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本を渡してから三日後、ふたたび見舞いに行ったら、若月さんはもう本を読み終えていた。
「矢田挿雲の本、表紙に〈歴史新書〉と書かれてあるが、小説だったよ」と若月さんは苦笑して言った。「もう一冊、こっちは評伝で、とても勉強になった」
と言って若月さんはベッドサイドの上にあった文庫本を取り上げた。鈴木一夫『水戸黄門-江戸のマルチ人間・徳川光圀-』(中公文庫)という本で、たくさんの付箋が色鮮やかに貼り付けてあった。
「事件が起きたのは元禄七年十一月二十三日、西暦に直すと、一六九五年一月八日。事件現場は小石川の水戸藩邸。現在の東京ドームの隣りにある小石川後楽園だ」
「へえ、あそこって水戸藩邸だったんですか。ずいぶん広いところですよね。池も森もあるし。水戸黄門ってあんなとこに住んでたのかあ」
「被害者は
「表記より、そんな古書、いったいどこから入手したんです? 秋葉さんですか?」
秋庭さんは並外れた情報収集力を持つ在宅勤務スタッフだが、僕はまだ会ったことはない。実在するかどうかも怪しいところだ。
「いや、違う。僕だよ。国会図書館から仕入れたんだ」若月さんはしれっとした顔で答えた。
「国会図書館って……病院を抜け出して調べにいったんですか?」
「国立国会図書館デジタルコレクションというのがあってね、パソコンで閲覧できるんだ」
「そうだったんですか」
「で、この『井上玄桐筆記』は、同時代に書かれた一次資料であるばかりか、事件の目撃者の生の証言でもあるからとても貴重だよ」
「信じていいわけですね?」
「いや、それはどうかな」
「え?」
「都合の悪いことは書かなかったり、場合によっては捏造することもありうるからね」
「まあ、そうでしょうね」
「そこを踏まえて、事件を検証していくわけだが、さて、次は何を知りたいかね?」
刑事事件の事例演習をやらされているみたいだと思いながらも僕は答えた。「犯行日時、犯行現場、それに被害者はわかりましたから、次は犯罪にいたるまでの経過でしょうか?」
「そうだね」と若月さんはしたり顔で肯いて、「それについては井上玄桐が詳細に述べている。事件当日、水戸藩邸では能の催しが開かれていた。徳川光圀も唐織を着て『
「そうだ、ってことは玄桐が自分の目で見たわけではないんだね」
「そのとおり。見たのは先に鏡の間に飛び込んだ三木と秋山で、玄桐はそれを後から聞いた――そう本人は書いている。実は紋太夫は逃げようとしたが、三木が押し留め、秋山が話を聞こうとした、と言う人もいたそうだが、自分はその場にいなかったのでわからない、と注釈までつけている。ちなみに凶器に使われた刀は法城寺正弘が打った菖蒲造り。切れ味がすごくて
「でも井上玄桐も鏡の間には入ったんですね」
「もちろん。彼が入ったのは、二刀目が差し込まれた後だった。傷口は紋太夫の着物で押さえられていて見えず、刀を抜いたときも血は一滴もこぼれなかった。激しい流血があったのは、徳川光圀が、もうよいだろう、と言った後だ」
「激しい流血って、ブシューと血が吹き出したんですかね?」
「どうだろう。玄桐は〈がらがら〉と表現している」
「がらがら?」
「古語だから現在の意味とは違うんだろうけど、ひょっとしたら、うがいの音に似てたのかもしれない」
僕はその場面を頭の中で思い描いたが、イメージできなかった。
「紋太夫を殺した後――」若月さんは話を続けた。「徳川光圀は
「客が知ったら大騒ぎになりますもんね。黄門様が人を殺したと知ったら、みんな、ビックリするでしょうね」
「さもあらず」
「え?」
「実は徳川光圀が人を殺したのはこれが最初じゃないんだよ。若い頃、夜更けに浅草の堂で休んでいると、連れの者が、この床下は非人たちの寝床になっている、引っ張り出して試し斬りしてやろうと誘われた。徳川光圀は最初は断ったものの相手に嘲けられ、一人を引きずり出し、前世の業と思えと言って斬り殺したんだそうだ」
「それ、通り魔殺人じゃないですか!」僕は声を荒げた。
「そうなるね」
僕の脳内で、かんらかんらと豪快に笑う水戸黄門の声が、悪魔の哄笑に変わった。
「でも、玄桐は実際にそれを見たわけじゃないんですよね?」
「玄桐が徳川光圀と知り合ったのは隠居した後だからね」
「ってことはただの噂か、あるいは黄門様本人が言ったことかもしれませんね。武勇伝のつもりだったのかもしれませんが、今なら大炎上ですね」
「そうだね」若月さんは苦笑した。
(つづく)
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