理やり噛み付かれた人間の気持ち考えたことあります? 私も昔吸血鬼に噛まれたことあるんですけどね、そいつの顔なんて二度と見たくないですよ。翼さんも同じです。信用していたのに裏切られたと、散々お怒りでした」

「…………っ」

「そもそも、吸血鬼なんて人間のなりそこないが、翼さんに近づいたのが間違いなんですよ。人の血を吸って多幸感を得るようなバケモノは──」


 がしゃん、と金属の揺れる音がして、女性の言葉が遮られた。


「黙って聞いてれば、好き勝手言ってくれるじゃない」


 門扉の縦格子に手をかけて、いつの間にか隣にきていた歌恋が静かに言った。


「誰ですかあなたは」

「あんたに名乗る名前はないわ」

「そうですか。さしづめ、そこの犯罪者吸血鬼のお仲間と言ったところでしょうか」

「! さっきからあんたねぇ!」

「あー野蛮野蛮。やっぱり吸血鬼は人前に出てくるべきじゃないですね。汚らわしい人間もどきは日の当たらないところでひっそり暮らしててくださいよ」


 声に怒りを滲ませる歌恋に、女性は煽るような口調で言った。


「というか、なんであなたはそこの吸血鬼を庇ってるんですか? お友達だから? 同じ吸血鬼だから? 人から無理やり吸血した、れっきとした犯罪者ですよ」

「この子が悪いことしたのはわかってるわよ。だから今日はそれを謝りにきたんじゃない。ハルの謝罪を受け入れるか受け入れないかは先輩本人が決めることであって、あんたが今ここで決めることじゃないって言ってんの」

「だから、翼さんはもうそこの吸血鬼と二度と関わりたくないって言ってるんですよ。あなた方が謝ってスッキリしたいだけなのに、翼さんにまた嫌な思いさせるつもりですか?」

「それだって本人の口から聞けたら私たちも素直に引き下がるわよ。「許さない」でも「二度と顔見せるな」でも「訴えてやる」でも、答えがなんであれ、本人の口から一言もらえればこっちはそれでいいの。犯罪者として償えって言うならもちろん従う。でもね、部外者のあんたにいくら言われたところで、はいそうですかって頷ける話じゃないの」

「はぁ〜どこまでも犯罪者側の思考ですね。被害者がどれほど心に傷を負ったかまるでわかってない。たった一言言葉を交わすことさえも、恐ろしくてできやしないのに」

「じゃあスマホのメッセージで一方的に送りつけるでもいいから──」

「歌恋」


 ようやくフリーズから解け、ハルは自分の代わりに戦ってくれている幼なじみの肩にそっと手を置いた。


「ありがとう。もういいよ」


 なるべく穏やかな声音を意識して言う。ここで歌恋を悪者にさせる訳にはいかなかった。


「でも……」

「いいの」


 納得いかないと食い下がる歌恋に、ふるふると首を横に振った。

 そして門扉の向こうにいる女性へと向き直る。


「今日は急に訪ねてすみませんでした。あなたの言う通り、わたしは最低な吸血鬼です」


 相手の足も見えないくらい、深々と頭を下げた。


「今後は先輩に一切関わらないようにしますと、そう伝えておいてもらえますか」

「まぁ、それくらいなら」

「ありがとうございます」


 頭を上げて、ハルは持っていた紙袋を格子の隙間から差し出す。

 花火大会前日に歌恋と買いに行ったマドレーヌだ。


「これ、要らなかったら捨ててください」


 そう言うと、女性は無言で紙袋を受け取った。受け取って貰えなかったら自分で食べようなんて思っていたが、その必要はないみたいだ。


「では、今日はこれで──」

「帰る前に、ひとつだけ言わせてください」

「?」


 家の中へ戻ろうとする女性を引き留めるように、ハルは口を開いた。


「わたしはたしかに吸血鬼としてクズだけど、吸血鬼全員がそうなわけじゃないから。勝手に決めつけて、知りもしない吸血鬼に汚らわしいとか人間もどきとか、そういうことは言わないで欲しい」


 言うだけ言って、じゃあ、と返事は待たずに歩き出した。

 自分の立場で言えたことではなかったかもしれない。けれど、自分の愚行のせいで歌恋にまであんな言葉を投げられるのは、どうしても納得がいかなかった。


「ごめんね、歌恋」

「なにが?」

「いろいろ……代わりに言わせちゃったこと」

「別に。あたしがムカついて勝手に言っただけだから」

「……ありがとう」

「ん」


 茜色に染まった夕焼け空の下。住宅の並ぶ細道を二人並んで歩く。

 望んでいた結果にはならなかった。それでも、自分にやれる最大限のことはやった。そこに後悔はない。


「ハル」

「ん? ……ぐぇ」


 歌恋に名前を呼ばれたと思ったら、いつの間に後ろにいたのか、背後から首に右腕を回された。

 二人の歩く足が自然と止まる。


「ちょ、なに──」

「頑張ったわね」


 振り向いて文句でも言おうと思った矢先、優しい声が鼓膜を撫でた。

 

「よく頑張ったわ」


 歌恋はそれだけ言うと、満足したように静かになる。

 たった二言。

 けれど、それだけで十分だった。

 

「…………っ」


 顔を俯かせ、堪えきれずに声を漏らす。

 ぽろぽろと零れ落ちた涙が地面に次々とシミを作っていった。

 頭にそっと手が置かれて、余計に目頭が熱くなる。首に回された幼なじみの腕を、しがみつくように掴んだ。

 時間も忘れて、溢れ出す感情をひたすら消化していく。

 誰の家かも知らない一軒家が作る影の中で、少女の小さな嗚咽が夏の空に溶けていった。

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