第十二章

 私は死という状況、事象、出来事が私の体と心にもたらす平穏を考えずにはいられなかった。ついに、ついに死のうと思った。今日の仕事は二十一時半に終わった。まだビルの警備員は当分来なかった。私は三階にあるオフィスから出て、いよいよ二十一階のさらにその上の屋上に向かった。最上階の二十一階には一度来たことがあるけれども、屋上はまだ行ったことがなかった。二十一階でエレベーターが開くと、正面に証券会社の支部のオフィスの入り口が見え、左には小さな給湯室、右には廊下が少し伸びて、その先に屋上入口へ続く階段があった。私はたしかな足取りで迷わず右に進んだ。その選択はあまりにはっきりとしていて、RPGをプレイしているような気分になった。廊下を進んで左手の階段、電気はついていなかった。暗く重なって伸びあがり、七段目で踊り場に至るその階段、迷わずステップ、ラッキーセブン。踊り場、美しいダンス。左にこの身を翻して、ついに屋上へのドアを視程に捉えた。それは金属製の扉で、左の腰辺りにドアノブ、目のあたりに長方形の摺りガラスを配していた。タタタタッといやに軽やかに階段を駆け上がって、右手でその突起物を回した。タックルするようにドアを開けて、温い風が吹き込んできたのを感じた。ドアは完全に開け放たれ、私はドアノブから手を離してその勢いで両腕を広げた。風と抱きしめ合った。私が求めていたほどではないけれども、風は私を愛してくれているように思えた。私の正面に広がる屋上は青い光に包まれていた。それはビルの看板、ドアの上にあるライト、それと不思議な街灯りによるものだった。どれか一つとは原因を言いかねるけれども、それらが混然として私を包んでいた。私はいつしか手を下ろして、ふらふらと前に進み始めていた。くるくる回りながら、東京のビルは高いとは思っていたけれどもこれほどか、この建物も二十一階はあるのに、と思った。腕を八の字に広げはためかせて、風の温みをまた感じた。その温みを受け止めた手を、楕円の椀のようにして鼻と口を覆い、それを少し吸った。その間もこの私を歓待する夜景を眺めながら。ぼんやりとしていた夜景は、そうこうしている内にそれぞれの光に分解され始めた。私が思っているよりも青い光は少なかった。街は主に金色、黄金色の光に覆われているように見えた。オフィスビルの室達は蛍のように光を散らし、それが一面と広がる中、道路を巡る赤青緑のライトが美的なラインを差し込ませていた。思ったよりも綺麗で、私は嬉しくなった。とうに死ぬ気はなくなっていた。

 私は屋上の左端の柵まで寄って、下を見降ろしてみた。この地上に咲く一点の花になることを妄想して、私は幸せだった。この高さであれば、咲けるに違いなかった。この景色を知ることはとても力強いと思った。実際その瞬間から、私の心は少しずつ丈夫になっていった。私はまだ蕾をそのままでいさせてやることにした。それは誇らしかった。




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