第2話 賢者マルキス

「それは一体、どういう…………?」

 呆気にとられた表情を浮かべ、オリヴィアはやっとの思いで口を開いた。

 この男はなにを言っているんだろう。

 彼女はダンの言葉を理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「言った通りだ。俺の性癖を満たせ」

 ゆっくりと、オリヴィアの脳に刷り込むようにダンは言った。

「性癖」

「そう性癖だ」

「あなたの性癖を、私が満たす……?」

「そうだ。それが依頼を受ける条件だ」

 ダンの顔をまじまじと見る。ダンは整った顔立ちをしていて、美男子と称されるだろう。だがオリヴィアは、ダンからは柔らかな愛らしい印象を一切受けなかった。彼の言葉がその理由の一端を占めていたが、なによりも、鋭い剣のような光を放つ黒い双眸が、彼の人物像を物語っていたからだった。オリヴィアは彼の瞳に死と悲哀の気配を感じ取った。夜伽を要求している風には見えない。

「で、どうなんだ?」

 いや、この男は本気だ。本気で私に、夜伽をしろと言っている。エルフである私に対して。

 オリヴィアのエルフとしての矜持は傷つけられていた。生きてきた中で、これ以上の侮辱を受けたためしがない。そもそも、恋愛というものすら分かっていない。好きな異性とか、なにをどうすれば夫婦になれるのかとか、知識が皆無なのだ。もちろん生殖行為もしたことがない。そんな私に対して、なんと無礼な男だろうか。

 …………しかしなぜ「性癖を満たせ」などという変わった条件を提示するのだろう。そのような条件を飲む依頼人が、本当にいるのだろうか。だが、よかれあしかれダンには一定の名声はあるようだし、力量はあるのだろう。そして依頼人たちはこの男と夜を……。

 憤慨の思いと疑問がオリヴィアの胸中でないまぜとなっていた。私は娼婦ではない、誇り高いエルフだという怒りと、彼の提示する条件に対しての疑問である。オリヴィアは、今しがた彼の瞳から感じ取った、死と悲哀にその答えがあるのではないかと推測する。

 エルフ族も人間族と同じく、個々人で生まれ持った性質や特性は異なる。エルフ族は勇敢で誇り高い種族であるが、それは彼らがみなすべからく、好戦的だと主張しているものではない。人間族と比較すると、性別や年齢を問わず、一定以上の戦闘技術を習得していることは特徴的である。だが戦闘よりも、ある事柄の研究に信念を傾けている者もいれば、よりよい暮らしを模索したり、効率的な統治機構を考え出すのに才能を見せる者などもいる。

 オリヴィアは、エルフ族の中でも、他者の考えや感情を察知する能力が極めて高い。エルフ族は生まれつきその能力を持っているが、現在彼女に比類する者はいない。それに加えて、他者との関わりを大切にする心の持ち主であり、温和で外向的な性格だった。故にアレキサンドリアに遣わされたのだった。彼女を遣わせた者たちの誤算は、彼女が自分たちの要請を呑ませるような駆け引きや搦め手、根回しなどの行為にほとんど無頓着で、なんの準備もしていなかったことだった。彼女の持つ金貨では軍隊は出動しない。時代が違えば、結果も変わっていたのかもしれなかったが、現世を生きる人々からすると知ったことではなかった。

「一つ、よろしいですか?」

 オリヴィアの胸中にあった混沌とした感情は、ダンという男に対する好奇心に変わっていた。なぜ、あの条件なのか。それが知りたい。

「なんだ?」

 コップの水を飲み干し、ダンは期待の色を浮かべてオリヴィアに視線を向ける。

「なぜ、金貨や物的な報酬ではなく、その……あなたの性癖を満たすことが条件なのですか?」

「…………趣味だ」

 素っ気ない返事だった。だがオリヴィアはダンの言葉が嘘だと分かる。

「でも」

「あなたには関係のないことだ」

 鋭く切り込むような語調だった。オリヴィアはダンの言葉から死臭を感じた。全身に怖気が走る。うなじから背中を伝って冷汗が流れる。言葉だけでこれほど恐怖を覚えたことはなかった。

 二人の間に重苦しい雰囲気が立ち込めている。自分たちの周囲だけ、魔術で結界が張られているのではないかとオリヴィアは胸が圧迫される思いだった。

「これ以上なにもないのなら、失礼する」

 ダンが立ち上がり階段へ歩き出そうとした時、クローデルがダンに声をかけた。

「ダン、ちょっと」

「………………………………なんだ?」

 ダンがめんどくさそうな声を上げる。クローデルは顎を傾け、ダンをカウンターに呼びせ寄せていた。


「もうなんっかいも言ってると思うけど」

 クローデルは両手を腰に当ててダンを睨んでいた。クローデルに睨まれると、体がすくみ上ってしまう。ダンは、よそから借りてきた猫の状態だった。

「なんだよ。話しは終わった。俺の条件を呑めないなら用はない。交渉決裂だ。…………もう寝かせてくれよ、頭が割れるかってくらい痛いんだ。頼むよ後生だから」

 ダンは両手を合わせ、頭を下げてクローデルに懇願する。

 だがクローデルは目の前にいる根無し草を解放するつもりはなかった。

「あのね、あんたのあれは交渉じゃなくて脅迫っていうの。分かる?もう後がない人に対して、とてもじゃないけど承諾できない条件を突き付けて、嫌なら帰れ。だぁ?あんたには人情ってのはないの?」

「知らねえよ~。もう頼むよ~」

 オリヴィアに見せていた威厳はとうに失せている。今のダンは自分の部屋の主人である、年下の勝気な女性に情けなく懇願することしかできなかった。

「だめ」

 ダンの願いは無情な一言で切り捨てられた。ダンはがっくりとうなだれる。これから目の前の女主人がなにを言うのか、彼には痛いほど分かっていた。カウンターに呼び出された時点で、口論の勝敗は決まっていた。

「良い?」

「…………」

「返事は?」

「………………はい」


 ダンとクローデルの二人は、オリヴィアが座る円卓のそばまでやってきた。オリヴィアがきょとんとした表情を浮かべ二人を見やっている。

「あ~……………………」

 ダンはバツの悪い表情を浮かべながら、懸命に言葉を探したが出てこなかった。不思議そうにこちらを眺めているオリヴィアの顔を見ることもできなかった。協力して向こうの望みを叶えてやる代わりに、自分の望みも叶えて貰おうとしただけなのに、どうしてこちらが一方的に折れなければいけないのだろう。理不尽だ。あまりにも理不尽極まる。これも全部、横でふんぞり返っているじゃじゃ馬のせいだ。

「あの、どうかなさいました?」

「…………」

 オリヴィアの顔を見るどころか、返事すらできなかった。頭を掻いて誤魔化すが無駄なことだと分かっていた。だがそうせずにはいられなかった。

 ダンを横目で見ていたクローデルがまたもや大きなため息をつく。一歩前に進み出てオリヴィアと視線を交わす。そして柔らかい語調で話し始めた。

「オリヴィアさん、さっきはお見苦しいところをお見せしてごめんなさいね。ダンが言ったことは全部忘れてくださって結構です。その代わりに、こちらにある金貨を報酬としていただいても構わないかしら」

 円卓にはオリヴィアが持ってきた金貨の入った袋が投げ出されていた。何枚かの金貨が顔を出し、光沢を放っている。

「……それでは!!」

 ガタンと椅子を押しのけるようにオリヴィアは立ち上がった。しっかりとした腰に飛ばされた椅子を見たダンは、物言わぬ無機物に恨めしい視線を投げかけた。

「ええ。ダンは、こう見えてできる男です。きっとあなたの役に立ってくれますよ」

「ありがとうございます!」

 クローデルの手をオリヴィアが強く握る。オリヴィアの手は白く透きって、見ているだけでも惚れ惚れするものだった。クローデルは絶世の美女と握手できたことに喜び、ダンにじっとりとした視線を送った。

「なんだよ」

 ぶっきらぼうにダンが言う。顔にはまだ納得できないと書いてあった。

「まあこれで、ツケの少しは清算できたかね」

「うそつけ。釣りをもらってもいいくらいだぞ」

「あたしが少しと言えば少しなんだよ」

「横暴だ。あまりにも」

「ほら、さっさと支度してきな」

「え、もしかして今から行けって言ってるのか?」

「それ以外にどう聞こえたんだい?」

「無茶言うなよ。あと何時間もすれば日暮れだぞ。せめて明日まで待って」

「さっさと行く!」

 クローデルはダンの筋肉質な背中をバンと叩く。ダンは肩を落とし渋々階段を昇っていった。なにやら小言を吐いていたが二人の耳にはとどかなかった。

「大丈夫なんでしょうか…………」

 ダンの頼りない後ろ姿を、オリヴィアは不安気に見つめている。

「へーき、へーき。あんなんだけどきっと力になってくれるよ。あたしが請け負う」

「…………信頼されているのですね」

 クローデルのニコニコとした表情と、自信に溢れた彼女の語調から、オリヴィアは二人が良い信頼関係の仲にあると察した。異性と付き合うというのは、こういうことを言うのだろうか。

「まあ、そうとも言える、かね」

「あの、クローデルさん」

「なんだい?」

「もしよければ教えて欲しいんです。なんでダンさんが報酬の代わりに、夜伽を求められるのか」

 オリヴィアの質問を受けたクローデルは、目線を吹き抜けになっている天井にさまよわせていた。

「いきなりすみません。ただ少し気になったものですから」

「誰だって気になるよね」

 クローデルはオリヴィアに同調する。相変わらず天井を見上げたままだった。オリヴィアが見たところ、どうするか逡巡していた。

 だが、意を決したのか、クローデルは言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。

「まあ、あたしも詳しいことは知らないけどね。孤独だったからさ。あいつも、私も」

「孤独、ですか」

「孤独だよ。まあ、あいつには少しの間、お師匠さんがいたらしいけどね」

「お師匠さん…………」

「なに話してんだ?」

 ダンが支度を終え階段から降りてきていた。先ほどとなにも変わっていないように見える。腰に剣を帯刀していること以外、目立った変化はない。

「あんた、それで支度が済んだのかい?」

 クローデルが怪訝な声をあげる。

「できた」

 反抗期を迎えた子供のようにダンが応える。

「あっそ。ま、しっかり働いてきな」

「へいへい」

 とぼとぼと店内を出て行くダンの姿を、オリヴィアはまじまじと見つめていた。クローデルの言葉が嘘だとは思えなかったが、彼が本当に頼りになるのか疑問を浮かべずにはいられなかった。

「ほらオリヴィアさんも」

「あ、はい!ありがとうございます。クローデルさん」

「困った時はお互い様だからね。今度来るときは、あたしのお客として来てね」

「はい!ぜひ」

 オリヴィアの一礼にクローデルも軽い会釈で返礼する。

 オリヴィアはダンの後を追ってヘブンズフィールを後にした。店内にはクローデル独りが残された。

 話が途中で切れてしまったが、まあ良いだろう。

「さってと、今日も稼ぐか」

 二人の無事をひそかに願い、中断していた仕事を再開した。

 

 先に屋外へ出ていたダンは、厩から愛馬を引っ張って来ていた。しかし、オリヴィアが途中で寄った村から買ったという駿馬を、愛馬そっちのけでしげしげと眺めていた。オリヴィアが出てくるとだしぬけに話し始めた。

「これは汗血馬だな。どうりで速いはずだ」

「かんけつば?」

「ああ。オリンシアの辺境州でよく見られる速い馬だ。見てみろ」

 オキュポロスの頚から肩にかけて指でなぞる。オリヴィアはダンが示した部位に顔を近づけた。そこには液体が流れたと思しき、線状の跡がいくつか残っていた。跡は既に乾いており、なにが流れたのかオリヴィアには皆目見当もつかなかった。

「これは、なにが流れた跡なんなんでしょうか?」

「血だよ。走っている時にな」

「え、血……?」

「ああ。ほらそこにもあるだろ」

 ダンが帯径を指さす。そこにも同じような乾いた跡が残っていた。

「ほんとだ。こんなに跡が……。オキュポロス、私の馬は大丈夫なんでしょうか」

 オリヴィアの声は、飼い馬の異変に気付かなかった忸怩たる思いをはらんでいた。振り返ったダンの目に、自責の念で歪んだオリヴィアの美しい顔が映っていた。ヘブンズフィールで見た、恥じらいや、吉報に喜ぶ顔、性癖を満たせと言われた時の、怒りと怪訝な思いがないまぜになった顔にも負けず劣らずの美しさだった。目の前に立つ美女の、日常に隠された官能的な顔を見られないことをダンは悔やんでも悔やみ切れなかった。

 今ここで、血が流れていたことを大げさに騒ぎ立てたら、どういう反応を示すだろう。

 邪な思い付きがダンの好奇心をくすぶり、心を掴んで離さない。そう考えている間にも、オリヴィアはどうしていいか分からず、頬を染め目尻に涙を浮かて、べオキュポロスとダンを交互に見ている。

 空の下で見る彼女の新緑に輝く瞳は、彼女が純血のエルフ族であることのまぎれもない証左であり、形の良い目の中に自然が内包されているかのようだった。

 瞳の美しさに邪心が浄化されたのか、ダンは頭を振ってオリヴィアを諭すような口調で話し始めた。

「心配するな。こいつはそういう馬なんだ。これが正常。走っている時、血が汗みたいに流れるから汗血馬と呼ばれる。どうしてそうなるかは分からないけどな」

 ダンの言葉にオリヴィアは安堵したようだった。ほっと胸を撫でおろす。

「白馬ならすぐに分かるんだが、なんせ赤毛だからな。慣れてない奴は気が付かないだろう。これからは、走った後、定期的に見てやるんだな。血が流れてたら元気な証拠だ。流れなくなった時は……まあ、よくしてやりな」

 オリヴィアにはダンが言わんとしていることが分かった。流れなくなったら死を迎える時なのだと。

「ありがとうございます。それにしてもダンさん、よくご存知ですね」

 オリヴィアは素直に感心する。ダンのことを少しばかり見直した。

「まあ、仕事柄な。さてと、そろそろ行くか。目的地は?」

 二人は馬に跨り、足を進めさせる。愛馬たちは徐々に速度を増していき、風が頬を撫でるようになった頃、オリヴィアはダンの質問に答えた。

「エンチャントリア、私たちの、エルフの郷です」

「エンチャントリア……聞いたことがあるな」

 ダンはオリンシアの地理に疎く、依頼で赴いた場所などもまったく覚えていなかった。だがエルフの郷であるエンチャントリアだけは記憶の奥底に根付いていた。

 エンチャントリアは、王都アレキサンドリアから馬を走らせて東へ五日余りの場所にあるエルフ族の故郷であり、彼らが生活を営んでいる住処だった。他の森と異なり、木々は太く、枝葉は空を覆うようにして生えている。その特徴ゆえに陽光はほとんど入らないが、森には光を吸収し発光する、吸光虫と呼ばれる虫が球形に固まり空中で群棲している。この虫は一度光を取り込んでしまうと、半永久的に発光することができ、外界からの刺激を受けた際、身の危険を感じ発光をやめて散り散りとなる性質を持つ。エルフたちはこの性質を利用していた。樹上で太陽光に虫たちを晒して光を吸収させ、森の中へ放つ。すると、空中に浮かびながら、取り込んだ太陽光で発光する。発光の明度自体はそこまで強くないため、いくつもの群れを放つ。そうすることで、森は、まるで太陽に照らされているように明るくなる。夜になるといくつかの群れを残して、散開させる。こうして森の中で昼と夜とを区別し、他の種族と同じような生活リズムを整えることができる。

 人間族やドワーフ族が生み出した松明、ランタンなどの文明の利器を使うこともできるが、エルフたちは自然の中で、自然のものだけで生活様式を整えることを至高としている。そのためエンチャントリアには、人間にとって馴染み深い人工物はない。だがそれが、エンチャントリアへひそかに訪れた他種族からの人気を集めた。皆判を押したように、光を発する球体――吸光虫――が森を照らし出す様子を、幻想的で別世界に迷い込んだようだと評した。

「とてもいいところです。…………いえ、でした。あの魔物が出てくるまでは」

 オリヴィアを先頭に二人は馬に乗って駆け出していた。ダンの背後には、ヘブンズフィールが今もその姿を保っていたが、畑を過ぎ、川を渡る頃になると地平線に埋もれ見えなくなっていた。

 ダンの愛馬は、はじめこそ久しぶりの遠出に息巻き、己の健脚ぶりを主人とエルフに見せていた。だが時間が経つにつれて、その姿は成りを潜め疲労に喘いでいた。先を行く、もう一頭の馬は、疲れなど知らぬ、とその走駆を誇示していた。

「オリヴィア!ちょっと待ってくれ!」

 あらん限りの声で叫ぶ。

 途中でダンが呼び止めなければ、オリヴィアはそのまま彼らの前から姿を消していた。オリヴィアがダンの呼びかけに応じ、背後を振り返った時には、ダンと彼の健気な馬の姿は小さくなっていた。

「ごめんなさい!私ったら」

 二人は近くを流れていた小川で休憩を取っていた。オキュポロスは依然として姿勢を正し、大地を見据えている。その姿は、自分がこれから駆ける大地に、思いを馳せているようだった。体から血が流れている。一方ダンの馬は、息を荒くしていた。血の変わりに、汗が滝のように流れ落ちる。

「すまんなオリヴィア。こいつが駿馬じゃないばかりに」

 ダンは一刻でも早くエンチャントリアへ帰りたいと願うオリヴィアの心情をおもんばかって謝罪した。

「いいえ。私の方こそすみません」

「見ての通り、こいつはあんたのオキュポロスほど速くは走れない。体力も限界がきている。それにそろそろ日が暮れる。今日は適当な場所で野宿することになるが」

「かまいません。慣れていますから」

「そうか」

 二人の会話はそこで途切れた。辺りには、川の流れの穏やかなせせらぎだけが反響していた。休憩を終えた二人は、再びエンチャントリアへ向かって馬を飛ばした。

 そして太陽が没し、大地を照らす役目を、夜空にまたたく星々が引き継いだ。

「休もう」

 ダンは野宿するのに最適な場所を見つけて、そこに簡易的な厩を作った。オリヴィアは魔術を使って水桶を作り、そこへいっぱいの水を空気中から注いだ。薪を拾いにいって戻ってきたダンは、その光景を目の当たりにし口笛を吹いて感心したように言った。

「便利なもんだな魔術って」

「おかげで楽ができます。ダンさんは魔術を使わないのですが?」

 石で囲んだ炉に薪を投げ入れ、火打ち石を使ってダンは火を起こそうとしていた。オリヴィアはそれを見守っていた。

「俺は使えないんだよ。途中で訓練をやめちまったからな」

 何回も打ち付けようやく火が上がる。ダンはそっと息を吹きかけ大切に火を育てていった。その努力が報われ、火は途中で消えることなく、二人を照らし出した。

「不便に見えるだろうが、俺は今の自分に満足しているからな」

 二人は夕食を摂ることにした。ダンはなにも持っていなかったので、オリヴィアにすべて任せていた。

 オリヴィアが静かに口を動かすと、目の前の土が盛り上がり、鍋を模った。ダンはできたての鍋が急速に冷え固まり乾燥していく様子をまんじりともせず眺めていた。オリヴィアが鍋を小突くと、コンッと耳触りのよい音が鳴った。

「かなり雑ですができました。後はお椀とフォークですね」

 オリヴィアが楽しげに言う。また口を動かすと鍋には水が溜まっていった。水で満たされた鍋を炉にかける。その姿を微笑ましくダンは見ていた。昔のクローデルを見ているようだ。

「俺は椀だけでいい」

「分かりました」

 オリヴィアは鼻歌を歌いながら、鍋を作ったのと同じ手順で土から椀を形成していく。その間、水が己の存在を知らしめようとぐつぐつと音をたて沸騰していた。

「今日のご飯はこれを食べます!」

 無邪気な笑みを浮かべ袋から橙色をした玉を取り出す。昨日百姓から買ったブンブンだった。

 まるで子供みたいだ。とダンは思う。同時にオリヴィアは何歳なのだろうとも。オリヴィアが人間だとすると、外見から判断すれば二十代前半から中ごろになる。だがエルフは人間より長命なのだ。その分成長も緩慢になる。この男を魅了する美貌でまだ五歳ということも大いにあり得るのだった。

「できました!」

 オリヴィアが喜びに溢れた声をあげる。鍋ではブンブンが煮込まれていた。食欲をそそる香りが二人の鼻腔を満たす。出汁が水に溶け、うっすらとした肌色になっていた。ブンブンはなおも形を保っているが、少しつついただけで崩れそうなほど柔らかくなっている。

 オリヴィアが、即席で作ったお玉を使ってダンにスープをよそった。

「ありがとう」

 椀を受け取ったダンは香りを楽しんだ。これに肉でもあれば満足なんだが。ダンはそう思いながらも口には出さず、ゆっくりとスープを飲んでいった。食道を通って、あたたかな流れが全身に広がる。

「うまい……」

「おいしいですよね」

 オリヴィアがダンに同調する。二人の間にゆるりとした雰囲気が立ち込めた。

 暗く、無人の森の中、パチパチと火が薪を砕く音が一段と大きく聞こえる。ダンは空を見上げたか、木に覆われてよく見えなかった。

「あ、思い出した!」

 突然の声にオリヴィアはビクッと体を反応させる。

「な、なにを……?」

「エンチャントリアだよ」

「いつか、お聞きになったことがあるのですか?」

「まあな。マルキスから」

「マルキス!?」

 驚愕の声が夜の森に溶け込んでいく。水を飲みながら寛いでいた二頭の馬は、オリヴィアの声に驚き体を震わせていた。

「マルキスって、あの賢者マルキスのことですか!?」

「…………まあ、そんなことを言ってたような気もするが」

「どんな外見だったか、教えていただけますか?」

 オリヴィアの願いを聞き入れ、ダンはかつての師の姿を脳裏に浮かべながら口を開いた。

「エルフのじいさんだったよ。俺にはそうは見えなかったが。必要もないのに眼鏡をかけてな。髪を束ねて、変な紋章が刺繍された真っ白な衣装をずっと着ていた」

「ま、間違いないです!あの、英雄ラナリア様を教えた賢者マルキスだわ……すごい。でもダンさん、なんで賢者マルキスと?」

「あいつそんなにすごい奴だったのか」

 英雄の師を「あいつ」呼ばわりされたことに、オリヴィアは表情に抗議の色を示したが、ダンはそのことに気が付いていなかった。

「……昔話もいいかもしれんな」

 焚き火から立ち込める煙が、夜空の星々を掴もうと懸命に天高く昇ろうとする。ダンはうっすらと浮かび上がる靄の中に、幼い頃の記憶が映像の断片となって現れては消えていくさまを見た。


「うーん。いまひとつだな」

 ぼさぼさ頭の少年が、魔術の訓練に励んでいた。少年のそばには、様子を見守るエルフが一人立っている。眼鏡の奥で緑に輝く瞳と、端正な顔つきは、彼の並々ならぬ知性と思慮深さを物語っていた。

「だめだよマルキスー。ぜんぜんできないんだ」

 少年は忌まわし気な視線を形が崩れた泥の塊に向ける。残骸には四肢の痕跡が見て取れた。首の付け根や、頭部に相当する部分もあった。それらは少年が泥人形を作り上げようとして、失敗してしまった痕跡だった。

「おかしいな。うまくいくはずなんだがねえ」

 マルキスと呼ばれたエルフは、手も、口も動かすことなく泥から人形を作り上げる。混沌とした泥の塊が秩序だって組み合わさり、人の形をとっていく。形が出来上がると、泥を削り、顔や頭髪、手足の輪郭が整えられる。何分もしない間に、ふてくされている少年と、瓜二つの姿をした人形が誕生した。

「ほら。ね」

 泥人形はニッコリと笑みを浮かべて少年に手を振っている。少年は短気を起こして泥人形を踏みつけて破壊した。

「あらら。そっくりだったのに」

「俺には魔法なんて使えないよマルキス」

「ダン、これは魔法じゃない。魔術だ」

「じゃあ、俺には魔術なんて使えないよマルキス」

「やれやれ。…………ダン、知能を有する生命であれば、訓練を積めば誰でも一定の力を得ることができるんだよ」

 マルキスの声は穏やかで聞いている者を抱擁する力があった。だが彼の横でいじけている少年には、少なくとも今の段階ではあまり効果はないようだった。

「魔法、魔術って言ってるけどさ、なにが違うの?」

「良い質問だ!」

 マルキスは待っていましたと言わんばかりの表情を少年に向ける。彼は自分が持つ知識や知恵を、誰かに伝えることが好きだった。エルフ族の英雄、ラナリアにしたように、目の前の人間族の少年にも様々な叡智を授けていた。

「ダン。魔法と魔術は、はた目からだと似ているか、まったく同じに見えるかもしれない。ダンには同じに見える。そうだろう?」

「うん」

 ダン少年は素直に頷く。マルキスは彼の素直さを高く評価していた。その気持ちこそが、ありとあらゆる知識を取得する助けとなり、未来を切り開いていく糧になることを、マルキスは信じていた。

「よしよし。じゃあ説明しよう。その前にダンはマナのことを知っているかい?」

「マナ?なんだそれ」

「説明してなかったかな……。悪かった。最近どうも物忘れがね。……マナというのは、私たちが暮らす世界に溢れている、目に見えないエネルギーなんだ」

「へえ。俺にもあったりするの?」

「ああ、あるよ。私もあるし、今吹いている風にもある。そこら中に転がっている石ころや岩にもある。泥にだってあるんだよ」

「へ~……」

 少年は周囲を見渡す。彼らは今断崖にあり、周囲には石ころや岩くらいしかない。あとは目の前で粉々になっている泥が転がっている程度だった。崖の下を見れば、森が広がっている。青々とした葉が太陽光を受け止めていた。

「そこでまず魔術だ。魔術とは言ってしまえば、術者が認識できる範囲の空間に存在する物質に対して、外からマナを通して作用を加える術式のことなんだ。ダン、今君の目には何が見えるかな?」

 ダンはマルキスの言葉を聞き再び周囲を見渡す。

「石、岩、森、泥」

 見えたものを簡潔に答える。マルキスは頷くと再び話始めた。

「そうか。じゃあまた泥で考えてみよう。見ての通り、泥はばらばらになっていて、乾き始めている。これは分かるかな?」

「うん。まあ」

「では泥を集めてまた塊にしようとしたら、どうすれば良い?」

「水に濡らしてこねくり回す」

「どうやって?」

「水は、どっかから持ってきてかける。泥は手で集めて、こねこねする」

「水をかけられた泥、手で集められた泥、こねられた泥、それぞれ共通点があるんだが解るかい?」

「共通点…………」

 少年は腕を組んで考え始めた。泥をまじまじと見ながら、頭をひねって考えている。

「あ。人の手だ。人の手」

 ダンの言いたいことを、彼の言葉が常に正確に表現できている訳ではなかった。マルキスはダンが「泥は外部からの影響でそうなる」と、言いたいのだと理解した。そしてダンの出した答えは正確だった。

「そうだ。泥が独りでにそうなっているんじゃない。人為的な、時には自然的な、外部の力によって、水に濡れるし固められるんだ」

「でも、それが魔術とどう関係あるの?」

 もっともな疑問だ。

「ダン、さっき私の言ったことを思い出してごらん。魔術とはなにか。物質に対して」

「外からマナを通して作用を加えること……。作用って?」

「力のことだよ」

「力……。じゃあマナに働きかけて、水に濡らしたり、泥を固めたりすることができるってこと?」

「そういうことだ。そしてマナに働きかけるには必要なモノがある。なんだか解るかい?」

「……!呪文だ!」

「ご名答!」

 マルキスは少年に賞賛の拍手を惜しみなく送る。少年は少し照れたような表情を浮かべ、それを隠すように視線を泥に戻した。

「呪文でマナに働きかけて、マナによって物質に力を及ぼすんだ。慣れない内は、マナの力によって泥を濡らしてもらったり、固めてもらったり、とそう考えた方が分かりやすいかもしれない。それが魔術なんだ」

「へ~。よくできてるんだな。なんで呪文を使ってそんなことができるの?」

 単純な質問だが、呪文とマナの関係を解明できている者は、マルキスを含めていなかった。呪文を唱えれば、マナに働きかけることができる。その事実だけが、オリンシアの世界に知られている。

「それがよく分かっていないんだ。私も研究を続けているが、はてさて」

 マルキスが肩をすくめて見せた。ダンは、師でも分からない、知らないことが世界にはあるのだと驚愕の思いを抱いていた。

「じゃあさ、魔法ってなに?」

「魔法は、術者が認識できる空間及び範囲、物質に対して作用を及ぼしたり、物質が持つ性質を可逆的に、もしくは不可逆的に変化させることができる術式のことだよ。呪文を通して、マナに働きかけるという基本的な原理は魔術と同じなんだ。魔術と異なるのは、空間に影響を与えることができる、対象となった物質の性質を変えることもできれば、元に戻すことができるというのと、魔法は魔術を包括しているということなんだ」

「なんか、難しそうだな……」

 ダンの印象は間違っていなかった。魔術は呪文を正確に唱えられる能力さえあれば、基本的に誰でも行使することができる。魔術の質は、術者が魔術によってなにを成すかというイメージを明瞭にできるかどうかで決まるが、行使することに関しては個人の資質による差はほとんどない。口を動かせることができるか、思考の中で呪文を唱えられるか。この二点に、魔術を行使できるか否かが集約される。言葉を持ち、なんらかの文明圏で生活を営んでいる者であれば、種族問わずに魔術を友として生きていくことは可能だった。

「ああ難しい。魔術とは比べものにならないくらいね」

 一方魔法は魔術を行使する条件に加えて、本人の資質、素養が必要となる。資質、素養とは受け継がれてきた血脈や、精神力、思考力、想像力などを指す。知的生命に宿るこれら無形の概念は、本人の努力だけでは改善のしようがない部分もある。

 魔法を操るために必要な精神力とは、しわも、染みも一つない真っ白な紙に例えられる。だが紙は一度でも握りつぶされたり、インクを落とされたりすると、決して元の姿に戻ることはない。先天的に潔白の精神力を持っていたとしても、後天的な理由で傷を負えば魔法使いにはなれない。生まれながら精神力に傷を負っている者は論外である。

 思考力、想像力にも同じことが言える。これらには魔法であっても、魔術であっても変化を及ぼすことはできない。実物の紙であれば、魔法、魔術で汚れを消し去ることはできる。しかし、汚れたという事実までは消せない。そうなってしまった精神力、思考力、想像力は紙と違い元に戻すことはできない。そうなってしまったという事実を消すことももちろん不可能だ。そのためどのようなことにも動じない、並外れた力を秘めた者だけにしか、魔法使いを名乗ることは許されなかった。これは外野からの審判ではなく、魔法使いという頂へ続く道の特質である。

 ダン少年の師であり、育ての親でもあるマルキスは賢者と称される魔法使いだった。彼は愛弟子である、ラナリアの死にすら動揺することはなかったし、嘆き悲しむこともなかったのである。ラナリアもまた、師と同様に当時の仲間の死を悼むことを許されなかった。たとえその感情を持っていたとしても、そのことを認めてはならなかった。

「で、実際なにができるの?」

「一つずつ見ていこうか。あそこを見ていてごらん」

 マルキスはなにもない、石ころが乱雑に転がっている空間を示した。ダンは師の言葉に従いその場所に視線を注ぐ。

「……」

 マルキスが小さくなにか呟いた。すると空間がほんの一瞬だけ歪んだかと思うと、清らかな水を湛えた池が出現した。

「え!」

 ダンは目の前で起きたことが信じられず、思わず駆け出していた。池に顔を近づける。磨かれた鏡のように、池はダンの顔を、背後に広がる青空を反射していた。そばにあった石ころを落とす。ぽちゃんという音をたてて、水面にわずかなさざ波が立った。落とされた石ころは、水底で文句の一つも言わず佇んでいた。ダンはおそるおそる手を入れる。冷やりとした気持ちの良い感触が手を包み込む。そのまま落とした石ころを拾い上げる。手のひらに乗せた石ころは、濡れた体に太陽の光を浴びて、きらきらと輝いていた。手を払うと、水滴が光の粒となって飛散する。その動きに合わせて、地面には水玉模様が広がっていく。確かに水は、池は存在しているようだった。

「すごいだろう?」

 自慢気な表情を浮かべたマルキスが、ダンの背後から声をかける。

「うん!これすごいよ!飲めたりするの?」

「ああ。きっと美味しいよ」

 そう言い終えるやいなや、ダンのそばに屈みこんだマルキスは両手で池の水をすくい取り、口へ運ぶ。ごくごくと美味しそうな嚥下音がダンの耳を刺激する。

「うん、おいしいね」

 マルキスの言葉を聞いてダンも同じように水をすくい飲んだ。全身を冷水が駆け巡っていくのを感じる。「生き返った」という表現がまさにぴったりだった。

「すごいねマルキス。魔法ってさ」

 マルキスに向けたダンの瞳には、未知なる事柄への期待感と、師への尊敬の念が入り混じった、生き生きとした輝きが宿っていた。

「そうだろう。これが空間とその範囲に作用を及ぼすことができるっていう魔法の一つ目の特徴だよ」

「あの池はマルキスが創ったの?」

「ああ。魔法は、マナに働きかけて、無から望むモノを生み出すことができる。その逆もね。これは魔術では決してできないことなんだ。もう一度、池を見ててごらん」

 ダンは視線を池に戻した。

「……」

 マルキスが再び口を動かした。ダンは言葉の意味こそ分からなかったが、それが魔法の呪文であることは理解できた。

 マルキスが呪文を唱え終わると、澄んだ水を湛えていた池が、音もなく姿を消した。

「!?」

 池が出現した時と同様かそれ以上の驚きがダンから沸き上がった。さっきまで確かにあったはずなのに。腕を伸ばし、地面に触れる。先ほどとは違い、陽光に温められた無機質な感触が、まだ乾ききっていない掌に広がった。ダンが手を離すと、手形が岩の地肌に浮かびがっていた。小さな、見るからに弱々しい手だ。その横にマルキスも手を置いて手形を残した。マルキスの手は指が細長く、掌もダンと比べて二回り以上は大きかった。

「記念に遺しておこうか」

 ダンの返事を待たずに、マルキスは異なる音韻の呪文を唱えた。手形は刺青のように岩の地肌に馴染んでいき、それぞれにダンの名前とマルキスの名前が刻まれた。

「今のも魔法?」

 ダンは手形と刻まれた名前を指していた。

「どちらかと言えば魔術かな」

「へえ~。すごいや。……ところでさっきの池はどうなったの?」

「消えたよ。この世界にはもう存在しない」

「どこにも?」

「どこにも」

 自分の手を濡らした池は、もうこの世界のどこにも存在しない。ダンは師の言葉が脳内に浸透するのを待った。背筋に寒気が走る。魔法とはいとも簡単にモノを生み出したり、消し去ることもできる。ダンにとってその事実はむしろ恐ろしく感じられた。モノを消し去る……。ある一つの考えが頭をよぎる。ダンは恐ろしいイメージを頭から振り払おうとしたが、一度湧いてしまったイメージはダンの脳内にしつこく居座った。少年は師に助けを求めた。どうか自分の想像が間違っていますようにと願いを込めて。

「魔法ってさ……人間も消せるの?」

「……消せる」

 師からの返答は短く、忌避感を抱かせる冷ややかさがあった。池の水で感じた、心地の良い冷たさとは真逆に感じた。ダンの悪いイメージは否応なく膨張していき、いつしか彼の頭の中は音もなく消えていく人間の姿で埋め尽くされた。彼の思考を支配していのは純粋な恐怖だった。ダンは以前にも一度、同じ恐怖に支配されたことがあった。自分の目の前で、家族を、友人を切り刻んでいく男たち。「逃げて…………!」こと切れる直前の母が発した最期の言葉。その言葉が自分に向けられていたのをダンは解っていた。ダンは逃げた。小さな足で懸命に森を駆けた。足の裏を切り、血が滲んでも痛みを我慢して逃げた。当てもなく逃げ続け、気が付いた時にはマルキスが目の前に立っていた。ダンは話しかけてくるマルキスを呆然と眺めていた。視界にもやがかかり景色が霞む。ダンはそのまま意識を失った。

 ダンの脳は、恐ろしいイメージに侵されていない脳内の領域に、過去の記憶を展開した。イメージと記憶とがないまぜとなって、映像は混沌と化していく。もはやなにがどうなっているのか自分でも分からなかった。

 自然と頭を抱えていたらしく、マルキスがダンの額に手を当てた。冷たい水の感触と、生命の温かさがダンの意識を捉えた。ダンは想像の世界から現実の世界へと引き戻された。脳内に巣くっていた負の想像は霧消していた。

「怖がらせてしまったね」

 マルキスが申し訳なさそうに言った。ダンは首を振って応じた。マルキスはダンの額から手を離し、ダンが落ち着くのを待っていた。

「ありがとう。大丈夫だよ。ちょっと、驚いたんだ」

「無理もない。だけど、人間や生命を消すというのは、非常に難しいんだ。さっきの池みたいに、そうやすやすと消せるものじゃない。少し性質も異なっているから」

「そうなの?」

「ああ。人間を消すとなると、空間ではなくて人間そのものに作用を及ぼさなければいけない。いい機会だから話しておこうか。マナの話は分かるね?……実は生命体に宿っているマナは、無機物に宿っているもの違って、量が多いし、その構造も複雑なんだ」

「うん」

「魔法と魔術の基本的な原理は同じ。これも分かるね?」

「呪文を通して、マナに働きかける。だろ?」

「正解。じゃあ考えてみよう。そうだな、塗り絵を想像してごらん。丸くてなんの模様も入っていない球体の絵と、複雑な、大小形が異なる紋様をいっぱい持った衣服の絵、塗るのはどっちが簡単かな?球体の方は一色を使って塗りつぶせることができる。しかし塗るときははみ出しちゃいけない。衣服の絵も同様だ。だが衣服の方は、球体と違って、どこをどの色で塗るというのが決まっているんだ」

「そりゃ球体の方だろう」

 考えるまでもなかった。

「そうだ。今の質問を魔法と魔術に置き換えると、量も少ないし造りも単純なマナと、量が多くて造りが複雑なマナ、働きかけるのはどちらの方が簡単か。ということになる。前者は無機物のマナで、後者は生命体のマナだ」

「前者」

「正解」

「でも難しいってだけで働きかけることはできるんだろ?」

「できるよ。だけど賢い者はそんなことをしない。なぜだと思う?」

「なぜって……………………」

「じゃあまた塗り絵で考えてみようか。さっき言った球体と衣服の絵を使おう」

 二人の前に実際に塗り絵の紙がある訳ではない。だがダンは師の言葉のおかげで二つの絵を鮮明に思い浮かべることができていた。

「ダンの言った通り、簡単に塗れるのは球体の方だ。簡単に塗れる、要点はまさにここにある。球体と衣服の絵を自分が塗っていく姿を想像してごらん」

 言われた通りにダンは想像する。球体ははみ出さなければ一色で塗って良い。想像の中の自分は数分もかけず塗り終えた。衣服に移る。衣服は色の指定があった。紋様も塗らなければいけない。だがダンはどこをどの色で塗ればいいのか分からない。

「なあ。服の絵ってさ」

「どこをどんな色で塗るのか自分で決めていいよ」

 マルキスは突き放すように言う。

「ちぇ」

 ダンは再び想像上のキャンバスの前に立つ。ダン画家は腕を組み、キャンバスを睨めつけ思案していた。数分後、彼はようやく色の指定を終えて塗る作業に入った。

「だー!!!」

 現実のダンが声をあげる。想像の中とはいえ、この作業は大いに骨が折れた。

「どう感じる?」

 笑みを浮かべたマルキスはダンに問いかける。

「疲れる」

「そう。疲れるんだよ。呪文を唱えるのは体力を必要とする。それに精神力も。しかも生命体の場合、絵のように微動だにしないなんていうことはまずありえない。対象が動けばマナの構造にもわずかな差異が生じるからね。苦労は多いし、成功する確率は極めて少ない。それだったら相手に直接魔法をかけるより、魔法をぶつける方がまだ楽だな」

「魔法をぶつけるって?」

「まあ色々ね。…………詳しい話はまた今度にしようか。日暮れだ」

 ダンはマルキスの言葉で、はじめて日が傾いていることに気が付いた。朝から今まで、ずっとマルキスの授業を受けていたのだ。そう思うと疲れが全身に押し寄せてくる。脳に疲労を感じ、立っていることすら困難に感じた。その場に座り込む。空気を肺一杯に吸って、ゆっくりと吐き出していく。熱が体から放出され、新鮮で澄んだ空気と入れ替わった。

 しばらくの間、脳と体を休ませていた。崖から見える山の尾根が、太陽を飲み込んでいく。空には茜色の中に宵闇の色が混ざりはじめ、一番星が輝きを誇示していた。

「さあ、帰ろうか。ダン」

「うん」

 マルキスが手を差し伸べてきたが、ダンは一人で立ち上がった。マルキスを拒絶している訳ではなく、手を取ることが単純に恥ずかしい。

「前は我よ我よと握ってくれたのになあ」

 差し出されたマルキスの手は、代わりに冷風を掴む。だが冷風は指の隙間から這い出して、すぐにあるべき場所へと還っていく。

「さみしいねえ」

「俺はもう子供じゃないんだ!」

「そうかいそうかい」

 マルキスから見れば、ダンは赤子も同然だった。だが本人にそのことは言わなかった。

「俺にもマルキスみたいな才能があればな~」

 ぶっきらぼうにダン少年は言う。気にしている素振りは見せないが、彼は今日も魔術の課題を達成することができず、自分に嫌気が差していた。魔法や魔術の才能は要らない。だがなにか一つでもあって欲しかった。なにかあれば、師の役に立てるからだ。

「そう焦ることはない。大器晩成という言葉もある通り、年月を経て開花する者もいる。大切なことは、日々の鍛錬をおろそかにしないことだ」

「それは分るけどさ~」

 ダン少年はその後もぶつくさ愚痴を言っていた。マルキスは少年の可愛らしい愚痴を、肯定もせず、かといって否定もせず聞いていた。

 日が完全に沈んでしまう前、二人は小屋へ戻った。ダンが修行していた崖を、森の方へ下っていくと、小川が流れている。その川に沿って進んでいくと、こじんまりした平屋の木造住宅があった。それがマルキスの家だった。

「ただいま~」

 室内は広々としている。玄関を入ってすぐ目の前に、台所があって、食器が所せましと片づけられていた。中央にはソファがあり、脚の短いテーブルが一つ置かれている。壁際には本棚がずらりと並んでおり、棚には数えきれないほどの本が几帳面に整頓されている。いくつかの棚は歯抜けになっており、黒い縦長の長方形をした口を開けていた。棚から抜き取られた本は、テーブルに積み上げられていたり、ソファの横に置かれたりしている。玄関から丁度対角となる壁には、張り付くようにベッドが配置されていた。

「これからまた研究するの?」

「そうだな。でもまあとりあえず先に夕餉にしようか」

 マルキスは台所でなにやら呪文を唱えると、野菜のスープが入ったカップと丸焼きになった魚が乗っている皿を両手に持ってきた。

「食べなさい」

「ありがとう。いただきます!」

 ダンは魚に勢いよくかじりついた。獣のように貪っていく。思えば朝からなにも食べていない。腹が空くのは当然だった。

「明日町に出よう。食材が底をついてしまった」

「分かった~。……あれ、マルキスは食べないの?」

「ああ。私はスープだけでいい」

「腹減らない?」

「今日のところはね」

「魚、食べる?」

 半分もない食べかけの魚をダンはマルキスに差し出した。

「ダンが食べなさい。人間には私たちより栄養が必要だからね」

「そっか」

 納得すると、ダンは再び魚を勢いよく食べていった。

 食事を終えた二人は、お互いに好きなことをしてのんびりとした時間を過ごしていた。

「そうそう」

 読んでいた本を閉じ、マルキスが立ち上がる。

「ダン」

「んー?」

 ベッドに寝ころび、天井を漠然と眺めていたダンの視界に、マルキスの姿が映った。

「これをお前にやろう」

 マルキスの手には一刀の剣があった。白銀の刀身は鋭い光を放っていた。ダンの瞳に好奇心の色が宿る。

「これ、マルキスが作ったのか!?」

「ああ。魔法でちょいちょいっとね」

「すげえ!持ってみてもいいか?」

「ああ。だが振り回さないように。切れ味が抜群だから」

「やったぁ!」

 ベッドから飛び起き、マルキスから剣を受け取る。

「お、重い…………」

 剣は重く、構えるだけでも一苦労だった。剣身だけで1.5mあった。ダンの身長とほぼ同じである。柄の長さを合わせると、剣の方がわずかにダンの身長を上回った。

「それは、ヴァレリア鋼と呼ばれる非常に珍しい鉱物でできている。その剣で切れないものはないだろう。気に入ったかな?」

「うん!…………気に入った…………!」

 この時、ダンが認識できたのは「気に入ったか?」と言うマルキスの言葉だけだった。剣の構えを維持することで精一杯だった。

 翌日、ヒリヒリする腕をさすりながら、ダンはマルキスの後をついて町へ出ていた。朝から出発して、目的地へ到着したのは正午を回ってからであった。町は人の雑踏で賑わい、軒を連ねるいくつもの出店からは、店主が、行き交う人々に「いいもんそろってるよー!」と声高に呼びかけていた。町を歩いていたのは人間族だけではなく、竜人族やドワーフ族、甲虫族などの姿もあった。

「ダン、知っているか?オリンシアでどの種族か一番偉いか」

「なんだそれ。みんな偉くないの?」

「ああ。一番偉いのは人間族、その次に私と同じエルフ族と、あそこを歩いている竜人族だ」

「じゃあ、ドワーフとかあそこのサソリのおっちゃんは?」

「残念ながら私たちほど、身分は高くない」

 私たち。即ち、マルキスとダンのことだった。

「変なの。なんでそうなっているの?」

「かつてオリンシアを支配していた魔王を滅ぼしたのが、人間族の勇者だったからさ。そのパーティーにエルフ族の女が一人、竜人族の男が一人いた。だからこの三種族は特別扱いをされている」

「ふーん。でもさ、どの種族も魔王と、魔王の軍勢に立ち向かったんだろ?だったら同じでいいじゃないか」

「そうだね」

「でも、身分の差がある割にはみんな仲良しそうだぜ?」

 ダンの言っていることは間違っていなかった。実際、彼らは種族の違いを気にしていないようだった。談笑する者、取引の交渉をしている者、路面に面した客席で酒をあおる者。とてもじゃないが身分の差があるとは思えなかった。

「ああ。多くの人間族は、その政治的機能がもはや飾りでしかないことが分かっている。もちろん他の種族も同様にだ。今も身分に固執している者たちと言えば、王都アレキサンドリアに住む一部の原理主義者か、懐古主義者かだろう」

「そうなんだ。でもなんでそんな話を?」

「この世の中には決して変えられない事柄が一つある。なにか分かるかな?」

「空きっ腹に飯は美味い!」

「はははは。それもそうだ。加えておこう。じゃあもう一つはどうかな?」

「うーん…………」

「変わらないものはない。ということなんだ」

「ふーん…………?」

「オリンシアでは種族の垣根を越えてみんなが平穏な暮らしを送っている。だが私が若い頃、今日のような情景はあり得なかった。なぜだと思う?…………それは私たちが族滅戦と呼ばれる戦争をしていたからだ。実際、その戦争でいくつもの種族がこの世から抹殺された。しかし、その族滅戦はある出来事がきっかけで終戦した。魔王の出現だ。魔王は強かった。魔王の軍勢も。私たちは種族間で戦争をしている場合ではなかった。私たちは過去の遺恨を忘れて、恒久的な同盟を組み、魔王に立ち向かった。だが戦況は覆らなかった。それから二〇〇年余り後、勇者アレックスが誕生した。私は幼い頃の勇者アレックスにまみえたことがある。彼は生けるマナの化身とも言うべき存在だった。その力は圧倒的で、おそらく私ですら及ばないだろう。彼は私たちの期待通り、魔王を滅ぼした。だがそれが原因で人間族は、選民思想に染まり、オリンシアにおける優先権を主張しはじめた。魔物狩りをはじめとする蛮行が相次いだ」

 マルキスは言葉を切ってダンに視線を向けた。ダンは考え込むような表情を浮かべていた。

「すまない。つい昔話を。歳を食うとこれだからいかんね。つまりなにが言いたいのかというと、世界は常に変化しているんだ。今日みたいな情勢が、ある日を境に突然変わってしまうこともあり得る。そんな時頼れるのは、選民的な思想や、優先的、特権的な権利ではなく、仲間だ。だから、ダン。お前も仲間を、友達をつくるんだよ」

「分かったけど、なかまとか、ともだちってどうやったらつくれるの?」

「そうだねえ。……もし誰かが困っていたら助けてあげなさい。だが困っている人を助けるには、知恵も力も必要だ。だから毎日学びなさい。お前がその人を助けられたら、お前が困っている時、今度はその人が助けてくれる。そしたら仲間になる。仲間になれば話す機会が増える。そうして友達になる。いいね?」

「うん。任せとけ!」

 マルキスはダンの頭に手を置き撫でた。ダンは恥ずかしさのあまり必死に振り払おうとしたが、マルキスの手は頑として離れなかった。

 ダンはそれからというもの、鍛錬に今まで以上励んだが、相変わらず魔術を上手く扱うことができなかった。だが、剣術の才はマルキスですら一目置くものがあり、次第に鍛錬の献立は剣に偏っていった。朝早くから夜遅くまで、毎日剣を振り続けた。時にはマルキスが相手となって試合を行ったこともあった。はじめの内はマルキスが圧勝していたが、マルキスの助言を真摯に受け止め、指摘された動作を改善し続けた。月日が流れ、ダンの身長がようやくヴァレリア鋼の剣を抜いた年、剣術に限り、ダンはマルキスを上回ることができた。

 またダンは魔術の代わりに、自然にあるものを使ったサバイバル技術の取得に精をだした。有事の際に必ず役に立つとダンが考えたからだった。マルキスはダンの鍛錬に口をはさむことはなく、彼の成長を見守っていた。

 

「まあそんなところかな」

 ダンの視線は、師の同胞である、オリヴィアに向けられていた。オリヴィアは身を乗り出してダンの話に聞き入っていた。興奮と羨望が表情に浮かんでいる。

「す、すごい……。凄すぎます!仲間が聞いたら羨ましがること間違いありません!」

「そうか?」

「ええ!!もちろん!!だって賢者マルキスですよ!?羨ましい…………。言葉では言い表すことができません」

 その後もオリヴィアはダンの話で気になった点を列挙し、数々の質問をダンに浴びせていた。

「……それで、その賢者マルキスから賜ったという剣は?」

「ああ。これだ。見てみるか?」

「いいんですか!?」

「ああ。俺を切り殺さなければ」

「そんなことしません!」

 頬を膨らませムスっとした表情をオリヴィアは浮かべる。ダンは「すまない」と笑いながら剣を外して、オリヴィアに手渡した。オリヴィアは剣を拝領するように受け取り、しげしげと眺めていた。剣の柄に不思議な紋章が描かれていたが、オリヴィアの意識は刀身に集中していた。焚火の光を受けて剣が鈍い光を放った。その光を見たオリヴィアは目を見開き声高に叫んだ。

「こ、これ……ヴァレリア鋼ですよ!!!!」

「なんだそれ?そんなにすごいのか?」

「なんだそれって、ダンさんご存知ないのですか!?」

「ああ。興味がなくてな」

 マルキスは剣をダンに手渡した時、ヴァレリア鋼のことを話していたが、ダンの耳には届いていなかった。

 ヴァレリア鋼は鉄よりも堅い珍しい鉱物だった。起源は、オリンシアで語り継がれている伝説にあった。

 この世界は二体のドラゴンの身体から創造されたと伝説は語る。ドラゴンの名を、ヴァレリア、オリカルクムという。ヴァレリアは大地を、オリカルクムは海の礎となった。オリンシアに広がる草原や、平野はヴァレリアの腹から産まれ、山や渓谷、丘はヴァレリアの背中に生えていた棘の名残であるとされる。また大陸全土を流れる川や、点在する湖はヴァレリアの血潮が長い時間をかけて薄まったもので、今の形となったのは、水の流れによる浸食が所以だと。ヴァレリア鋼は、ヴァレリアの涙が凝結し固まった物あるとされ、大昔から非常に稀少な鉱物であった。

 一方オリカルクムから産まれた海には、オリカル鋼と呼ばれる鉱物が存在し、これもヴァレリアと同様、オリカルクムの涙が元とされている。

 伝説で二体のドラゴンについて触れているのは、世界創造期と呼ばれる一篇のみである。他にドラゴンを描いている物は一切ない。

 ヴァレリア鋼とオリカル鋼は、オリンシアの歴史上で度々姿を見せていた。ドワーフ族とマーメイド族との貿易で、取引されていた記録も存在する。オリカルクムから産まれた海を住処としているマーメイド族にとって、オリカル鋼は親しみのある鉱物だった。ヴァレリア鋼と比べ産出量が多く、そのほとんどをマーメイド族が独占している。加工もしやすく汎用性に優れているため、過去には人間族がオリカル鋼の利権を獲得しようとたくらみ、マーメイド族を別の海へ移住させる計画があった。だが現地を訪れていた責任者が相次いで病死し、計画はとん挫した。マーメイド族の陰謀だとする声が国務省、軍務省から上がっていたが、オリカル鋼は強い毒性があり、人間族では扱え切れないことが判明した。それ以降、政府の間でオリカル鋼の話題が出たことはない。人間族はオリカル鋼の生産者ではなく、消費者に回ることを余儀なくされた。

 ヴァレリア鋼はオリカル鋼ほどの産出量はなく、決まった場所から採掘されるわけでもなかった。ヴァレリア鋼発見の報告があったのは、王歴五〇年代が最後であり、発見した人物とは他でもないエルフ族の賢者マルキスであった。後年、マルキスが持ち帰ったヴァレリア鋼は魔法で加工され、彼の弟子となった少年に授けられた。このことを知っているのは、マルキスとダンの二人以外にはなかった。だが今晩、秘密を共有する輪の中にもう一人が加わった。

「はじめて見ました…………」

「にしてはよく分かったな」

「何度も聞かされてましたから。賢者マルキスがヴァレリア鋼を発見されてから、エルフ族の中で話題になって。まさかダンさんが持っていたなんて」

 オリヴィアの手付きは、愛する者を愛撫するかのようで、その姿はダンの本能を焦がし、欲望の火をくすぶらせていた。

「我慢、我慢……」

「なにかおっしゃいました?」

「…………いいや」

「ところで、賢者マルキスとは今もやり取りをされているんですか?もしよければ…………その」

「死んだよ」

「………………え?」

 ダンの言葉にオリヴィアは愕然とする。賢者マルキスがまだ存命だと思っていたからだ。偉大な賢者が死んだ?なぜ?

「マルキスは死んだ。本人は寿命だと言っていた」

「それで………………?」

「俺は聞いたよ。『魔法で寿命を伸ばすことはできないのか?』って。だがマルキスは首を横に振って『命は天命に任せたい』とだけ言った。なぜだと思う?」

「それは…………」

 オリヴィアが持っている、マルキスに関する情報はあまりにも少ない。エルフ族の中で語られている伝説的な内容と、ダンの話から受けた印象しかない。だがマルキスも賢者以前にエルフだ。エルフであるならば自然を尊ぶ。無益に抗い、不必要に力を振りかざすことはしないはず。

「自然の流れに任せたいから…………だと思います」

「たぶんな」

 オリヴィアの答えにダンも賛同を示した。「命は天命に任せたい」彼はそう口にした。おそらくマルキスは寿命を伸ばす方法を知っていた。だが敢えてそうはしなかった。なぜか。彼は過去に魔法や魔術を駆使し、自然の道理から外れた行いをしてきたのかもしれない。だから、せめて自分の命だけは時の流れに委ねようと考えた、そうしたかったのではないか。マルキスは自分の過去について多くを語らなかったため、これはダンの憶測でしかなかった。だがダンは、これはこれでマルキスらしい考え方だと笑みをこぼした。

「俺が持ってるマルキスの形見はそれだけだ」

「そうなんですね…………賢者マルキスの遺品はどうなってしまったのでしょうか…………」

「さあな。俺は追い出されたからその後どうなったか分からない。…………今度墓参りに行くのもいいかもしれん」

「………………その時は、私もご一緒してよろしいでしょうか」

 マルキスとダンの関係は水と魚のようだとオリヴィアは思う。不運な孤児の少年に、日々教えを授ける師と、比類なき賢者から知識や知恵を吸収する少年。二人の姿がオリヴィアの脳内で鮮明に描かれた。その空間、二人の間に他の誰も立ち入ってはならない。そんな気がしてくる。二人だけの大切で、優しい時間。だが、オリヴィアもまた同胞の死を悼みたいという望みがあった。理性からではなく、本能から生まれた望みだった。賢者マルキスは人知れず死んでしまった。誰からも看取られることもなく、たった独りきりで。それは彼が望んだことであろうとオリヴィアも分かっていたが、知ってしまった以上そのまま放置するわけにもいかなかった。エルフ族の矜持が許さなかった。

「ああ。きっと先生も喜ぶだろう」

 ダンはオリヴィアから剣を返してもらうと、立ち上がって夜空にまたたく星空を突きさすように、切っ先を天高く掲げた。星の輝きを受けて剣が煌めく。ダンの追悼の意に対して、マルキスが応えている。ダンはそう信じた。

「すみません。せっかく楽しい話をしていたのに」

「いいさ。マルキスの話を続けていたら、いつかは言っていた。謝ってもらう必要はない」

「そうですか……。…………そうですね。ありがとうございます」

 オリヴィアの声は次第に、明るく穏やかな声に戻っていった。

「その剣、賢者マルキスが魔法で加工したって言われてましたけれど、なにか特別なことができるんですか?」

「ああ」

 ダンが剣を構えて柄をぎゅっと握る。空気に向かって一閃振ると、剣は鞭のようにしなやかな流線形の軌跡を描いた。オリヴィアが目をぱちくりさせて、剣に視線を向けると、剣は元の形に戻っていた。

「こんな風になるんだよ。鞭みたいだろ。鞭の状態だと、刃渡りが広くなって、敵を捉えられる距離も長くなっている。『鞭のような複雑な軌道を描く動きは読まれにくい。読めたとしても剣に比べると時間がわずかにかかる。これは攻め手としては非常に有利だからね』ってマルキスが。もちろん普通の剣としても使うことはできる」

「すごい……。どうやって切り替えているのでしょう」

「これだよ」

 ダンはオリヴィアに剣の柄に描かれている紋章を見せた。

「ここに俺の思念を送り込むことによって制御できるみたいだ。さっきも話したが俺は魔法どころか、魔術でさえろくに扱えなかったからな。マルキスが気を利かせてくれたのさ」

 自嘲と師を自慢する雰囲気がダンの声にはあった。

 オリヴィアは、先ほどは気にもとめなかった紋章を観察する。一目見ただけで、この紋章は非常に高度な魔法によって作られていることが分かった。それにしても、他者の思念を媒介し、それを魔法に変えてヴァレリア鋼の性質、形状を変化させるとは。オリヴィアは賢者マルキスに畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 紋章から目を離し、ダンに視線を戻す。ダンは少年のような笑みを浮かべていた。

「楽しそうですね」

 オリヴィアも思わず笑みをこぼす。マルキスの最後の弟子が、ダンでよかったと心の底から思った。

「まあな。剣を振り回すことにかけては才能があったから」

「ふふ。頼りにさせてくださいね。ダンさん」

「ああ」

 その会話を最後に、二人はそれぞれ床に就いた。

 ダンは背中にひんやりとした土の冷たさを感じながら、オリヴィアの話を反芻していた。

 エルフの魔術を受け付けない体と、毒。毒と、体。長年の"仕事"で培ってきた経験が、警戒を呼び掛けている。ある物質や、性質に対する耐性を持っていることは、生物としては当たり前だし不思議ではない。生き物は種族関係なくそうして進化してきた。だがダンは納得できずにいた。妙に引っかかる。突如として現れた未確認の魔物。そいつは毒をまき散らし、エルフの森を壊死させている。彼らの武器や魔法は、まったくもって役に立たない。まるで狙いすましたかのような特性。

 俺が魔物ならとダンは思考する。俺が魔物なら、相手の攻撃が効かないと分かっているのであれば、真っ先に本丸を狙うだろう。「魔物は獲物を前にして舌なめずりをするような愚かな存在ではない。真っ先に最短距離で首を狙う。首を飛ばされて生きながらえる者は存在しない。奴らはそれを知っている。一撃必殺が彼らの常套手段なんだよ」マルキスの言葉を思い出す。

 ダンは魔物を知らないが、マルキスは知っている。多くは語らなかったが、魔物と戦ったこともある。ダンはマルキスの言葉を信じている。それゆえ、オリヴィアたちを襲っている魔物の行動に違和感があった。まるで狩りを楽しんでいるような。それともマルキスの知っている魔物とは性質が異なるモノなのだろうか。短期間に生物が劇的に進化したり、変容したりしてしまうことなどあり得るのだろうか。それも現代のような、緩慢とした自然環境の下で。

「………………まさかな」

 飛躍した思考を払拭しようとする。だが、あり得ない話ではない。誰がなんのためにそんなことをしているのかは分からないが、可能性としてはあり得る。

 魔物は自然的に発生したのではない。人為的な存在だ。自然が産み出したモノではなく、邪悪な意志を持つ誰かによって造り出されたモノ。

 だとすれば、エルフ族は実験の対象だ。

 ダンは横目にオリヴィアを見た。オリヴィアは背中を向け、安らかな寝息をたてていた。

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