夢の中の花嫁

よし ひろし

夢の中の花嫁

義彦よしひこ、起きて、朝食ができたわよ」


 その声に目覚めると、鼻孔にみそ汁の香ばしい匂いが微かに届く。

「朝……」

 頭がまだ回らない。だが、この香り――朝食ができている?

「誰が……」

 マンションの七階にあるこの1LDKの部屋に俺以外の住人はいない。三十二歳、独身、付き合っている相手はいるが同棲はしていない。


 誰が、朝食を――? いや、わかってる、多分……


 まだ寝ぼけ気味の頭を抱えて、キッチンへと向かう。



「あ、おはよう、義彦」

 そう言って爽やかな笑顔を見せたのは――


冴香さえか……、やはり、お前か――」


 純白のウエディングドレスを身にまとった三苫冴香みとま さえかがそこに立っていた。

 いや、そんなはずはない。彼女がここにいるはずはないのだ。だって彼女は――


「死んでいるだぞ、お前は…、もう、出てくるな!」



「――!?」

 そこで、目が覚めた。セミの鳴き声がやかましい。

 昼休み、食欲がわかない俺は、コンビニで栄養補給ゼリーひとつを買って、近くの公園のベンチでそれをすすっていた、はずなのだが――いつの間にか眠りに落ち、夢を見ていたようだ。

 木陰になっているとはいえ、夏の暑さに全身から汗がにじんでいた。いや、暑さだけのせいではない。あの夢のせいか。


「またか、くそっ!」

 ゼリーを手にしていた右手を思わず強く握る。中身がまだ残っていたようで、ゼリーが漏れ出て手を汚した。だが、そんなこと気にならないほど苛立ち、歯ぎしりする。

 もう何日もまともに眠っていない。眠りに落ちると、あいつが――冴子が夢に現れてくるのだ。いつも同じ内容で、姿の冴子が朝食の用意をしている。


「どうして…。お前が勝手に死んだんだろう。俺のせいじゃない、俺のせいじゃ――」



 冴子が死んだのは五日、いや六日前か。自殺だった。自分で作った純白のウェディングドレスを身に着けて、自室で死んでいた。

 彼女とは確かに男女の関係だった。冴子の方は、恋人同士でいずれは結婚を、と思っていたのかもしれないが、俺からすれば、ただの都合のいい女の一人だった。料理が好きで、腹がすいた時にふらっと行けば、いつでもおいしい飯を作ってくれた。小遣いが少々欲しい時もぼそっとつぶやくと何も聞かずに万札を渡してくれる、そんな出来た女だった。

 だが、最近取引先の専務の娘との婚姻話が持ち上がり、身の回りの整理をすべく、冴子とも縁を切った。それがひと月ほど前。何度か俺の部屋に、話をしたいと、訪れたが、けんもほろろに追い返した。そして……



「俺は悪くない、くそ、くそ、くそっ!」

 寝不足の頭にセミの鳴き声が響く。色々な感情が混じりあい、結果として怒りが湧き上がってくる。しかし公共の場では怒りのやり場もなく、両の拳をぐっと握りしめる。すると右手のゼリーから更に中身がこぼれ落ちた。

「くそっ!」

 ゴミと化したゼリーのパッケージを捨てようと周囲を見るがゴミ箱はない。更にイライラが増すが、会社の近くのこの公園でポイ捨てをするわけにもいかず、そのまま会社へと持ち帰った。



 その日の午後は、眠気との戦いだった。コーヒーとガムの力を借りて、かろうじて仕事中は眠ることはなかった。帰りの電車も、椅子に座らずに立ったままでいた為、どうにか寝ることはなったが、家に着いた途端に強烈な眠気が襲ってきた。

 そして、気づくと――


「ねぇ、起きて、晩御飯の準備ができたわよ、義彦」

 冴子の声が耳元で聞こえ、慌てて身を起こした。

 ダイニングのテーブルにいつの間にかついていた。すぐ横に冴子が立っている。これまで通りの純白のウェディングドレス姿だ。

 また同じ夢か――そう思ったが、一つの違いに気づく。

「晩御飯――?」

 いつもは朝食の用意だったが、今回は確か晩御飯と言ったような……

「特別なディナーを用意したから。楽しみにしていて、フフフ…」

 冴子の意味ありげな微笑みに背筋がぞっとする。


 なんだ、いったいこの状況は――


「いや、いま食欲がないんだ。体調も思わしくないし、俺は寝るよ」

 俺は椅子から立ち上がる――いや、体が動かない。


 なんで――。夢、これは俺の見ている夢だろ。違うの?


「大丈夫よ義彦。今日の料理を食べれば、きっと体調もよくなるわ。――とりあえず、これでも飲んでいて」

 いつの間にか冴子の手にワイングラスが握られていた。中にはワインにしては妙に赤い液体がなみなみと入っている。

 そのグラスを冴子が俺の目の前に置く。

「少し待っていてね、すぐにできるから」

 そう言い残し、キッチンへと移動していく。


「……どうなっているんだ、くそっ」

 反射的にグラスに手が伸びる。妙に喉が渇いていたからだ。

 口元に持ってきた途端に、生臭い香りが鼻から入ってくる。

「なんだ、これは?」

 明らかにワインではない。しかし、どこかで嗅いだことのある香り……

 喉は乾いていたが、妙なものを飲むのは遠慮したい。

 俺はグラスをテーブルに戻そうとしたが――手が勝手に動く。

「な…、待て――」

 何者かに操られているかの如く、グラスが口元に運ばれ、そのまま意志とは反して液体を口内へと注ぎ込んだ。


「うっ、うぐっ!」


 飲むしかなかった。生臭い液体が喉から胃の中へと落ち込んでいく。


「うっ、げほっ――」

 グラスの中身をすべて飲み干す。気分が悪い。

 なんなんだ、この飲み物は――そう考えた時、


「まずは最初の料理ね」

 冴子がキッチンの向こうからを掲げて見せた。

「フフフ、あなたの好きな目玉焼きよ。いまお皿に移すからちょっと待っていて」

「目玉焼き?」

 特別なディナーとはかけ離れた料理だな……


 冴子が何を考えているのかわからない。いや、そもそも、彼女は何者なのだ。この状況は何なのだ。

 夢か? 現実か?

 いや現実であるはずはない。冴子は死んだ。

 夢――、冴子の霊が見せている夢なのか?


「さあ、どうぞ!」

 考えている間に目前に一皿目の料理が出されていた。

 目玉焼きか――そう思い、皿を見る。


「なっ――!」

 絶句する。と同時に先ほど飲んだ液体が胃から逆流してきた。

「うげっ!」

 そこにあったのは、人の目玉――目の周りの皮ごと剥ぎ取られた人の両目が皿の上から、こちらを見ていた。

「ゲホゲホっ!」

 その目玉の上に吐いた赤い液体がまるでケチャップのようにかかる。いや、ケチャップというより血――


「そうか、血だ……」


 先ほど嗅いだ液体の香りの正体を思い出す。

「何を飲ませた、冴子!」

「あら、あなたの好きなモノよ。その目玉焼きもちゃんと食べてね」

「何を言ってる。ふざけるな!」

「ふざけてないわよ。あなた好きでしょ。――これ」

 冴子の手の中にさらなる皿が現れていた。その上に乗るのは――人の生首!?


「な、な――」

「ほら、あなたが好きなものよ。さっきの飲み物もこれから採ったものよ。目の部分はそこに料理してあげたでしょ。残りはこれから丸ごと兜煮にしようと思うのよ。ああ、舌は焼肉に回すから」

 平然と言う冴子。

「何を言ってる。それは――」

 そこで、その生首の正体に気づいた。俺の好きなモノ――今付き合っている、専務の娘……

「は、陽菜はるなか――」

「そうよ。あなたがいま一番好きなモノを使って料理を作ってあげようと思って、用意したのよ」


 ドン!


 冴子が陽菜の生首が乗る皿をテーブルに置いた。そして再びキッチンへと戻ると、

「フフッ、ほかの部分もちゃんとここにあるから。今さばいてあげるわ」

 いつの間にか冴子の右手に握られていた柳葉包丁が振り下ろされる。


 ぶしゅっ!


 吹きあがる鮮血。純白のウェディングドレスが、紅く染まる。


「う、うわぁぁぁぁぁっーーー!」


 絶叫をあげる俺。


 もう嫌だ! こんな夢、もう沢山だ!!


 強い思いが俺の体を自由にした。

 椅子を倒して立ち上がり、玄関へと向かって走り抜ける。そして、ドアを開け外へ――


「何!? どうして――」


 玄関の外に出たはずが、そこは廊下ではなく空中だった。

 俺はベランダから外にダイブしていたようだ。七階の高さから落下していく。


 これは夢? 夢だよな……


 全身に風を感じる。すでに日は暮れ、夜の闇が辺りを包んでいるというのに、セミがうるさく鳴いていた。


 地面が近づく。


 あれ、夢、じゃない…?


 衝撃。


 痛い、痛い、痛い――


「あぅっ……」


 この痛みは――現実なのか?


 ダメだ、意識が、遠のく……


 だが、これで、冴子の夢を見なくて済む。そうだ、もう、終わりだ。


 そう思い、どこか安らいだ心で深い眠りにつく。その耳元に、


「おやすみ、義彦。これからは、ずうっと一緒だね」

 冴子の声が届いた。


 一緒――? 


 それって、まさか、これからも…、付きまとう…、気…、なの…、か……



 おしまい



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