第1話 その男、悪癖につき
王都アレキサンドリアは大陸オリンシアの中央に位置している。都は陽光によって白亜に輝き、見る者に圧倒的なまでの美しさと、人間が支配者たらんとする強い意志を感じさせた。その様相はそこで暮らす者たちにも、自分たちの身分と使命を否応なく思い出させる力があった。
だが輝きは連綿と続く月日の中で風化し、絢爛な都にもほころびが垣間見えるようになった。王都の中を縦横無尽に走る石畳は、永い間、自然の侵入を防いできたが、役目を完全に果たせなくなっていた。今では所々に雑草が顔をだして、太陽の恩恵を全身で受け止めていた。
アレキサンドリアに住む人々は定期的に改修工事を施し、王都の姿を当時のまま保とうと努力していた。しかし、人間族の力より、自然の一種の自浄作用とも言うべき力の方がはるかに強大だった。自然と調和し、自然の中で生きているエルフ族やマーメイド族などの立場から見れば、それは当然の成り行きだったため、懐古主義に憑りつかれ、より良い形態を採ろうとしない人間族の方策は滑稽だった。それでもなお、人間族は過去の栄光にしがみつき自然に抗おうともがいていた。
当時と比類するものと言えば、人間族が、思想の中で丁寧に育んできた特権意識と優先権だった。彼らの思想は、王都が健闘むなしくゆっくりと朽ちていくのに反比例して増大していった。母なる自然といえども、彼らの精神構造にまでは力を及ぼすことができなかった。
そのような混沌としたアレキサンドリアの関所を一台の馬車が通過していた。街道を通り、途中で道を外れる。舗装されていない田舎道で、左右には木々がうっそうと茂っていた。荷台が石ころを踏んで時たまガタンと揺れる。馬車を引く二頭の馬の手綱をぎゅっと握り、持ち主の男は、後ろの女性に声をかけた。
「こっからだとだいたい四、五日はかかるべさ。今日はおらの村に泊まるべ。途中で足の速い馬を買うか、乗せてもらうといいだよ。そしたら、すぐ着くべ」
荷台に腰掛けていた女性は丁寧な口調で返答した。
「……お気遣い、ありがとうございます」
「おじょうさん上手な共通語をはなすんだなぁ。おらより上手だぁ」
オリンシアには多種多様な種族が暮らしており、その文化や風習は種族毎に異なる。彼らはそれぞれ独自の言語を持っているが、人間族が統治をはじめてから、彼らの言葉を共通語とし。人間族以外の種族は、強制的に共通語を覚えさせられることになった。当初、魔物狩りの影響もあって彼らの反感は増大する一方だったが、勇者アレックスと共に戦ったエルフ族のラナリア、竜人族のドーソンが人間族の言葉を覚えており、それを使って会話していた。その事実が知らされると、彼らは不承不承ながらも新たな規則に従った。
結果として二〇〇年余りの時間を経て、オリンシアに暮らすほとんどの者が、人間族の言葉を話し、解するようになっていた。
「…………」
男はちらっと背後を振り返り、荷台に乗せた美しい生き物を見た。
薄い金色の長髪は彼女の腰のあたりまで伸び、毛先が微風になびいていた。整った紡錘の形をした目には、若草の新緑の色を持った瞳が輝き、儚げに空を見上げている。まっすぐに通った鼻梁とその下で薄く桃色に光る控えめな唇の端麗さは、見る者を夢中にさせた。汚れ一つない白く透き通った肌は、陶器でできた人形を彷彿とさせた。他に類を見ない美貌の持ち主だったが、男の視線を釘付けにしたのは、ローブの上からでもはっきりと分かる豊かな乳房と、元気な子供をたくさん産んでくれそうな安産型の腰だった。そして人間族にはない先端がとがった耳。オリンシアで生きている者なら、その耳で彼女がエルフ族だと分かる。
「……あの、なにか……?」
男の視線に気づいたエルフ族の女性は、猜疑心を表情に宿らせていた。卑しい目。人間とはやはりこのような存在なのか。
男はドキリとして、誤魔化そうか迷ったが、正直に謝罪と弁明をすることにした。
「いやあすまねえ。お嬢さんみたいなべっぴんさん見るのは生まれてはじめてだったからよ、つい見惚れちまっただ。……こんなおらでも女房と子供がいるだ。でも女房は体弱くてなあ。まだ子供が欲しいと言っとるんだが、息子産んだ時も死にかけてな。んで、お嬢さんみたいな立派な身体つきだったら子供もたくさん産めるなあってな。すまねえ。堪忍なあ」
エルフ族は他の種族とは違い、話している人物の語調や語気で、おおよその心情を理解できる特性があった。男の表情こそ見えなかったが、彼女は男が心底悪いと思い、背中越しからでも、苦悶の表情を浮かべているのが分かった。彼女は男に少し同情を寄せた。そこで話題を切り替えることにした。
「奥さんと子供さんがいらっしゃるんですね」
彼女の声は先ほどとは違って明るく、空気に溶け込んでいった。声を大げさに明るくしすぎだったかもしれない、とエルフは思った。
「んだよ。女房一人と、鼻たれの息子が一人な」
「息子さんはおいくつですか?」
「まだ五歳くらいだべ。村のガキと毎日遊び惚けちょる。まあおらとしてはすくすく育って嬉しいよ。お嬢さんはエルフだ?エルフの人はみんな長生きするから、おらたちと同じに見えて年下だったりするっていうな」
「ええ。そうみたいですね」
「お嬢さんはおいくつだ?……あ、こりゃすまねえ。れでぃーに失礼なこと聞いちまった」
男はカカと笑い声をあげた。吞気であっけらかんとした笑い声だった。その声に反応したのか、森の奥から鳥のさえずりが聞こえてくる。エルフはふと気になって男に聞いた。
「さきほど、奥さんの体が弱いとおっしゃってましたけれど、大丈夫なのですか?」
「ん~今んとこはな。でもどうだろう。あれじゃ畑仕事はできねえ」
男の声が打って変わって沈鬱の色に染まる。彼女は慌てて謝ったが、男は「いいさいいさ」と手を挙げただけだった。しばらくの沈黙の後、男は再び口を開いた。
「おらたち百姓は体が財産よ。畑耕して年貢納めて、それで食ってなきゃならねえ。だけど、年貢は厳しくて重いし、国務省からのお許しがないと自分で育てた作物を売ることもできねえ。金は増えねえし、物々交換も、レートっちゅうのが高すぎてできねえ。だから食いもんがすくねえ。畑で採れた野菜だけじゃ栄養は足りねえ。体力がつかなくて体は駄目になる一方だ。今日お街に行ってたのは、おらんとこで採れた野菜を売りたいってお許しをもらおうとしたんだ。でも駄目だった。荷台に転がってるのがそれだ。見てもいいべ」
エルフは荷台にあるいくつかのずだ袋の中を覗いた。男の言う通り、そこには様々な野菜が顔を並べていた。どの野菜もよく育っており、地中から吸い上げた水が今にも溢れだしてきそうなほど瑞々しい。野菜の味を想像して思わず頬がゆるむ。
「おいしそう……」
小さく呟いたつもりだったが、男に聞こえていたらしく、男は嬉しそうな声をあげた。
「お嬢さんにそう言ってもらえるだけでも、ありがてえべ。必死こいて育てたかいがあったってもんだ。都棲みには分かってもらえんかったがね」
都棲み。それはアレキサンドリアで暮らす人間たちを指す言葉だった。言葉に込められた意味は「外の世界を知らない愚か者」というもので、主にアレキサンドリアから遠く、オリンシアの地方に住む人間たちがよく用いていた。
自分の命を散らせてまで魔王と戦い、勝ち取った世界が、かくも暗雲立ち込める有様となっているのを、ラナリア様が知ればなんとお思いになるだろう。エルフは、理想とする過去の英雄の姿を思い浮かべ嘆息した。
頭を振って暗い考えを払拭する。しばらくの間、野菜とにらめっこをしていた。そしておもむろに口を開いた。
「ところで、もしよければこちらのお野菜、いくつか売っていただけませんか?」
「え!?」
男は素っ頓狂な声をあげた。その声が不愉快だったのか、馬車を引く馬の一頭が鼻息を荒くしていなないた。
「で、でも……ばれたらただごとじゃないべ」
「私的なやり取りであれば、大丈夫だと思います。国務省もそこまで管理はしていないでしょうし。それに」
エルフは言葉を切って、まじまじと袋の中身を見つめていた。そして男の方に顔を向けると、表情をほころばせて甘い声で言った。
「こんなに、美味しそうなんですもの」
エルフの言葉は正しかった。国務省は地方の増強を良しとせず、経済、人的資源的の流通を取り締まっている。だが戸籍を完全に整理し把握している訳でもなく、正確な検地を行っている訳でもなかった。年貢の石高を量って、それを課している程度に過ぎなかった。アレキサンドリアの最盛期なら、取り締まる側も並々ならぬ情熱で政務に励んだが、当時から二〇〇年以上の時間が流れ、幾重にもなる世代交代の過程でその情熱は消え去った。今では先代が築いた栄光と、政治機構とを維持し、しがみつくことしか考えていない。
エルフは人間族の杜撰さに憤慨していた。支配者として君臨するのであれば、体裁を気にするだけなく、支配者たる実力を示す必要があると考えていたからだ。族長のように。しかし、その杜撰さのおかげで、こうして故郷を離れることもできるし、今日のようなめぐり逢いもある。そのため批判する声を強めようとは思わなかった。
「だけどもお嬢さん」
「お金ならありますから」
男の目の前に煌々と光る金貨が積みあがった。これは現実か、否かと男の視線が美女と金貨の間を行き来する。馬車はいつの間にか止まっていた。
「言い値で買います」
エルフは男に詰め寄った。男の目の前で乳房が揺れる。エルフの耳に男が生唾を飲み込む音がとどいた。
男はここで目の前の絶世の美女を騙すこともできた。向こうは言い値で買うと言っているのだから、市場で売れる相場より何割か値を上げることも可能だった。だがそうしなかった。美女に喜んでもらおうと思ったのか、その男の生まれ持った特質なのか、野菜五つにつき金貨一枚でならと申し入れた。市場なら、野菜五つで金貨二枚と銀貨と銅貨それぞれ一枚の売り上げになる。質が良ければ、売り手は値上げすることもできる。
男はそれをしなかった。エルフはこの時、少しだけ人間に対する好感度が上がった。
取引を済ませた後、彼女は早速野菜を吟味しはじめた。どれから食べようか。
彼女が法を犯して購入した野菜は五つ。そのどれもが異なる種類のものだった。
彼女が真っ先に手を伸ばしたものは、青々とした草の葉だった。扇形をしており、大きさは両手を使っても余りある。草に顔を近づけ香りを楽しむ。清々しく透き通った苦味のある香りが、彼女の鼻腔を満たし、意識と思考をすっきりさせてくれた。この草はバショウ草と呼ばれ、食卓に並ぶ際は、主役を引き立てる役目を担うことが多いが、苦味の受けはあまりよくない。そのため、多くの場合、葉を刻み煮込む。そうすると苦味が抜け、清涼な味だけが残るため、脂っこいステーキによく添えられている。彼女はこの苦味が好物で、生のまま口にすることを好む。今まで、姉妹や他のエルフから、驚愕の目を向けられたことは数え切れない。その度に彼女はホンモノの味を広めようと努力してきた。その努力が報われたことは未だない。
次に手に取ったものは、宝石のような橙色をした球状の野菜だった。両手に収まるサイズで、ブンブンと呼ばれる。この野菜の特徴は、地中から吸い上げた水分を長期に渡って体内に保存してあって、切るとそれが肉汁のように溢れてくることにある。水分は体内で熟成され、栄養価の高い出汁となる。出汁は、香り豊かな代わりに味がさっぱりとしていて、どの料理にも合わせやすい。野菜本体も炒め物や煮物、スープやサラダの具材として幅広く活用できる。エルフ族はこの野菜を「大地からの偉大な贈り物」と信奉しており、祭事では必ずお供えする。
これほどの質なら、郷のみんなはきっと狂喜乱舞するに違いない。エルフはその姿を想像して口元をほころばせた。早く、みんなを助けなければ。それにしても、自分だけこのような贅沢をして許されるのか。エルフの心はしきりに問いかけてきた。
エルフはそれからも野菜たちに熱心な視線を投げかけていた。郷で起こっている現実を少しでも忘れたかった。今自分にできることはないのだ。必死にそう言い聞かせる。その間、馬車はゆっくりと男の村へ近づきつつあった。太陽が天頂を通過して午後になり、それからしばらくしてから空が茜色に染まった。男はランタンを取り出して、荷台に取り付けた。まだ陽の光はあったが、森の中を通過するため灯りが必要だった。
「お嬢さん」
男が背後の美女に声をかける。
「……」
返事はない。野菜に夢中で、男の声はエルフに聞こえていなかった。
「これから森んなか通るべ。んでもって、くろうなってきたからちょっと急ぐんだ。揺れると思うけど堪忍な」
森を通ると言っても、木々がうっそうと茂った道なき道をいくのではなかった。村の男たちの作った道が森の中にあり、そこを通るのだった。だが今まで通ってきた田舎道よりも更に悪路であり、太陽が高く昇っている時間帯ならともかく、夕暮れ時は彼らをうすら寒い気持ちにさせた。このまま道なりに進むこともできたが、それでは時間がかかりすぎるため男は自分たちで作った道を選んだ。道の増設行為は違法であり、国務省の人間に見つかると重い罰が下る。そのため、普段は草木を被せて出入口をカムフラージュしていた。男は隠された道の前までくると、辺りを注意深く見まわして、馬車から降り隠蔽工作を解いた。荷台には部外者のエルフがいたが、先のやり取りで告げ口はしないだろうと男は判断していた。馬車を森の中へ入れると、再び草木を被せ道を消し去る。
「じゃ、いくべ」
馬車に戻り手綱を強く握る。二頭の馬はそれを合図に駆け足で走り始めた。
太陽が地平線に姿を消す前、馬車は村に戻ってきた。その頃になるとエルフは野菜を選び終えて、今にも食べようとしていたが、男から村に着いたことを聞かされると、数時間も野菜選びに熱中していたことを恥ずかしく思い頬を染めた。
「誰かお嬢さんのいくとこへ用事があるやつか、馬譲ってくれる奴いないか探すべ。お嬢さんはおらんちで休んどいてくれや」
「そんな、悪いです。私も一緒に」
「いいからいいから。れでぃーにそんな大変なことさせられんべ」
男は妻子が待つ家までエルフを案内した。彼らはエルフをあたたかく家へ迎え入れた。
「おねーちゃんって、えるふなの?」
あどけない表情を浮かべながら、少年がエルフに話しかける。少年の瞳から、彼が好奇心に憑りつかれていることをひしひしと感じた。エルフは腰を下ろして、目線を少年に合わせ微笑みかけた。
「ええ。そうなの。あなたのお父様に助けてもらったのよ」
「へー!おやっじすげえや!」
「ええ、とても立派なお父様よ」
「かあっちゃんきいたか?おやっじが立派だって!」
少年は父が立派だと言われて嬉しそうにしていた。
「なんかご迷惑をおかけしてなければいいんだけれども。なにせあんなんだからね」
かあっちゃんと呼ばれた女性は椅子に腰かけて、弱弱しい笑みを二人に注いでいた。男が言った通り、少年の母親はかなり痩せていて、風が吹けば折れてしまいそうな印象を受けた。エルフは胸が痛んだ。
「とんでもありません。道中お話をさせていただきましたが、ずっと奥様の体を心配しておいででしたよ。……こんなことを申していいのか分かりませんけれど、ふがいなさそうにしていました」
エルフの言葉を聞いて安心したのか、心配されていることを嬉しく思ったのか、彼女の顔に、幸福に満ちた表情が現れた。
「そうかえ。そうかえ」
「かあっちゃん元気だせよ。おらがいるべ」
少年が母親のそばにかけより、枯れ木のように細い体を抱きしめようとする。
「そうだな。そうだな」
「今戻ったよ~」
その時、その場の沈鬱な空気を破るようにして、男が玄関から屋内へ入ってきた。男の表情と声は生気に満ち溢れていた。
「お嬢さん、馬が見つかっただ。この村一番の駿馬だよ。ずっと走らせれば、一日でつくと思うだ」
「ありがとうございます!……でもいいのですか?村一番の駿馬だなんて」
「いいべいいべ。おらが持ち主にうんと言っといたから大丈夫だ」
男はニコニコとしながら妻のそばに歩み寄った。ずだ袋を持っており、自慢気に袋を開いた。
「これ見てみぃ」
男の妻は言う通りにして中を覗き込んだ。表情が弱々しい微笑みから、驚愕のものに変わる。目尻から頬を伝って、涙がこぼれ落ちていた。
「夢じゃないんだな?本物なんだな?」
「あたぼうよ。そこのエルフのお嬢さんが野菜を買ってくれたおかげだ」
夫婦そろってその光景を眺めていたエルフに視線を向ける。エルフは一瞬ドキリとした。
「ありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます」
妻は椅子から立ち上がりよろよろとエルフに歩み寄って、何度も頭を下げ感謝の言葉を述べた。
「や、やめてくださいそんな……」
エルフには分かっていた。男と交わした、私的な違法取引によって、彼らは少しの富を得た。そしてそれを使って、なにか買ってきたのだ。
「ありがとうなあお嬢さん。これでうまい肉を食わせてやれるだ」
妻の姿を見て男も泣いているらしかった。背を向けているため表情は見えないが、声が震えている。
肉。そうか、動物の肉を買ってきたのか。エルフは少し気分を悪くした。エルフ族は基本的に動物の肉は食べない。森に棲む動物は、彼らと共存している同胞だからだ。動物は自然の精霊がエルフ族に与えてくれた使徒なのである。それを殺して食べることは禁忌とされている。加えてエルフ族は肉を食べなくても、薬草や野菜を摂ることで、驚異的な寿命と強靭な肉体を手に入れられる。エルフ族は自然の精霊が森を守護させるために産み出した存在で、薬草や野菜はエルフ族の力の源であるという伝説がある。エルフ族の長い寿命と、肉体の強さの起源は、この伝説にあると信じられている。また伝説を裏付ける証拠の一つなのか、エルフ族は薬草を用いた治療術の質が高く、基本的に、治せない病はないと信じられていた。
一方、人間族はエルフ族と文化や思想、体の構造もなにもかも異なっている。人間族は穀物や野菜だけでは栄養が足りず生きられない。生きて肉体を維持するためには、動物の肉を食べる必要がある。彼女個人はそのことを不幸に思いながらも、否定するつもりはなかった。しかし、かつて動物だった肉塊を見て、喜んでいる様を目の前で見るのは慣れない。
「あの、少し村を見て回ってもいいでしょうか?ご迷惑でなければ」
「もちろんお嬢さんの好きなようにしてもらうといいだよ」
エルフは礼を言って家を出た。
深呼吸をし、夜の帳がうっすらと混ざった空模様を眺める。
明日にはたどり着く。明日には会える。そう、明日には……。だけど。
「大丈夫なのかしら……」
翌日、日の出と共に、エルフはあたたかな時間を過ごした場所を後にした。村中の人々が集まり、見送ってくれた。
エルフは離れがたい思いを胸に抱きながらも、目的のため思いを振り切った。
村人から買った馬は、まさしく駿馬であって、エルフは馬にオキュポロス――速き者――と名付けた。オキュポロスは新たな主人を背に、午前中だけで旅程の半分を走破していた。この調子だと夕暮れまでには到着すると判断したエルフは、午後からは合間に休憩をはさむことにした。これはオキュポロスの体調に気を遣ってのことだったが、当の本人はまだ見ぬ新しい景色の中を早く駆け巡りたいとうずうずしている様子だった。
村を出発する前にもらった地図を広げる。エルフは通った道を、記憶を頼りに確かめていき、自分の現在地を割り出した。目的地までは地図上で見ると目と鼻の先だった。
「行こうか。オキュポロス」
主人の声にオキュポロスは反応した。オキュポロスは新しい名前を気に入っているようだった。主人が名前を呼ぶと嬉しそうに尻尾を振る。その動作を愛おしく思い、彼が死ぬまで、大切に育てようとエルフ派心に決めたのだった。
エルフは疾風の中にあった。新たな景色が現れたと思えば横目に流れ、背後の広大な自然に溶け込んでいく。太陽はいまだ天高くに居座り、存在を誇示し、オリンシアを明るく照らし出していた。
エルフの瞳に人工物が映った。その姿はオキュポロスの速度と比例して、どんどん大きくなってくる。複数ある石造りの小屋は煙突を備えており、その内のいくつかから煙が青空の下へ漂いでていた。畑では男たちが鍬を振るって農作業をしており、額からしたたる汗が風に流れて光の粒となって散っていた。
「あの、もし……」
エルフはオキュポロスから降りて身近にいた百姓に声をかけた。
「ああ?……!?」
男は話しかけてきた相手の姿を認めるや否や、口をぽかんと開けて農具を地面に落とした。その様子を見ていた別の男も、判を押したように同じ反応を示した。エルフの存在は男たちから男たちへ加速度的に伝わり、図らずもエルフは無数の男たちの好奇な視線を浴びることとなった。
「ヘブンズフィールという酒場はどこにあるのか、教えていただけないでしょうか」
話しかけられた男はその後も硬直していたが、ハッと我に返ると、いやらしい顔を浮かべた。
「エルフのお嬢さん、えらいべっぴんさんだね。でるとこでとるし、これはたまらんのお」
舐めるような視線を感じ、身をよじりそうになる。エルフは一刻も早く彼らの視線を逃れたかった。
「それで……」
「はいはいヘブンズフィールね。……ってことはお嬢さん、おたくはダンに用があるんだろ?え?」
ダン。そうその名前だった。その男に用がある。
「あそこに煤けた二階建ての丸太小屋があるだろ?あそこだよ」
男が指し示した方に視線を向ける。そこには他の小屋とは違い、太くて立派な丸太で造られた二階建ての建物があった。
「ありがとうございます」
エルフは一礼してオキュポロスにまたがると駆けていった。豊かな乳房が規則正しく揺れ、馬の背に乗せた腰が妖艶な肉付きを晒す。その姿を、ある者は両手を合わせ拝むように、またある者はうれし涙を流しながら、十人十色の仕草で見守っていた。彼女の美貌が、汗と土を友として懸命に働く男たちの保養となったのは明らかだった。
エルフはこの村で唯一の酒場、ヘブンズフィールまでやってくるとオキュポロスを繋ぎ止め、ドアノブに手を伸ばした。ダン。あまり良い噂は聞かない。だが最早彼しかいない。……これも同胞のためだ。深呼吸をして意を決すると、勇みよく店内へ入っていった。
「あら、珍しい客だね。いらっしゃい」
ヘブンズフィールの店内はがらんとしていた。年季が入った木造のカウンターで、安い作りをした肌着をまとった女性が一人グラスを磨いていた。
「あんた見ない顔だね。来てくれたところ悪いけど、うちは夜からなんだ」
女性ははきはきとした語調で、見る者に凛々しい印象を与えた。髪は濃い青色でポニーテールに束ねられていた。前髪は左目にかかりっており、髪の向こう側から紺色の瞳が見え隠れしている。右目はその姿を晒しており、同じく深い色を持った瞳がまねかれざる客を直視していた。鼻梁は女性らしく控えめで、弧を描くように曲げられた唇は桃色をしていた。
「ああ。あんたダンに用があるんだろ?」
外見とは裏腹に言葉遣いが荒く、そこから彼女がこれまでにしてきた苦労の色が見て取れる。
「ええ。まあ……」
「そうかい。あたしはクローデル。ここの店主さ。あんたは?」
「オリヴィアと申します」
「よろしくオリヴィア」
「あの、クローデルさん……?」
「ん~?なんだい?」
クローデルと名乗った女性は開店の準備で忙しそうにしていたが、オリヴィアを邪険にしている様子はなかった。
「私を見た時、少しも驚かれませんでしたね。ここに来るまで色んな人間の方々にお会いしましたけれど、みんな驚いておりましたのに」
「あ~そのことか。ま、見慣れたもんさ。ダンを"頼って"ありとあらゆる連中がひっきりなしに来るからねえ」
オリヴィアはクローデルの言葉に多少の皮肉と嫉妬が込められているのを感じた。
「なにが良いんだか」
クローデルは桶にためている水を柄杓で掬って手を洗う。キッチンにかけてある布巾で手を拭い、カウンターから出てきた。
オリヴィアはエルフというだけあって、女性でもかなりの高身長だった。人間族の男性の平均より高い。それに比べてクローデルは小柄だった。だが人間を基準とした時、クローデルも高身長の部類に入るはずだ。オリヴィアはクローデルの姿を見てそんなことを思っていた。
「そこで待ってな。今呼んでくるから。ま、寝てるかもしんないけどね」
そう言い残してクローデルはカウンター横にある階段を昇って行った。
窓から陽光が差し込むがらんどうの中で、オリヴィアは独り佇んでいた。
「それにしても」
二階に上がったクローデルは廊下を歩きながらエルフ、オリヴィアの姿を思い起こした。
これまでなんどもエルフに会ってきたことはあるが、あれほどの美貌をそなえたエルフにはお目にかかったことがない。類を見ないとはまさに彼女のことを指すのだろう。女性として素直に羨ましいと思うし、目の保養にもなった。ヘブンズフィールに入り浸る連中といえば、むさっ苦しい男どもばかりだったから。
「ま、これも役得だね」
廊下には向かい合うようにしてドアが五つ並んであった。最奥にある部屋は続き部屋で、クローデルの住居となっている。
クローデルは左手にある二つ目のドアの前で足を止めた。
この向こうにオリヴィアの目的である、ごく潰しのダンがいる。
クローデルは空気を肺一杯吸い込み大音声で部屋の主を呼ばわった。
「………………!…………!……………………………………………………!!!!!」
聞きなれた叫び声が、暗い部屋で惰眠を貪っていた男の目を覚ました。意識が明瞭となり、男は上体を起こす。それを見計らったかのように、部屋のドアが勢いよく開いた。廊下の光が部屋に侵入し、戸口に立つ者の影を作り上げていた。
「なんだよ……うるさいな」
まだ寝足りないとでも言いたげな目を影に向け、寝ぐせまみれの頭を掻く。大きな欠伸をして、再びベッドへ潜り込もうとしたが、影が大股で近寄り男の頭を平手打ちした。
「ッて!」
「いつまで寝てるんだい?ごく潰しのダン」
クローデルが片眉を吊り上げて、目の前の腑抜けた男、ダンを見下ろしている。
「別にいいだろ。店は夜からなんだから。……あ、それに俺はこの前の手伝いでツケは清算したはずだ」
「馬鹿おっしゃい。たった何日か店を手伝ったところで、今までのがパーになるわけないだろう。ここの宿代だってまだなんだよ?しかも昨日さんざんっぱらバカ騒ぎしてたのはどこの誰だい」
「……………………さあ」
ダンはとぼけた顔を浮かべてまた寝入りそうになっていた。
「とにかく!あんたに仕事だよ!」
「仕事?」
「そ!し・ご・と!」
「今日は頭が痛いんだ」
「うるさい!さっさと起きな!…………下でエルフの美女が儚い顔をして待ってるよ!」
エルフ、美女、儚げな顔。ダンの脳はそれら三つの単語を認識するや、全身に向けて身支度を整える指令を出した。先ほどまでの気だるそうな雰囲気は一切なく、黒い瞳をたたえる切れ長の瞼ははっきりと開かれている。桶にためていた水で顔を洗う。筋がまっすぐ通った鼻梁から水が滴り落ちていく。薄い唇を開け薬草で歯を磨く。ポケットナイフでシャープな顎の上で群れている無精髭をささっと剃り、寝間着を脱ぎ捨て、傷だらけの筋肉質な体を隠すように黒い礼服をまとった。すべての動作が効率的で、機敏だった。最後につばの広い帽子を頭に被り、姿勢を正して部屋を出て行った。
「……はあ。まったく」
クローデルはため息をもらしてダンの後に続いた。
ダンは階上から一人のエルフが心細そうにして、パブで佇んでいる姿を見た。
「なんと……」
思わず声が漏れる。
あの陶器のような滑らかな肌はなんだろうか。光を宿した緑の双眸は不安の色を露わにし、それにつられて、絶世の美貌も悲し気な雰囲気に包まれている。腰まで伸びた金色の艶やかな髪。体を優しく抱擁しているようなドレスローブ。その上からでもはっきりと分かる、豊満な女性を象徴する二つの果実。そしてその果実は、どうやらどっしりとした木の幹の上で成っているようだ。
ダンは階段を飛び降り、他に類を見ないエルフの美女、オリヴィアの目の前に着地した。
「お初にお目にかかります。ダンです。以後お見知りおきを」
ダンはうやうやしく一礼する。芝居がかった声だった。
「あの、オリヴィアと申します。よろしくお願いします」
オリヴィアは困惑気味に返礼した。ダンとオリヴィアの身長は丁度人間の頭一つ分の差があり、ダンはオリヴィアの美しい瞳を見下ろす形となった。
「立ったままではなんですから、座りましょうか。クローデル」
気取った声でクローデルを呼ばわる。
「はいはい。どうぞ」
クローデルは慣れた手つきで、二人にテーブルを用意した。
「ご苦労」
ダンはそう言うと、椅子に座るようオリヴィアを促した。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
オリヴィアが座り終えるのを待って、ダンも席に着いた。その合間に、クローデルが冷たい水の入ったコップを二つ円卓に並べた。
「ごゆっくり」
クローデルの顔を無理やり作った笑顔が占領していた。
「うむ」
「クローデルさん、ありがとうございます」
オリヴィアがクローデルに礼を述べると、ダンは手を挙げて言った。
「なにオリヴィアさん、彼女は召使のようなものです。礼を言う必要はないのですよ」
オリヴィアの顔をまっすぐ見つめ、上流階級然とした態度でダンは話しかける。
「いい加減に!」
カウンターから平らな皿がダンの頭目掛けて飛んできた。オリヴィアの気を惹こうと夢中になっていたダンは、奇襲攻撃に対処することは叶わなかった。自業自得だった。
「…………それで、ご用件は?」
先の態度とは打って変わって、しおらしくなったダンは、むすっとした表情をクローデルに向ける。クローデルは睨み返した。ダンは頭をさすりながら、オリヴィアに仕事の内容を尋ねた。
「はい。実は……」
彼女は自分の郷での出来事を話し始めた。
数週間前、オリヴィアたちが暮らす森、すべてのエルフの故郷と言われるエンチャントリアの周辺で、未確認の動物種が目撃された。目撃したのは彼女の友人である、シェラフィムという男性エルフだった。森の保護と管理はエルフたちの使命であった。放置して、仮にも人間族へ被害がおよべば、彼らは監督不行き届きで処罰の対象となった。エルフたちは調査団を編成し、目撃現場とその四方、更には森全域を調査しはじめた。
はじめはなにも手がかりがなく、シェラフィムの見間違いで片づけられそうになったのだが、調査開始から十日目、彼らは一部の森が変質していることに気が付いたのだった。変質した森と、その周囲には、毒素が風に乗って猛威を振るっており、草木をはじめとする生命と呼べるモノはことごとく死に絶えていた。エルフたちは未確認生物の調査と、毒に侵された森の浄化作業に当たらなければならなかった。しかし事態は進展するどころか、悪化の一途をたどった。毒によって壊死する森が増えていったのだった。加えて彼らの浄化作業はまったく効果がなかった。エルフたちは断腸の思いで森を焼き払った。
そして三日前、ついにシェラフィムが見たという未確認生物が姿を現した。体はぬめり気のある鱗のようなものに覆われ、奇妙な光沢を放っていた。胴体からは太くて丈夫な四肢と、先端に頭部を持つ首と、気味の悪い異形な尻尾を思わせるものが伸びていた。頭部は鎧兜のような形で、落ちくぼんだ眼窩には、ほとばしる悪意をみなぎらせた瞳があった。手足の鉤爪は、生命を刈り取ることしか知らないようだった。
それは動物などという生易しいモノではなかった。エルフ族は理解した。これは魔物であると。彼らは、それを恐れなかった。エルフ族は男女を問わず勇敢な種族であり、かつて勇者アレックスと共に魔王と戦った、英雄ラナリアの子孫であるという誇りがあった。しかし、エルフたちの強い心と誇りは、すぐに暗澹たる思いに包まれてしまった。原因は魔物がまき散らす毒と、彼らの魔術を受け付けない体にあった。
魔物が歩いた道はすべてが毒に犯され、生命を失った。兜のような顔がひし形に開かれると、そこには無数の牙が生えており、捕らえた獲物は離さないという貪欲さが体現されていた。なによりやっかいだったのは、先端が紫色で袋状になっている舌だった。魔物は舌からも毒をまき散らすことができ、その液体を被れば、溶かされ、瞬時に死んでしまう。戦いの中で、何人ものエルフが毒液の犠牲となった。
エルフは魔術を駆使して対抗した。エルフの魔術は自然に作用するものがほとんどで、攻撃をするにも防御を固めるにも、草木や土が必要だった。だが魔物に触れた草や木は、溶けてドロドロの液体となって大地を犯す病原となる。土も例外ではない。魔物の攻撃をそれらで完全に防ぐことは不可能だった。
切羽詰まったエルフ族は、アレキサンドリアへオリヴィアを派遣した。オリヴィアは軍務省へ魔物の討伐を願い出たが、彼女の要請はことごとく却下された。途方に暮れ、失意と絶望とが胸中を支配していた折、オリンシア辺境にあるヘブンズフィールという酒場に、どんな依頼も引き受けてくれる腕利きの人間がいると聞いたのだった。彼女は藁にもすがる思いで、途中まで乗せてくれる馬車を見つけた。そして駿馬を駆って今に至る。
「お願いです、どうか私たちを助けてください……!」
オリヴィアの声は震えていた。郷や仲間のことを思い出し、必死に懇願している。クローデルは同情のまなざしを彼女へ向けた。一方、円卓を挟んでオリヴィアの話を聞いていたダンは、無表情のままで宙を眺めていた。
「一つ、訂正しなきゃならんことがある」
ダンはオリヴィアを見据え重苦しい語調で話し始めた。
「誰に聞いたかは知らん。だが俺はどんな依頼も引き受けることはない」
「そんな……!」
目尻に涙の雫をためてオリヴィアは立ち上がった。感情が昂り、白い透き通った頬には紅色が濃くさしていた。ダンは相も変わらず無表情のまま彼女を見上げる。
「依頼を受けるには、その対価となる」
オリヴィアはダンがなにを言いたいのか理解した。懐から金貨が大量に入った袋を持ち出し円卓に置いた。
「お金なら、報酬ならあります!だから……」
「いや。だめだな」
「え…………?」
オリヴィアの顔が失意に染まる。ダンは手を挙げてオリヴィアに座るよう促した。オリヴィアはへなへなと弱々しくそれに従う。
「報酬は要らない。代わりに、俺の性癖を満たしてもらう」
「……………………………………は?」
「はじまった」
ダンの真面目腐った顔を見て、クローデルはまた大きなため息をもらした。
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