藤井紋太夫の墓があるというので訪ねてみた。

 場所は水戸藩邸跡の小石川後楽園から徒歩一〇分ほどの坂の上にある浄土宗の寺・傳通院でんづういん

 どこに藤井紋太夫の墓があるのかわからなかったので、お墓の入口にある繊月せんげつ会館で「参拝のしおり」を百円で購入。墓地見取図に1〜24まで番号が振ってあり、9番が「藤井紋太夫(水戸徳川家)」の墓とある。

 地図を見ながら、初代将軍徳川家康の生母・於大の方(1番)、堺屋太一(5番)まで進み左折、二代将軍徳川秀忠の長女・千姫(6番)、三田将軍徳川家光の三男・亀松君(7番)、その先に藤井紋太夫の墓があるはずなのだが……見つからない。

「おかしいなあ」

 周囲を行ったり来たりする。しおりには書かれていなかった六代将軍徳川家宣三男大五郎君、尾張中納言綱誠十四女嘉知姫、八代将軍吉宗二女芳姫、十一代将軍家斉十五男久五郎君、十一代将軍家斉御女子十六姫、三代将軍徳川家光公正室、六代将軍家宜長男家千代君、十一代将軍家斉八女舒姫、十一代将軍家斉九女寿姫、十一代将軍家斉十六男信之進君はあったが、藤井紋太夫の墓がない。石段を降りた先にもお墓が並んでいたのでそちらも回ってみたが、そこは徳川家と関係ない(と思われる)家のお墓ばかりだった。

 しかたなく繊月会館に戻り、作務衣を着た受付の女性に尋ねてみる。

「ああ、それでしたら、下に降りる石段の踊り場のところですよ」

 もう一度行ってみる。石段の踊り場の左右に墓はあった。その右側のが藤井紋太夫の墓で「光含院孤峯心了居士」という字が刻まれていた。藤井紋太夫の戒名だった。


「”光”は徳川光圀の”光”。”孤峯こほう”はまわりに山がなく孤立している山のことだね」と若月さんは解説した。「張説に『送梁六自洞庭山作』という詩がある。


   巴陵一望洞庭秋,日见孤峰水上浮

   (巴陵から洞庭の秋を一望する 孤峯が水上に浮んでいるのが毎日見える)


 異国に左遷させられた作者の憂鬱な気分と故郷への憧れを詠んだものだが、これが実に興味深い」

「どこがです?」と僕は訊いた。

「徳川光圀が事件の直前に踊った能『千手せんじゅ』もそういう内容なんだ。平清盛の子・平重衡たいらのしげひらは一ノ谷の合戦で源氏に捕われ、鎌倉へ送られた。この後、奈良で斬られることになっていたが、源頼朝は重衡を憐れんで、千手という遊女を重衡のところに遣わした。重衡は千手を通じて、出家の意志のあることを頼朝に伝えたが拒否された。千手は悲しむ重衡の気持ちを慰めようと踊りを舞い、いよいよ重衡が出発する時には涙で重衡を見送った――という話だ。いまのぼくには重衡や張説の気持ちがよくわかる。早く退院して家に帰りたいよ……」

 ぽつぽつと、雨が窓を打つ音が聞こえてきた。しんみりした気分を盛り上げてくれるお誂え向きの舞台効果。自然も憎い演出をするものだ。

 若月さんは気を取り直して、

「さて、事件がどんなものか、あらかたわかったところで、気になる点を挙げていくことにしよう」

「はい。」

「第一の疑問。徳川光圀は口論の末に藤井紋太夫を殺したと言っているが、鏡の間に藤井紋太夫を呼ぶ時に、障子を閉めさせたり、人払いをしている。これは明らかに計画的だ。さらに、口論したのなら怒鳴ったり、叫んだり、口角泡飛ばして大声でやるはずなのに、次の間にいた井上玄桐は聞こえなかったと書いている。ひそひそ声の口論から殺人に発展するなんてありうるだろうか?」

「ひそひそ声でやるのは口論じゃなく密談ですよね。悪代官と越後屋がやるような」

「そうだね」と若月さんは肯いて、「第二の疑問。殺し方が不自然だ。かっとなって殺すのなら、刀を抜いて、真向斬りなり袈裟斬りなりするもんだが(若月さんは実際に身振り手振りしてみせた)、膝で首を押さえつけたうえ肋骨の上を刺している。玄桐はそこから骨盤まで刺し通せたかもと書いているが、あまりに不自然なものだから、矢田挿雲は脇腹から反対側の脇腹へ刺し貫いたとアレンジしたくらいだ」

「具体的にどうなるんでしょう? ちょっとやてみますね」

 僕は椅子から立ちあがり、しゃがんで床に膝をつけて、実際にそのポーズを試してみた。

「うーん、できないことはないけど難しいですね。それに着物を着ている相手の肋骨の上を刺すには、襟元をはだけないとできません。右手で襟をはだけ、左手で刀を突き刺したんでしょうか?」

「それから抜いた時、血は一滴も出なかったと書かれてある。しかし、その後に、がらがらと音をたてて出血した、と」

「すいません。ちょっとイメージできません」

「第三の疑問。これは既に君が指摘したことだが、藤井紋太夫は家来なんだから切腹を申し付ければよいはずなのに、なぜわざわざ斬ったのか、ということだ。吉川英治の『梅里先生行状記』では、水戸黄門に陰謀の証拠を掴まれた紋太夫が追い詰められて、自分から手討ちにしてくれと涙ながらに頼んだ、ということにしてある。水戸黄門は慈悲の心からその願いをかなえてやった、と」

「ちょっと無理がありますねえ」

「でも、理由もなしに斬り殺した方がもっと無理がある、と吉川英治も考えたのだろう」

「なるほど」

「第四の疑問。藤井紋太夫の子どもたちの処置だ。徳川光圀は藤井紋太夫殺害後、子どもたちには罪はないと、藤田将監しょうげんに預けた。藤田将監は、吉川英治の本だと藤井紋太夫の悪の連判状に名前を連ねてるんだけど、これはとんだ濡れ衣のようだ。玄桐は、父を殺されたんだから子供たちが仇を討つ可能性もあったんだけど、そのときは運命だったとあきらめるしかないと書いている」

「その後、子供たちはどうなったんですか?」

「藤田将監の計らいで出家したそうだ」

「第五の疑問。きみがお参りに行った傳通院は徳川家ゆかりの寺だ。賊臣をどうして傳通院に葬ったのか。しかも戒名には自分の名前から〈光〉を与えた。身内か腹心の部下ならわかるけど」

「後悔の念でしょうかね」

「どうだろうね」若月さんはそこで一息ついて、吸飲みの水を一口飲んだ。「細かい点は以上だが、それを解くには、案外、基本に立ち返ったほうがいいのかもしれない」

「基本というと?」

「〈いつ〉、〈どこで〉。元禄七年、江戸の水戸藩邸というのはわかっているが、それが当時の徳川光圀においてどういう時期、どういう場所だったのか。さらに、その事件の結果、何が起こったのか。神津恭介の犯罪経済学じゃないけれど、計画的な犯行というものは何かしらの利益を期待して行われるはずだ。たとえば、お金を手に入れたいとか、恋人を独占したいとか。徳川光圀ほどの学識があり、しかも人生経験も豊かな老人が、無計画にかっとなって人を殺すとは思えない。歴史家も作家もそう思うからいろいろ動機を探っている。徳川光圀の計画通りにいったのなら、その答えは歴史的事実として残っているんじゃないだろうか」

「なるほど」

「というわけで、水戸黄門の人生の簡単なタイムラインを作ってみよう。鈴木氏の本の巻末の略年表を読み上げるから、メモに書きとめてくれないか?」

「わかりました」

 以下、そのメモである。


 一六二八年(寛永五年)   一歳 水戸で生まれる。

 一六三三年(寛永一〇年)  六歳 江戸の水戸藩邸に移る。

 一六五四年(承応二年)  二七歳 結婚。

 一六五七年(明暦三年)  三〇歳 『大日本史』の編纂をスタート。

 一六六一年(寛文元年)  三四歳 二代水戸藩主となる。

 一六六三年(寛文三年)  三六歳 甥の綱條を養子とする。

 一六六五年(寛文五年)  三八歳 舜水朱を水戸藩に招く。

 一六九〇年(元禄三年)  六三歳 水戸藩主を綱條に譲り、水戸に隠居する。

 一六九一年(元禄四年)  六四歳 水戸の西山に山荘を作り住まう。

                  瑞龍山の『梅里先生墓』を建てる。

 一六九二年(元禄五年)  六五歳 侍塚古墳を発掘調査。

 一六九三年(元禄六年)  六六歳 犬の毛皮を綱吉に献上したとの噂が広まる。

 一六九四年(元禄六年)  六七歳 綱吉の命により江戸に出る。

                  藤井紋太夫を刺殺する。

 一六九五年(元禄七年)  六八歳 江戸を出て、水戸に帰る。

 一六九六年(元禄九年)  六九歳 髪を短くして仏教に帰依。

 一七〇〇年(元禄十三年) 七三歳 西山で没。


「徳川光圀はずっと江戸の水戸藩邸に住んでいたわけじゃなく、隠居後は水戸で暮らして、事件の前後、綱吉に呼ばれて江戸に滞在中だったんですね」

「西山御殿を終の棲家にするつもりだったようで、生前に、瑞龍山に自分の墓まで作っている。梅里先生墓だ。墓に刻む文面も自分で考え、他人に添削してもらったとか」

「どんなことが書かれてあるんですか?」

「自分の略歴だ。結びにはこう書いてあるらしい」若月さんは鈴木氏の本を開いて、その部分を読みあげた。「〝月は瑞竜の雲に隠れるといえども、光はしばらく西山の峯にとどまる。碑を建て銘をろくするはぞ。源の光圀。あざな子竜しりゅう〟」

「ええっ!」僕は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。「〈光〉と〈峯〉――藤井紋太夫の戒名に使われてる字が二つも出てきてる!」

「本当だね」若月さんも気づいてなかったのだろう、意外そうな顔をした。「梅里先生墓は紋太夫を殺害する前に作られたものだが、紋太夫の墓を作る時、無意識に、自分の墓に刻んだ句が頭をよぎって戒名をつけたんだろうか……」

「ところで綱吉はどうして水戸黄門を江戸に呼んだんです? まさか、犬の皮の噂を真に受けてってことはないですよね」

「あるものか。綱吉は送られたとされてる当人なんだからね。噂が嘘であることは誰よりも一番良く知っている」

「じゃあ、何で?」

「その詳細を鈴木氏の本から拾ってみよう」若月さんは鈴木氏の本の付箋のついた別のページを開いて、「徳川光圀が綱吉から江戸に参府するよう言われたのは元禄六年の十二月。伝えたのは、江戸にいた藤井紋太夫。実は紋太夫はこの時、徳川光圀の部下ではなく、水戸藩の三代目藩主・綱條つなえだの部下だった。それに対して徳川光圀は幕府老中の阿部正武に、健康上の理由から辞退したいと手紙を送ったが、かなわず、翌年二月二十八日、水戸を出て江戸に向かった。よほど気が進まなかったんだろう、わざわざ遠回りして、小石川の水戸藩邸に着いたのは三月四日。三月六日、老中阿部が挨拶に来るが、何のために呼んだのかの説明はなし。十五日、ようやく江戸城で綱吉と三年ぶりの再会を果たすが、とくに格別の話はなし。その後も音沙汰無しの状態が続き、不安になった徳川光圀は従兄弟の紀伊藩主・徳川光貞に手紙で相談したところ、柳沢吉保の取り次ぎで、綱吉と二度目の対面。それが四月二十六日のこと。ところがそこで、徳川一門や前田・井伊らの大名と一緒に綱吉の『論語』講義を聴かされた。この綱吉の講義、月に何度も、場内に何百名も集めて、時には大名の江戸邸、幕臣の私邸まで出張してやってたそうだ」

「みんな迷惑だったでしょうね」

「そりゃあ迷惑だ」と若月さんは言い。ふたり苦笑した。

「綱吉は水戸黄門にも『大学』の講義をするよう命じた。水戸黄門はこの時のことを知り合いの今出川大納言に送った手紙でこう書いている。〝「光圀儀も即席において講談御所望のところ、首尾よく相つとめ、怡悦いえつのいたりにござ候」〟」

「綱吉に褒められて嬉しかったってことですか?」

「嬉しかったというより、ほっとしたのかもしれないね。それから能楽、饗宴があって、文台、硯箱をもらってその日は終了。ところがまた八ヶ月間、音沙汰なし。次に登城したのは十月三〇日。またもや綱吉の『論語』講義を聴かされた。その後、綱吉から何か能を演じてくれと頼まれ、水戸黄門は『葵上あおいのうえ』を舞い、唐織五巻を貰って帰る」

「藤井紋太夫を殺したのはその一ヶ月後ですね、そういえば『千手』を踊る時、唐織を着てたってありましたけど、その唐織で作ったものでしょうか?」

「どうだろう。わからない」

「で、事件の翌年、水戸に戻るわけですね。具体的にいつですか?」

「一月六日」

「事件があったのは?」

「前年の十二月二十五日」

「えーっ! 事件のたった二ヶ月後じゃないですか!」

「そうだね。ちょっと整理してみよう」


 十月三十日   綱吉の前で能『葵上』を舞う

 十一月二十三日 能『千手』を舞った後、藤井紋太夫を殺害

 十二月二十五日 幕府(綱吉)から帰国の許可がおりる

 一月六日    江戸を出る


「幕府が帰国を許可した理由はこうだ」若月さんは鈴木氏の本から引用した。「〝病もあれば封地ほうちまかりて心のままに身を養わるべき」〟」

「病って……ひょっとして藤井紋太夫を斬ったのは徳川光圀が乱心したと判断して?」

「綱吉は将軍に就任する時、先代・家綱の法事の場で大名の殺人があったせいで、武士の刃傷沙汰が大嫌いだった。それで松の廊下の刃傷沙汰では乱心した浅野内匠頭に切腹を命じた。しかし、徳川光圀にはそれができず、帰国させたのだろう」

「さっきの犯罪経済学的観点からいうと、まさか、水戸へ帰りたくて殺人事件を起こしたんじゃないでしょうね?」

「そうかもしれない……」若月さんは腕を組んで、ぶつぶつ独り言を呟いた。「……しかし、そのために大切な部下の命を奪うだろうか……いや、紋太夫なら言うかもしれない。自分を殺してどうぞ江戸にお帰りください、と……しかし……うーん……」

 独り言もやみ、若月さんはしばらく沈思黙考してから、

「そうか!」

 大声をあげた。

「どうしました?」

「事前の人払い、ひそひそ声の口論、不自然な刀の刺し方、抜いてすぐ出血しなかったこと、残された子供の扱い、そして自分の名を入れた戒名をつけ徳川家ゆかりの墓に埋葬した……謎が解けたよ」

 と若月さんは笑顔で言った。

「本当ですか?」

「うん。わかりやすいようドラマ形式で説明してみよう。最初は十月三十日、徳川光圀が江戸城から水戸藩邸に帰ってきたところだ。迎えた藤井紋太夫が徳川光圀にこう尋ねる。

『光圀様、いかがでしたか?』

『急に能を舞えと言われて困ったよ』

『で、何を演じられました?』

『葵の上だ。もっともかなり間抜きしたんだが、気づかれなかった』

 徳川光圀が能を演る時に間を抜きがちなことは井上玄桐が書いている。

『褒美まで頂いた、ほら、これだ』

 と、徳川光圀は唐織五巻を紋太夫に見せる。

『どうやら将軍様のお気召されたようですな。よろしゅうございました』

『とんでもない。お気に召されたのは光栄だが、毎回毎回何かやれと申されるのは困ったものだ。それよりも、ずっとほっておかれ、忘れた頃に来いというのも。ああ、早く水戸に帰りたいよ……』

『病気を理由にお暇を頂いてはどうですか?』

『病気なら江戸参府の断りに最初に申し上げた。しかし取り合ってもらえなかった』

『それは困りましたね。だったら、将軍様に嫌われることをしたらいかがでしょう。たとえば、巷で言われてますように犬の皮を贈呈するとか』

『ぶるる。おそろしいことをいう。そんなことをしてみろ。水戸藩がお取り潰しになるかもしれん。お取り潰しとはまではいかずとも、遠い地に国替えになり、参勤交代を義務付けられたら、水戸藩は破産だ。そんなことになったら綱條に申し訳ない』

『では、他のことで。そうそう、将軍は武士や江戸町民の殺伐粗暴がお嫌いなようです』

『それはわしもだ』

 若い頃、非人を斬ったというのは、水戸黄門本人が言ったことで、もしかしたらこの事件の伏線のために言った嘘かもしれない。

『でしたら、こういうのはいかがでしょう。光圀様が拙者をお手討ちいたすのです』

『ば、ばかなことを言うな。なんでおまえを手討ちにせねばならん。罪なき者を手討ちでもしたら気が触れたと思われる』

『そこです。気が触れた、気の病だと思わせるのです。それを知った将軍様はきっと光圀様をお嫌いになり、病気療養のため、帰国を認めてくださるでしょう』

 もし家臣に切腹を命じたのなら、それは武家社会ではありがちのことで、とくに気が触れたとは思われない。狂ったように見せるのは、浅野内匠頭みたいにかっとなって相手を斬ることだ。

『しかし、そのためにおまえを殺すのは……』

『殺したふりをすればよろしいのです。つまり、芝居を演じるのです。能のように。そうだ刀は能の小道具の刀を用いましょう。木製で銀箔を貼ったもの。それを拙者の襟元から差し込みます。着物の中には何か動物の血を詰めた袋を隠し、刀を抜いたところで、中の血を噴き出させます。いや、動物の血はまずいか。朱墨にいたしましょう』

 真っ向斬りとか袈裟斬りにしなかったのは、単純に細工がしにくいからだ。もちろん、首を刎ねるなんて論外だ。襟元に刀を差し込むという不自然な斬り方をしたのはそのためだ。当時の武士はさほど殺傷の現場を見ていないから、それで十分騙せたと思う。

 毛氈で死体を隠したのは、紋太夫が息をしたり、まぶたが動いたりするのを見られぬため。

 あえて能の催しの日を選んだのは、家人が客の饗応に忙しく、大勢の人に見られぬためだろう」

「殺したように見せかけるトリックですか。でもそれじゃ、能じゃなくて狂言ですね」

「あはは」若月さんはにこやかに笑った。「もっとも、これは仮説であって、立件するには、藤井紋太夫が事件の後も生きていたという証拠を見つけないといけない」

「生きていたとしたら、どこでしょう?」

「息子ふたりが出家したとあったね。同じ寺にいたのかもしれない。徳川光圀と関係の深いお寺はいくつかあるから、事件直後、出家した者はいなかったか。もしそれが孤峯って名前なら紋太夫の可能性が非常にに高い」

「層考えると、『千手』も、紋太夫の戒名の孤峯も、江戸にはいたくない、早く水戸の西山に帰りたいというメッセージかもしれませんね」

「そもそも人材発掘に秀でた徳川光圀が、後々自分を裏切るような者になるような人間に目をかけるかって話だ」

「そうかあ」フリーターだった僕を助手にしてくれた若月さんも徳川光圀と同じタイプなのだろうか。「その仮説が真実だったらいいですね。それで徳川光圀の冤罪がとけ、名誉回復できれば、藤井紋太夫も浮かばれる」

 窓の外、いつしか雨をやんでいて、虹がかかっていた。その虹の上で、西村晃の黄門様が誰だかわからない藤井紋太夫を従えて、かんらかんら明るく高笑いしている姿が思い浮かんだ。


                            (おわり)

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顔のない探偵② 水戸黄門殺人事件 まさきひろ @MasakiHiro

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