第4話 Fear and Loating in

 吸光虫のランタンが、二人の周囲を明るく照らし出す。エンチャントリアを後にした二人は、エルフ族の隠れ家である、宵闇の森を目指していた。光源は吸光虫のランタン以外に存在せず、光から離れたその先は果てしない闇がただ続くばかりであった。エンチャントリアと異なり、生命の気配はまったくなかった。明かりに照らし出された、うっそうと茂っている木々は、本物の生きている木なのか、それとも本物を完璧に模した贋作なのかダンには判断がつかなかった。

 オリヴィアは暗闇を気にする素振りをまったく見せず、どんどん先を歩いて行った。ダンははぐれまいとついて行った。

「ほんとに真っ暗なんだなここは」

「はい。でも何も心配することはありません。魔法で惑わされているだけですよ」

「すげえな。この魔法は、誰がかけたんだ?」

「一代前の私たちの族長だった、ソフィア様と、ダンさんもよく知る賢者マルキスです」

「へえ。マルキスはもういないのに、それでも魔法の力は消え失せないんだな」

「そうみたいです。詳しいことは私にも分かりませんが、土地のマナに根付いていて、術者が死んでも術式は保たれていると聞きました」

「便利なもんだな。……それにしてもどこまで行くんだ?」

「近づけば、その兆しが現れます。まずはそれを見つけます」

「そうか」

 ここで魔物に遭遇しなければ良いが。ダンが最も避けたいのは、暗闇の中で魔物と遭遇し、そのまま戦わざるを得なくなることだった。これまでの道のりで、魔物の残留物は幾度も目にしてきたが、本体は見てこなかったし、気配も感じなかった。エンチャントリアを離れてしまったのかもしれない。

「あ」

 オリヴィアが足を止め、虚空の一点を見つめている。ダンもオリヴィアの目線を追ったが、なにも見えなかった。

「兆しを見つけました」

「俺には見えないな」

「当然です。私たちだけにしか、分からないものですから」

「まあ、そりゃそうか」

 オリヴィアは突如向きを変え、茂みの中へ入って行った。ダンも黙って後に続く。

「兆しってどんな風に見えるんだ?」

「そうですね……。閃光と言えばわかりやすいでしょうか。突然、一筋の光が目の前に流れてくるんです。あ、今も見えました」

 また方向を変える。その後も何度か向きを変え進んでいった。来た道を戻ることもあった。宵闇の森は魔法に隠され、移動している。兆しもそれに合わせて出現する。規則性がないのはそのためだった。

「もう、すぐそばです!」

 オリヴィアが歓喜の声をあげた瞬間、二人は柔らかな木漏れ日に包まれていた。目の前には広間があり、周りを木々が囲んでいる。暗闇は跡形もなくなり、はじめからそこに存在していなかったようだった。ダンは、前方の木の影から殺気が漂ってくるのを感じた。目を凝らすと、オリヴィアと同じ新緑の輝きを持つ瞳が、枝葉に紛れてこちらを凝視していた。ダンは同じ視線を左右、背後からも感じた。どうやら包囲されているようだ。

μαυα ολιβφιαオリヴィアですγεηε帰ってきました!」

 オリヴィアの声が宵闇の森にこだまする。それからしばらくして、一人のエルフが姿を現し、二人に歩みよってきた。背が高く、くすんだ金色の髪を持っている。切れ長の目は、鋭い眼光をたたえ、一文字に結ばれた口からは焦燥と疲労、強い猜疑心がうかがえた。

ολιβφιαオリヴィアρυσ ξωφνα ολιβφια本当にオリヴィアか?」

 エルフの声はオリヴィアより重く、低い。ダンは男性のエルフだと分かったが、意味は分からなかった。

μαυαはいμαυ γεηε χαινεησ帰ってきましたよケイネス!」

γεηεα ολιβφιαよく帰ってきたなオリヴィアανσητ安心したぞ!」

ρυσ τωあなたも無事で!」

 エルフ族の二人は再会できた喜びを分かち合っている。ダンはその様子をまんじりともせず眺めていた。

μεσωみんなολιβφιαオリヴィアだολιβφια γεηεオリヴィアが帰ってきたぞ!」

 男の方が声をあげると、森からエルフ族が姿を現しはじめた。身にまとっている衣服は汚れ、表情は重々しい。だがオリヴィアの姿を見ると、英気が戻ったようで笑顔を浮かべ集まってきた。オリヴィアに希望を見たのだろう。

「|χαινεησ σεη δαν οαπρωσ《ケイネス、彼は人間族のダンさんです》. |σεη γοπωρατ χιλ βεητσ《魔物退治に協力してくれます》」

 エルフ族の男はダンを一目見ると、怪訝な表情を露わにした。それを隠そうともしなかった。

οαπρωσ ι人間族一人かηω κινγσαρμυ王都の軍はどうした?」

「…………νω駄目でした. μαυ λογσ χωζε何度もかけあってみたのですが

ζιρなんだと!?σω ρυσ τακησ οαπρωσそれで連れて来たのがこの人間か!? μσ θινεσ我々に滅びろと!?」

 男の荒げた声に集まってきたエルフ族も唱和した。怒号が満ちる。相変わらず、ダンは話の内容を理解できなかったが、自分が歓迎されていないことだけは分かった。

εαφσ待ってください!|δαν λαστω ζαρωσ λονγ ΜΑΛΚΙΣ《ダンさんは賢者マルキスの最後の弟子です》!σεη υσεきっと役に立ってくれます!」

 エルフ語の中で、耳慣れた単語がダンの耳にとどいた。「マルキス」。俺とマルキスが知り合いだと、説明したのだろう。それにしても、本当に偉大な人だったんだな、先生。ダンは古い記憶に思いを馳せた。マルキスの下で過ごした映像の断片が、脳裏を駆け巡っている。自然と口元がほころんだ。

 マルキスの名前を聞いた途端、それまで声をあげていたエルフ族たちは、水を打たれたかのように静まり返った。数多の視線がダンに注がれる。羨望、憧憬、嫉妬、猜疑、不信。視線の種類はこれら五つに大別できた。もっとも多く、割合の席を占めていたのは、羨望である。エルフ族では、賢者マルキスと会話できるだけでも名誉と栄光とされていたからだった。今を生きるエルフ族で、マルキスと直接面識がある者は、一人しかいない。その一人が、オリヴィアとダンの前に姿を現した。他のエルフと違い、顔にはしわが走り、猫背で姿勢が悪い。風貌は人間の老婆を思わせる。だがダンは、その人物の目に宿る瞳から、マルキスと同じ知性の雰囲気を感じ取った。

χαβωα族長様!」

γεηεα ολιβφιαよく戻ったねオリヴィア. μαυ τηνφκ心配していたよ

 オリヴィアは屈みこみ、族長と目線を合わせた。族長は手を伸ばしオリヴィアの煌く金色の髪を撫でる。

χαβωα τω族長様も無事でなによりです

「|ω βυτο μσ λοστ σω φαμιρω《ああ、だが多くの家族や友を失った》, μαυα φαυλτ私の不覚でね

νωいいえ,νωそんなことありません…….ενμιγ敵が,ενμιγσ φαυλτ敵が悪かったのです

μοうむ………….βαιη ψιη οαπρωσところでそこの人間は何者かλαστω ζαρωσ最後の弟子だとλονγ μαλκισ賢者マルキスの?」

μαυα σεη δαν οαπρωσはい、彼はダンさんです. σεη ηελπσ ενμιγ κιλ魔物退治に協力してくれます

φοほう

 族長はダンを見上げ、鑑定をしていた。ダンは、老婆が自分の衣服の中までも透視しているように思えた。本来、女性に裸体を見られることはやぶさかでないが、今回の場合、あまり心地の良いものではなかった。そのお返しと言えば聞こえは悪いが、ダンも老婆の姿を凝視する。しばらくそうしていたが、沈黙は族長の質問で破られた。

「お前、本当にマルキスの弟子なのかい?」

 族長は流暢な共通語でダンに話しかける。ダンは動じず静かに肯定した。

「なら魔法や魔術は使えるんだろうね?」

 あのマルキスの弟子なら使えて当然と言っている。

「いいや。使えない」

 ダンの返答に族長は不信感を強くした。オリヴィアに疑問の視線を投げかける。オリヴィアはダンを弁護しようとしたが、言葉が見つからず、たじたじになっていた。

「魔法は使えないが」

 ヴァレリア鋼の剣を抜き取り空に掲げる。陽光を受けた剣が、一瞬虹色に輝く。

「ヴァレリア鋼の剣……」

「そうだ。先生、いや恩師マルキスから受け取った。その証拠に」

 ダンはそのまま剣を軽く振って見せる。剣は、過日オリヴィアに見せたのと同じく、しなやかな曲線をなぞった。振り終えると、老婆に柄を見せる。そこにはマルキスが刻んだ、紋章が描かれている。

「…………」

 老婆は考え込んでいた。ダンは剣をしまい、反応を待った。

「まるっきり、嘘という訳でもあるまい。オリヴィア」

「は、はい!」

「お前が連れてきたんだ。この男はお前に預ける」

「はい!ありがとうございます!」

「そうだ。人間よ、私の名はグレナダだ。エルフ族の族長をしておる。そなたは?」

「ダン。まあ、便利な傭兵だと思ってくれればいい」

「分かった」

 族長グレナダはその場を去って行った。取り残されたエルフ族はオリヴィアとダンを見つめていた。

「この方は、賢者マルキスの弟子、ダンです。残念ながらエルフ語を解せません。ですから、みなさん、彼がいる間はどうか共通語を使ってください。賢者マルキスが彼にそうしたように、族長様がそうしたように」

 今度の呼びかけは共通語だった。エルフたちは互いに顔を見合わせ、提案を受け入れるか、否か思案している。その中で真っ先に承諾したのは、オリヴィアと話していた男性エルフだった。彼はダンにケイネスと名乗った。ダンもそれに応じた。それからエルフたちは簡単な名乗りを上げていった。その様子をオリヴィアは胸を撫でおろしながら見守っていた。


 宵闇の森には、エンチャントリアで暮らしていたほとんどのエルフ族が避難してきていた。老若男女を問わず、生き残った者はすべて宵闇の森で安全を確保していた。ダンは、幼いエルフたちの好奇身の的となり、終わりのない質問に身を晒さねばならなかった。幼いと言っても、人間の年齢に直せば、ダンより二回り以上年上の者しかいなかった。年上の存在に、ものを教える違和感を覚えながらも、質問には丁寧に答えていった。

 彼らの好奇心を満たすと、ダンは開放された。手持無沙汰になり、許可された範囲を散策する。宵闇の森は、エンチャントリアと比べるとやや狭い印象だった。だが、大地に根を張っている木々は遜色ないほど大きい。森の中央には、エンチャントリアと同じく一本の大木が生えており、他の木々が左右に広がる形で囲んでいる。

 ダンが戻ると、エルフ族たちは、広間で思い思いの時間を過ごしていた。多くはいくつかの集団に別れて会話に華を咲かせているようだった。集団の一つにオリヴィアの姿があった。地面に座り込み、楽しげに口を開いている。オリヴィアが袋から色彩豊かな野菜を取り出し、みんなに見せていた。エルフたちは食い入るように見つめている。彼らにとって、オリヴィアが持ち帰った野菜は、この上ない贅沢品だった。突如拍手が起こり、他のエルフたちも、彼女のもとへ集まってきた。オリヴィアはいつも、彼らの中心にいる。ダンは、そう遠くない未来で、彼女がエルフ族たちを取り仕切っている姿を想像した。

「ぴったりだな」

 オリヴィアを横目に、そのまま宵闇の森を歩き回る。しかし、これのどこが宵闇の森なのだろうと、ダンは疑問だった。枝葉の間隙を縫って、青々とした空が顔を見せているし、太陽の光は木漏れ日となって大地を照らしている。吸光虫が放つ光とは違う。ここは母なる太陽の光で満たされていた。そう思うと、エンチャントリアの方が暗かった気もしてくる。

「ダンさん」

 空を見上げているダンに、輪から抜け出したオリヴィアが声をかけた。エルフ族たちは野菜に夢中だった。

「向こうはもう良いのか?」

「ええ。みんな野菜に夢中ですから」

「……みたいだな」

「他のエルフとは、仲良くなれましたか?」

「ああまあ。子供たち、と言っても俺より年上なんだが、あいつらとは話したよ」

「ずっと質問攻めにあってましたもんね」

 クスクスとオリヴィアが笑う。大人びた美貌の中に、あどけない少女の表情が浮かんでいた。

「ああ。人間のこととか、マルキスのこととかな」

「あの子たちにとって、珍しいことですから」

 エルフ族は、他種族に比べ閉鎖的な種族である。年長者であれば、過去に外界で他種族との交流を持っていたことは珍しくないが、子供はそのような経験がないため、エンチャントリアの外の世界、その世界で暮らす種族についての知識が乏しい。大人から聞き出せることはできるが、聞くだけにとどめるのと、実際に目にするのとでは情報の鮮度と質が違う。ダンの姿が、彼らの好奇心を呼び起こすのも、無理のない話だった。

「それにしても、なんでここは宵闇の森なんて名前なんだ?明るくて穏やかな森じゃないか」

 先ほどから抱いていた疑問を口にする。

「そうですね、ダンさんのおっしゃる通りです。本来は、私たちが通ってきたあの暗闇を指す言葉だったんですけれど、いつの間にか一緒くたにそう呼ぶようになってしまったみたいです」

「じゃあ、もともと別の名前があったのか」

「ええ。落命の森。それが本当の名前です」

「…………あまり縁起のいい名前ではないな」

「ですよね」

 命を落とす。名付けたのはマルキスだろうか。それとも他のエルフなのか。なにを思って落命などと名付けたのか、ダンは少し興味を惹かれた。

「こっちには魔物はきてないみたいだな」

 宵闇の森はエンチャントリアのように荒らされた形跡がなかった。魔物の気配や、存在を示す痕跡もない。

「気づいていないのでしょう。賢者マルキスとソフィア様がかけた魔法ですから。魔物程度に見破られるはずがありません」

 オリヴィアの言葉にダンも同意する。ソフィアというエルフは知らないが、マルキスの魔法が看破されるなどあり得ないことだ。敵が、ただの魔物であれば。

「だがずっとここに身を潜める訳にもいかないだろう?こうしている間にも、魔物が森を荒らしているかもしれん」

「それはそうですね……」

「そこで俺から一つ提案がある」

「なんでしょう?」

「この近辺で見通しの良い場所はないか?こんな感じの、なにもない広間のような場所」

「うーん…………私の知る限りありません。仮にあったとして、なにを?」

「敵をおびき寄せて戦う。森の中では戦いたくない。剣の強みを生かしにくいし、なにより魔物が暴れることで、被害がでるからな。だから、こういうただっぴろい場所で、思う存分戦いたいんだが」

「なるほど。分かりました。族長様にうかがってみます」

「頼む」

 ダンの話を聞くとオリヴィアは足早にその場を去った。ダンは、また独りで、光に包まれた宵闇の森を歩き始めた。


 夜になると、枝葉の間を埋める役割は星空に取って代わられた。エルフたちは吸光虫を使って光源を確保した。球状をした光が微風に乗ってあたりを漂う。ダンとオリヴィアの吸光虫ランタンは、族長の住居となっている大木の外に吊るされていた。その大木の中で、族長グレナダがオリヴィアからダンの提案を聞いている最中だった。オリヴィアの他には、ケイネスと数人のエルフがいた。彼らは実際に魔物と戦い、生き残った者たちだった。ダンの話を吟味するため、グレナダから召集を受けたのだった。人間族であり、魔物との一騎打ちを提案した張本人であるダンもその場に居合わせた。

「…………お前さん、たった一人で勝てるのかえ?」

「さあな。俺は話で聞いているだけだから、まだなんとも言えんのが正直なところだ。だがやってみないことには分からないだろう。勝てはしなくても、今は死ぬつもりはない」

 ダンの最後の言葉を聞いて、オリヴィアの背中を寒気が走った。いつか必要な時に死ぬ。ダンがそう言っていると思ったからだった。ダンの過去を知るオリヴィアは、彼に生きて欲しかった。良き家族を持ち、良き友人に囲まれながら。だが今はそれを口で伝える場面ではなかった。みな生き残りをかけた戦いに思考を集中させている。自分もそうしなくては。

「ことが上手くいかねば、おめおめと逃げると言うのか?私たちの仲間は、壮烈な戦いの果てに命を捧げたのに?」

 ケイネスが批判がましく返答する。彼の取り巻きである他のエルフも、ケイネスの言葉に唱和する。何かを守るための戦いで、命を散らせることは彼らにとって名誉であった。だが、ダンは彼らの死の美学に付き合うつもりはなかったし、それを強制されるいわれもなかった。

「俺たちの言葉に、『命あっての物種』というのがある。たとえ敗れたとしても、生きていればこそ再戦の機会に恵まれる。死んでしまっては元も子もない。もう一度言うが、俺は死ぬつもりはない。それに逃げるつもりもない」

 厳かで芯の通った意見だった。ケイネスたちはグレナダに抗議の目線を送ったが、グレナダはそれを黙殺した。

「ふむ…………ならば、エンチャントリアを使うがいい」

「族長様!?戦士の魂が眠る地なのですよ!?」

 グレナダの言葉に、ケイネスが再び声を上げた。口を開かなかったが、オリヴィアもグレナダの大胆な発言に動揺していた。ケイネスの言う通り、エンチャントリアは、友人たちが安らかに眠っている場所なのだ。それに、あの憎悪の根源となっている魔物が、エンチャントリアに足を再び踏み入れるのを許したくなかった。

「そうだ。だからこそ、エンチャントリアを使えばいい。散っていった戦士たちが、加護をくれる」

「ここではダメなのですか!?」

「ならん。断じてならん。宵闇の森に災いをもたらすようなことは断じてならぬ。ここは我らの最後の砦ぞ。奴に感ずかれでもしたら、どうなる?エンチャントリアの後を追わせたいのかえ?」

「決して、そのような…………」

「ならば、既に戦場となったエンチャントリアで再び対峙するしかあるまい」

「しかし。……そもそも、この人間の提案など無視すればそのようなことには!」

 エルフ族の細長い、艶やかな爪を持った指がダンを指した。ダンは一言も喋らず、事の成り行きを見守っていた。

「お前には代案があるのかえ?ケイネス。我々の攻撃は奴には効かん。魔術もな。この男をぶつける以外、なにか道はあるのかえ?」

「それは」

「ないなら、我々はこの男の言を受け入れるしかない。そんなことも分からんのか。…………もうよい。取り決めは追って沙汰する。下がれ」

「し、しかしグレナダ様!」

「下がれと言うに!」

 弱々しい風貌から発せられたとは思えない怒号だった。部屋の照明を担う吸光虫が震え、ダンたちの影が揺らぐ。その後ケイネスは、意義を唱えることもせず、仲間と共に大木から去った。去り際、ダンに鋭い視線を送ったが、ダンはそれを無視した。

「すまんな。見苦しいところを見せて」

 グレナダはダンに謝罪する。

「気にするな。よそ者に良い顔をされるのを嫌うのは、当然のことだ。でも、本当に良いのか?エンチャントリアは、あんたたちの家だろう?」

「構わぬ。二言はない」

 グレナダの決意は固い。

「…………オリヴィア」

 オリヴィアに視線を向ける。オリヴィアはなにも答えなかったが、ダンの双眸をまっすぐ見て、小さく頷いた。彼女もまたグレナダと同様だった。

「分かった。なるべく一回で済むようにやろう」

 それからも三人は魔物討伐の協議を重ねていった。星々の煌きが薄れ、太陽が再び空の支配者となった時、ダンはようやく眠りについた。

 正午を回った頃、ダンとオリヴィアは宵闇の森を後にして、再びエンチャントリアへ向かっていた。宵闇の森からエンチャントリアまで向かうのは大して難しくなかった。設けられた小道を道なりに進むと、ものの数分でたどり着いた。

「これも魔法か」

「ええ」

 エンチャントリアの姿は、二人が去ってからも変わっていなかった。魔物が物色しにきた痕跡もない。連れてきた吸光虫を周囲に放った。

「じゃあ、手筈通りに」

「分かりました。…………ダンさん、死なないでくださいね」

「俺は死なないよ」

 二人は頷きあった。

 オリヴィアは宵闇の森から持ってきた、魔術で固め凝縮したエルフ族の臭いをエンチャントリアの広場を中心にして、同心円状に放った。臭いは魔術で操られた風に乗り、周囲の森へ散布される。これは、魔物はまだエルフ族を狙っていると考えた、ダンからの要請だった。彼らの臭いを餌にして、エンチャントリアにおびき寄せる。魔物であれば、標的の臭いを無視することはしないはず。この習性は、少年の頃マルキスに教わった。

 臭いが散布されると、オリヴィアは放棄してある木の家に身を隠す。彼女に代わり、ダンは広場へ歩み出た。腕を組み、静かに待つ。意識を全方位に集中させる。魔物の気配はまだない。

 二時間が過ぎ、三時間が過ぎた。その間も、ダンは微動だにせず、標的が現れるのを待った。オリヴィアは室内からその様子を見守っていた。

 エンチャントリアのはるか上空にある空が、清々しい青色から、哀愁を孕む茜色に染まりはじめた時、ダンの神経が微妙な空気の変化を捉えた。それは徐々に確かなものになっていき、二人の鼻孔に腐臭が流れ込んで来る。

「きたか」

 嫌悪感を抱きながら、前方をまっすぐ見据える。林が揺れて、急速に変色しているのが見えた。まるで生命を吸い取られているようだった。足音が聞こえてくる。今まで聞いたこともない音だった。武者震いがダンの全身を駆け巡った。

 そして、魔物は彼の前に姿を現した。魔物はオリヴィアから聞いていた通りの風貌だった。体はぬめり気のある鱗のようなものに覆われ、奇妙な光沢を放っていた。胴体から伸びる太くて丈夫な四肢、先端に頭部を持つ首、異形の尻尾。頭部は鎧兜の形をしており、落ちくぼんだ眼窩がはっきりと分かる。そこに宿る水色をした瞳には、ほとばしる悪意と殺意とが同居し、新たな獲物をじっくりと見ていた。手足についている鉤爪は、どんな凶器よりも鋭利で、生命を刈り取ることのみを考えている。ダンは爪のところどころに、どす黒く光る赤い染みを見た。それがエルフたちの血痕であることはすぐに分かった。

 魔物は歩みを止めた。姿勢を低く保ったまま、ダンを凝視する。口からは涎が滴り落ちて、地面に不気味な痕を残している。

 ダンは抜刀した。ヴァレリア鋼の剣は音もなく引き抜かれ、吸光虫の光を浴びて鈍く輝く。両腕をだらりと下げたまま、相手の出方を待つ。これは我慢比べだ。先に動いた方が負ける。ダンの直感はそう告げている。

 数分か、数十分の間。

【ゴルヴァァァァ!!】

 先に動いたのは魔物。高らかな咆哮を上げ、ダンに飛び掛かってきた。俊敏さ、威圧さ、凶悪さ、どれを取っても野生の獣たちをはるかに凌駕する存在だった。見ていたオリヴィアが、気が付いた時には、凶刃がダンの首を薙ぎ払おうとしていた。ダンは目にも留まらぬ速さで鉤爪を払いのける。ヴァレリア鋼と衝突した鉤爪が、耳障りな音をあげる。一撃で仕留められなかったことが気に喰わなかったのか、魔物は全身を震わせ口を開けて再度突進してきた。開かれた口の中は、牙が幾重にも生えていた。だがダンの注意を引いたのは、先端が紫色をした袋状になっている舌だった。魔物は速度を緩めず、舌をだし毒液を放った。ダンはこれを予想していたので、動じる気配もなくスッと横に避ける。魔物は振り返りざま鉤爪を振り下ろしたが、これもダンに躱された。

「どうした?こんなもんかよ」

 今までの相手と違うと、魔物は悟った様子だった。距離を保ち、左右を行ったり来たりしながら、ダンを観察している。専守防衛をしている限り、殺されずには済みそうだとダンは思った。マルキスに鍛えられた経験と、彼の才能とが確信させる。問題は攻撃に転じた時だった。人間の脚力では魔物に追い付けないことは明白だった。こちらから仕掛ければ、向こうは退くか避けるだろう。向こうからすれば、人間の速度など取るに足らないはずだ…………。剣を状態変異させ遠距離から追撃することもできるが、それもカウンターとして使った方が無難に思えた。決め手がないまま、わざわざ手の内を見せる必要はない。

 ダンはまた両腕を下げ、相手の攻撃を誘った。魔物は何度か瞬きをする。ダンの行動を訝しんでいる様子だった。

「小賢しい」

 それを察知したダンは、敢えて攻撃に出た。全速力で駆け出し、魔物の顔面へ切っ先を向ける。魔物は軽くダンの攻撃を躱し、舌から毒液をまき散らした。

「ちっ」

 剣で毒液を払う。ヴァレリア鋼は毒を寄せ付けなかった。毒液は目的を果たすことなく切られ、地面に飛散する。液体の一部が袖にかかった。衣服が音もなく溶けてなくなっていく。

「くそ面倒な」

 急いで毒が付いた部分を切り取り、投げ捨てた。傷だらけのダンの腕が外界に晒される。

 魔物が再び距離を取った。明らかにダンを警戒していた。しきりに背後を振り返っている。

「まさか逃げるつもりか!?」

 声を張り上げ魔物を挑発する。ダンの怒声が魔物の癇に障った。先よりも更に大きな咆哮をあげる。だが、ダンに飛び掛かってくる気配はない。

「これじゃ埒が明かない」

 こちらから攻撃を仕掛ければ、やはり簡単に避けられる。魔物はそのまま毒液を放出する。さっきは運がよかったと、ダンは思った。もしあそこで鉤爪が飛んできていれば、自分は殺されていたかもしれない。どうしたものか。おそらく向こうもそう思っているのだろう。さっきからまったく襲ってこない。このままではいたずらに時間と体力を消耗するのみだ。相手が攻撃してくるよう、仕向ける必要があった。

「オリヴィア!!」

 オリヴィアは突然自分の名前が呼ばれたこに驚いた。体がビクっと反応する。

「もう一度、臭いを、臭いを俺と魔物に放ってくれ!」

 ダンの考えは分からなかったが、彼の言葉に従った。小声で呪文を唱える。空気の質と流れが変わる。仲間が生存している証とでもいうべき臭いが、相対する両者へ向かう。魔物は頭を震わせた。ダンを凝視する。その視線から、ダンは、はじめて目にした時と同じ、悪意と殺意を感じた。やはりこいつはエルフ族を殺したくてたまらないようだ。

「さあ、こいよ化け物!」

 ダンの挑発に魔物が応じた。急接近した魔物は、ダンに鉤爪を浴びせかける。ダンは攻撃を払いのけるが、すかさずもう一本の手がダンの脇腹を横に薙ぎ払おうとした。剣を持ち換え、鉤爪目掛けて振り下ろす。ヴァレリア鋼の剣は、鉤爪をものともせず、包丁で野菜を切るように両断した。

【ガァァァァァァァ!】

 大地を震わせる悲鳴をあげて魔物がのけ反る。それに呼応して、ダンは詰め寄り首筋をつらぬこうとしたが、躱された。完全に避けきれた訳ではなく、急所こそ外したが、切っ先は魔物の外皮をつらぬき、薄い青色をした体液が傷口から滴り落ちた。

 魔物は後ろに下がると、そのまま振り返ることなく、森の中に入り姿を隠した。持ち主から切り離された鉤爪は、地面に転がっていたが、青白い液体に溶け始め、そのまま消え去った。後に残ったのは、土色とまざった奇怪な染みだった。

「ダンさん!」

 オリヴィアが駆け寄る。不安気な表情を浮かべていた。

「お怪我はありませんか?……服が!」

「あーあ、せっかくの一張羅だってのにやられちまったよ。しかも逃がしちまった。すまない」

「いいえ、いいえ!生きていればこそじゃないですか。…………しかし、また、来るでしょうか?」

「来るだろう。エルフ族がまだどこかで生きていると、あいつも分かっただろうから」

「……本当に、討ち果たせるでしょうか?」

「多分な。とりあえずあいつの鉤爪一本は叩き切っておいた。そこに転がってたが、溶けてなくなったがな」

 ダンが顎で示した場所をオリヴィアが見る。確かに、見たこともない色をした染みができていた。

「戦利品として持って帰りたかったが、仕方がない。オリヴィア、魔術を使って魔物を探知することってできるもんなのか?」

「……普通なら可能です。マナの足跡を辿ればいいですから。ただ、あの怪物に対しては、それができないようなんです。…………私たちも以前何度か試したことはあるのですが、何の反応も示さないんです」

「反応がないということは、なにを意味している?」

「そうですね…………あれが魔術を使えるという前提になりますが、対抗魔術で探知を逃れている。これが最も考えられます。…………もう一つあります。しかし、これは自然の摂理に反しています」

「それは?」

「あれにはマナが存在しない、ということです。マナがなければ、足跡を辿ることもできませんから…………」

「この世界の万物にはマナが宿っている。摂理にも、道理にも合わないということだな」

「はい」

「…………」

 頭の片隅に追いやっていた考えが、かま首をもたげてくる。造られた生命体。仮にそうだとしても、果たして可能なのだろうか。人工的に造られた生命でも、オリンシアに存在する素材から産みだされたのであれば、マナが宿るはず。もし、マナを意図的に消すことが可能なら、そうとも言い切れなくなるが…………。

「もうしばらくここで様子見する。その後帰ろう」

「はい」

 魔物が逃げ出してから数時間、ダンとオリヴィアの二人は再度の襲撃に備えて、エンチャントリアにとどまり待ち伏せていたが、徒労に終わった。

 宵闇の森に戻った二人は労りの声で迎えられた。しかし、魔物を殺すことが叶わなかったと知ると、ケイネスがダンを糾弾しはじめた。

「やはり!私が予見した通りだ!戦士たちが眠る土地は再び汚された!しかも殺すこと叶わず、逃げられた!所詮は人間族!実力がない分際で、支配者を気取っている連中の同族よ!」

 族長グレナダは彼の意見を肯定こそしなかったが、否定した訳でもなかった。彼女自身、死体となった魔物に唾棄することを期待していたため、不殺に終わったとの報告に不愉快さを覚えた。ダンは、ただ黙してケイネスからの批判を受け入れていた。彼としても、あの場で仕留めきれなかったことは不覚に感じていたし、エンチャントリアの地が再び汚されたというのは事実だと考えていたからだった。

 四面楚歌の中で、ダンの擁護者となったのは、彼と共に戦地へ赴き、共に戦ったオリヴィアだった。

「確かに殺すことは叶いませんでした。しかし、魔物に傷を負わせることはできたのです!ダンさんの持っているヴァレリア鋼の剣であれば、必ず殺せます!」

「オリヴィア、それは本当かえ?」

「はい。私は見ました。ダンさんがあの怪物の鉤爪を両断する瞬間を、首の一端をつらぬく瞬間を」

「ならば鉤爪はどうしたのだ?なぜ持ち帰ってこなかった?」

 ケイネスから当然の疑問が発せられる。この問いに答えたのもオリヴィアだった。

「切られた鉤爪は、溶けるようにして消えてしまいました。ですが、その染みは今も残っています。…………そんなに証拠が見たいのなら、私が案内します」

 ダンのことになると、熱くなってしまう。オリヴィアの心臓は、鼓動を早めていた。ドクドクと、心臓から送り出された血が、全身を駆け巡っている。たとえ同胞であろうと、行き過ぎた批判や、彼に対する不当な言動は許さない、と血が騒いだ。ケイネスは、オリヴィアがここまでダンの片を持つとは思っていなかったようで、腕を組みながらなにかを考えていた。目線が定まらず、さまよっていたり、なんども首をかしげていたりする様子から、彼が動揺していることが分かる。

 彼らの逸る熱気を押さえたのは、族長グレナダだった。

「人間族のダン、今回は取り逃がしたが、次相まみえた時、仕留められる自信はあるかえ?」

 一同の視線がグレナダからダンへと向けられる。それまで一言も発してこなかったダンだったが、短く、鋭い語調で答えた。

「殺す」

 ダンの言葉は、鋭く磨き上げられた剣のような冷たさを孕んでいた。何人かのエルフが生唾を飲み込む音が聞こえてくる。静まり返った室内で、その音は外まで響くかに思われた。

「結構」

 返答にグレナダは満足していた。

「問題はどうやって殺すかだ。とてもじゃないが、追いつめて殺すのは不可能だろう。身体能力が違いすぎるからな。それに一定以上の知性も感じる。罠にはまるような奴でもなさそうだ……」

 とケイネス。今までにあった、ダンを見下した態度は失せていた。ダンを完全に認めたのか、それともダンのすごみに一時的に圧倒されているだけなのかは分からなかった。どちらにしても、ダン本人と、彼を支持するオリヴィアにとって都合が良くなったことは明らかだった。

「あいつは賢い。相手と自分の力量を見定める知能もある。だが、そんな奴にもどうしても制御が効かない部分がある」

 一同はダンの次の言葉を待った。ダンは深呼吸して一息つくと、静かに言った。

「本能。エルフ族を抹殺する。それがあいつの本能であり、存在意義なのだろう。こればっかりは、誤魔化しようがない。俺たちは、そこを突けばいい」


「オリヴィア」

 会議を終え、ダンたちが去った後、オリヴィアはグレナダに残るよう命じられた。ケイネスが心配そうな素振りを見せていたが、グレナダに下がるよう叱責されると不承不承の体で部屋から出て行った。

 族長と二人きりになるのは生まれてはじめてのことで、緊張のあまり背中から冷汗が垂れている。心が窮屈な悲鳴をあげている。あの魔物と対峙するより余程威圧感を覚える。なにか、粗相を働いてしまったのか。オリヴィアはダンを連れて来てからのこれまでを振り返った。

 確かに、ダンをここまで連れてきて、同胞たちに、彼に協力するよう要請した。自分でも強引に過ぎると思ったが、どの道エルフ族だけでは太刀打ちできないのだからそうする他なかった。それが分からない族長様でもないだろう。……先のケイネスとのやり取りだろうか。きっとそうに違いない。エルフ族は外向的な性格ではないし、文化及び風習も閉鎖的で、他種族に比べ排他的だ。年齢、性別関係なく、同胞をなによりも重んじる。そんな中、あろうことか人間族の片を持ち、彼の擁護に徹し、ケイネスを挑発するような言葉を述べた。これは叱責されてもやむを得ないだろう。

 小さなため息が口から漏れる。あまり気分の良いことではない。早く終わって欲しいと思う。

「オリヴィア。私は今回の戦いで命を落とすかもしれない。故に先んじてそなたに言っておくことがある」

 グレナダの態度は、オリヴィアの想像してしたものとは違い、穏やかで孫に昔話を聞かせる祖母のようだった。叱責ではないことが分かったので安堵していたが「命を落とすかもしれない」という言葉で、新たな不安を覚えていた。

「そんなことは…………」

「聞きなさい」

「…………はい」

「私の後を継ぐのだ。オリヴィア」

「…………はい?」

「同じことを言わせるでない。私の後継者はお前だ」

 族長の座は、世襲でもなく投票によって決まるものでもなかった。現役の族長が後継者を指名する。後継者が辞退しなければ、現役の族長が死ぬか、位を譲ると共にそのことが公表され新たな族長となる。辞退した場合、また別の者を指名し、承諾する者が現れるまで繰り返す。年齢、性別は基本的に問われない。たとえ生まれて間もない赤子であっても、素質が認められ、指名されれば次の族長となる。ひどく単純で明確な方法だった。人間族や他の種族では考えられないことだった。だが自然の中で暮らし、ことの成り行きをある程度自然に任せているエルフ族にとっては、相性の良い制度だった。彼らの歴史上、制度が悪用されたこともなければ、政策の過ちなどで種族に危険が及んだこともなかった。ダンの師であったマルキス、勇者アレックスと共に戦ったラナリア両名は、後継者として選ばれたが辞退している過去を持っている。

 族長に選ばれるということは、それだけの能力があると認められることだ。オリヴィアはそのことを充分に理解していたが、よもや自分が選ばれるなどとは思いもしなかった。思考が停止して、グレナダに同じ内容で再度口を開かせたのもやむを得なかった。

「私が、ですか?」

「うむ」

「無理ですよ!だって、私、歴代の族長や、後継者となり辞退した方々と比べて劣っていますし、齢だってまだ八〇を過ぎたばかりだし…………」

「齢などは関係ない。そんなものを気にするのは…………頑迷な人間族や、竜人族くらいよ」

「しかし…………族長の座はケイネスが妥当ではありませんか?彼は誇り高い戦士で、みなからも信頼がありますし」

「ならん」

 グレナダは首を左右に強く振った。

「な、なぜですか?」

 あまりにも強く否定するので、その理由が気になった。当然疑問が口をついてでた。

「人間族の男、ダンに対する態度を見たであろう?」

「はい」

「我々の力となる者に対する礼儀がなっておらん。確かにケイネスは誇り高い。勇敢で有能な戦士であることも認める。実際、エンチャントリアからの撤退を指揮し、殿を務めたのは奴だからな。だが誇り高い故に、相手を見下している。受け入れようとする心が育っておらん。有能な戦士が有能な為政者とは限らん。かの勇者アレックスが、歴史で証明しておる。…………我々は閉鎖的な種族だ。しかし、今回のような我々のみでは対処できん災いが起きれば、どうしても外部の助けが必要になる。…………我々は選択を迫られているのかもしれん」

「選択、ですか」

「うむ。即ち、エンチャントリアと宵闇の森だけを我らが世界と恃み今まで通り生きていくか。もしくは、外の世界に目を向け、他種族と外交関係を築き、助け合いながら生きていくか。この二つの道を選択することを余儀なくされておる。私はそう思う。これを考えた時、誰が次の族長に適任か。答えはおのずと決まった」

「それが、私…………ですか」

「うむ。そなたは人間族に一度はあしらわれた。それなのに、奴らの同胞の一人を連れてきた。彼なら助けになると、我々の力になると信じ、みなを納得させた。事実あの男は極めつけの戦士だった。魔物の討伐こそ叶わなかったがな。そして、そなたは彼と共に戦場にあり己が役割を果たした。族長となる素質は充分じゃないかえ?」

 ホッホッホとグレナダは小気味よく笑う。グレナダに認められた嬉しさと、能力を評価された恥ずかしさがオリヴィアの胸の中でないまぜになる。頬が紅潮し、尖った耳の先まで熱くなるのを感じた。口の中が乾燥し、鼓動が早くなる。私が、族長に……。

「どうかえ?ん?」

「指名して頂いたのは光栄の極みです。ありがとうございます…………ただ」

「仲間との折り合いが不安かえ?」

「はい…………族長の資格に年齢や性別は関係ない、これは私を含めみなが分かっていることだと思います。しかし、やはり私のような小娘が座につくことは、面白く感じられないでしょう。それもたった一度の働きで…………」

「そうだな。それもそうだ。ならばまた己の能力を示せば良いであろう。きたる魔物との戦いで」

「はい…………!」

「今の返事、承諾したと受け取っていいかえ?」

「……はい」

「そうか、そうか。ならば良いのだ。もう下がれ」

「ありがとうございます」

 オリヴィアは、グレナダが終始共通語で話していることに気づき、その意図を察した。深々と頭を下げ、グレナダに一礼した後オリヴィアは去った。

「今夜は久しぶりによく眠れそうだの」

 吸光虫の灯りを消し、グレナダは、開かれた世界で豊に暮らす、子孫たちの姿に思いを馳せていた。大木のはるか頭上で星々が夜空に煌いていた。それはまるで、彼女の思いをくみ取り、輝かしい未来が待っていると、応えているようだった。

 

 翌日、エルフ族のほとんどが宵闇の森からエンチャントリアに戻り、ダンの提案した復興作業を開始した。宵闇の森には、先の魔物との戦いで負傷し、いまだに傷が癒えていない者や、子供をはじめとするエルフが残った。復興作業が終了次第、戻ってくる手筈になっている。

 作業の指揮を執ったのはオリヴィアだった。これはグレナダから命じられた役割で、彼女の後継者としてオリヴィアを周囲にアピールするのが主な目的だった。ケイネスが適任であるとの声が上がったが、オリヴィアが己の役割を充分理解していたこと、指揮者になったからと言って傲慢に振る舞うこともなく、的確な指示をだして、作業を滞りなく進めたことなどから不満の声は次第に薄れていった。対抗馬として担ぎ上げられていたケイネスも、オリヴィアに信頼を寄せ効率的に動いた。グレナダはその様子を見て満足気に頷いていた。

 ダンも勝手が分からないながら作業を手伝っていた。散らかった家具や玩具を整頓していく。

「腹が減った…………酒が飲みたい…………」

 エルフたちとの共同生活で、最もうんざりするのは食事だった。エルフ族の主食は野菜で、人間族が好むような献立は存在しなかった。川で魚を取ることも考えたが、魔物が徘徊している中で、単独行動するのは望ましくないと考え断念した。必然的に、彼にだされる料理は野菜をふんだんに使ったものとなる。はじめこそ、美味でみずみずしい新鮮な料理を味わい深く食べていたが、二日目の夕食の時には既に辟易していた。しかしダンにはどうすることもできなかった。食事になにか意見を述べようものなら、エルフたちは鋭い目つきで彼を睨みつけるのであった。ダンはオリヴィアに助けを求めたが、オリヴィアも彼らと同じくダンに非難がましい視線を送る。

 図らずもオリヴィアと二人きりになった時、ダンは自分の考えを分かって貰おうと試みたことがあった。

「確かに美味いよ。美味いんだけどさ、飽きないか?」

「ぜんっぜん飽きませんよ?」

「なんかこう、筋肉が今にも消えていってる気がしないか?」

「ぜんっぜんしませんよ?」

「そう…………そうか…………」

「ダンさん」

「な、なに?」

「さっきの料理、私も作ったんですよ?」

 にっこりと微笑みながら、オリヴィアはダンに詰め寄った。

「は、はあ」

「私も作ったんです。美味しかったでしょう?」

 一歩、また一歩二人の距離が縮まる。エルフ族の美女は可憐な笑顔を崩さないが、声には有無を言わせぬ圧力があった。

「え~っと」

「美味しかったでしょ?」

「は、はい」

「よろしい!」

 鼻歌を歌いながら歩いて行くオリヴィアの後ろ姿を、ダンは眺めていた。

 将来、旦那を尻に敷くタイプだな。オリヴィアが夫に向かってあれこれ指図する姿を想像する。想像は次第に、「オリヴィアの、尻に、敷かれる」と思考を歪めはじめた。遂には、彼女が物理的に尻に敷いている姿が脳裏に浮かび上がっていた。

「…………悪くない」

 自然とオリヴィアの臀部に目がいく。ダンは笑みをこぼすと、その栄誉にあずかる未知の男性にエールを送った。

 結局ダンの食生活は改善されなかった。

「肉~…………魚~…………酒~」

 ぶつくさ言いながらも作業の手を止めることはなかった。

「クローデル~。クローデル~…………」

 ヘブンズフィールの、あのうるさいじゃじゃ馬娘が恋しく思える。よく数えていなかったが、オリヴィアが報酬として持ってきた金貨はかなりの額だったはずだ。宿代を含めた、これまでのツケを全て清算してもお釣りがくるのは間違いない。

「飲んでやる…………飲んで食って、食ってやるぞ」

 オリヴィアに良いことをしてもらうのはもう不可能だ。心情的にも、して欲しいとは思えなくなっている。であれば、心の穴を埋めるのは、美味い料理と美味い酒しかない。次で仕留める。早く終わらせて帰る。自分自身に固く誓う。

 その日は何事もなく終わり、夜が明け、太陽が再び空に姿を見せていた。木々の枝葉に遮られて陽光が入ってこないエンチャントリアでは、吸光虫の群れが放たれていた。

「今日はくるでしょうか……」

 ダンとオリヴィアが話している。

「分からん。分からんが、小癪にも俺たちがここに戻ってきて、また暮らし始めようとしているのには気づいているはずだ」

「昨日に続き、警戒を怠らないよう言ってきます」

「それが良いだろうな」

 オリヴィアは足早にダンの傍を離れ、意識を集中するよう見張り役へ言い渡しに行った。

 復興作業の真意は魔物をおびき寄せるためにあった。だが作業は本格的に行われており、昨日一日だけで、使い物にならなくなった資材の処理、壊れた住居の修復、新たな苗木の植え付けなどが完了していた。ダンは、魔物の本能、存在意義がエンチャントリアの滅亡及びエルフ族の抹殺にあると確信していた。魔物が自然発生した存在だろうと、人為的に産み出された存在だろうとその点は変わらないと踏んだ。宵闇の森は魔法で隠されているため、エルフ族以外は察知できない。こちらから森に分け入り魔物を探すのも危険が高い。故に魔物を討伐するには、再びエンチャントリアに誘きだすしか方法がないと結論づけた。しかし、魔物にはある程度の知性や知能があることを、二日前の戦いで見て取っているので、以前と同じやり方ではでてこないだろうと考えた。そのため、エルフ族の多くをエンチャントリアに戻し、これまでの活力、営みを演出する。そうすることで、魔物の本能を刺激し、自らエンチャントリアにやってきたと思わせる。それが彼の狙いだった。

 エンチャントリア自体が囮であり、罠となっていた。エンチャントリアから同心円状に、見張り役は樹上に配置され、全方向からすぐに魔物の出現を報せることが可能となっている。魔物が現れた場合、オリヴィアとケイネスをはじめとする何人かのエルフが、撒き餌となりエンチャントリア内部まで誘い込む。ダンは姿を一度見られているのを考慮して室内で待機しており、オリヴィアたちがダンの潜んでいる樹木まで魔物を誘導してきたら、奇襲をかけ一太刀で殺す手筈となっていた。失敗すれば、作業の多くが無駄になってしまうが、グレナダは「やむを得ない」と了承した。

 昨日は魔物が姿を現すことなく終わったが、この結果はある程度予想できていた。魔物はエンチャントリアの気配を察知しても、様子見をする可能性が高い。それくらいの能はある。二日、三日と日数が経つに連れて現れる可能性が高くなっていく。作業に従事するエルフたちは一層警戒心を強めていた。昨日と比べて重苦しい雰囲気が立ち込めている。見張り役だけには任せられないと、彼らもしきりに周囲を見回していた。その様子を見たダンはオリヴィアを呼んで、普段通りに振舞うよう要請した。

「名優になれとは言わない」

「でも難しいですよ」

「殺気が森中に広がって魔物に知れるかもしれないぞ。見張りは木の上の連中に任せておけば良いんだ」

「しかし…………」

「普段通りだ。いや、面白おかしく騒ぎを起こしててもいい。陽気が広まる分には一向にかまわない。奴への挑発になるからな」

「私たちは、ドワーフ族とは違いますから」

 ドワーフ族はすぐに騒ぎや祭りを起こすことで有名だった。

「とにかく、あれじゃ駄目だ。作戦の大部分はエルフたちに依っている。頼む」

「……分かりました。できるだけやってみます」

 その後のエルフたちの振舞いは、お世辞にも手馴れているとは言えなかった。オリヴィアは、エンチャントリアが復興したことを祝す祭典を催した。即興で、あくまで見せかけのものであったため、用意された小道具は粗末で、規模も大きくない。ダンがエルフ族に演技が向いていないと、心底思ったのは、彼らの表情や口調にあった。喜びを表して笑顔を浮かべているが、口元が奇妙に吊り上がったり、目が必要以上に細められたりして見るに堪えなかった。言葉はエルフ語であったが、はっきりと分かるほどの片言で、聞いていて恥ずかしくなった。再びオリヴィアを呼び、もっと自然にできないのかと詰め寄った。

「あれはひどすぎるぞ」

「仕方ないじゃないですか!私たちにだって得手不得手はあります!」

「なんかこう、ないのか?」

「と言われましても…………」

 二人が室内で演技論について語っている時、広場のエルフたちはシェラフィムなど、エンチャントリアを守るために死んでいった仲間の昔話で盛り上がっていた。

「妙に盛り上がってるな?」

 扉を開け、耳を澄ます。エルフ語だったためダンには分からなかった。オリヴィアがかいつまんで話の内容を教えてくれた。

「…………シェラフィムたちの話をしていますね」

 彼らの話は、シェラフィムたちから英雄ラナリアに移り、太古の偉人、英雄に広がっていった。

「和やかです」

 扉を開け隙間から外の様子を除く。彼らの表情からは、先ほどまでの奇怪な笑みは消え去っていた。代わりに、過去を懐かしみ、思い出を温める穏やかな笑顔が広がっている。口調も自然なものになっていた。

「あれで良いんだよ」

 オリヴィアもダンの傍で話に聞き入っていた。彼らと同じ表情が彼女にも浮かんでいる。

 しかし彼らのささやかな語らいは、急報によって中断を余儀なくされた。

「来たぞ!南からだ!」

 弛緩した空気は消え失せ、張り詰めた重々しい空気が場を支配する。エルフたちの全身に戦慄が走る。それは腐臭を孕んで流れてくる空気によって、新緑に輝いていた草木が腐り壊死していく光景によってもたらされた。

【ヴゥゥゥゥゥゥ】

 低く獰猛な唸り声が彼らを包んだ。

「手筈通りに」

 オリヴィアは広場にでてきていた。彼女と、囮役となるケイネスたち数人のエルフだけがその場に残り、それ以外の者は身を隠した。

 何本かの木々が魔物によってなぎ倒された。その中に見張り役のエルフがいて、身をひるがえして逃げようとしたが、背後から胴体を真っ二つにされてしまった。悲鳴をあげる間もなかった。彼女たちの前に、半身だけになったかつての仲間が姿を現した。

「…………!」

 魔物は首根っこを器用に掴み、死体を見せびらかすようにオリヴィアたちに向かって投げ飛ばしてきた。彼女たちは、魔物の行為から純然たる悪意を感じ取った。名誉も、誇りもない。華々しい死など存在しない。体を切断され、惨めたらしく死ぬ。死体は勝者の手によって弄ばれる。魔物の表情が邪悪な笑みを浮かべたように見えた。

「おのれよくも!」

 ケイネスが怒号を発する。矢を構え標的の頭部に狙いを定める。

「援護します!」

 オリヴィアは瞼を閉じ、胸の前で両手を握りしめ魔術の詠唱を開始した。

「精霊より産まれし新緑の命よ、我らを取り巻く清らかな奔流よ、エンチャントリアの生きとし生ける万物よ、太古より連綿と続く我らの意志に応えよ!我らに仇名す害悪に大いなる報いを!!」

 周囲の草木が輝く。風の流れが更に変化し、彼女たちの周囲を海流のように流れる。大地から土の塊が取り出され、槍の穂先を模り硬くなる。ケイネスが矢を放った。それに呼応してオリヴィアが瞼を開く。すると土の槍は風に乗り、風は魔物へ向かって暴風となって吹き付けた。魔物はケイネスの矢を難なく弾き飛ばし、胴体をあげて自分の力を誇示した。結果、オリヴィアが放った魔術を避けることはできなかった。凄まじい速度で、土の大群は魔物の腹部にぶつかっていく。たとえ甲冑をまとっていたとしても、彼女の魔術を防ぐことはできない。まともに攻撃を受ければ体は穴だらけになり、原形を留めることは叶わないほどの威力がある。

 だが彼女が今相手にしている生き物は違った。平然と攻撃を受け止め、まったく気にしてもいない様子だった。土は漆黒の体に飲み込まれただ消えていく。

「くそ!」

 右手を振りかざす。草が枝から外れ、鋭利な刃物となり追撃する。

「ケイネス!」

「おう!」

 刃となった無数の草が魔物の体に刺さったと同時に、ケイネスが呪文を詠唱した。草は瞬く間に燃え上がり魔物を炎で包んだ。

「どうだ!」

 炎はすべてを浄化する力を持っている。彼らは火だるまとなった魔物を凝視していた。

【ヴァァァァァ!ッァァァッァ!】

 耳をつんざく咆哮が、燃え盛る炎の内側から響いてきた。

「やった…………か?」

 ケイネスの声が期待に上ずる。オリヴィアも、もしやと思う。このまま死んでくれれば良い。炎に焼かれ、苦しみながら、自分がしてきたことを後悔すれば良い。そうなって欲しい。

 だが、彼女の希望は容易く打ち砕かれた。炎が消え、体中から蒸気をあげている魔物の姿がそこにあった。落ちくぼんだ眼窩から光る眼は、怒りと殺意に満ちている。

「ちぃ!」

 一人のエルフが魔術を唱えようとした瞬間、魔物は舌から毒液を放った。

「させない!」

 オリヴィアが腕を払う。エルフの目の前に土の壁が出現し、毒液から彼女を守った。

「ありがとうオリヴィア」

「良いのよイレミナ」

 突如、壁の一部がくりぬかれた。刹那、鉤爪がイレミナの首を串刺しにした。

「ごぼが!ぼぼぼ」

 イレミナの言葉は形にならず、代わりに鮮血が噴き出した。鉤爪が払われると、首は引きちぎられて、彼女の頭部は空を舞った。かつて美しい首筋があった場所には、筋肉の繊維が姿を見せ、壊れた噴水のように鮮血を周囲にまき散らしていた。彼女の傍にいたエルフは、巻き込まれる形となり体を引き裂かれて絶命した。

「そ、そんな…………どうして!!!」

「構うな!逃げるぞ!!」

 オリヴィアたちは早々に逃げ出した。作戦通りの動きだったが、三人の仲間が殺されてしまった。犠牲はあまりにも大きすぎた。

 オリヴィアは背後を振り返る。魔物は獲物を殺す好機と見て迫ってきていた。走りながら呪文を唱える。呼吸が乱れ、詠唱も上手くいかない。途切れ途切れになりながらも、なんとか詠唱を完遂し、魔物に対し再び攻撃を仕掛ける。今度は小さな目を狙った。魔物はオリヴィアの意図を察して、目を守る。彼女の攻撃でわずかに魔物の速度は鈍化する。その間にも再び魔術を使い、障害物を産み出す。イレミナを助けそこなった土の壁と同じものだった。

 本来、どれだけ強靭な力でも、魔術で造られた壁は砂だろうが易々と壊すことはできない。魔物がそれを可能にしたのは、規格外に強力な毒液を使ったからだ。毒は早々に壁に侵食し、強度を半減させた。イレミナたちが死んだのは、壁が溶かされ脆くなっていたことと、守るための壁が彼女たちの視界を遮ってしまっていたことに原因があった。魔物をちゃんと捉えていたなら、攻撃をイレミナは躱せていたはずだった。

 自分の失敗でイレミナが殺されてしまった。オリヴィアは現実を受け止められないでいた。

「よし!間に合うぞ…………!」

 ケイネスの声だった。オリヴィアと自分自身を鼓舞するよう声をあげる。

「もう少しだ!オリヴィア、合図は任せたぞ!」

「はい…………!」

 伏兵として潜んでいるダンに合図を送る。この作戦の要だった。

 魔物はオリヴィアの魔術に阻まれながらも、着実に彼女たちに近づいている。最後の壁を粉砕し、怖気を生む雄たけびを轟かせ突進してきた。

「ま、まずい…………!」

 オリヴィアを含め、みな息も絶え絶えだった。普段ならこれくらいの距離を走るのはどうということもない。一瞬の内に走破できる。今は進んだ分、合図を送る地点が遠ざかっているように感じた。胸が圧迫され苦しい。口の中は乾ききって、舞い込んでくる風が喉を刺激する。自分が走っているのか、歩いているのか正常に認識することができなくなっている。

「もう少しです!」

 もう振り返らなかった。そんな余裕はない。鉤爪が仲間を引き裂く音が聞こえた。それと同時に声にならない悲鳴も。悲しむことも、復讐心を燃やすこともできなかった。自分が生き延びることだけを考えていた。視界が狭くなる。虚空に手を伸ばす。舌がうまくまわらない。

 背筋に寒気が走った。彼女は魔物の射程に捉えられた。鋭利な刃物が、空を切る音がかすかに聞こえる。私は、ここで死ぬのだろうか。

「ごめんね…………みんな」

 脳裏に浮かんだのは、かつてのエンチャントリアと仲間たちの姿だった。瑞々しく美しい生まれ故郷。風の吹く音と小鳥のさえずり、川のせせらぎがいつまでも反響していた。

 安らかな思い出を打ち破るように、肉の切られる音が彼女の聴覚を捉えた。


【ガァァァァァァ!!!!!!】

 悲鳴なのか、雄々しい咆哮なのか、オリヴィアたちには分からなかった。オリヴィアとケイネスは尻もちをつき、目前に迫った魔物と、その片腕を奪った人間族の男を驚愕の思いで眺めていた。

「後は任せな」

 戦いにはまったく向かない、黒い礼服を身にまとい、男はオリヴィアに微笑みかけた。衣服と同じ黒いつばが広いハット帽を被り、右手には伝説のドラゴンから生まれたヴァレリア鋼の剣を持っている。人間族の男、ダン。

「首を落とせなかったのは不覚だった」

 ダンはオリヴィアと魔物との間に割って入っていた。屠った片腕からは、不気味な色彩の血液が滴り落ち、小さな水たまりを形成している。魔物は左腕を失った。傷口はすぐにふさがれてしまったようで、それだけでも回復力と生命力の強さがうかがえる。

「さあ、やろうか」

 静かな声だった。それだけに他者を圧倒するだけの凄みがある。魔物はわずかに後ずさった。エルフたちにはじめて見せた、弱気の姿勢だった。

「逃げられないぜ?」

 後方にはエルフたちが控えていた。魔物が逃げそうになった時、魔術で壁を生成し妨害する役目となっている。

「下がっていろオリヴィア」

 背後のオリヴィアに声をかける。ケイネスのことを失念していた訳ではないが、彼と比べて付き合いの長いオリヴィアをより気にかけていることは当然だった。加えて、彼女にはまだ役割が残っていた。それに、オリヴィアはまさしく絶世の美女なのである。死なれては困る。

「さ、いこう」

 ケイネスがオリヴィアの手を取りダンのそばから離れる。周囲にはダンと魔物を邪魔するものは完全に消え去った。

【ヴヴヴヴ…………】

 魔物は唸り声を発しながら更に後ずさる。それを見たエルフたちは、一斉に魔術を唱える構えをとる。魔物は背後を振り返り、退路が断たれていることを理解した。ダンに向き直り、口を大きく開け威嚇する。瞳には再び殺意が宿った。

「…………オリヴィア!」

「はい!」

 ダンの呼びかけにオリヴィアは応え手を動かす。するとダンが立っていた地面が勢いよく隆起した。ダンはそれに合わせて身をひるがえしながらジャンプする。魔物はうかつにもダンの動きを追った。ダンが黒い影となって見えていた。空に浮かぶ吸光虫の強い輝きに、わずかな間、目がくらんだ。

 飛び上がったダンをオリヴィアも見ていた。オリヴィアはダンが姿勢を整えるのを見計らって、再び手を動かす。ダンの足元に風が集まり、彼を打ち出すようにして思いっきり吹きだした。魔術でマナが凝縮された風は、まるで空に掲げられた透明の足場だった。そこから打ち出されたダンは、標的の顔面目掛けて突っ込んでいく。ヴァレリア鋼の剣を突き出し、確実に仕留められるよう切っ先をまっすぐ向ける。

 しかし魔物も手強かった。ダンから溢れ出る殺気を感じ取ったのか、まだ視力が回復してない内から後ろに飛びのく。目が見えるようになった頃、ダンは地面に着地し次の攻撃態勢に入っていた。魔物は口から毒液をまき散らし始めた。ダンは毒液を躱す。

 このままではどんどん足場が消されてしまう。ダンは魔物の意図を読む。包囲するのだから、戦いに使える面積は限られる。場所を移しながら戦うことはできるが、そうするとエンチャントリアにどんどん汚染が広がり、土壌が完全に死んでしまうかもしれない。これはなるべく避けたい。空中戦に持ち込むのはどうだろうか。

「オリヴィア!やつを空気で持ち上げることはできるか!?」

「できなくはありません!しかし、ダンさんも同時にというのは無理です!」

 あと一人誰か。

「私がやろう」

 名乗り出たのはグレナダだった。毅然とした口調で、魔物をはっきりと見据えている。

「族長様危険です!」

 オリヴィアが抗議する。しかしグレナダはそれを無視した。

「オリヴィア、準備はいいかえ?」

「…………は、はい!ダンさん!」

「おう!」

 グレナダが瞼を閉じると、魔物の下に風が集まり、体を持ち上げた。魔物はなにが起きたのか理解できず、動揺を露わにしている。それに合わせてダンも空中に上がっていく。魔物はうまく動けずじたばたしていた。ダンは剣を構え今度こそ一息に息の根を止めようとした。

【ゴヴァァァァ!!】

 咆哮をあげたかと思うと、魔物はグレナダに向かって毒液を放出した。これまでに見たことがない量だった。

「しまっ…………!」

「族長様逃げて!」

 地上からオリヴィアの絶叫がこだまする。グレナダは動かない。

「仕留めんか!」

 グレナダを守るようにして、土の壁がそびえ立つ。他のエルフたちの魔術だった。だが毒液は壁を蝕み、防御力をものともしない。魔物は更に毒液を放った。今度は土の壁を生成しているエルフたちに向けていた。

「っ!」

 ダンが飛び掛かる。魔物は肩と思しき部分で剣を受け止めた。刃が深々と沈んでいくが、完全に切断するにはもう少しかかりそうだった。肉体で剣を受け止めている間に、右腕を伸ばし鉤爪でダンの腹部を貫こうとする。グレナダは魔術を解除した。両者ともに態勢を崩し、地面に落ちていく。魔物はそのまま落下し、土煙が周囲を覆った。ダンはオリヴィアの魔術によってゆっくりと降ろされた。

 地上では何人かのエルフが毒で溶かされ死んでいた。グレナダを守る壁は役割を果たした。壁が溶け切る前に、彼女は別のエルフによって安全な場所に運ばれていた。

「くそ!」

 ダンの胸中に忸怩たる思いが広がった。これまで何度もあった好機を逃し、殺すことができなかった。オリヴィアに合わせる顔がなかった。

【ヴァ……ァァ、ァ】

 魔物が姿を見せる。左半身は激しく損傷していた。腕を切られ、体に剣を入れられた。傷口は先と同様にふさがっていたが、確実にダメージは入っている。

 問題はあの毒だった。あれをどうにかしないことには、うかつに動くことができない。ダンは魔物のこれまでの行動を思い返した。奴が毒をだす時は、規則性があるはず。…………獲物が遠距離にいる場合、障害物を壊す場合、空中から獲物を狙う場合、攻撃を躱し奇襲をかける場合…………。ならば。

「いけるな。オリヴィア!」

 ダンはオリヴィアの仕事を更に増やした。オリヴィアはダンの言葉をすぐに理解し、イメージを膨らませる。

「いけます!」

「よし!」

 剣を前方に突き出し突進する。

「だせ!」

 その瞬間、二人の間に壁が割って入った。魔物は目障りな壁をこれまでと同じようにして溶かそうとする。口を開け、舌を突き出した刹那、壁が瞬時に崩れ去り、ヴァレリア鋼の剣が忌まわしい生成機関を捉えた。

【ギャァァァァ!!!】

 今度のものは間違いなく悲鳴だった。舌は切断され、自慢の毒液を産み出す袋は、宿主から遠く離れ地面に落とされた。魔物は耳障りな悲鳴をあげながら、森に姿を隠そうとする。

「みなさん!今です」

 オリヴィアの掛け声と同時に、ダンと魔物を取り巻くようにして壁が出現する。天井はなく、吸光虫の光が降り注いでいる。

 辺りは静けさに包まれた。ダンは、自分と魔物だけが世界から切り出されたような感覚を覚えた。魔物は鉤爪で壁を破壊しようとしているが、徒労に終わっていた。ダンに振り向くと、痛々しい舌をむき出しにして口を開く。

「こいよ」

 剣を構える。そのまま数分が経った。

【ガァァァァァァァァァァ!】

 しびれをきらした魔物が突進してくる。先日と同じ光景だった。鉤爪が振り上げられる。ダンは一呼吸すると、柄を握る手に力を込めた。紋章がわずかに輝き、ダンの思念が剣に宿ったことを告げる。鉤爪が振り下ろされる。その瞬間、ダンは斜め下から切り上げるように剣を振るった。剣は剛直な形状を変え、鞭のようにしなやかになると、魔物の右腕を切断した。そしてその余勢を駆って、頭部に食らいつき鮮やかな弧を描いて切断した。青白い液体がダンに降りかかった。

 魔物の首は地面に転がり落ち、胴体は何度か痙攣した後、二度と動くことはなかった。

「終わったぞ」

 ダンが言うと間もなく壁が崩された。エルフたちは固唾をのんで立ち尽くしている。

「ダンさん…………」

 はじめに動いたのはオリヴィアだった。魔物の死体を認めると、ゆっくりとダンに歩み寄る。声は震え、目には涙が溜まり、瞳には希望に満ちた光が揺蕩っていた。

 無言でダンはオリヴィアに笑いかける。屈託のない、まるで少年のようなさわやかな笑顔だった。その表情を見たオリヴィアは、我慢しきれなくなり、ダンに飛びついた。

 彼女の泣き声だけが、エンチャントリアに響いていた。

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