第3話 俺をエンチャントリアに連れてって
ダンとオリヴィアは、エンチャントリアまであと一日の距離にいた。大小様々な木が堂々とそびえ立つ姿は、ここまでの道のりで目にしていた景色と雰囲気が異なっていた。柔らかな光を放つ、球形が木々の間隙から視認できる。
「あれが吸光虫です」
吸光虫は森の細部まで照らし出していた。樹皮に深く刻み込まれ、血管のように走っているしわまではっきりと見て取ることができた。しわは一つとして同じものがなく、真っすぐなもの、蛇行しているもの、放射状になっているものなど種類は多岐に渡った。木が辿ってきた生涯を表現しているとダンは思った。
「エンチャントリアはこの森を通っていくしかありません。森の中では馬を走らせることはできません。近くにつないでおきましょう」
オリヴィアの声には沈鬱とした重々しい雰囲気があった。故郷を前にして喜べる状況ではない。エルフの森は、今にも毒に侵されて、同胞も存亡の危機にある。
「分かった」
ダンは馬から降りて、野宿した時と同様に簡易な厩を建てる。オリヴィアは餌と水を用意する。
「どれくらいで片付きそうでしょうか」
「相手がどれほどの奴かにもよるな。今回は魔物で稀なケースだから、長ければ三日といったところか」
「…………そうですか」
「不安か?」
「はい。それに、何日も離れてましたから、みんなのことが心配で…………」
「エルフは誇り高い。そう簡単にやられちゃいないさ。相手が悪くてもな。とにかく行こう」
「……はい!」
オリヴィアの返事には、ダンの言葉通りであって欲しいという願望が色濃く反映されていた。
オリヴィアを先頭に、二人は森の中へ入って行った。吸光虫のおかげで森は明るく、視界は明瞭だった。数多の種類の植物がうっそうと茂っている。
「ところでオリヴィア」
「なんでしょう?」
「その魔物のことなんだが」
ダンはこの何日かの間で、魔物について考察したことをオリヴィアに話した。エンチャントリアを襲撃した魔物は、明らかに対エルフに特化した特性を持っていること。マルキスから聞いた魔物の性質と異なること。それらからダンの導き出した答え、魔物は何者かの手によって人工的に生み出されたこと。
「いくらなんでも…………考えすぎなのではないでしょうか…………」
「だよな」
自分でも最後の答えは飛躍していると思う。だがダンの直感は、おそらくそれは正しいと告げている。魔物の存在からは、邪悪な意思のようなものを感じられる。誰が、なんのために?問題を解くには、あまりにも手がかりが少ない。
一方ダンの考えを聞いたオリヴィアは、口では否定したが、考えれば考えるほど真実なのではないかと思い始めていた。だが仮に真実だとしても、誰が、なぜ?という疑問に行き着く。
「エルフはその魔物に対して、魔術で対抗したんだったな」
「ええ」
「魔法はどうなんだ?」
「今のエルフには…………魔法使いはいません。人知れず亡くなられた、賢者マルキスが最後の魔法使いでした」
「そうか。……武器は?」
「効果はありませんでした。私たちは弓矢、投石を用います。矢じりには主に石が使われています。ですが、石も草木や土と同じで、魔物に触れると溶けてしまいます」
「鉄はどうだ?」
オリヴィアは悲しげに首を左右に振った。
「エルフは鉄を用いません。…………何十年も前、ドワーフ族や竜人族、マーメイド族との交易を推し進めようとした動きがありました。エルフ族にも文明の息吹を取り入れようと考えたからです。しかし、その夢は果たされませんでした」
鉄はドワーフ族とマーメイド族が主に産出している。エルフ族のような、鉄資源がない地域で生活している者たちが、鉄を使いたいとなれば、彼らと交易をした方が手間はかからない。
「なぜだ?」
「任命された外交官がことごとく死亡したからです。会見に臨む者たちは、その途上で原因不明の病によって命を絶たれています。私たちは、精霊の呪いだと考えました。自然を棄て去ろうとする私たちへの警告だと。以降、その話が持ち上がったことはありません。外界への進出も、遂に行われませんでした」
偶然か?それとも本当に精霊の呪いなのか?種族の繁栄を、精霊が望まない、それも命を奪ってまで阻止するというのは考えにくい。少なくとも、人間族のダンにはそう思える。
では原因不明の病にかかって、偶然死んでしまったのか。エルフ族は治療の術に長けている。古くから自然と親しみ、世代を超えて蓄積された、植物や森の知識は他種族をはるかに凌駕する。そのほとんどは薬草に関する知識だ。治療困難な病であっても、自然の理と論理的で体系的な知識を基に必ず治してきた。これはマルキスから聞いたことがあった。
オリヴィアは「会見の途上で死んだ」と言った。おそらく、先方へ遣わされた者が、エンチャントリアの外で死んだということだろう。であれば、考えられる可能性として風土病がある。風土病は地域の土壌、生物相用、気候などの自然条件が重なって発病する病気だ。
交易相手の筆頭として選ばれたのはドワーフ族だろう。ドワーフ族は他種族と手広く交易を行い、経済と流通の発展に力を注いでいる。彼らからしてみても、エルフ族からの申し入れは魅力的なものであったはず。だが基本的にドワーフ族は、他種族からすれば悪辣な環境の下で生活をしている。空気中には常に硫黄や、鉄錆の臭いが充満しているし、鉛や水銀が漏れ出して地質に悪影響を与えているのは確かだ。澄んだ空気と良質な土壌の世界で生きてきたエルフ族にとって、最悪の場所と言えるだろう。体が内部から侵され、死に至るのも理解できる。しかし彼らは原因不明の病で死んでいる。エルフ族が風土病を理解できないとは思えないし、すぐさま抗体をつくるはず。それに会見の場所を変更することだってできた。実際、使者が死んでいるのだから、それくらいの要求はしてもいい。ドワーフ族も認めただろう。
だが、エルフ族の使者はその後も立て続けに死に、他種族との交易はついに行われなかった。本当に精霊の呪いであればそれまでのこと。そうでない場合は……。
ダンは自分の考えが尾を引いているのが分かった。一度そう思ってしまうと、すべての事象があやしく見えてくる。ここにも、魔物の話と同様、外部からの作為を感じてしまう。ばかな。オリヴィアの話は、昨日今日のできごとではない。何十年も前のことだ。いったいどこの暇人が、そのような超長期的な計画で、エルフ族をはめようとするのか。加えて、魔物に対して鉄が有効だとは分からないのだ。俺の考えは、今日の状況に都合のいいように過去の事例を無理やり当てはめているだけだ。それに、俺の仕事はあくまでも魔物を殺すこと。不可思議な事件に首を突っ込むことではない。
ダンは頭を振って今までの考えを払拭しようと努めた。魔物を殺す。それだけを考える。
「そろそろ暗くなりますね」
オリヴィアが空を見上げて言った。ダンも彼女に倣う。空は木々の枝葉に遮られ、奇妙な形を二人に晒していた。太陽は見えないが、夜の帳が降りてきている。周囲は吸光虫の光で明るいため、時間間隔が麻痺していた。実際、ダンはまだ昼過ぎくらいだと思っていた。
「まあこんなに明るいんだったら歩き続けてもいいんじゃねえか?」
「…………そうですね。寝てしまってはかえって危険かもしれません」
「じゃあ行こう」
二人は温かな光で満たされた、夜の森の中を休むことなく進んだ。
「なんだ……この臭いは」
日付が回り、さらに数時間が経過した頃、ダンの鼻孔を腐臭がついた。
「もう、こんなところまで…………」
「これが例の毒か?」
オリヴィアは黙ったまま頷いた。
「ひでえな」
エンチャントリアの姿はまだ見えない。だが周辺に立ち込める臭いが、エンチャントリアの惨状を物語っていた。そのまま歩くと、臭いはさらに濃さを増し、緑豊かな森の表情は徐々に様相を変化させていた。焼かれて原形を留めていない木々の姿が多くなってきた。地面には黒く焦げた炭が散乱している。更に進むと吸光虫の数が減り、森の中には陰になった部分が目立ってきていた。草木は枯れ落ち、毒々しい液体が辺りに飛び散っている。見ているだけで怖気が走りそうになる濃い紫色をした粘液が、鈍い光沢を放ちながら樹皮を這うようにして滴り落ちていた。粘液が通った場所は瞬時に腐食し、細胞を殺し、二度と姿を元に戻すことはできないだろうと思われた。
「急ぎましょう…………!」
自然とオリヴィアの歩調は早まる。毒に侵されていない大地を踏みしめ、エンチャントリアを目指す。
「私が出立した時は、まだあそこは無事でした…………生命が溢れて…………なのに」
オリヴィアの声は震えている。ダンがオリヴィアの横顔に視線を向けると、頬を涙が伝って地面へ落ちていった。波の雫は地面に当たるとはじけた。はじけ散った水滴は、吸光虫の光で弱々しく照らされていた。大地を清めようと、美しい女神が降らせた雨水のようだとダンは思った。
「私が、悪いんです。私が…………もっとはやく」
「誰が行っても同じことだったろうさ」
「そうとは限りません!」
オリヴィアがダンを睨みつける。その表情には怒りと憎悪が同居していた。その感情が、自分に向けられたものではないとダンは分かっていた。
「オリヴィア、君は懸命に頑張った。エンチャントリアを離れ、遠く王都まで趣き、断られてもなお諦めなかった。この惨状は君のせいじゃない。それに君は」
光が更に弱くなる。これ以上暗くなると、足元がおぼつかなくなる。そんな中にあって、ダンの毅然とした顔が照らし出された。オリヴィアは彼の風貌と、紡がれた言葉に救われた思いだった。
「君は、俺を連れてきただろ」
二人が、かつてエンチャントリアと呼ばれ、他種族から賞賛を浴びていたエルフ族の故郷に到着したのは、明け方近くになってからだった。
エンチャントリアは無人だった。オリヴィアの同胞の代わりに彼らを出迎えたのは、吐き気を覚える刺激臭と、腐乱死体の山、荒廃したエルフ族の住居や生活道具だった。
「
ここに至りオリヴィアははじめて取り乱した。地面に手をつき、泣き叫び、エルフ語で喚いていた。虚空に向かって土を投げ、次から次へと言葉を並べ立てていた。ダンは、四つん這いになっているオリヴィアの発達した臀部に目がいった。だが、今の彼女の姿は、ダンの劣情を掻き立てることはなかった。帽子を脱ぎ、胸に当て黙祷する。
すまない。マルキス。あなたの同胞と、故郷を守ることができなかった。
瞼を開けるとオリヴィアが声をいっそう激しくして、駆け出していた。しきりになにかを叫んでいる。ダンにエルフ語は理解できなかったが、同じ単語を繰り返し口にしていることは分かった。オリヴィアの行く場所には、粘液に覆われた死体が転がっていた。他の死体とは異なり、僅かに顔らしき部分が見えていた。身体のほとんどは溶けてなくなっていた。
「……!オリヴィア、やめろ!!」
ダンも駆け出した。オリヴィアが死体に手を伸ばしていたからだった。背後からオリヴィアを羽交い絞めにする。美女に乱暴狼藉を働くことは、彼のポリシーに反していたが状況が状況なだけに、そうせざるを得なかった。
「
「よせオリヴィア!君も死んでしまう!!」
「
「なにを言ってるいるか知らんが、君をここで死なせるつもりはない!!」
ダンはオリヴィアを抱きかかえたまま、死体から離れた。損傷が激しくない木のそばに座らせる。オリヴィアはダンの胸を叩いていたが、最後は声を押し殺し、ダンの腕の中で泣いていた。ダンは無言で彼女が泣き止むのを待っていた。
それからしばらくして、オリヴィアの呼吸が規則正しくなり、落ち着きを取り戻した。
「知り合いか?」
「………………シェラフィム」
「最初に魔物を発見したエルフだったな。エルフ語は分からんが、名前を呼んでいたんだろ」
「………………ごめんなさい」
「気にするな。故郷が焼かれ、家族が殺されているのに、取り乱すなという方が無理な話だ。俺は気にしていない」
「…………違うんです。さっきあなたに酷いことを言ったの」
「俺はエルフ語は分からない。なにを言われたのか認識できていない。だから」
「離せ、愚かな人間…………そう言ったのです」
「そうか」
ダンはすっと立ち上がる。その様子をオリヴィアはうつろな表情で見ていた。
「…………帰るのですか?」
「なにを言ってる。生存者を見つけるんだよ」
「このありさまで、どこにいると言うのですか!?」
そんなこともこの男は分からないのか?オリヴィアの怒りの矛先は、魔物から徐々に目の前に佇む人間族の男へ向いていった。彼はなにも悪くないのに、私たちを助けてくれるために、ここにいるというのに。
ダンに腹を立てる道理はないし、筋違いも甚だしいことは分かっていた。だが、オリヴィアは誰かに向かって叫びたかった。混沌とした心から溢れ出てくる怒りを、憎しみを、恨みを叫びたかった。そうしないことには彼女は気が変になりそうだった。
「気持ちは解るつもりだ」
嘘だ。故郷を滅ぼされた者の気持ちなど、人間族に分かるはずがない。
「なにを言って」
「俺も目の前で家族を殺された。魔物を匿っているからと。父と母と、弟と、妹とを。俺は逃げたんだ。逃げ出した。剣が、家族を切り刻む音を背に逃げ出した。『逃げて』。母が俺に遺した最期の言葉だ」
「………………」
「だからオリヴィア、君の気持ちは解るつもりだ。だが、俺のように諦めるな。エンチャントリアは広い。エルフは誇り高い戦士だ。君の同胞はきっと生きている。たとえエンチャントリアにいなかったとしても、必ずどこかで身を潜めている。その痕跡を探すんだ。いいな?」
「…………ありがとう」
「いいさ。さあ、動き出そう!」
オリヴィアはダンにはじめて会った時のことを思い出していた。「夜伽をしろ」と言われたあの時、ダンの瞳から感じた、死と悲哀の色。そうか。だからあんな条件を提示してきたのだ。ダンという人間が求めているものは、性欲処理の便利な道具ではない。彼はきっと、母性や家族愛を求めているのだ。もしかして、ダンは幼い頃家族と…………。
ハッとした表情をダンに向ける。オリヴィアの表情はダンには見えていない。ダンは敢えて言わないでいた過去が、オリヴィアに露見したことが分からなかった。
ダンは、幼い頃家族と死別して、逃げた先で賢者マルキスに出会った。そして彼と共に暮らし始めた。
「俺のように諦めるな」と彼はさっきそう言った。諦める?年端もいかない少年一人に、いったい何ができたと言うのだろう。彼は自分をまだ責めている。家族を助けられなかった自分、見捨てて逃げ出した自分、今を生きている自分。これが死と悲哀の正体だ。彼の考えは愚かしくも、優しすぎる。普段の彼の言動は、本当の自分を隠したくて……。
オリヴィアの胸中に、ダンに対する温かい感情が根を張り始めた。愛おしさとはまた異なる。だが、彼を以前のように、粗野で陰気な人間だとは思えなくなっていた。可能なかぎり力になってあげたい。真心から彼女はそう思った。
二人は簡単な取り決めをしてエンチャントリアの調査を開始した。粘液と粘液がかかっているものには触れないこと、異変を感じたら引き返し名前を呼ぶこと、魔物が現れた場合一人で戦おうとはしないこと、これら三つを取り決めた。まとまって動くことも考えたが、エンチャントリアは広大で、夜までに調査を終える必要があったため、二手に別れることとなった。
ダンは事前に、オリヴィアからエンチャントリアの概略図を見せてもらって説明を受けた。どこになにがあるのかをある程度把握しておくためだった。今、ダンが調査している箇所は、エンチャントリアの東側で、幅が五メートルほどの川に面している土地だった。エンチャントリア中央ほどの惨劇に見舞われた様子はない。毒に侵された草木はなく、粘液もなかった。木々は力強くそびえ立っているし、吸光虫の姿も認められる。川は吸光虫の光を浴びてエメラルドグリーンに輝き、魔物の存在などどこ吹く風と言わんばかりだった。だが、魔物の脅威が存在したことは明らかで、水を汲むための桶や布、その他の小道具が川原に散乱していた。おそらく魔物急襲の報せがあり、作業していた者たちが放り投げ、そのままになっているのだろう。ダンは生存者もいないことを確認し、大木の内を掘ってしつらえた彼らの住居を一つ一つ調べていった。
住居は造りがほとんど同じだった。入ると広間があって、生活に必要な家具が配置されている。ほとんどは一階のみだったが、稀に二階、三階と部屋が設けられていた。子供部屋だろうか。一階広間に比べて室内は狭く、家具も子供向けのおもちゃを彷彿とさせるものばかりだった。
「生存者なし。か」
正午を過ぎ、太陽が地平線に姿を隠そうとしていた。特に成果を上げることなく、ダンの調査は終了した。オリヴィアと別れた場所に戻る。
オリヴィアの姿を目にしたダンは、彼女が興奮していることに気が付いた。しきりに足踏みをし、きょろきょろと周囲を見回している。ダンの姿を認めると、表情に笑みを浮かべ駆け寄ってきた。
「どうした?なにか見つけたのか?」
「はい!!ところで、ダンさんの方は?」
「収穫なし。誰もいない。でも向こうはここより酷くなかった。死体は転がってないし、部屋が荒らされている痕跡もない。たぶんみんな戦いに出たんだろうな」
「ありがとうございます!きっとそうです!で、みんなはまだ生きています!!」
「ほんとか?」
「はい!!こっちへ!!」
オリヴィアに手を引かれるがままダンは後を付いて行く。
二人はエンチャントリアの北に向かってまっすぐ歩いた。景色を見て、俺が調査した場所と、ここは同じ世界なのだろうかとダンは訝しげに思った。周囲は毒が己の脅威をほしいままに振舞った跡で満たされていた。ただれ落ちた樹木に押しつぶされた死体を目にする。体格的に子供だろうか。手には弓矢が握られ、死んでも魔物を討ち果たしたい意志が感じられた。土は血と粘液が混ざって、どす黒い様相を呈していた。切り裂かれた死体もあった。死体からは血の川がゆっくりと這い進んだ跡が刻まれていた。首がない者、胴体を縦に、横に切断されている者は珍しくない。切断面は綺麗な一直線となっており、鋭利な物で瞬時に切られたことを証明している。ここには死以外のなにもなかった。
「どこに行ってるんだ?」
「族長の家です」
オリヴィアの歩調は速い。オリヴィアは一刻も早くこの凄惨な場所から立ち去りたかった。
歩くこと数分、二人の目の前に大樹が姿を現した。幹の太さ、背の高さは他の木々をはるかに凌駕し、無数のしわがくまなく走っている。体には忌まわしい粘液がなおも滴り落ちていた。まるで、樹皮の味をゆっくりと味わっているようだった。粘液に取り込まれた樹皮は、内部でそのまま消化され跡形もなく消え去る。黄土色をした木の幹が至るところから顔を出している。石で風穴を開けられた布と同じく、痛々しい光景だった。だが堂々たる風貌は、毒に侵されてもなお厳粛な姿を保ち、太古からこの場所で、自然と生命の営みを見守ってきたことを誇示している。そびえ立つ大木を見たダンは生き返った気分だった。そして、この大木が完全に死んでいない限り、エルフ族も滅んでいないと思った。実際、ダンの考えは当たっていた。
「これを見てください」
オリヴィアが大木の根本を指し示す。目を凝らすと、見慣れない形をした線形が刻まれていた。
「これはエントロス、エルフ語を文字にしたものです。…………今までこんなところに文字はなかった。それに『オリヴィア、生き残った者たちは宵闇の森にいる』と書いてます」
「宵闇の森?」
「エルフ族に重大な危機が迫った時に使う隠れ家です。エンチャントリアとは別の森にあって、滅多に使うことはありません」
「なるほど。エンチャントリアを放棄して、そっちへ行ったって訳か」
「苦渋の決断だったはずです…………。友が死に、御霊を慰めることも叶わず…………」
「その森はこっから近いのか?」
「半日から一日を使います。宵闇の森は、エンチャントリアと違い、魔法で隠蔽され、なおかつ移動していますから。でもその日数以上の距離から離れることはないと思います」
「魔法で?じゃあたどり着くには魔法が必要なんじゃないのか?」
「いいえ。エルフであると認められれば、魔法どころか魔術を使えなくても森に入ることができます」
「俺は入れるのか?」
「私がいますから、大丈夫ですよ」
オリヴィアが微笑む。彼女が笑顔を見せたのは、森に入ってからこれで二度目だ。このまま以前のように元気になってくれると良いが。
「吸光虫はいるのか?」
「エンチャントリアほどではないですけれど、いるにはいます。ただ手元に灯りがあった方がいいです。もしかすると、真っ暗な森に入るかもしれませんから」
「分かった」
「この中に吸光虫を入れて、松明の代わりにしましょう」
オリヴィアは、投げ捨てられた衣服の中から生地の薄い白い布を破り、袋状にしていた。袋の口へゆっくりと吸光虫を導く。吸光虫は抵抗することもなくすんなり収まった。ダンには、オリヴィアを助けるために自分から入っていっているようにも見えた。吸光虫が中へ入ったことを確認すると、袋の口を堅く結び、わっか状にした木の枝を通す。エンチャントリアの素材で作った、非常に稀少なランタンができあがる。
「えへへ。はじめて見た時からちょっと興味があったんです。ランタン」
「いいじゃないか」
吸光虫の光が布を通して外界に漏れ出る。人間族が使う一般的なランタンより、はるかに明度は高いが、眩しすぎるほどでもなかった。オリヴィアは同じ物をダンにも用意した。
「ところで、エルフ族は仲間が死んだ後どうする?」
「…………基本的には、土葬します。そうすることで、魂は土から自然へ還り、再びこの世に生まれてくると信じられています」
「そうか」
「でもあのような状態では…………できません。魔物は命だけでなく、私たちの死すら汚したのです」
かけるべき言葉がない。死をも汚した。誇り高い彼らにとって、なによりも耐えがたいことなのではないだろうか。
「人間族は、どのように葬るのですか?」
「基本的に火で焼く。つまり火葬だ。今日見てきた森のようにな。だが人間の場合、体が完全に焼かれるまで終わらない。最後は骨になって、灰となる。それを壺に入れて持っている奴もいれば、海や思い出の土地に撒く奴もいる。その辺は人それぞれだな」
「なぜ焼くのですか?」
「さあな。詳しいことは分からん。俺が知っているのは、死体は放っておくと、悪い神が憑りついて、生きている者たちに災いをもたらす。だが死体を焼けば神は憑りつくことができなくなる。だから火にかけるって話しだ」
オリヴィアは背後を振り返った。ダンは彼女の目線を追う。眼差しは遠くを見据えている。きっと、シェラフィムのことを考えているのだろう。彼とは親しい仲だったのかもしれない。そうでなくとも、供養したいとそう思っているはずだ。だが、毒にかかった死体は土葬する訳にはいかない。
「オリヴィア、ヘブンズフィールで俺たちにエンチャントリアのことを話してくれた時、確か腐った森は焼いたって言ってたよな?」
「はい」
「なぜだ?」
「毒の蔓延を防ぐというのが主な理由でした。エルフが森を焼く。これは自分の手足を切り落とすのに等しい行為です。でも、苦しんでいる姿を、見るに堪えなかったんです」
「死んでしまった木や草の魂はどうなるんだ?」
「同じです。寿命を迎えて死んでしまった草木は、自然と土へ還りますから。でも、焼かれてしまったものは…………災いをもたらす厄災としていずれ私たちの身に降りかかると言われています」
「俺は必ずしもそうは思わん」
「私たちの思想を否定するのですか?」
「そんなつもりはない。ただ状況が違うんじゃないか?」
「状況が、違う?」
「ああ。エルフたちはなにも好き好んで森を焼いたわけじゃない。森全体を守るために、仕方なく犠牲にしたんだ。それに言ってたじゃないか。浄化活動をしてたが間に合わなかったと。それを彼らの魂が理解できないと思うか?」
「それは…………ですがそのような都合のいい解釈なんて」
「良いんだ。都合よく解釈しても。俺たちはそれが許される立場にある。…………まあだから、きっと許してくれる。それに苦しみから救ってくれたと、感謝されて恩寵がもたらされるかもしれんぞ。禍を転じて福と為す、だ」
「そうでしょうか」
「きっとそうさ。だから、お前の友達も焼いてやろう。あいつらの魂は、木や草の魂がきっと慰めてくれる。それに、亡骸をあのままにしておくのは、そっちの方が辛いだろう。分かってくれるさ」
ダンの言葉を聞いて、オリヴィアは逡巡していた。彼の言う通り、友の無残な姿をあのままにしておくのは心が痛む。だが、それは正しいことなのだろうか。私が決めても良いことなのだろうか。
そばに立つダンを見やる。彼の黒い瞳は、自分の考えを固く信じているようだった。そのことは彼の語調からも分かった。私を慰めるという思惑もあっただろうが、彼は自分を信じている。彼らの魂は救われると。
オリヴィアはダンが賢者マルキスに師事していたことを思い出した。オリヴィアは二人の様子を実際に目にした訳ではなかった。だが賢者マルキスがダンという人間を信頼していたことは、ダンの話からありありと伝わっていた。ならば、私も信じてみよう。彼の技量ではなく、賢者マルキスと共に過ごし、養われた彼の思想を、思考を信じてみよう。
「分かりました。焼きましょう」
オリヴィアの声は決意に満ちていた。やり遂げようという意志が全面に押し出されていた。
今度は、二人は別れなかった。故郷を、家族を、友を守るために散華した英雄たちの元へ共に歩みを進めた。オリヴィアが魔術を使って遺体を焼く。ダンの助言で、炎は骨まで焼き尽くせる火力を出していた。二人は黙祷した。瞼を閉じて、魂が休まれるようにと。二人の巡礼を最後に出迎えたのは、シェラフィムだった。オリヴィアが激しく取り乱していた姿を見ていた影響か、ダンには、彼の死体が他の誰よりも凄惨に思えた。粘液はまだ彼に覆いかぶさっている。物言わぬ死体を、ほしいままにしているのだ。
オリヴィアも同じことを感じたのか、足早に駆け寄り、呪文を唱えた。シェラフィムを包み込んだ炎は、今までで一番火柱を上げていた。粘液がブクブクと泡立ち蒸発していく。あれに発声器官があったら、耳障りな断末魔を響かせていただろうと、ダンは思った。……火は有効だが、魔物に放っても飲み込まれた挙句、鎮火されてしまうと言っていた。僅かな弱点をも克服している。まったく隙がない。俺に勝ち目はあるのかと、仕事をしてきてはじめてダンは武者震いに襲われていた。
「
オリヴィアは炎が消えると、虚空に向かって言葉を紡いだ。
「行きましょう」
「もう良いのか?」
「はい。別れは済ませました。誓いも」
「誓い?」
「刺し違えてでも仇を取ると」
「そうか」
一陣の風がエンチャントリアの森を揺らす。風に連れられて、シェラフィムの遺灰は舞い上がり、吸光虫の光を浴びながら音もなく飛散した。
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